伊豆では平地のサクラはほとんどが散り始めましたが、標高の高いところはまだ満開のようです。
が、この週末にはそれも散ってしまい、これに変わって新緑の季節がやってきます。既にウチの庭先の木々は緑色に染まりかかけており、先日は玄関先にお隣から忍び寄ってきた竹の根から伸びたタケノコが顔を出しました。
早速スコップで掘り出してみたところ、大きさは20cmほどもあり、茹でてアクを取ったあと、醤油で煮込んで食して見ましたが、春の香りと風味が口いっぱいに広がり、幸せな気分になりました。
タケノコは、ツル性を除く被子植物のうち最も成長が速く、日に数十センチから時には1メートルを超え、この時期にタケノコにうっかり帽子を掛けたまま1日たつと、取ることができなくなるほど成長している場合さえあるともいわれています。
昼夜を問わず伸びるのがとても速いことから、漢字の「筍(たけのこ)」は10日間を意味する「旬」から来ている、などと言われることもあるようです。
根から切り出した直後から、えぐみが急激に増加するといい、掘り採ってから時間が経つほど固くなるとともにこのえぐみは更に強くなっていくので、できるだけ早いうちに調理や下ごしらえを行うほうがいいそうです。
なので、店頭で売っているタケノコで、日にちが経っていそうなものは買わないほうがいいかもしれません。なかなかそれを見分けるのは難しいことではありますが。
このタケノコの親の「竹」ですが、旺盛な繁殖力を持つため、筍から2~3か月で成竹になってしまい、あっという間にその土地を覆い尽くします。「竹は切ることが植えること」ともいわれるほど生育能力が高く、地下茎は浅く、地表付近を横に這うように広がります。
とくに近世に日本に移入された外来植物である孟宗竹(モウソウチク)は、日本のタケ類の中で最大で、高さ25mに達するものもあり、1950年代頃までは食用としてだけでなく木材として使うために管理された竹林で栽培されていました。
古来、竹林を背にした家が多いのも、日本人はこの孟宗竹が生活材料として有用なものであることを経験的に知っていたからにほかなりません。
その昔は、竹林の周囲は深さ1メートル程度の空堀を掘り巡らすなど、伸びやすいだけに周囲に広がりすぎないように対策がなされていましたが、その後中国などからの輸入品のタケノコが出回り、また木材としても漆喰壁などがなくなりその骨材としての竹の需要がなくなったため、タケノコ栽培が経済的に成立しなくなりました。
竹林の経済性が薄れることで見向ききされなくなり、地主の高齢化に伴い放置される竹林が増え問題になっているといい、各地で管理されなくなった竹林が増え、元来繁殖力が異常に強い樹種であるため竹林の周囲に無秩序に根が広がり、既存の植生を破壊しています。
とくに孟宗竹が進出するとアカマツやクヌギ、コナラなどかつて里山で優勢であった樹種が置換され、生態系が単純化してしまいます。また孟宗竹は土壌保持力が低いため、これが広がりすぎると崖崩れが起きやすくなるなど、各種の害が発生することなども問題視されるようになっています。
竹は根を地中深く潜らせないためで、このため大雨の際などには斜面の竹林はそれ全体が滑り落ちるような崩れ方をする例があります。
また、ウチの玄関先に顔を出したタケノコのように、一般家庭を悩ますものもあります。ウチのものはお隣さんが観賞用に植えた孟宗竹の根っこが越境して進入してきたものであり、花壇の中にまで根を生やすため、いったん植えた花木をダメにしてしまうこともあり、その駆除に困っています。
このように管理されなくなった竹藪が隣家の庭に侵入して悪さをするというケースは近年かなり多いようです。特に竹害が激しいのは京都府、静岡県、山口県、鹿児島県、高知県、愛媛県などです。このうち静岡県を例に取ると、1989年から2000年までの間に県内の竹林は1.3倍に拡大したとされています。
しかし、地表付近を広がる地下茎には「ヒゲ根」がびっしりと生えており、この「ヒゲ根」が地面をしっかりと保持するため、よく管理された竹林はある程度の防災効果を上げてきた、という側面もあります。
ただ、この防災機能は主として地震などのことで、地表をしっかりと覆う根茎が地面を押さえますが、上述のとおり洪水や地滑りに関してはあまり効果がありません。また、竹は防風林や防潮林としては役に立ちません。葉っぱが細く、枝もか弱いため、風や潮を簡単に通してしまうためです。
防風林や防潮林としては、とくに海岸付近では塩害に強く薄い土壌でも生育できる樹種が多く用いられ、また寒冷地では、寒さに強く枝が柔らかく雪が積もりにくい樹種が多く用いられます。
一般には、高低・多種多様な樹種を組み合わせて雑木林のような形をとるものが多く、それらは、海岸近くではスギ、クロマツ、カシワ、ニセアカシアなどであり、寒冷地ではカラマツやイヌグス、ポプラなどが多用されます。
日本の場合、防風林は公益性の高いものとみなされていて、「保安林」として地方自治体が管理し、多くの場合は幅の狭い帯状のものが防風保安林として整備され、落葉の採取や伐採等が制限されています。
防潮林のほうも、森林法に基づく保安林に指定されており、治山事業等により持続的な管理がなされています。
神奈川県の藤沢市から平塚市にかけた湘南海岸などの海岸に延々と松林があるのをご存知の方も多いと思いますが、これは砂防法に基づいて、海岸の砂浜が背後の住宅街に侵入するのを防ぐために造られた「砂防林」であると同時に、「防潮林」としての機能が期待されているものです。
ここでいう「潮」とは、高潮や津波の被害のことであり、かつて1983年に秋田沖で生じた日本海中部地震において発生した津波は、秋田や山形、新潟などの各県の防潮林によってかなり低減されたといわれています。
また、三年前の東日本大震災の津波でも、新日本製鉄釜石製鉄所のイヌグスの防潮林周辺などで被害が小さかったことなどが報告されていますが、このときの津波はあまりにも巨大すぎたため、陸前高田市や仙台市沿岸の例のように、根こそぎ防潮林が持って行かれる、というケースが続出しました。
このように防災目的の林の多くは人工的に植林・造成されるものですが、富山県西部に広がる砺波平野などにある屋敷林のように、元からその地にあった原生林の一部を残して利用するという形で設けられたものもあります。
この地方ではこうした屋敷林のことを「垣入(かいにょ)」といい、こうした地域特有の広大な耕地の中にポツンポツンと孤立した民家(孤立荘宅)の周りに張り巡らされます。この点在する集落形態を散居村(さんきょそん)ともいい、栃波平野の風物詩でもあります。
この景観が成立したのは、16世紀末から17世紀にかけてであると考えられています。砺波平野を流れる庄川は江戸時代以前にはしばしば氾濫したため、この地域に住みついた人々は平野の中でも若干周囲より高い部分を選んで家屋を建て、周囲を水田としました。
このような住居と水田の配置は農業をする上においても便利であったため、この地を治めていた前田家による田地割政策下でもこの地域の農民たちは引地、替田(他の土地との交換、他の田んぼとの交換)を行って自宅周辺に耕作地を集めようとしました。
しかし、このため家屋が1か所に集まって集落を形成するということが無くなり、冬にはそれぞれの家屋が厳しい風雪に直接晒されることとなりました。家屋の周囲にカイニョを形成してこれに対処するようになったのはその風雪対策のためです。
このカイニョは、とくに季節風が強い季節には大きな効果をあげましたが、そうした防災用途だけではなく、長い間にはこの地域におけるある種の風格をもつステイタスシンボルにもなっていきました。
同様のモノは、仙台平野にもあり、こちらは「居久根(いぐね)」といわれ、このほか島根県の出雲平野の「築地松(ついじまつ)」などが有名です。
日本では、ここ以外にも同じ島根県の斐川平野、香川県の讃岐平野、静岡県の大井川扇状地、長崎県の壱岐島、北海道の十勝平野、岩手県の胆沢川扇状地、富山県の黒部川扇状地などでもみることができます。
ただ、砺波平野のものはこれらと比べても格段に大きく日本国内最大とされ、現在およそ220平方キロメートルに7,000戸程度が散らばっています。
私も仕事でこの地へ行ったことがあるのですが、実に美しいもので、とくにこれからの季節にはるかかなたまで広がる水田地帯の中に、あっちにぽつん、こっちにポツンと点在する小集落とこれを囲むカイニョは本当に絵になります。
こうした風景が広がる、砺波市や南砺市などでは、「となみ野田園空間博物館」と称し「砺波平野全体が博物館」という構想に基づいて、こうした風景の維持保全を図っています。無論、観光客誘致の目的もあり、「となみ散居村ミュージアム」などの箱モノも建設し、これを中心に8カ所の地域拠点施設なども設けているようです。
どのくらいの観光客が訪れているのかよくわかりませんが、これからは富山県はチューリップの見ごろの季節を迎えるため、ゴールデンウィークなどには相当な人がここを訪れるのではないでしょうか。
このカイニョとはまたちょっと趣が違いますが、北海道東部の根釧台地には日本最大規模の防風林が広がり、これは最長直線距離約27km、総延長距離約648km、幅約180mにわたって格子状に造成されているという大規模なものです。
「根釧台地の格子状防風林」と呼ばれ、北海道遺産に指定されているほどで、ここも私は行ったことがあるのですが、実に壮大な風景です。別海町、標津町、標茶町などに広がる防風林で、これはこの地の開拓期にアメリカ人顧問ホーレス・ケプロンの提唱で作られたといいます。
このケプロンは、元アメリカ合衆国の軍人で、南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となりました。1871年(明治3年)、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年に訪日して開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となりました。
1875年(明治7年)に帰国するまで、積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進しましたが、札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンです。また、1872年(明治8年)、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレーが提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例です。
ちなみに、この当時はライスカレーとは呼んでおらず、表記はタイスカリイだったといいます。
ところで、防潮林といえば、ここ静岡にも、ユネスコの世界文化遺産登録で有名になった三保の松原があります。静岡市清水区の三保半島にある景勝地で、日本新三景、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝にも指定されています。
その景勝地としての歴史は古く、平安時代から親しまれているといい、日本最古の和歌集である「万葉集」に「廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし」と詠われて以降、多くの和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台にもなりました。また歌川広重の浮世絵にも描かれています。
三保半島の東側に総延長7kmに渡って連なり、ここにある松の合計は3万699本にもなり、その背景には駿河湾を挟んで富士山や伊豆半島が望めます。
三保半島は、安倍川から海へと流された土砂が太平洋の荒波に運ばれ、日本平を擁する有度山を削りながら出来た砂嘴です。何百年にわたり流された漂砂が静岡海岸、さらには清水海岸に幅百mを超える砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島、および三保の松原の砂浜を形成しました。
羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞い降りて羽衣をかけたとされる「羽衣の松」があり、付近の御穂神社(みほじんじゃ)にはこの伝説の羽衣の切れ端が保存されています。
無論、伝説にすぎず、この切れ端も江戸時代か何がしかの時代にこの周辺に住む住人によって造作されたものでしょう。
この羽衣伝説というのは、いまさらの気がしますが一応説明しておくと、昔々、三保の村に伯梁という漁師がおりました。ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯梁は大喜びして返す気配を見せません。
すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出しました。伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞を披露。やがて空高く天に昇っていきました……
実は、竹取物語の中にもこの天女の羽衣が「天の羽衣」として登場します。かぐや姫が「羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまう」と語るシーンで登場し、これをまとうことで天女に戻ることができる力を持つものとして描かれています。
かぐや姫もまた天女であるわけであるわけで、ここでも竹とつながるわけでありますが、それにしてもこの天女のテーマがなぜ竹だったのでしょうか。
これについては、竹はほかの植物とは異なり、茎の中が空洞であることや、その成長の速さにより神聖視されたのではないか、ということが言われているようです。
皇室にも天皇の即位後に行う大嘗祭で、沐浴時に「天の羽衣」を着る儀礼習慣があるそうで、天皇もこれを着ると、人ではなく、神様になる、ということなのでしょうか。
日本の文化の面から竹をみてみると、竹は昔から庭園を構成する要素の一つとしても重宝され、竹林の織り成す景観は日本の風土を象徴するもののひとつとなってきました。
特に京都の寺院や郊外の景観を形づくる要素として重視され、また、日本画、水墨画のモチーフとしてもしばしば用いられ、多くの文人墨客が竹林の持つ独自の繊細なイメージを芸術作品に仕上げてきました。
また、視覚のみならず、風が竹林を通り抜ける際のざわめきは日本人の耳には心地よく響くものらしく、風情を感じさせるものとして俳句や和歌などに歌われ、多くの文学者、画家などの想像力を刺激してきました。
その真っ直ぐでしなやかな特性を生かして竹細工、建材、家具、釣竿などにも多く利用されており、大分県のマダケは面積、生産量とも全国一のシェアを占めています。別府市周辺の別府竹細工や日田市の竹箸など、大分県では豊富な竹材を利用した竹工芸が歴史的に盛んです。
ここ伊豆でも竹細工はさかんなようで、麓の修禅寺温泉街にも竹細工の店があるほか、伊豆から天城に向けての一帯には竹製品を専門に扱っているお店が点在しますし、同じように竹を町おこしの材料として生かそうとしているところは全国でも案外と多いものです。
このように竹は、我々の生活と密接なところに常に存在しています。
ところが、同じ竹でもタケノコに関しては、ことわざや比喩となると、あまりかんばしい印象のものは多くなく、「雨後のタケノコ」は、雨が降った後はタケノコが生えやすいことから、何かをきっかけとしてある問題が続々と発生することや、余計な問題に首を突っ込む人間が増えることをさします。
「タケノコ生活」はたけのこの皮を1枚ずつはぐように、身の回りの衣類・家財などを少しずつ売って食いつないでいく生活であり、最近はあまり使われませんが、その昔「タケノコ剥ぎ」という言葉が性風俗店で用いられましたが、これは、ボッタクリ商法のひとつです。
タケノコの皮をはがす行為に由来し、初期料金を安く見せかけ、女の子の脱衣や接触行為などのオプション料金を積み上げていった結果、法外な高額の料金になってしまうことです。
さらにはタケノコ医者というのがあり、これはタケノコがやがて竹になり藪になることから、技術が下手で未熟な藪医者にも至らぬ医者のことをさします。
そういえば、その昔、竹の子族というのがあり、これは野外で独特の派手な衣装でディスコサウンドにあわせて「ステップダンス」を踊る若者たちの総称でした。
1980年代前半東京都・原宿の代々木公園横に設けられた歩行者天国でラジカセを囲み路上で踊り始めたのがきっかけで、その後表参道などでも踊りだし、東京ではこのほか吉祥寺や池袋、地方でも名古屋等地方都市の公園でも小規模ながら竹の子族が踊っていたようです。
改めて調べてみるとブーム最盛期は1980年(昭和55年)ころといいますから、これはちょうど私が大学を卒業して、千駄ヶ谷の建設コンサルタント会社に勤め始めたころのことです。そういえば、このころ隣の部署でタケノコ族らしい若者がアルバイトに来ていたことなどを思い出しました。
それにしてもなぜ「竹の子」だったのかといえば、これは「大竹竹則」という人がオーナーを務める「ブティック竹の子」で売られていた衣装が受けたことから徐々にこの特色のある衣装を着る若者が増えていったことに起因するようです。
主に原色と大きな柄物の生地を多用したファッションで、アラビアンナイトの世界のような奇想天外なシルエットが注目を集め、化粧についても男女問わず多くの注目を引こうと鮮やかなメイクをするようになりました。
この「ブティック竹の子」では竹の子族ブーム全盛期には、竹の子族向けの衣装が年間10万着も販売されたといいます。
街頭や路上で若者グループが音楽に合わせてパフォーマンスを表現するブームの先駆けともいえ、若者集団の文化、ファッションとしても、1980年代前半で注目され、この竹の子族の中からスカウトされ、清水宏次朗や沖田浩之といった後のアイドルスターが芸能界にデビューしています。
が、1980年後半、ローラーや、バンド、ブレイクダンス等、多様なパフォーマンス集団に押され、竹の子族ブームは下火になっていきました。1997年ころには代々木公園前歩行者天国試験廃止され、1998年に完全廃止になってからは原宿から撤退、東京新宿のディスコなどに活動の場を移していきました。
さすがに現在はもうないのだろうと思ったらそうではないようで、現在も当時のメンバーが中心となり、新メンバーを募って「平成竹の子族」なるものが存在し、原宿や上野を中心に活動を続けているそうです。
今にして思えば戦後昭和を代表する文化のひとつであり、いかがわしさはあるものの、私が就職したてのころの街の風物詩でもあり、妙に懐かしさを覚えます。
もしもあのころに戻れるものならば戻ってみたい気もしますが、だからといって竹の子族をやりたいかといえばそんな気はさらさらありません。
竹の子はやはり食べるもの。旬である今は新鮮なものなら生で刺身としていただくこともでき、軽く湯がいたり、焼き物としてもその風味を最大限味わうことができます。
今日もお天気がよさそうなので、タケノコ掘りに出かける人も多いと思いますが、くれぐれも盗掘などされないように。人の敷地に勝手に入ってタケノコ堀りをするのは家宅侵入罪以外にも窃盗罪に問われます。
その点、ウチのタケノコは我が家の庭に生えてくるので大丈夫。さて、今年は何本生えてくるでしょうか。