先日、広島のご神職Sさん主催の地震鎮めのお祈り会に参加したのは、伊豆西海岸の土肥でのことでした。
この土肥ですが、その昔は「土肥金山」で潤った町で、「土肥温泉」として知られています。金山を開発中の江戸時代に、街中にあった坑口から突然お湯が湧き出したのが始まりだそうで、その源泉は、発見者の「間部(まぶ)彦平」にちなんで「まぶ湯」と名づけられ、現存しています。
このまぶ湯があるのは、土肥の町の中心を流れる恋文川(なんとも洒落た名前ですが、由来は不明、別名、土肥山川)の北側、山の手にあるお寺の裏山あたり。このお寺、「安楽寺」は1534年(天文3年)に創建されたと云われている曹洞宗の古刹であり、これもまた土肥観光の一つの名所になっています
「まぶ」とは坑道を意味しているそうで、幕府の金山奉行の「大久保長安」が伊豆の金山奉行として赴任してきたとき、このお寺の裏山に坑口を開けさせたものです。その当時の安楽寺の住職は「隣仙」という名前の和尚さんでしたが、坑道を掘る鉱夫たちや土肥村の人々に大変慕われていたといいます。が、あるとき、このご住職は重い病に倒れます。
「間部彦平」という人物は、苗字が記録されているところをみると、どうやら大久保長安の部下で、金の採掘の現場主任クラスの人だったと思われます。この人物も隣仙和尚を敬仰していたとみえ、住職の治癒を願い、薬師如来に願掛けをはじめました。そして、彦平らが願掛けをはじめて21日目の夜、彦平の枕元に薬師如来が現れ、坑口を掘ってみよ、と告げられます。
彦平が言われたとおりに、坑道の入口付近を鉱夫たちに掘らせてみたところ、地中からみるみる熱いお湯が噴出してきました。このころには伊豆のあちこちで温泉がみつかっており、これに浸かると病気が治ると聞かされていた彦平は、早速、隣仙和尚にもこの湯につかってみてもらうことにします。すると、和尚の病はみるみるよくなり、もとのように元気になったということです。
これが、1611年(慶長16年)のことで、以来、村人や鉱夫だけでなく、近隣の村々からも多くの人々が湯治に訪れるようになりました。
現在、まぶ湯の傍らには「湯かけ地蔵」というお地蔵さんが据えられていて、この地蔵さんにお湯をかけると無病息災の霊験があると云われています。
土肥金山はその後、日本屈指の金山として、多くの金を産出しましたが、江戸初期の1620年ころには、早くも産出量が枯渇しはじめたため、1625年にいったん休山。そして、明治の終わりごろになって、新しい掘削技術が導入されたことから、また新な採掘がおこなわれるようになります。このころから、温泉のほうも着目されるようになり、現在の形の温泉街の開発がスタートしました。
現在、土肥には、遠浅で両側を岬に囲まれた天然の海水浴場があり、この海水浴場の背後にホテルや旅館が立ち並ぶほか、土肥の旧集落内にも共同浴場がいくつかあって、これら共同浴場のある街中にも宿泊施設が点在します。
恋文川の河口付近の左岸側には、「世界一の花時計」を中心にした「松原公園」が整備され、ここにある観光案内所のすぐそばには足湯も設けられるなど、観光には力を入れており、土肥金山として江戸時代に栄えたことから、温泉街にはそれに関連した観光名所があちこちにあります。
松原公園や町の中心を流れる恋文川沿いには、河津桜ならぬ「土肥桜」が植えられていて、2月下旬~3月上旬にはそのピンクの花で観光客の目を楽しませてくれるそうです。我々もまだ見たことがありませんが、修善寺からは近いので、来年ぜひ見に行ってみたいと思います。
土肥金山ことはじめ
土肥金山の坑道跡は土肥観光の目玉のひとつで、明治時代に閉鎖された坑道跡を改造して博物館として公開されており、江戸時代や明治時代の採掘の様子などが再現されています。
江戸時代に大久保長安らが行った金鉱開発に先立つこと50年ほど前の天正5年(1577年)に開発されたことから、「天正金鉱」とも呼ばれています。北条氏(後北条氏)の配下の富永政家という人物がおり、この手代で、市川喜三郎という人が、土肥で本格的に金山の開発を行った最初の人物だそうです。
しかし、一説によると、これをさらに遡ること200年前の1370年代、足利三代将軍、義満のころには、既に盛んに金銀が掘り出していたとも言い伝えられています。1370年代というと、室町時代の初期であり、このころ伊豆を守護領国としていたのは、室町幕府から関東管領に任命されていた畠山清国です。
この清国は初代鎌倉公方の足利基氏と仲が悪く、鎌倉を追い出されたために、その領地の伊豆へやってきて反鎌倉の旗揚げをします。しかし援助を頼んだ伊豆の諸豪族からはそっぽを向かれ、逆にかれらに攻め滅ぼされて失脚。伊豆は、小豪族がひしめく無政府状態になっていました。
しかし、そんな状況の中で誰がいったい土肥で金を採掘していたのでしょうか。
畠山清国が失脚したあと、二代目鎌倉公方、足利氏満のころには政権がようやく安定してきましたが、この鎌倉公方足利氏の傘下にあって、このころから歴史に名前がよく出てくるのが、駿河国駿河郡大森(現静岡県裾野市)より起こったという大森氏です。
駿河の国の東から箱根道に連なる交通網の拠点を押える実力者として室町幕府に認められるようになり、関所などを実質的に采配するこの地方の長者といわれていましたから、金を採掘していたのは案外とこの大森氏あたりかもしれません。が、憶測にすぎず、このころ実際に誰が金を掘って潤っていたのかは歴史的にも空白です。
その後、16世紀後半までには、伊豆は北条早雲によって平定され、土肥も北条氏の領地となったため、土肥金山も北条氏が管理していたと考えられます。しかし、1590年(天正18年)に北条氏が豊臣秀吉の小田原城攻めによって滅びると、その際、土肥だけでなく、ほかの伊豆の金山も秀吉の軍隊に蹂躙され荒廃してしまったようです。
伊豆はその後、豊臣秀吉によって関東地方へ移封された徳川家康の知行地となり、このため土肥金山は家康の管理下に入ります。
そして、やがて豊臣家に反旗を翻し、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、疲弊した徳川家の財政を賄うために積極的に金山の開発を進めるようになります。
1601年(慶長6年)、家康の命を受けた家臣の彦坂元成という人物が、伊豆の金山奉行を拝命しました。しかし、ぼんくらだったらしく、鉱山開発には着手したものの、あまり金を産出できず、五年後の1606年(慶長11年)に罷免され、子供や弟とともに改易されて没落しています。
大久保長安
そこで、次に家康が土肥金山の開発者として金山奉行に任命したのが、大久保石見守長安です。大久保長安は1606年(慶長11年)に全国の金山を司る金山奉行を拝命するとともに、伊豆奉行も拝命して本格的に伊豆金山の開発に取り組むことになります。
長安は、もともと甲州武田氏配下の猿楽師、「大蔵太夫新蔵」という人の次男で、1545年(天文15年)に生まれ、幼名を籐十郎といいました。父の新蔵は猿楽師としてだけでなく、武士としても優秀な人間だったらしく、数々の戦場で武勲をあげ、その功により信玄の家臣の土屋右衛門尉直村から土屋の姓を与えられ、土屋新之丞と名乗るようになります。
次男の藤十郎も蔵前衆(金銀・米穀や税を司る役人)として取り立てられ、やがて武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事するようになります。
その後、織田信長・家康連合軍に武田氏が攻め滅ぼされ、父の新之丞は長篠の戦で亡くなります。藤十郎は、武田家が滅亡する少し前から、信玄の息子の勝頼に疎まれるようになっており、長篠の戦があったころには武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいました。
家康が甲州武田家の征伐に向かったとき、奇しくもその逗留の仮館を建設したのが藤十郎だったといわれています。この時、家康がその館で藤十郎の作事をみて、その才能をひと目で見抜き、仕官をするように語りかけたそうです。
また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一が、藤十郎は信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれているので重用されてはいかが、と家康に進言したため、家康もその気になって彼を召し抱えるようになったのだともいわれています。
いずれにせよ、藤十郎は天下人の家康の目にも止まるような非常に目端の利く青年であったようです。さらに家康に推挙され、その重臣、「大久保忠隣(ただちか)」に仕えることになります。忠隣は、その後二代将軍秀忠を支えた重臣として歴史にその名前を刻まれる人物です。
藤十郎はその大久保にも認められるようになり、やがて主人の大久保の姓を許されて大久保十兵衛長安と名乗るようになり、忠隣の懐刀として活躍するようになっていきます。
1582年(天正10年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀に反旗を翻されて死去すると、信長の領地であった甲斐は、事実上、家康の領地となりました。しかしこの当時の甲斐国は、武田家が滅亡したあとの混乱がまだあとを引いており、治世は乱れに乱れていました。
そこで家康は、側近の本多正信と伊奈忠次を所務方に任じ、甲斐国の内政再建を命じました。しかし、このとき実際に所務方として実務に携わり、実質の再建を行なったのは長安であるといわれています。長安は甲府市内を流れる、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発に尽力するとともに、金山の開発も行い、わずか数年で甲斐国の内政を再建したそうです。
こうした功もあり、1603年(慶長8年)、家康が将軍に任命されると、長安も従五位下、石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられるとともに、以後、大久保石見守長安と名乗るようになります。
さらに同じ年の7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)にまで列せられます。
そして、1606年(慶長11年)、ついに長安は、金山奉行兼、伊豆奉行に任じられ、全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されるなど、幕府きっての実力者に上り詰めるのです。長安58才のころのことです。
長安は甲州で金山の開発に携わっていた経験から、鉱山の知識が豊富で、西洋から学んだ最新の採掘法やアマルガム法という、最新の製錬技術なども駆使して従来の鉱山技術を一新し、これまでにないほど大量の金を生み出すことに成功します(この項、長くなりそうなので、明日へ続けます……)。