最近、テレビでは、頻繁に野党の再編に関するニュースが流れています。
中でも、みんなの党の分裂問題がよく取り上げられ、江田憲司前幹事長らと渡辺代表の不仲が報道され、ワイドショーなどではこの話題の裏面を面白おかしく流しています。
江田氏らは、離党届を提出し、年内に新党を結成する考えのようで、民主党、日本維新の会の一部議員とも連携を強めており、今回の新党結成が将来の野党再編につながる可能性もあるようです。
みんなの党を去るにあたって、江田氏は「みんなの党は結党の原点を忘れて変わり果てた。自民党にすり寄る動きも見られる。もはや将来はない」と渡辺喜美代表の党運営を痛烈に批判。
これに対して渡辺代表は都内で記者団に対し「江田氏の新党準備行為は反党行為だ。党を出ていっていただく」と強調。しかも江田氏の離党届を受理せず除籍とし、江田氏に同調する比例代表選出議員には議員辞職による議席返上を求める考えを示しました。
「みんな」というからには強い友情で結ばれ、固い結束を持って作られた党かと思っていましたが、これではみんなの党どころか、「オレオレの党」です。
ま、政党なんてものは昔から分裂と合体を繰り返して形を変える歴史を繰り返してきたわけなので、主義主張が異なれば袂を分かつこともあるでしょう。
ただ、それぞれ自分たちは正しいと思っているかもしれませんが、我々からみれば仲間割ればかりを繰り返しているだけに見え、肝心の政治が見えません。いつまでたっても自民党と対等に渡り合える安定した野党というものができないことに、国民が苛立ち、呆れかえっていることぐらいは気が付いて欲しいものです。
ところで、この「友情」とはどういう定義になっているのかな、とウィキペディアで調べてみたところ、これは「共感や信頼の情を抱き合って互いを肯定し合う人間関係、もしくはそういった感情のこと」と書いてありました。
友達同士の間に生まれる情愛のことで、しかしそれはすべての友達にあるものではなく、「自己犠牲」ができるほどの友達関係の中に存在する、とも書いてあります。
友情で結ばれた「友達」は互いの価値を認め合い、相手のために出来ることをしようとするものでしょう。友情は、互いの好感、信頼、価値評価に基づいて成り立っているもの、という定義は誰でも納得できるものはないでしょうか。
しかし、真の友情を育むことができる友達というのは、友達の中でも特に親しい人間でしかなく、しかも自分を犠牲にしてまでその友情を維持できるか、と考えると、なかなかそういう友達を得るのは容易ではありません。私にもそういう友達は数えるほどしかいません。いや、ひとりもいないかも。
じゃあ自己犠牲とはいったい何なのよ、ということなのですが、辞書を引いてみたところ、これは「目的達成のために自己の利益や時に生命までも捨てて挑んだり行動したりすること」だそうです。
一般に、何かを自分よりも優先させるという行為をする場合には、自分を捨て去る必要があります。しかし、それが簡単でないからこそ、自分を捨ててまで相手を助けるというその行動は感動され、時には賞賛されます。
こうした行為は人間だけでなく動物にもみることができるでしょう。動物の場合は特に親子愛が強いものが多く、子供が危機に瀕したとき、身を捨ててまでこれを助けようとします。
とくにゾウは仲間意識が強いことで有名で、たとえ親子でなくても助け合います。今年インドで群れの1頭が列車に轢かれて命を落とす事故が起きたとき、仲間のゾウ15頭が現場付近に居座り出し、身を挺して人間に怒りを見せる集団行動を見せたそうで、これにより鉄道や周辺の家に被害も出たそうです。
無論、こうした行為は古くから人間にもみられ、これによって人類の歴史の一部が形成されてきたと言っても過言でもなく、自己犠牲は宗教によっても高貴なものだと位置づけられてきました。
般若心経では自己犠牲とは自己を放棄することで、「自我を捨て、無我になる」すなわち自分以外のもの、普遍的世界だとしています。法華経でも自分の利益を犠牲にして他人の利益を図る「利他心」は当然の真理とし、これほど尊いものはないと教えられています。
また、ご存知キリスト教では、約2000年前、イエス・キリストが人類の罪を身代わりに受けるために十字架に架かったことから自己犠牲は愛だとされています。ヨハネ福音書にも「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない」と書いてあるとおりです。
ただ一方で自己犠牲は、「自分さえ我慢すれば良い」と同義だとも考えられ、これが過ぎると自己を壊してしまうといった面もあるでしょう。
自分を潰してしまってまで人に恩義を与えることができるか、と問われるとうーんと唸ってしまいますし、何やら自虐的な行為にも思えます。
人間だけでなく、動物は一般に、まず自己の生命が大事ですから、基本的に利己的なものであり、自己犠牲は誰しもができることではありません。それゆえに、一見、自己犠牲は、貴い行動であるように見えます。
しかし、貴いものであるとされる一方で、必ずしも他者のためにのみ行われる行為ではないという見方もあり、むしろ自分のために行う行為なのではないかという人もいます。
自己犠牲という行為に及ぶ場合、実は他人のために犠牲になっている自分が愛おしいというナルシスティックな自己満足、言い換えれば自己陶酔に浸っているという側面があるのではないでしょうか。
自己犠牲することは実は自分が愛しいという現れでもあり、それゆえに、普段は自己の利益ばかりを追求しているのに、一転そうした本能に反する行動にも踏み切ることで、むしろその行動に陶酔し、自分はエライ!と褒めてやることができるというわけです。
非常に矛盾しているというか、繊細なというか、解釈の難しい問題です。
それゆえか、この自己犠牲というテーマは芸術作品の対象として良くとりあげられ、古今多くの小説や戯曲、映像などが造られてきました。
文芸作品としては、これをテーマにした作品として、私的には山本周五郎、三浦綾子といった作家の作品がすぐに思い浮かびます。
山本周五郎では「樅の木は残った」が有名であり、三浦作品では、「塩狩峠」などがあります。ほかにも宮沢賢治の作品に、「よだかの星」「グスコーブドリの伝記」などがあります。
よだかの星というのは、「よだか(ヨタカ・夜鷹)」という種類の鳥が、自分が生きるためにたくさんの虫の命を食べるために奪っていることを嫌悪して、生きることに絶望する、という話です。
太陽へ向かって飛びながら、焼け死んでもいいからあなたの所へ行かせて下さいと願いますが、太陽には、お前は夜の鳥だから星に頼んでごらんと言われ、星々にその願いを叶えてもらおうとします。しかし、相手にされず、居場所を失い、命をかけて夜空を飛び続けたよだかは、いつしか青白く燃え上がる「よだかの星」となる……というストーリーです。
自分が死ぬことで多くの虫の命が救われるというところが、自己犠牲の象徴ということのようで、宮沢賢治が25歳のころに執筆し、賢治が37歳で亡くなった翌年の1934年(昭和9年)に発表されています。
また「グスコーブドリの伝記」というのも、イーハトーブ(宮沢の言う理想郷)の森に暮らす樵(きこり)の息子が、身を挺して火山噴火を食い止め、イーハトーブを飢饉から救う、というお話です。こちらは賢治の代表的な童話の一つであり、生前発表された数少ない童話の一つでもあります。
山本周五郎の「樅の木は残った」は、江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしています。この騒動によって徳川幕府から伊達藩をお取り潰しの憂き目になりそうになるところを、家老の一人が自らが悪人の汚名を着てこれを食い止める、という話です。
史実に基づいてはいるものの、現実にはなかった話も交えて山本周五郎がフィクションとして完成させた小説ですが、歴史物としては大ヒットし、1959年には毎日出版文化賞をも受賞しました。周五郎作品の中でも最も多く映像・舞台化されているひとつです。
一方の三浦綾子の塩狩峠もまた、多少の脚色をしていますが、こちらはほぼ史実を踏襲しています。小説の主人公の永野信夫は実在の人物でクリスチャンであり、本名は長野政雄といいました。国鉄の前身である鉄道院の職員だった人で、1909年(明治42年)2月28日、ここ塩狩峠に差し掛かった旅客列車にたまたま乗り合わせていました。
小説のほうでは、主人公がある女性と結納を交わす予定だった当日、名寄駅から鉄道で札幌へ向かう途中、塩狩峠の頂上にさしかかろうという時にこの事故が起こったことになっています。
おそらくは結納というのは話を盛り上げるための脚色で実際にはそうした事実はなく、しかしこのとき長野政雄がこの列車に乗っていたというのは事実で、この日、彼が乗る最後尾の車両の連結部が外れるという事故が起きました。
長野は乗客を守るため、咄嗟に列車を飛び下り、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止め、彼の身を挺したこの行為によりこの列車に乗っていた他の乗客全員の命が救われました。
鉄道院職員だった彼のこの行為は、この当時大きな反響を呼び、事故死ではありましたが、長野はこれにより殉職扱いになりました。現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くには、顕彰碑が建てられており、また塩狩峠記念館、文学碑なども建てられています。
この小説は、1973年に松竹によって映画化もされています。さらには小説版の話を元に埼玉県が、これを簡約し、小学校の道徳の教科書に「かけがえのないきみだから」として掲載しており、美談として全国的にも著名になりました。
ちなみに、この塩狩峠は、当初は全国でも有数の難所の一つでしたが、後年改良され、現在では曲線、勾配とも緩やかな峠となっています。
こうした自己犠牲についての小説を書いた三人はそれぞれ、宗教活動に熱心でした。
宮沢賢治は法華経の信奉者であり、山本はキリスト教信者でしたし、三浦綾子もキリスト教信者であったことは有名です。夫の三浦光世も洗礼を受けており、アララギ派の歌人でした。
1999年(平成11年)に三浦綾子が亡くなったあと、その夫婦愛を綴った著作を出版しています(「妻と共に生きる(2000年)」「妻 三浦綾子と生きた四十年(2002年)」など)。
ちなみに、三浦綾子にとってはこの光世との結婚は二度目であり、先夫は肺結核で亡くなっています。ところが、この光世は先夫その容貌が非常に似ていたそうで、彼女が初めて光世と出会った時、死んだはずの前夫が生き返って目の前に現れたかと思うほど驚いたというエピソードが残っています。魂の上での出会いだったのでしょうか。
この塩狩峠と似たような話は、のちの昭和時代にも起こっています。長崎県西彼杵郡時津町(旧時津村)に地蔵菩薩が安置された「打坂地蔵尊」という場所がありました。ここでもやはり乗客・運転士の命を救い、殉職したバス車掌がいました。
1947年(昭和22年)年当時の打坂は現在より勾配がきつく、しかも片側が深い崖になっており、運転手からは「地獄坂」と恐れられた難所でした。
戦後すぐの当時のバスは現在のようなディーゼルエンジンではなく、木炭バスとよばれる木炭を代替燃料に使用したバスでした。走行中にエンジンが停止することも多かったので、坂道では乗客が降りてバスを押すこともあったといいます。
1947年(昭和22年)9月1日、大瀬戸(旧大瀬戸町)発長崎行きの路線バスのエンジンがこの場所で停止しました。運転手はブレーキをかけようとしましたが故障しており、そのままバスは坂を後退していきました。
バスを降りて止めるように指示された車掌は「鬼塚道男」といい、石を車止めにしようと試みたものの、加速がついており、多くの客がバスに乗っていたため、バスは石を乗り越えてしまい、崖まであとわずかというころまで迫りました。
その時、鬼塚車掌が自らバスと車輪の間に潜り込み、崖まであと数メートルというところで自分の体を輪止めにしてバスを止めました。乗客・運転士は全員無事でしたが、鬼塚車掌は搬送先の病院でわずか21歳というあまりに短い生涯を終えました。
現「さいかい交通」となった、長崎バスはこのときの鬼塚道男車掌を称え、27年後の74年(昭和49年)には事故現場付近に記念碑を建立しています。
さらに我々の記憶に新しいところでは、2000年(平成12年)に起こった鉄道事故でも運転手の自己犠牲が話題になりました。
12月17日13時ごろ、京福電気鉄道永平寺線の永平寺発東古市(現在の永平寺口駅)行き上り列車がブレーキ破損により分岐駅である終点の東古市駅に停車できず冒進し、越前本線の福井方面に分岐器を割り込んで進入しました。
この結果、越前本線の福井発勝山行き下り列車と正面衝突し、上り列車の運転士1名が死亡、両列車の乗客ら24名が重軽傷を負いました。
ブレーキ故障後、当該列車の佐々木忠夫運転士(当時57歳)は、無線でブレーキ故障・停止不能を連絡しつつ、乗客に車両後部へ避難し、空気抵抗を増して減速させるために出来るだけ多くの窓を開けるように指示しました。
このため、列車は減速には成功したものの、衝突は免れず、下り列車に激突して先頭車両は大破しました。しかし、ある程度スピードを落とすことができたため、客車への被害は軽微で済み、乗客には1人の死者も出ませんでした。しかし、佐々木運転士は退避可能であったにも関わらず、衝突する最後の瞬間まで運転席に留まり、殉職しました。
ごくごく最近でも、今年の10月、横浜市緑区のJR横浜線の踏切で、倒れていた男性74を助けようとした会社員の村田奈津恵さん40歳が電車にひかれて亡くなったことは記憶に新しいところです。
この献身的な行動は多くの反響を呼び、その勇気を称える声が日本中に湧き上がり、先月、安倍晋三首相は「勇気をたたえる」とした内容の書状を遺族に贈っており、これに先立ち県と横浜市も知事と市長の名で「感謝状」を贈っています。
このように自己犠牲の話となると、やたらに鉄道が目立つのですが、無論、鉄道だけのことではありません。
今年の9月には、台風で増水した淀川に転落した9歳の男児を救助した中国人留学生が警察から感謝状を贈られ、先月には首相官邸に招待されて総理から感謝状をもらっています。このように鉄道事故だけでなく、水の事故では、溺れようとする相手を助けるために、自らも海川に飛び込み、自らの命を落とすというケースが毎年のように起こります。
水難の話としては、有名な話で「稲むらの火」というのもあります。1854年(安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語で、地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説いたものです。
小泉八雲の英語による作品を、翻訳・再話したものが1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載され、防災教材として知られるようになったもので、現在もリメイクされ教育界や防災関係者から高く評価されています。
もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)という実在の人物です。
濱口梧陵は、幕末の文政3年(1820年)に、紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)で紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれました。のちの実業家・社会事業家・政治家であり、雅号として「梧陵」を名乗りました。
12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子に移り、その後、若くして江戸に上って見聞を広め、開国論者となっています。海外留学を志願していましたが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して数々の事業を営んで成功させました。
家業で醤油醸造業を営む「濱口儀兵衛家」においてもここの当主となり、七代目濱口儀兵衛を名乗りました。この濱口儀兵衛家は、現「ヤマサ醤油」であり、濱口儀兵衛はこの大会社の礎を築いた人でもあります。
成功後には、地元の子女の教育にも尽力しており、広川町では現在でも偉人として称えられています。嘉永5年(1852年)には、同業の濱口吉右衛門・岩崎重次郎とともに広村に稽古場「耐久舎」を立てており、これは現在の和歌山県立耐久高等学校となっています。
この濱口梧陵をモデルとして小泉八雲によって創作された物語、「稲むらの火」のほうは、実際の話を加工し、多少脚色してあります。
原作のストーリーとしては、村の高台に住む庄屋の「浜口五兵衛」が、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付きます。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけました。
火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るいますが、五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られた、というものです。
小泉八雲は、この小説の英語表題を “A Living God ” としており、彼としての原題の意味は「西洋と日本との神の考え方の違いについて」であり、必ずしも自己犠牲がテーマではありません。人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている濱口梧陵を通して日本人の神に対する考え方を表現したかったようです。
この小説を書こうとした小泉八雲は、作中にも触れられている明治三陸地震津波における紀伊国広村(広川町)の惨状をたまたま聞き、この作品を執筆したと推測されています。
津波の描写に関する部分は、又聞きによって書かれたためか、地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多いそうで、また小泉作品では「地震から復興を遂げたのち、五兵衛が存命中にもかかわらず神社が建てられた」とされていますが、これも誤りのようです。
このように「稲むらの火」は濱口儀兵衛(梧陵)の史実に基づいてはいるものの、実際とは異なる部分が多いようで、その後これをもとに翻訳した小学校向けの教本本(国定教科書)もこうした間違いをあえて踏襲したようです。
史実と物語の違いは教本としての採用時にも認識されていたようですが、五兵衛の犠牲的精神という主題と、小泉・中井による文章表現の美しさから、安政南海地震津波の記録としての正確性よりも教材としての感銘が優先されたようです。
英語で書かれた小泉八雲の原本をこうした小学生向けに最初に再話・編集したのは、地元広川長の小学校の先生だった、「中井常蔵」という人です。
昭和の初めに文部省が、小学校の国語の教科書に載せる文章を初めて民間から公募した際、この募集を知った中井は、郷土の偉人、浜口儀兵衛の事績を八雲の作品をもとにして、短く、小学生でも分かるように再話したものを書き上げました。
そして、文部省応募したところ、採用され国語読本として長い間読まれるようになったもので、現在は学校だけでなく、地方行政においても防災教材として配布されています。市町村の役場に置かれているパンフレットに漫画入りで掲載されているこの物語を手に取って見たことがある方も多いのではないでしょうか。
小泉八雲の原作を忠実に踏襲したこの作品はまた、実在の人物だった濱口儀兵衛(梧陵)の人物像や実際に取った行動とも異なる部分も多く、そうした相違点は、ストーリーの根本に関わる部分にも存在します。
例えば農村の高台に住む年老いた村長とされている五兵衛に対して、史実の儀兵衛はこの当時既に地元では指導的な商人と目されてはいましたが、まだ若干35歳に過ぎず、住んでいた家は海岸近くではなく、町中にありました。また、儀兵衛が燃やしたのは稲穂のついた稲の束ではなく、脱穀を終えた藁の山でした。
こうした、藁山のことを紀伊地方では「稲むら」と呼ぶことがあるといい、これが「稲むらの火」のネーミングの由来ですが、実際には脱穀処理済の藁にすぎず、これに火をつけたというのが事実のようです。
また、儀兵衛が火を付けたのは津波を予知してではなく、津波が来襲してからであり、暗闇の中で村人に安全な避難路を示すためだったそうです。従って、刈りいれたばかりの稲穂に火をつけてまで村人を救ったというのは、多分に脚色された美談といえ、実際に自分の利益を失ってまでみせた犠牲的行為だったとはいいきれません。
にもかかわらず、濱口梧陵が地元の人に「生き神様」として慕われているのは、被災後も将来再び同様の災害が起こることを慮り、私財を投じてここに防潮堤を築造した点です。これにより広川町の中心部では、昭和の東南海地震・南海地震による津波に際しても被害を免れました。このことは「稲むらの火」には描かれていません。
この広村堤防と呼ばれる堤防は和歌山県有田郡広川町に現存し、国の史跡に指定されるとともに防潮堤としても機能しています。
広川町は、紀伊半島南西部に位置し、太平洋に面しているばかりではなく、湯浅湾の最奥部に位置するため、古くから津波で甚大な被害を何度も受けてきた場所です。
この対策として、室町時代に、ここを治める豪族の畠山氏が堤防を築きいたりもしましたが、その後、安政元年11月5日(1854年12月24日)には、いわゆる「安政の大地震(安政南海地震)」が勃発し、広村(現広川町)の339戸に大きな被害をもたらしました。
津波襲来後、村内は大混乱に陥ったようですが、このとき濱口梧陵は大量の藁の山に火をつけ、これを目印として避難路を住民に示し、襲来する津波二波、三波から村人を救いました。
これにより、このときの村の被害は、流出家屋125戸、半壊家屋56戸でしたが、死者に関しては、安政の大地震時の被害を大きく下回る30人に抑えることができました。
その後、地震から教訓を得た梧陵は、同志と大堤防の築造を計画し、安政5年(1858年)に約3年10か月もの歳月を費やした大堤防広村堤防を完成させました。堤防の完成と同時に植えた黒松とハゼノキの防潮林は、昭和21年(1946年)の昭和南海地震の際には、津波を食い止め、集落を守るという重要な役割を果たしました。
こうした功績を称え、昭和8年(1933年)には、広村堤防の傍に濱口梧陵の偉業と徳を讃える「感恩碑」が立てられ、以後、毎年11月に碑の前で津浪祭が行われているそうです。畠山氏の築いた古い堤防もまた広村堤防とともに保存され、コンクリートで補強されて現在も津波防災対策に活用されています。
このように、脚色されたストーリーではありますが「稲むらの火」においてもまた、自己犠牲が、多くの人を救ったとされています。しかし、一昨年に起こった東日本大震災に伴う津波災害のような、1000年に一度と言われるような大規模な天災においては、必ずしもこうした自己犠牲だけでは多くの命を救えませんでした。
「津波てんでんこ」ということばがあります。1990年(平成2年)に岩手県下閉伊郡田老町(現・宮古市)にて開催された第1回「全国沿岸市町村津波サミット」において、津波災害史研究家である山下文男らによるパネルディスカッションにおいて生まれた標語で、「命てんでんこ」という呼び方もあるようです。
山下文男(二年前の2011年に死去)は、日本の津波災害史研究家として知られていた人ですが、もともとは、日本共産党の中央委員会の文化部長も務めた人です。
晩年になってからは政党活動を引退して防災対策の活動などに身を投じるようになり、著書の「津波ものがたり」では「日本自然災害学会賞」功績賞を受賞し、このほか「平成15年度防災功労者表彰」なども受けています。
岩手県気仙郡綾里村(現大船渡市三陸町綾里)出身で、1896年の明治三陸津波では祖母ら親族3人を含む一族9人が溺死。彼が9歳のときの1933年にも昭和三陸津波に遭い、高台に登って難を逃れた経験を持ち、この時期の昭和東北大飢饉も体験している人です。
「てんでんこ」は、この地方で「各自」「めいめい」を意味する名詞「てんでん」に、東北方言などで見られる縮小辞「こ」が付いた言葉で、すなわち、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」を直訳すると、それぞれ「津波はめいめい」「命は各自」という意味になります。
このため、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」を防災教訓の用語として解釈すると、それぞれ「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」「自分の命は自分で守れ」ということにもなります。
津波などの災害の多いこの地方では、古くから「自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない」という不文律があったといい、この「てんでんこ」には災害後のサバイバーズ・ギルトをケアする効果や人間関係の修復の意味をも言外に含まれれていると考えられます。
サバイバーズ・ギルト(Survivor’s guilt)というのは、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のことです。
津波などの突然の災害では、自分が逃げるのが精いっぱいで、他人を助けることができず、このため事後深い罪悪感を感じる人が多いものです。
この「てんでんこ」という言葉は、非常に語呂よい響きを伴うこともあり、人によってはその意味を誤解し、他人にかまわず逃げろという、やや利己主義的な用語と受け取られてしまうという危惧もあります。
しかし、元々この言葉を防災の標語として提唱した山下文男氏は、この言葉には「自分の命は自分で守る」ことだけでなく、「自分たちの地域は自分たちで守る」という意味が込められていると主張しました。
緊急時に災害弱者(子ども・老人)を手助けする方法などは、地域であらかじめの話し合って決めておくよう提案し、そうした事前の準備の励行も含めて「てんでんこ」という言葉を流行らせようとしたのです。
つまり、この標語の意味は「他人を置き去りにしてでも逃げよう」ということではなく、あらかじめ互いの行動をきちんと話し合っておくことで、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐことを第一に考えよう、ということになります。
山下がこの言葉の理解を広めようとしたきっかけとしては、1993年の奥尻島での津波における近藤家母子の悲劇があり、これを自身による公演やその著作でしばしばとりあげ、津波被害の象徴的な例として挙げています。
この事例は、手をつないで避難していた母子3名が、途中で祖母の家に立ち寄ったため、わずかな時間差で命を落としたというものです。しかも、このときこの祖母がすでに避難していたのにも関わらず、それを知らずに3人は尊い命を落としたのでした。
山下は、母がわが子を連れ立って逃げたにもかかわらず、その際に祖母を救おうとして命を失ったという痛ましいこの話から、人の命を救うということの意味の重要性、むずかしさをつくづく考えさせられたと述懐しています。
こうして生まれた「津波てんでんこ」は、災害時の行動スキームを事前に地域で共有することを唱えた防災思想です。
「ばらばらに自分だけでも逃げる」という行為は、その意志を共有することで互いを探して共倒れすることを防ぐための約束事でもあります。これは、自分が助かれば他人はどうなっても良いとする利己主義とはまったく異なる発想です。
自己犠牲のもとに人を救うことはできる。しかし、それで自分が死んでしまっては意味がない。こうした大災害時には、人には構わず、まず逃げる。そうした考えをあらかじめ共有しておくことによって、自己犠牲によるよりももっと多くの人を救うことができる、という呼びかけでもありました。
やがてこの山下が提唱したこの標語は、防災の意識を高めるものとして使われるようになり、1990年以降は、東北地方では多くの人が意識するようになっていきました。
1990年に岩手県田老町で開催された「全国沿岸市町村津波サミット(第一回)」において山下氏はこの用語に関連して、さらに次のような自分の家族に関するエピソードを語っています。
山下が9歳のころ(1933年)の昭和三陸津波で発生しましたが、このとき彼の父や兄弟は末っ子の彼をひとり置き去りにして逃げたそうです。山下の母は、後年、このときの父親の非情さを度々なじり、これに対して山下の父はその度ごとに、「なに!てんでんこだ」と反論したといいます。
彼によれば、この当時はまだ皆々が自分で逃げるという意味での「てんでんこ」という言葉は広くは浸透していませんでしたが、このころ既に山下家では、有事の際にはそれぞれが勝手に逃げる、という行為を表すことばとしてこれを合言葉にしていたそうです。
この三陸津波の際、山下の友人の多くもまた同じように置き去りにされたそうで、このころ山下家だけでなく、彼らが住まう集落内でも「てんでんこ」ということばはありませんでしたが、「津波のときにはまず各々が逃げることが大切」という行動規範は浸透していたといいます。
このため、山下の父もまた「こういうときは、みんなバラバラに逃げるものだ」ということを「てんでんこ」と表現したのですが、さすがに奥さんには幼い子供を置いて逃げた父親のこの行為を受け入れがたかったのでしょう。
あるいは、山下の母は他の場所から嫁いできたため、こうした考え方を受けいれることができるには、少々日が浅かったのかもしれません。
その後、このように山下が各種の公演やサミットで語ったエピソードが徐々に注目されるようになり、彼の講演への参加者や地震・津波災害に関する有識者らとのやりとりのなかで、「津波てんでんこ」は人々の間に次第に浸透していきました。
ちなみにこの頃の有識者とは、広井脩、阿部勝征、津村建四朗、伊藤和明、渡部偉夫といった地震や津波などの災害対策に造詣の深い専門家たちです。
広井脩元東大教授は既に亡くなっていますが、阿部勝征さんは大規模な地震災害が起こるたびにNHKなどに引っ張り出されており、私がかつて所属していたことのあるNPO法人の副理事長でもあります。広井教授は、生前ここの理事長でもあり、災害情報学においてはこの道の権威でもありました。
こうしてその後は、北海道南西沖地震(1993年)や北海道十勝沖地震(2003年)などで津波の被害が出るたびに、「津波てんでんこの話が被災地にもっと普及していれば……」とマスメディアに標語が取り上げられることも多くなっていきました。
2003年9月27日の朝日新聞の社説には、「三陸沖やチリの地震で津波の被害に何度もあっている三陸地方には、津波てんでんこという言い伝えがある」書かれ、このためその後、この言葉はいかにも古い言い伝えであるというふうに人々が印象を持つようになってしまいました。が、無論これは誤解です。
とまれ、これが幸いし、朝日新聞のような全国紙でも取り上げられるようになったことから、その後この言葉は、東北地方を中心とした各地の小中学校などで、「古くから伝わる標語」として使われるようになっていきました。
2011年の東日本大震災で「釜石の奇跡」と呼ばれる事例では、この「津波てんでんこ」を標語に防災訓練を受けていた岩手県釜石市内の小中学生らのうち、当日学校に登校していた生徒全員が生存し、話題となりました。
このときこの学校のサッカー部に所属していた小中学生を中心としたグループは、地震の直後から教師の指示を待たずに避難を開始し、「津波が来るぞ、逃げるぞ」と周囲に知らせながら、保育園児のベビーカーを押し、お年寄りの手を引いて高台に向かって走り続け、全員無事に避難することができたといいます。
この市内における小中学校の防災教育を指導し、「釜石の奇跡」の立役者となったのが、群馬大学の工学部社会環境デザイン工学専攻の片田敏孝教授です。
その後のインタビューなどで片田教授自身もまた「津波てんでんこ」が古い伝承だと述べており、勘違いしていたようですが、これはおそらく山下氏の著作は読んでいなかったためと思われます。
が、「てんでんこ」が古い標語であるかどうかはあまり問題ではなく、この「津波てんでんこ」の考え方と片田教授の考え方が一致していたという点のほうが重要です。
片田教授は、小中学校の生徒を指導する際、具体的には、みずから状況判断して逃げること、災害弱者を助ける立場の者はあらかじめ明らかにしておくこと、家族はそれぞれ逃げると信じて行動することなどを指導しており、「てんでんこ」が持つ本来の意図とかなり近い考え方をもって防災教育を実践していました。
この片田敏孝教授は、防災研究者として関係者の中で最近めきめきと頭角を現してきている学者さんです。群馬大学工学教授として、主には自然災害に対する防災研究、とりわけ、津波災害におけるハザードマップの作成など自然災害のシミュレーションや、災害時の情報伝達などの研究を専門とされています。
特に、最近は「避難勧告を出しても避難しない人たち」に対する対策の立案研究にも取り組んでおり、岩手県釜石市の防災・危機管理アドバイザーでもあります。
私も防災関係の仕事をときたまやっていることから、論文をいくつか読ませていただいているのですが、その内容は機知・示唆に富み、行政の間違いもビシビシと指摘し、民間の災害防災に対する甘さについても苦言を呈するなど、両方からも定評があります。私のような凡才が言うのもなんですが、優れた学者さんだとだと思います。
ただ、「てんでんこ」を提唱した山下氏と片田教授の両者の考え方には、若干の相違点があります。それは、率先して逃げる行為の捉え方です。
山下は、率先して逃げる者が避難を促すというポジティブな面を捉えてはいますが、まず一人逃げるという行為は、最善の災害対策を考えた際にはやむをえない部分もあるものの「哀しい教え」であると評価していたようです。
しかし、片田教授はこの点については容赦なく、何が何でも避難が優先というポジティブな捉え方を徹底しています。
現実にはほとんどの津波警報が杞憂に終わる中、率先して逃げた者が「臆病者」というレッテルを受けやすいことを踏まえ、「それでも最初に誰かが逃げることで他者も続き、救われる命があるので、後ろ指さされる可能性を知りながら率先して逃げる者こそ本当に勇気がある者だ」という立場で生徒たちを指導しています。
釜石の奇跡においても、最初に率先して逃げ出したサッカー部の生徒を大きく評価しており、片田教授から「津波てんでんこ」学んでいたがゆえに、即座に避難行動に移る上での心理的ハードルが低かったのではないかとし、今後ともこうしたハードルを日常的に取り除いていく工夫が必要だと述べています。
この点が、一人で逃げることは「哀しい行為」と評価した山下とは異なる点です。しかし、山下氏もかつて父親に先に逃げられて取り残された悲しい経験をしており、てんでんこ自体もその経験をもとに編み出した標語です。「哀しい」とはあくまで感想であり、そうした感情は抑えても、やはりまずは逃げ出すことが第一、と考えていたに違いありません。
いずれにせよ、こうして2011年の東日本大震災の「釜石の奇跡」をきっかけに再びこの「津波てんでんこ」という言葉がマスメディアに評価されるようになってきており、防災教育の標語として全国的に普及していこうとしています。
ただ、その道のりは、まだ過渡的であり、当事者の三陸地域の人々においてすら本来の意味とは違った「利己主義的な発想」との誤解が蔓延している状況があるようです。いずれはこうした考えを払しょくし、全国的な広がりを持った標語として定着させていくべきでしょう。
多くの命を救いたいと考えるのは皆同じです。が、自分の命もまたその大勢の命の中のひとつであるということを忘れてはいけません。大声で叫びながら自らが率先して逃げる。そのことで自分も救われ、他も救われるという考え方が標準となれば、自らも楽だし、サバイバーズ・ギルトもなくなっていくのではないでしょうか。
さて、皆さんは、どうお考えでしょうか。