毎年のことながら、この時期になるとせわしいながらも何かワクワクしたかんじがあり、妙に心豊かな気分になるのは、今年一年間を無事にすごせた安堵感からくるものなのでしょう。
加えて来年からの新しい一年への期待感もあるでしょうし、年末年始の比較的長い休みを家族と過ごせる幸せ、またこうした機会に普段はあまり会うこともない親戚や友達に会える喜びもあるからでしょう。
私たち夫婦の場合、去年は引っ越して最初の年末だっただけに、家の中も何かと片付いておらず、落ち着かないかんじでしたが、今はほぼ片づけも終わり、お気に入りのインテリアの整備も終わって、ようやく「我が家」になったな、と感じながら迎える年末でもあります。
来年のことを言うと鬼が笑うといいますから、来たる年に何をやろうとか抱負はまだ何も考えていませんが、ここ数年の家の売り買いにまつわる騒動やら引っ越し騒動から解放された今、来年は少しまとまった時間をとってゆったりと旅行にでも出たいなと思ったりしています。
旅にも色々あって、一人旅、家族旅行、などの単数で行くか複数かだけでも旅の目的は変わってきますし、修学旅行、商用旅行、研修旅行、取材旅行、慰安旅行、帰省旅行などなどの目的によっても旅の主旨は変わってきます。
無賃旅行、ヒッチハイクも旅に違いはなく、こうした自分ではお金をかけず、行く先々での人々の行為に甘える形の旅は、昔の修験道者の旅に代表されるように日本の文化のひとつと考えてもよいかもしれません。
最近では「マイル修行」などというものが流行っているようです。
これは、1990年代中頃、当時の円高を反映して航空券が割安になって気軽に海外旅行に行く人が増えてきたことを背景に、米国系の航空会社が始めたサービスに起因してはやりはじめたものです。
例えば、日本~ニューヨークなどのエコノミークラスで2往復すれば、東京~バンコクなどで自社の運航するアジア都市間をビジネスクラスで飛ぶことができる特典が与えられることなどを利用します。マイレージ数によってはエコノミークラスでの運賃がほぼ無料になる区間もあるようです。
この点に着目した旅行者達の間で、近距離特典旅行の獲得を目的として長距離の太平洋路線を閑散期の格安運賃で利用することが流行しはじめましたが、エコノミークラスでの長距離旅行は時間的・身体的に負担がかかります。短期間に多回数飛行機に乗り続ける上、体力と時間を消耗するなど心身の苦痛も伴う上、当然初期投資のお金もかかります。
しかし、その旅行の目的地での観光や用事には大きく執着せず、その過程で得られたマイルや上級会員資格に大きな価値を見出す、というこれまでにない旅行のスタイルであり、お金や時間は二の次というこうした旅行をする人を修行僧に例えて「マイル修行」と呼ぶようになったようです。
1997年に日本航空や全日本空輸がそれまでのポイントプログラムを改良してマイレージサービスを始めると、日本国内線でも同様の行為が見られるようになり、現在、ネット上には「修行僧」が情報交換する掲示板が幾つもあり、かなりの人数がいるようです。
私自身、その昔はビジネスマンとして日本中を駆け回っていたので、飛行機の利用は多く、とくに東京から北海道への出張が多かったので、マイレージはよく貯まりました。それを使っての家族旅行なども何度かしたことがあります。
同様に、こうしたマイル修行をする人は、一般人ばかりではなく、遠距離の往復搭乗をすることの多いビジネスマンの間でも結構流行っているのではないかと思います。
マイレージを増やすために、例えば行き帰りとも同じ航空会社を使う、経由地点を増やして搭乗回数を増やす、搭乗時間が短い路線を数往復して搭乗回数を増やす、などのテクニックを駆使してマイレージを貯めるひともいるようです。私は忙しかったのでさすがにそこまではやりませんでしたが……
それにしても、旅とは一体何か、と考えたとき、その定義は、住む土地を離れて、一時的に他の場所へゆくことでしょう。このため、買い物、通勤などのために連日同じ場所へ往復する移動は当然ながら含まれません。
有名な民俗学者の柳田國男によれば、旅の原型は奈良飛鳥時代ころに中国から導入された租税制度である租庸調を京に納めに行く道のりのことだったそうです。
食料や寝床は毎日その場で調達しなければならないものであり、道沿いの民家に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」「給ふ(たまう)」といっていたらしく、この「たべ」が「旅」に変わっていったといいます。
しかし、無論、旅そのものはもっと古くからあり、人類は狩猟採集時代から食糧を得るために旅をしていました。ただ、農耕が行われる時代になった後は一定の場所に定住することも多くなったことから、旅をすることは少なくなっていったようです。が、猟人、山人、漁師などは依然、食糧採集のための旅を行っていたようです。
またこうした人たち以外にも行商人や歩き職人もいました。当時は人口が少なく、一つの場所で商いをしていても仕事にならず、旅をして新しい客をつねに開拓するほうが効率的だったからです。
中世から近世にかけては店をかまえる居商人がしだいに増えてきたものの、慣習として相変わらず旅をする商人・職人も多かったようです。
例えば、旅の行商人としては富山の薬売りが有名であり、このほか、芸能民、琵琶法師、瞽女なども行商人とみることができるでしょう。
一方では、行政によって強制された旅も多く、前述のように古代では租庸調などの貢納品が運ぶための旅が計画されたほか、国防のために東国の民衆がはるばる九州まで防人として赴いたりしていました。こうした旅では、重い荷物を背負って長距離を歩かねばならず、途中で食糧もつき命を落とす者が絶えなかったといいます。
近世に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納や国防のための強制された旅は激減し、やがて自由に自発的に行う旅が生まれ発展していきました。
しかし、平安時代末期までは道路の整備も進んでおらず、交通の環境は苛酷なまでに厳しかったので旅は苦しく、かつ危険でしたが、このように商売や国による強制以外にも苦難な旅をする人が出てくるようになり、それはほかならぬ信仰による旅をする人たちでした。
僧侶などは宗教上の強い動機により、修行や伝道のための旅をしましたが、これは公認されていた旅でした。が、一般人は理由もなく旅をすることは禁止されていました。このため、一般の人が旅行したいと思った場合には、宗教的な巡礼、神社仏閣への参拝であることを理由とすれば、そうした旅行は黙認されるようになりました。
こうして平安末から鎌倉時代は特に「熊野詣」などが盛んとなり、さらに室町時代以降は「お伊勢参り」が盛んになり、また西国三十三所や四国のお遍路さんなど、こうした宗教活動を理由とする旅のバリエーションはどんどん増えていき、ひとつの文化のようにさえなっていきました。
江戸時代に入るとそれまで徐々に発達してきた道路整備や、これに伴う交通施設・交通手段が飛躍的に整備されていきます。徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝つと、翌年には五街道や宿場を整備する方針を打ち出し、20年あまりのうちにこれを実現しています。
移動手段としては、徒歩以外に駕籠や馬も広く使われてはいたのですが、足代(料金)が高いことから長距離においてこうした交通手段を使えるのは大名や一部の役人などに限られており、一般人でこれらを使えるものは少なく、使うとしてもほんの短い区間だけのことが多かったようです。
とはいえ、身分の上下を問わず旅行者はどんどん増えていったため、「宿場町」は次第に大きな集落になっていきました。宿泊施設である旅籠や木賃宿が置かれ、飲食や休息をとるための茶屋が作られました。身分の高い人達に馬や駕籠を提供する店や一般市民向けの商店なども立ち並ぶようになっていきます。
またこれに伴い、旅をしやすいように、貨幣も数十分の一~数百分の一の軽さのものに変わっていき、こうした銭を交換する「為替」も行われるようになり、より身軽に旅ができるようになっていきました。
また江戸時代以前に横行していた山賊や海賊も、徳川幕府の取り締まりにより影をひそめ、江戸300年の太平の間の旅行は、それまでと比較にならないほど安心で安全なものになっていきました。
航海技術も進歩し、北前船のような大量の物資が運べる大型の船も建造されるようになったことから、これに便乗する船旅もさかんに行われるようになり、瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系などの波の穏やかな内海ルートが旅行用によく使われました。
しかし、旅行がさかんになったといっても、旅ができるのは武士や商人がほとんどであり、多くの農民は定住を強いられ、またその生活は単調で窮屈しかも暗いものでした。彼等もまた旅にあこがれましたが、各藩では稼ぎ頭が散逸することを恐れ、民衆が領内から外へ出ることを嫌い、おおむね旅行は禁止でした。
当時、幕府もまた、法律によって庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限を課していました。ところが、室町時代から流行するようになっていた「お伊勢参り」、すなわち、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮がありました。
特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあったため、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていました。
また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物であるお守りやお札などを持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていました。
農民に関してもまた移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしても黙認されるという風潮がありました。
とはいえ、こうした農民が長旅できるのは、「お伊勢講」などの仕組みがあってのことであり、しかもその機会は、一生に1度かせいぜい2度でした。このことは前に書いたブログ、
お伊勢講と無尽蔵に詳しく書いてあります。
このため、せっかく一生一度の旅に出たのだからということで、できるだけ多くの場所を見て回ろうとし、参詣をすませた後には京・奈良などで社寺の広大さに感嘆し、大阪では芸能浄瑠璃や芝居に酔った上で郷里に帰る人が多く、その際にもお伊勢さんのお札を持ち帰ればそれで許されたのです。
若者の中には宿場の遊女と遊ぶなどのハメを外すものまでいたそうです。ただ、お伊勢講などのシステムを利用しない限りはこうした旅行はできないわけで、神社参拝を理由とせずに長旅ができたのはかなり裕福な庄屋クラスの農民くらいでした。
農民に限らず貧しい人々の多くは領内を出ることを許されず、近場で我慢するのが普通でしたが、ともあれ、旅はそれ以前のように貴族や武士だけでなく、一般民衆によっても行われるようになったという点では、江戸時代は日本独特の「旅行文化」を育む上で貴重な時代となりました。
現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味ははるかに大きく、団体旅行と温泉好き、盛りだくさんの食事、大量のみやげ買いなど、今日にも伝わる日本人の旅の習慣も、ほとんどはこうした江戸期の庶民社会で発達したのです。
幕末から明治期の駐日イギリス外交官アーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」のなかで「日本人は大の旅行好きである」と述べています。
そしてその理由として、「本屋の店頭にはくわしい旅行案内の書物、地図がたくさん置いてある」ことなどを挙げています。これらの書物には、宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物などが詳しく記載されており、現在の旅行本と比べてもけっして引けをとるものではありませんでした。
近代になり、鉄道と汽船が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになり、ますます旅はさかんになっていきました。
ちょうどこのころ、イギリスでは裕福な市民層の師弟の学業の仕上げとしての「グランドツアー」、すなわち家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学が広く行われるようになり、それを世話する業者である旅行代理店が登場しました。
こうした流行が明治以降の日本に輸入され、現在もほぼ全国で実施されている小中高校の修学旅行になっていきました。1886年(明治19年)、修学旅行の嚆矢とも言われる東京師範学校の「長途遠足」が実施されましたが、これは東京から銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものでした。
太平洋戦争後の日本では、1960年代の高度経済成長頃から企業の従業員による団体旅行、いわゆる「慰安旅行」が盛んになりはじめます。
目的地は大都会から数時間で行ける温泉地が多く、鬼怒川温泉、熱海温泉、白浜温泉などには「巨大」ともいえるような大きすぎる温泉旅館が立ち並び、それでもこれらの旅館は通年を通して満室になるほど繁栄して、観光客が町に落としたお金で、「温泉街」なるものが形成されていきました。
1970年代になると、各家庭はさらに豊かになり、このため息子娘にも自由に旅行をさせてあげられるほどの余裕が出てきました。
このため、若者の個人旅行が活発になり、長期間旅行をするための大きなリュックサックを背負った旅行者が日本各地に現れるようになり、この横幅の大きなリュックをカニに見立てて、彼等は「カニ族」と呼ばれるようになりました。
加えてオートバイに乗る若い男性も増え、ツーリングを行うようになり、こちらは「ミツバチ族」と呼ばれ、とくに北海道の大地は彼らの憧れでした。一方の若い女性たちの中には、雑誌を見て旅にあこがれる「アンノン族」が現れ、京都や軽井沢や中山道の妻籠宿などのおしゃれな旅先に大挙して押しかけました。
さらに1970年代後半以降は飛行機の料金がぐんと下がり、このため飛行機による旅行も大衆化し、北海道や沖縄県といった遠隔地へも気軽に行けるようになりました。また1969年の東名高速道路の全線開通以降、各地の高速道路の開通・延伸も相次ぎ、このころから自動車は一家に一台、といういわゆる「マイカー」を持つ人が増えました。
人々は普段の生活だけでなく、旅行にも自家用車を利用するようになり、「車社会」を意味する「モータリゼーション」ということばが使われるようになったのもこのころからのことです。
1970年代頃からは、円高のせいもあり、国際航空運賃も庶民が手を出せるほどまで下がったため、海外旅行も手軽に行けるようになっていきました。中高年男性の「売春旅行」が社会問題化したのもこのころのことです。1980年代後半にはバブル景気および円高を背景に海外旅行者が激増したことで、旅行産業も急成長をとげ、絶頂期を迎えました。
90年代前半まで海外旅行者数は前年度の記録を更新し続けていましたが、その後バブルがはじけたのを機会に日本の海外渡航者は減少を続け、渡航する場合でも韓国や東南アジア、台湾、中国などの近隣諸国が中心となりました。
各地で開発が進められていた観光リゾート開発はなりをひそめ、こうした開発にお金を出資していた旅行会社や不動産業者は大打撃を受け、旅行産業界は大不況に陥っていきました。
その後長らく不況によって、海外旅行者数は伸び悩み、平成8年(1996年)ごろから一昨年くらいまではだいたい1600~1700万人くらいの水準で推移していました。ところが、おととしくらいから円高のためもあり、海外旅行客が増え始め、昨年はついに1800万人を超え、1900万人に限りなく近づいています。
国内旅行のほうも、こうした好調な海外旅行に牽引されてか、今年2013年夏の国内旅行者数は7600万人と、前年比+2.2%となり、この時期の調査結果では過去最高だったようです。東日本大震災の影響もここにきて、ようやくなくなりつつあるようです。
これは、2010年に、東北新幹線の八戸~新青森・2010年間が開業、2011年にも九州新幹線鹿児島ルート(博多~新八代)が全線開業、北陸新幹線も部分開業し、残った区間や未開業の北海道新幹線なども工事が次第に進みつつあることなどとも無関係ではないでしょう。
最近は長引いた不況にもようやく陽射しが当たるようになってきた感があり、このような日本人による国内外の旅行者数の増加はさらに続いていく、という分析もあるようです。
こうした最近の旅行ブームの再臨は、鉄道や航空機利用の旅行と自家用車による旅行に二分化している傾向にあります。
ただ、旅行の形態は多様化しており、スピードを重視する新幹線や飛行機はむしろ敬遠される傾向も出てきています。先ごろJR九州が提供を開始した高級寝台列車「ななつ星」や、飛鳥やにっぽん丸といった豪華客船の予約者はかなり先まで一杯だといいます。
各観光地でもまた独自の特徴を打ち出して集客に努めはじめており、最近のテーマはやはりなんといっても「癒し」のようです。
この「癒し」という言葉はバブル崩壊後、1997年に消費税5%の増税とアジア通貨危機の発生で大不況が更に深刻化した事がきっかけで一般人の心が完全に荒れたり病み始めた頃から現れてきた言葉です。
なかば恒久化した不況の影響により、日本人の金銭的な余裕の減少や不安から出費を抑える傾向になっている中で、お金を使わずに豊かな心を得たいと願う日本人が増えているということは、しばしば指摘されているところです。
旅行に行きたい、でもお金あまりない、という人に対して、旅行業者たちもそれまでの自分たちが提供していたサービス内容を変え、少ない金額でいかに多くの人を癒せるか、という方向に動いてきているのは大変喜ばしいことです。
例えば日本の旅館は高すぎる、という指摘があります。従来のように宿に到着してから去るまで常に仲居さんがついてくれている、といった時には過剰ともいえるようなサービスを改め、より安く、しかもより癒せる空間を提供しようとする旅館が最近は増えているといいます。
ところが、外国人にとっての日本旅行はどうかというと、「世界各国、地域への外国人訪問者数」という平成24年(2012年)の統計データをのぞいてみると、外国人がよく訪れる国の上位には、フランス、スペイン、トルコ、イタリア、ドイツ、イギリスなどのヨーロッパ諸国がずらりと並んでいます。
最近は中国への訪問者数も増えているようですが、日本はこの統計においては40か国中33位であり、2012年の外国人訪問者数は836万人にすぎません。一位のフランスは、その約10倍の8300万人もの外国人旅行者を迎えており、歴然とした差があります。
一方、日本を訪れた外国人の内訳はどうかというと、平成22年(2010年)に政府が統計した結果からみると、一位から3位までを韓国、中国、台湾からの訪問者が占めていて、これは全体の約60%です。4位がアメリカの8.4%であり、このほか、ヨーロッパ諸国ではイギリスは2.1%、カナダが1.8%にすぎません。
遠いヨーロッパから極東まで足を延ばすのは金銭的にも大変ということもあるのでしょうが、統計を見る限りでは来日欧米人は極端に少ないようです。
外国人旅行者が増えれば当然、お金を落としていってくれるので日本は潤います。しかし現状のように、日本を訪れる外国人はどちらかといえばあまりお金持ちでないアジア諸国からの人達ばかりであって、外貨獲得という意味でも欧米の人が来てくれないというのは問題があります。
このため外国人、とくに欧米人を呼び込む目的で、日本政府は、訪日外国人旅行者の増加を意図して1995年に「ウェルカムプラン21(訪日観光交流倍増計画)」を策定し、2005年頃を目途に旅行者数700万人を目指す計画をたてました。
その結果、1995年当時400万に満たなかった外国人の日本訪問者数、2005年の平成17年に、目標数のほぼ700万人に達しました。
さらに国土交通省は、2003年からは「ビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)」を開始しており、また、同年には「観光立国行動計画」を策定しました。
この計画は、2020年までに訪日外国人数2000万人をめざす従来の目標からさらに踏み込み、2016年までにこの2000万人を達成し、2019年には2500万人、将来的には3000万人をめざすというものです。
2008年には「観光庁」が新設されており、この新官庁の主導により、日本は「観光立国」として訪日外国人を2030年に4000万人にまで増やす計画でいるようです。
しかし、近年経済が好調な中国人観光客の誘致にも積極的です。中国旅行社青島支社によると、旅行経費は飛行機往復6日間の日本列島遊覧コースが6000元(約7万8000円)から7000元(約9万1000円)前後だといいますから、最近金満な彼等にとってもこれは決して高い額ではないはずで、日本は比較的旅行に来やすい国です。
しかし、こうした外国人観光客増えるのはいいのですが、実際に受け入れる旅行業者側はどうかというと、必ずしもこの政府側の目論見と通りというわけにはいかない状況のようです。
総務省が2008年全国のホテルや旅館1万6113の宿泊施設を対象にアンケートを実施した結果、この時点では、およそ4割弱(37.8%)の宿泊施設が「外国人の宿泊がなかった」もしくは「外国人旅行者を受け入れていない」と回答しており、あまり積極的に外国人を受け入れていない、というのが現状のようです。
とくに小さな宿泊施設に受け入れていないと回答したところが多く、客室30室未満の小規模施設の72.3%、客室100室以上の大規模施設の44.2%が、「受け入れない」ではなく、今後も「受け入れたくない」と回答しています。
受け入れたくない理由は、「外国語対応ができない」が75.7%で最多で、その他、「施設が外国人旅行者向きでない」の71.8%、「問題が発生したときの対応に不安がある」の63.4%、「精算方法に不安」の22.2%などが続いています。
ようするに、外国語はできないし、これまでもあまり受け入れてこなかったので、受け入れ態勢にも自分自身にも不安がある、ということなのでしょう。
日本人の外国人嫌い、外国人恐怖症ということは、昔からよく言われることです。日本では、江戸時代において鎖国が約250年も続いた為、外国人や異民族との係わり合いを経験することは極めて少なく、極端な場合には会話さえ難しいこともあり、「外国人恐怖症」の原因となっているとする主張もあります。
また、日本は、人口の98.5%を日本人が占めるため、しばしば「国民の大部分が日本民族により構成される単一民族国家である」と主張され、また居住者の99%以上が日本語を母語としています。このような社会的均一性が、日本における外国人恐怖症の背景となっているのでしょう。
現在、日本に外国人居住者の多くは、肌の色がほぼ同じで同系のモンゴロイドたる朝鮮人、中国人などであり、彼等の祖国は地理的距離が日本に近いこともあり、欧米人よりも安心感があるという側面もあり、このためこうした隣人ばかり受け入れているという現状もあるでしょう。
さらに日本は難民条約を批准しているものの、難民認定数は年間数十人程度であり、こうした面でも外国人慣れしていません。
難民が必ずしも悪いことをするというわけではないでしょうが、就労ビザではなく観光ビザで入国し、期限切れを無視して日本に不法残留し、そのまま不法就労する者、また彼らを扱うブローカー、闇ビジネスが存在している、ということも確かのようで、こうした点も外国人を嫌う原因でしょう。
外国人難民の受け入れについて日本人にアンケートを行った結果、犯罪の増加に繋がるから嫌だと答えた人がおよそ9割にも及んだという結果なども出ているようです。アンケートの取り方にも問題があったのかもしれませんが、多くの日本人が心情としてはどちらかといえば敬遠したいと考えているのではないでしょうか。
日本人が外国人嫌いになる理由としては、ほかにもマナーが悪い、ということなどもあるでしょう。最近よく話題にあがるのが、中国人の海外旅行者のマナーの悪さです。国内だけに止まらず、世界各地の観光地でひんしゅくを買っているといいます。
日本の例では、今年世界遺産登録された霊峰・富士山を訪れた中国人がポイ捨てしたタバコの吸い殻やペットボトルや空き缶の凄さは 、清掃に当たった山梨県や静岡県の職員やボランティアをあきれさせています。
5合目にある簡易郵便局の壁に貼られたポスターに、中国人観光客がボールペンの試し書きをしたために真っ黒になり、貼り替えてもすぐに数日すると元の木阿弥だとかで、またこのほかの中国人観光客の人気スポット、例えば東京・浅草では公衆トイレが大変だといい、観光客が帰るとトイレの中は使ったままの紙が山済みになっているそうです。
日本だけではく、外国でも評判が悪く、その評判を整理すると、まず外国文化を知ろうという意欲がないそうです。大英博物館やルーブル美術館では自国の中国人芸術家の作品しか見ようとせず、中国の陶磁器を見ながら「あれはいくらだ?」「これはいくらだ?」と大声で言い合い、何を見てもすぐに「金」と結び付けて考えるといいます。
欧米観光客のようにガイドブックを見ながら現地の歴史や文化を学ぶという姿勢がないばかりでなく、やみくもに写真を撮りまくり、写真撮影禁止、作品にさわらない、といった細かい注意にも、「金を払ったんだから!」と言って聞きません。
相手の同意などお構いなしに写真を撮りまくり、プライバシーという概念が欠落しているのではないかという人も多いようです。現地のルールを守らず、注意されると逆切れすることも多く、飛行機が遅延しただけでもここぞとばかりに大暴れします。
最近は国の指導により減ったようですが、痰を吐く行為はいまだ後を絶たず、食事の際に靴下を脱いで、椅子の上に片膝を立てる行為は直っていません。
くしゃみをする時も口に手を当てず、子どもにところ構わず排尿させる。ぜいたく品に出費を惜しまないくせに、チップはケチる、トイレを流さない、プールでの子供の排便などが頻発している、などなど……枚挙のいとまもありません。
こうした中国人旅行者の「癖」ですが、中国人といっても、香港系の人もおり、日本人には台湾人も中国人も見分けがつかないので、本当にすべての中華系の人達にあてはまるのか、といった実体はよく私にもわかりません。
が、概して中国本土の人のマナーは悪いと聞きます。「旅先での恥はかき捨て」という感覚なのかな、と思ったので色々調べてみたら、日本語が得意な中国人のブログがいくつかみつかり、これらに目を通したところ、「旅の恥はかきすて」という感覚はあるものの、必ずしもそうとばかりもいえないようです。
中国本土の人のマナーは、国内でも評判が悪く、一例をあげると、北京の天安門広場で国旗掲揚式が行われた際には11万人の見物客が集まりましたが、彼らが立ち去った後に、ペットボトルや空き缶、新聞紙や煙草の吸殻など5トンのゴミが残されていたそうです。
年間100万人の観光客が訪れる西湖周辺でも1日に40トンのゴミが回収されるといい、ボランティアがたった1.5キロの道のりで7000個あまりの吸殻を拾ったというから驚きです。重慶市でも観光客が捨てる竹串が広場に散乱して問題になっており、これらのことからどうやら中国では、旅先でのごみの投げ捨てポンは当たり前の習慣となっているようです。
ゴミだけでなく、北部の沈阻市(しんようし)などのように古い建物や寺の門柱など国の文化財に落書きが絶えないといい、中国人のマナーの悪さは海外だけかと思っていたら国内でもそのようです。
無論、昔からそうだったかといえばそうではなく、その昔の中国はその礼節のある国民性が広く諸外国に知られていたようです。
しかし、新中国成立以後は、文化大革命で徹底的に過去の文物を破壊し、儒教などの教えも否定するというかなり思い切った改革が行われました。その後も中国共産党主導で政治に重点を置きすぎた政策が続けられた結果、経済が疎かになり、発展途上国としての悲哀を長期間味わうこととなってしまいました。
現在でこそ、中国は「世界の工場」としてその繁栄を築き、オリンピックや有人宇宙飛行も成功させて、「大国」への道を歩み続けていますが、こうした繁栄を享受するちょっと前までは、こうした発展途上国としての長い時代が続いていたのです。
その結果、最低限の衣食住を満たす生活ができない者を大量に生み出しました。「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、人間生きていくのに必死になれば、文化や礼節など腹のたしにならないものなど何の価値もない、といことにもなります。そして、この貧困の時代が現在のような中国人旅行者たちの悪しきマナーを育むことになったようです。
こうした世の中では拝金主義者が増えるのはある意味仕方がないことでないことです。芸術を「金」と結びつけるのは、こうした延長戦上にあるもので、大事な「金」という「装置」を通してしか物事が見られなくなっている典型です。
それゆえ、せっかく大事なお金を使って外国旅行に行くときは、それ相当の対価(証)をほしがり、お殿様気分になりたがり、傍若無人に写真をとったり、土産物を買いあさるという話になるのかと思います。
飛行機も同じで、高い金を出した以上はそれ相応のサービスの提供を要求するわけで、それが遅れたとなれば彼等にとっては時間も大事な「金」ということで、これを返せといわんばかりの「大暴れ」という話になります。
発展途上国であったその昔は外国に行くこともできなかったものが、最近急にお金ができてようやく他国に行くことができるようになりましたが、ところが、よくよく考えてみるとそれまでの長い歴史において、中国の人達の多くは他国の文化そのものに触れる機会がなかったわけです。
ようやく外国へ行けるようになっても、学校では共産思想の保持のために外国の文化を教えることはご法度になっているため、文化といえば、かろうじて知っている自国の「中国文化」にしか関心が向かわないという風潮になるのもこのためであり、外国文化を知ろうとしないのも、ここに原因があると思われます。
ただ、振り返ってみれば、高度成長期時代の日本人もどれだけ海外へ行って恥をさらしていたかを忘れてはいけません。バブル期には欧米の不動産を買いまくり、世界中からヒンシュクを買ったのは記憶に新しいところです。
英語がわからないのをいいことに、旅先でも外国人に対して「お仕着せの親切」をごり押ししていたというところもあるのではないでしょうか。私はアメリカに都合4年ほどもいましたが、無知な日本人観光客がアメリカ人のひんしゅくを買っているのに、まったく気が付かない、といった場面を何度も目にしました。
ただ、日本人には「恥の文化」があると言われ、その後のバブル崩壊とともにその恥をじっくり思い返して反省し、現在に至っているという面があります。反省しすぎて、デフレ経済に陥り、逆にその中から抜け出せなくなってはいますが、そうした謙虚さは日本人としての誇りです。
日本もまた中国と同じく江戸期を通じて長い間外国人との関わりを絶っていましたが、明治維新によって深く外国人と交わるようになってからは一転して、彼等から学び、追い越そうとし、そのための努力を惜しみませんでした。そういう「努力家」ともいえるような国民性が心底にはあるようです。
今の中国人の人達がそうした努力をしていないとはいいません。が、少なくとも相手やその文化を尊重して「学ぶ」という姿勢が感じられないのが残念で仕方がありません。
しかし、中国のひとたちもまた、今のような豊かな時代が続けば、さらに心の中も豊かになっていくのかもしれません。こうして欧米や日本の人たちに批判される中、やはり彼等も学びを覚え、状況は少しずつ改善されていくのかもしれません。
これから、彼らにとっては黄金時代かもしれない時代を経て中国の旅行者のマナーがどのように変わっていくのか、長い目でみていきたいと思います。
そうそう、書き忘れていました。私の亡き父は、旧満州生まれで大陸育ちです。そして彼が帰りたがっていたその「祖国」を一度は訪れたいとかねてから思ってきました。その日がくるまで、中国の方のマナーが大きく改善されることを願ってやみません。