1981

2014-1090697昨日の日経新聞夕刊のコラムで、桜が終わると、とたんに初夏の気分になる、とある大学の先生が書いておられましたが、そのとおりで、まだまだ八重桜はこれからではあるものの、花が散り去ったソメイヨシノや河津桜の枝々はみな、黄緑に変わりつつあります。

が、おそらくここ伊豆より北の河口湖や山中湖周辺では、まだまだソメイヨシノが咲き始めているか満開のはずなので、今週末から来週にかけてでも、ちょっと遠出をしようかと考えはじめているところです。

ただ、今年はもう既にこれでもかというほどサクラを見る機会が多かったので、今週は少し中休みしたい気分で、昨日も夜遅くまでだらだらとBS放送の映画を見たりしていました。

見ていた映画は、「駅~STATION」という高倉健さん主演の映画で、1981年11月公開の作品です。

健さん演じる、北海道警察の刑事は、オリンピック出場経験のある射撃選手でしたが、刑事としては拳銃操法を見込まれて危険な現場に投入されることが多く、その数々の現場でいろいろな人間ドラマに巻き込まれます。この映画ではとくに女性との関係が印象的に描かれ、これらをオムニバス形式にしたのがこの映画の特徴です。

哀愁のある北海道の冬景色をバックに撮影されたこの映画をみつつ、ついつい昔を思い出してしまいましたが、というのも、この映画の舞台となった北海道の増毛町というのは、その昔仕事で何度か行ったことのある場所だからです。東京からはるばる一人、この寂しい土地に調査に行くたびに妙に哀切な気持ちになったことなどを思い出します。

増毛町は北海道北部、留萌のやや南西の日本海側に面した町で、ここにある「雄冬海岸」というのは本当に美しい海であり、その背後にある暑寒別岳とあいまって、もうそれだけでも哀愁を感じさせます。が、町自体の歴史も古く、町内にはたレトロな建物が立ち並び、その多くはこの町の主産業である漁業の関係者の家々です。

私が仕事で行っていたころは、まだ北海道遺産などの制度はありませんでしたが、今はこれらの古い建築物がそれに選定され、そのひとつである明治時代からある國稀酒造(元:丸一本間合名会社)などは、日本最北にある造り酒屋として有名です。

アマエビやたこなどの水揚がとくに多く、ボタンエビの漁獲高は日本一です。秋にはサケマスなどが近隣の川へ遡上する土地柄で、私がここへ行った理由も、サクラマスの稚魚に関するある実験調査が目的でした。

サケやサクラマスなどのサケマス類の仔魚は、光に感応して光源を追随するのではないか、ということは昔から言われており、その習性を利用して、ダム湖などに溜まって海へ流下できないサクラマスを安全な流下口へ誘導できないか調査する、というのがその仕事の内容でした。

ご存知のとおり、サケマス類は豊富な栄養分を持つ海で大きく育って川へ戻り、川の上流まで遡ってここで産卵をします。産卵して生まれたサケの仔魚は、翌年の春になると川を下り、夏になる前に海に達します。

が、ここで問題なのは、その途中にダムや堰などの人工構造物があることで、その構造物の背後にある湖に達した仔魚は、そこを海と勘違いして、そこから下流へ行かなくなってしまいます。

海へ行かないということは、豊富な餌のある環境で育たないということであり、湖を棲みかとして育ったサケマス類は、一定の大きさ以上になることができません。これを「陸封」といい、最近、山梨県の富士五湖・西湖で絶滅していたと思われていたクニマスがさかなクンによって発見されましたが、これも陸封魚の一種です。

本来、湖などで養殖目的で人工的に放流されますが、天然モノのサケマス類も、こうしたダム湖や堰湖で陸封化されてしまい、海に下って大きくなることができないため、これを捕獲して生活している水産業者にすれば全体的に水揚げの減少につながる、ということで、昔から大きな問題になっています。

ダムや堰を防災や利水目的で造っている国土交通省や電力会社は、こうした面で非難されることが多く、ダム建設反対派をなだめるべく、なんとかサケマス類の海への流下を促進させたいという意向があり、そのための調査が私のいた組織に、こうした調査が発注された、というわけです。

この調査の結果、サケマス類のうち、とくにサクラマスに関しては光への追随性は確認されたのですが、では実際に広いダム湖において、放流口や発電タービンへの取水口といった危険な場所ではなく、安全な魚道などの入口にどうやってサクラマスを誘導するか、という点が問題になりました。

強い高原の光を一定間隔で、湖上に並べてそれに沿ってサクラマスの稚魚を誘導してはどうか、ということで、実際に多額のお金をかけてそうした実験も行いましたが、結局はその有効性について決定的な結論を出すことができず、この調査はその後打ち切りになりました。

が、私的には、こうした一連の調査のおかげで、頻繁に自然豊かな北海道へ出かけることができ、それこそ年に十数回も行っていたでしょうか、くだんの増毛町もその目的地のひとつであった、というわけで、今もこの当時のことを思い出すと、足しげく通った水産試験所や、その近くのひなびた海岸の風景が脳裏に浮かんできます。

この増毛町を舞台にして撮影された「駅」が公開された1981年という年もまた、私にとっては思い出深い年です。

この年の3月に大学をちょうど卒業して、ここ静岡を離れて東京へ引っ越したのもこの年であり、慣れない東京生活と、新人社員として越えなければならない数々のハードルに直面することになった年でもありました。

それまでの大学生活と違い、社会人として直面する新しい日々は緊張と反省の連続でしたが、この最初の年に学んだことは現在の私の資質を形成する糧にもなっており、非常に大きかったと今も思うのです。

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が、そうした私生活とは別に、社会的にはどんなことがあったかな、と改めて思い返してみると仕事が忙しかっただけに、あまりよく覚えていません。そこで、ちょっとこのころのことを調べてみようと思い、ウィキペディアなどを検索したところ、なんとこの年は後世にも語り継がれるような実にいろいろことがあった年でもあったようです。

例えば、この年の1月には、前年12月より続く大雪が継続しておこり、これは後に「五六豪雪」といわれる記録的な大雪となり、この降雪は3月まで続き、北や畿内北部で大きな被害が出ています。

また、海外では中華人民共和国元最高指導者毛沢東の妻江青に対して死刑判決が下りていたり、レーガン米大統領がアメリカの経済再建計画を発表し、これは後にレーガノミックスとして世界中で知られるようになりました。

そのレーガン大統領がワシントンD.C.の路上で銃で胸を撃たれ重傷となったのは、この発表からわず一か月後の3月のことであり、全く関係ありませんが、その3月の末日の31日には、ピンク・レディーが後楽園球場で最後のコンサートを開き、解散していたりします。

このほか、5月には、中国陝西省で日本国外では既に絶滅したと思われていた野生のトキ7羽が発見されたり、アメリカ疾病予防管理センターが、ロサンゼルス在住の同性愛者5人が、免疫システムが低下した場合のみに発生するカリニ肺炎を発症したことを発表。

これがその後世界中に蔓延する最初のAIDS患者の発見例でした。こうした医学、化学の世界ではほかに、科学雑誌「ネイチャー」でイギリスのケンブリッジ大学が世界で初めて「ES細胞」の作成に成功したことが報じられています。

作成したのはマウスのものでしたが、このES細胞の開発はその後の再生医療への道を開き、のちに日本の山中教授が開発したIPS細胞にもつながるものでした。

イギリスでは7月にイギリス王子であるチャールズ・ウィンザーが、のちに悲劇の王妃となるダイアナ妃と結婚しており、IBMがマイクロソフトのDOS(ディスク・オペレーティング・システム)搭載の「IBM PC」を初めて発表したのもこの年です。

8月には、台湾で遠東航空機墜落事故発生し、このとき作家の向田邦子さんがこの事故に巻き込まれて死亡。9月、それまでジョナスといっていた小売店がファミリーマートに改称して、コンビニエンス事業を開始。またこの翌月には東京12チャンネルがテレビ東京と社名変更しています。

同月にはまた、フランス・パリ〜リヨン間で、高速鉄道TGV運行開始し、10月にはエジプトのサダト大統領が暗殺されて世界中に衝撃を与え、その後継大統領には、一昨年に失脚したムバラク副大統領が指名されました。

また、スポーツの世界の出来事としては、この年には、第24回夏季五輪(1988年)の開催地がソウルに決定し、日本が招致を提案していた名古屋市は落選。

また、日本ハムがプレーオフでロッテを下し、前身の東映時代以来19年ぶりにパ・リーグ優勝決めたのに続き、セリーグの覇者である巨人と日本一を争いましたが、4勝2敗で負け、このときの巨人の優勝はV9最終年以来となる日本シリーズ制覇でした。

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大きな事故としては、10月に北海道の北炭夕張新鉱でガス突出・坑内火災事故がおきており、近年におけるこの手の災害としては最大級の93名もの犠牲者を出しましたが、これは坑道の火災をしずめるため、不明者を確認しないまま、坑道を水没させたのが原因でした。

海外では、ジョン・フォードの西部劇「捜索者」やミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」、「草原の輝き」などに出演して大女優の道を歩んでいたナタリー・ウッドが映画「ブレインストーム」の撮影中のボートの転覆事故により、43歳で水死したことなどが話題になりました。

この彼女の死は、事故死とされた一方、殺されたという意見もあり、ロサンゼルス郡警察が再捜査を開始し、遺体には複数の打撲や傷跡の痕跡があったことを認定し、死因を「事故死」から「水死および不確定要因によるもの」と変更しました。が、最終的には殺人事件として扱うには証拠不十分であると結論づけられ、真相は闇の中に葬られました。

事故といえば、この年の4月には、その後2度の爆発事故を起こすことになる、スペースシャトルの打ち上げが行われました。打ち上げられたのは、コロンビア号で、これはスペースシャトルによる世界で初めての宇宙空間へのミッションでした。

スペースシャトルは、全部で6機製造されましたが、初号機エンタープライズは宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用されました。

実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機であり、このコロンビアは宇宙へ行った初めてのスペースシャトルということになります。

当初はエンタープライズも進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定でしたが、構造試験のために製造されたSTA-099という機体をその後チャレンジャーとなる機体に改造したほうが安上がりだと判断されたため、この改造計画は取りやめになりました。

ところが、ご存知のとおり、チャレンジャーは1986年、発射から73秒後に爆発事故を起こして失われ、宇宙ミッション初号機のコロンビアもまた、2003年に空中分解事故を起こして消滅しています。ちなみに、爆発したチャレンジャーの機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たに製作されたのがエンデバーになります。

このように、この1981年という年には、後の歴史にも大きな影響を与えるような実に象徴的なことが色々起こったわけですが、私としては社会人1年生ということもあって心の余裕もなく、改めてこうしたことを調べて、あぁそうだったのか、あれもこれもこの年に起こったことだったか、と意外に思ったりしているところです。

ほかにも、大相撲で千代の富士と北の湖がそれぞれの場所で死闘を繰り広げただとか、黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」や田中康夫の「なんとなく、クリスタル」がベストセラーになっただとか、寺尾聰の「ルビーの指環」が日本レコード大賞を受賞しただとか、色々あるのですが、やはり鮮烈な印象があるのは、上述のスペースシャトルでしょうか。

それまでは、ロケットで打ち上げられた宇宙船では、還ってくるのは先端に取り付けられた小さな円錐形の部分だけでした。これに対し、このシャトルは飛行機の形のまま打ち上げられ、また帰ってくるときにもその形のまま悠々と空を滑空して帰ってくるというわけで、こうした飛行機が大好きな私としてはワクワクものでした。

調べてみるとこのときのコロンビア号のミッションはわずか3日間だけで、1981年4月12日、コロンビアがアメリカのフロリダ州ケネディ宇宙センターから打ち上げられ、同年4月14日にカリフォルニア州エドワーズ空軍基地に帰還しています。

人類初のこの宇宙へのスペースシャトルの打ち上げミッションには、ジョン・ヤング機長とロバート・クリッペン操縦士の2人だけで行われ、その主要任務は、スペースシャトルのシステム全体を点検すること、軌道上を安全に周回すること、そして地上へ無事に帰還すること、の3つだけでした。

二人を乗せたコロンビアは高度307キロメートルの軌道上を36回にわたって周回し、そしてこれらの任務はすべて達成され、宇宙船としてのスペースシャトルの能力が初めて確認されました。

しかし、帰還後のコロンビア号からは16枚の耐熱タイルが剥がれ落ち、148枚の耐熱タイルが損傷しているのが発見され、その後の再飛行が心配されました。

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シャトル開発でひとつの大きな壁になったのが、大気圏に再突入時の熱からシャトル本体(オービタ)を守り、繰り返し使用可能な熱シールドの開発でした。オービタは機体を軽量にするために、基本的に航空機と同様のアルミニウムで出来ていますが、アルミニウムはわずか200度程度の温度で柔らかくなってしまいます。

大気圏再突入時に発生する際には1600度以上の熱が発生するため、このままではこの熱に耐える事は出来ません。そこで、断熱材として素材にシリカガラス繊維を用いた耐熱タイルが開発されました。シリカは熱を伝える速度が非常に遅いので、それを用いた耐熱タイルを用いれば機体のアルミを護ることができるのです。

しかし、機体のアルミは熱で膨張するのに対し、耐熱タイルのほうはほとんど膨張しないため、そのまま接着しては温度上昇とともに耐熱タイルは剥がれて脱落してしまいます。このため、機体と耐熱タイルの間に「フェルト」をはさむ事で機体とタイルの膨張率の違いを受け止める方法が考案されました。

実はこのフェルトは特殊なフェルトでもなんでもなかったそうで、カウボーイハットなどに用いられるようなヒツジやラクダなどの動物の毛を、薄く板状に圧縮して作るシート状にするごく普通のフェルトでした。

また、機体とフェルトと耐熱タイルの接着についても、アメリカの家庭にありふれた浴槽の防水コーキング用のゴムが接着剤として用いられたそうです。

スペースシャトル一機に対して、この耐熱タイルは2万5千枚貼り付けられますが、オービタの曲面を覆うため、部分ごとに形状の異なるものがジグソーパズルのように機体に貼り付けるという手法がとられました。

こうして大気圏再突入時に発生する熱対策問題は一応解決しましたが、こんな幼稚園児でも思いつきそうな、耐熱タイルを貼りつけるだけ、という対策はその後やはりスペースシャトルの弱点のひとつとなり、繰り返される飛行において何度も脱落を起こしました。

安全確保のため、帰還後の点検で毎回毎回ひとつひとつの状況や履歴を記録しつつ手作業で検査・修復しなければならない耐熱タイルは、その後も長い間、シャトルの不安要因のひとつ、大きな重荷のひとつとしてつきまとうことになりました。

そうした不安は的中し、この最初のミッションから22年を経た2003年2月1日、28回目のミッションからの帰還の際、コロンビアは大気圏再突入中にテキサス州上空で空中分解を起こし、この事故では乗員7名全員が死亡しました。

その後の事故原因の究明調査の結果、この事故は打ち上げ時に外部燃料タンクから剥がれ落ちた断熱材の破片が高速で左翼前縁に衝突し、耐熱パネルに穴があいたことと判明しました。

スペースシャトルによって行われた数々のミッションのうち、この事故より17年前の1986年1月28日には、二号機として開発されたチャレンジャー号もまた打ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が犠牲になっています。

この事故の原因は、機体の右側の固体燃料補助ロケットの密閉用Oリングが発進時に破損したことから始まったとされました。

Oリングの破損によってそれが密閉していた固形ロケットから燃料の漏洩が生じ、高温・高圧の燃焼ガスが噴き出して燃料タンクの構造破壊が生じたことが原因であり、空気力学的な負荷によりこの瀟洒な軌道船は一瞬の内に破壊されました。

乗員区画やその他多数の機体の破片は、長期にわたる捜索・回収作業によって海底から回収されましたが、乗員が正確にいつ死亡したのかまでは究明されていません。が、その何人かは最初の機体分解直後にも生存していたことだけはわかっているそうです。

しかし、スペースシャトルには脱出装置はなく、乗員区画が海面に激突した際の衝撃から生き延びた飛行士は一人もいませんでした。

この事故によりシャトル計画は32か月間に渡って中断し、また事故の原因究明のため、レーガン大統領によって特別委員会も組織されて原因究明調査が行われました。しかし、この調査後のスペースシャトルの改良ついては、固定燃料ロケットの機構改善にばかり目が向けられ、耐熱タイルに対しては抜本的な改良は加えられませんでした。

こうしてその後、コロンビア号においてもまた悲劇が繰り返されました。このコロンビア号の事故の直接的な原因は、発射の際に外部燃料タンクの発泡断熱材が空力によって剥落し、手提げ鞄ほどの大きさの破片が左主翼前縁を直撃し、大気圏再突入の際に生じる高温から機体を守る耐熱システムを損傷させたことでした。

コロンビアが地球の軌道を周回している間、技術者の中には機体が損傷しているのではないかと疑う者もいたそうですが、NASAの幹部は仮に問題が発見されても出来ることはほとんどないとする立場から、コロンビアが宇宙空間を周回中の細かい調査を行わなかったといいます。

NASAによるシャトルの元々の設計要件定義では、外部燃料タンクから断熱材などの破片が剥落してはならない、と厳しく規定とされていたそうです。しかし、度重なる打ち上げと帰還が無事に遂行されてきたころから、技術者たちは破片が剥落し機体に当たるのは不可避かつ解決不能と考えるようになっていたようです。

何ごとにも慣れというのはこわいもので、こうして彼等は破片の問題は安全面で支障を及ぼさないかもしくは許容範囲内のリスクであると考えるようになり、こうして小さなタイルの接着がうまくいっていなくても発射はしばしば許可されるようになっていきました。

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しかし、度重なる打ち上げにおいて剥落した断熱材の衝突による耐熱タイルの損傷はしばしば記録されていたといい、コロンビアが事故を起こす2つ前の打ち上げでも、断熱材の塊が外部燃料タンクのから剥落し、左側の補助固体燃料ロケッの後尾を直撃して、幅4インチ深さ3インチの凹みを発生させていたといいます。

このミッション後にNASAはこの破片問題について「外部燃料タンクは安全に飛行可能であり、新たな問題(やリスクの増大)はない」としてこれを容認する判断を示しました。

こうした判断がこの後コロンビア号が爆発して空中分解することになったミッションにも影響を与え、ミッション管理の責任者はこの後の打ち上げに際しても、「当時も(かつての剥離事故を起こしたときも)今も危険性の根拠は乏しい」としてこれを無視してしまいました。

こうしてコロンビアは、大気圏に再突入した際、損傷箇所から高温の空気が侵入して翼の内部構造体が破壊され、急速に機体が分解しました。事故後に行われた大規模な捜査が行われた結果、テキサス州、ルイジアナ州、アーカンソー州などの広範囲で搭乗員の遺体の一部や機体の残骸が多数回収されました。

その後、コロンビア号事故調査委員会(Columbia Accident Investigation Board, CAIB)が組織され、CAIBはNASAに対し、技術および組織的運営の両面における改善を勧告しました。

シャトルの飛行計画はこの事故の影響で、チャレンジャー号爆発事故の時と同様に2年間の停滞を余儀なくされ、国際宇宙ステーション(International Space Station, ISS)の建設作業も一時停止されました。

スペースシャトルを使った飛行が再開されるまで物資の搬送は29ヶ月間、飛行士のシャトルによる送り迎えもまた41ヶ月間停止し、この間の運搬は完全にロシア連邦宇宙局に頼ることになりました。

その後、2005年7月に、ディスカバリーが コロンビア号事故後の初の再開飛行を果たしたあと、スペースシャトルのミッションは、2010年に2回(エンデバーとアトランティス)、2011年に3回(ディスカバリー、エンデバー、アトランティス)実施されましたが、結局、2011年7月8日に実施されたアトランティスのミッションがスペースシャトル計画最後のものとなりました。

2014年現在、アメリカは現役で打ち上げ可能な有人宇宙船を保有しておらず、アメリカだけでなく他国も国際宇宙ステーション(ISS)への人と物資の運搬はロシアのソユーズロケットに頼っています。

NASAはシャトル退役による宇宙開発計画の間隙を埋めるべく、飛行士や搭載物をISSに運ぶだけでなく、地球を離れて月や火星まで到達できるような宇宙船を現在開発中といいます。が、2010年にオバマ政権はこれらの計画の予算打ち切りを宣言しており、今後は低軌道への衛星発射の事業は民間企業に委託することを提案しています。

ところで、退役したスペースシャトルはどうなったかというと、ディスカバリーはワシントンD.C.にあるスミソニアン博物館の別館に、アトランティスはケネディ宇宙センターの見学者用施設に、エンデバーはロサンゼルスのカリフォルニア科学センターにそれぞれ展示されているようです。

またスミソニアンに展示されていたエンタープライズは、同館にディスカバリーが展示されることになったことから、ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に移されたようです。

スペースシャトル計画は、そもそもロケットに比べて安価な、「一回の飛行あたり1200万ドルほどのコストで飛ばすことができる」として始められたものでしたが、スペースシャトルの最終飛行も終了し総決算の計算をすると、135回の打ち上げで2090億ドルもの費用がかかってしまいました。

これは一回の飛行当たりに換算すると、15億ドルに相当し、通常の使い捨て型ロケットを打ち上げるのに比べて10倍以上高くついたことになります。

それでも、全スペースシャトル計画で使われた2090億ドルというのは、日本の防衛予算の4年分程度であり、アメリカの年間国防予算の半分以下です。宇宙開発に比べて各国ともいかに軍事費に莫大なカネを使っているかがこのことからもわかります。

地球温暖化や環境汚染などによって地球が滅亡してしまう前に、地球から脱出して別世界を探すための費用と考えれば、この程度の開発費は安いものだと思うのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

今、アメリカではオバマ政権が新しい宇宙船の開発に対して消極的であるため、民間の宇宙開発業者のほうが積極的に開発を進める、といった風潮が強いようです。既に2008年、NASAは国際宇宙ステーションへの商業軌道輸送サービスに関する契約を、民間の会社と取り交わしています。

そのひとつスペースX社による2段式の商業用打ち上げロケットは、2010年6月4日に初打ち上げが行われて成功。

また、オービタル・サイエンシズ社 (OSC) の開発した国際宇宙ステーションへの物資補給を目的とした無人宇宙補給機も、2013年4月にアンタレスロケットが初打ち上げに成功しており、次いで同年9月にシグナス1号機の打ち上げが行われ、ISSへの初結合に成功しました。

日本の場合は既に三菱重工業などがJAXAと提携しており、民間会社として世界でも最大クラスの打ち上げ能力を持つ、H-IIA、H-IIBなどの開発・打ち上げに成功しており、宇宙開発における民間の参入は本格化しています。

1981年から33年を経た今年2014年は、そうした宇宙開発において民間活力が大きく脚光を浴びる一年になるのかもしれません。

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