そうだ!良いことしよう!

今日20日は彼岸の入りだそうです。

「彼岸」とは、そもそも煩悩を脱した悟りの境地のことをさすのだそうですが、煩悩や迷いに満ちたこの世を「此岸」(しがん)、つまり「こちらの側の岸」と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」というのだとか。つまりは、彼岸とは「あの世」の意味でもあります。

春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間は、「お彼岸週間」ということでこれは彼岸に「会」をつけて「彼岸会(ひがんえ)」と呼び、仏教ではこの期間にいろいろ行われる仏事のことをさします。

具体的には、彼岸会の中日、つまり秋なら23日に先祖に感謝する行事を行い、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目、「六波羅蜜」を「菩薩」が1日に1つずつ修めるのだそうです。

六波羅蜜ってなんじゃ?菩薩?ということなのですが、その前にまず、仏教における「菩薩」とは何かについて説明しておきましょう。

仏教においては、成仏を求める修行者、つまりは仏教徒のことを「菩薩」と呼びます。

また、成仏することは「如来」になるといいます。如来とは、仏教の始祖のブッダの別名です。つまり、仏教的にいえば、仏様になるということは、如来になるということ。「○○如来」とかいう仏像がたくさん作られていますが、これらの像はそもそもは仏様、つまりはブッダのお姿を現したものということになります。

ということで、「菩薩」は一般仏教徒で、如来=仏様になれるよう努力している人たちのことを意味します。

このようにもともと菩薩といえば、仏教徒そのもののことを言っていたのですが、時代が経つにつれて、修行をしている仏教徒の中から、人々と共に歩み、成仏できるよう教えに導く人のことを「菩薩」というようになりました。

いわば仏教徒のリーダー的な存在を菩薩と呼ぶようになったわけであり、仏教徒の中にはこのリーダーを崇拝する像を造り、これを崇める一派も現れるようになりました。

このため、こうしたリーダーとしての「菩薩様」の仏像が造られましたが、菩薩とは本来は人間そのもののことを指しますから、数多く造られている菩薩像は人間の本質そのものの姿を現したもの、ということにもなります。

さて、次です。六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、成仏を目指す仏教徒、つまりは如来になることを目指す「菩薩」が修めなくてはならない、6つのトレーニングメニューのことで、「六度(ろくど)」とも呼ばれます。

「波羅蜜」は、サンスクリット語の“ Pāramitā ”が語源という説もあり、これは、「努力に努力を重ねることで、極みに達することができる」というような意味で使われていたようです。

この言葉が日本に輸入されたとき、なんかいい漢字がないかいな、ということで当て字に使われたのが「波羅蜜」のようで、別に甘い蜜かなんかが語源ということではなさそうです。

ちなみに、今大河ドラマで放映されている「平清盛」の晩年の拠点が京都の「六波羅」ですが、この地名は、その昔ここに天台宗空也派の創始者の「空也」が「西光寺」というお寺を建設し、その後継者が後年、これを「六波羅密寺」と呼んだことに由来するそうです。なので、「六波羅」と聞くとなにやら強烈な印象がありますが、この地名そのものにそれほど強い宗教性はないみたいです。

さて、「菩薩」は、この六つの波羅蜜を実践することで、「徳」を積み、そのことによって、遠い未来の生において「悟り」を開くことができるとされています。その実践メニューは以下の六つです

1施波羅蜜 別名、檀那(だんな)といいます。語源は「ダーナ」。「分け与える」という意味で、英語のdonate(寄付する)は、これから来ているそうです。具体的には、自分の財を喜びをもって分け与えることです。

後年、奉公人が主人を呼ぶ言葉として使われるようになり、さらに結婚後に女性がその配偶者を呼ぶ言葉としても定着しました。旦那さんは、奥さんに無償で財産を分け与えなければいけないんですね。

2持戒波羅蜜 別名、尸羅(しら)。語源は「シーラ」で、これは、「戒律を守ること」。出家前の在家の場合は五戒を守ることで、五戒とは、

不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物を殺してはいけない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 他人のものを盗んではいけない。
不邪淫戒(ふじゃいんかい) 自分の恋人・配偶者以外と交わってはいけない(不倫してはいけない)。
不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではいけない

の五つです。出家して坊さんになった場合には、仏教で決められた掟(律)を守ることを指します。最初の四つは良いとしても、五つ目のお酒を飲んではいけない、は守れそうもないですね~。料理酒ならいいんでしょうか。

3忍辱波羅蜜 羼提(せんだい)。語源の、「クシャーンティ」は、耐え忍ぶこと。あるいは怒りを捨てること(慈悲)。まあ、一週間ぐらいなら、耐ええ偲び、怒りを治めることはできるかも。

4精進波羅蜜 別名毘梨耶(びりや)。「ヴィーリヤ」は、努力すること。私は、いつも努力してます。

5禅定波羅蜜 禅那(ぜんな)。「ディヤーナ」は、特定の対象に集中して、心乱さず安定させること。そのためには、いろんな修業をする必要がありますが、たとえば四禅、四無色定、九次第定、百八三昧次などなどがあります。

このうち、一番初歩的な修業が、四禅と言われますが、それは、次のような境地をさします。

一禅……欲を捨てることができるが、まだ覚・観がある状態
二禅……覚・観を捨てることができるが、まだ喜・楽がある状態
三禅……喜を捨てることができるが、まだ楽がある状態
四禅……楽を捨てることに成功し、「不苦不楽」になった状態

一番やさしい修業でこれですから、四無色定、九次第定、百八三昧次なんてのは、難しすぎてとても「在家」では成し遂げられそうもありません。ちなみに、四無色定は、空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定なのだそうで、さっぱりわかりませんが、要は無の境地を目指す修業のようです。

いずれにせよ、「在家」でこのメニューをこなすのは無理ですね。だから、お坊さんになる人は、「出家」してこれらの修業に専念するのです。お彼岸中にこの境地に至るのはどだい無理です。やめておきましょう。

6智慧波羅蜜 般若(はんにゃ)。語源は、「プラジュニャー」だそうですが、なんでこれが「般若」になったのかよくわかりません。最後の「ニャー」のところはなんとなくわかりますが。

これは、「物事をありのままに観察する」だそうで、「観」によって、思考に頼らず、人間が持っている本質的な智慧を発揮させることです。考えすぎず、本能にまかせて事に臨みなさい、といことでしょうか。これはなんとなくできそうですね。

以上が六波羅蜜です。この六つをお彼岸の中日を除いた6日間にそれぞれこなしていくのが「彼岸会」ということなのですがこの習慣、実は日本独自のものなのだそうです。

彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているそうで、日本に限らず、ほかの国でも太陽信仰は原始宗教として古来からみられるものです。

平安時代に編纂された歴史書「日本後紀」によれば、日本の場合、806年(大同元年)に、崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」行事が行われたそうで、これが日本で初めて行われた「彼岸会」とされています。

しかし、もともとインドで仏教が発祥したときには、こうした習慣はなく「生を終えた後の世界を願う」という単純な思想でした。それがシルクロードを経て日本に伝わったあと、より具体的になり、「心に極楽浄土を思い描き、浄土に生まれ変われることを願う」という日本独自の「浄土思想」に変わったのが、ちょうどこの最初の彼岸会が行われたころのことのようです。

この「彼岸会」の行事も、ブッダが形づくった原始的な仏教思想に結びつけて無理やり説明されるようになったものらしく、その証拠に上述した六波羅蜜は、浄土思想で信じられている極楽浄土へ行くための修業というふうに位置づけられています。

浄土思想における極楽浄土というのは、阿弥陀如来が治めている国のことで、そもそもは西方の遙か彼方にあると考えられており、「西方浄土」とも呼ばれていました。

春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。なので、西方に沈む太陽を礼拝すれば、はるかかなたにある極楽浄土に行けるのではないか、ということで始まったのが「日願」であり、やがてはこれが「日が沈む彼の地」を意味する「彼岸」に変わっていったのだと思われます。

しかし、皆が皆、六波羅蜜にあるような大修行を毎年二回もやっていたのでは体が持ちません。そこで、「彼の地」へ行くためには、仏を称える経文を読めばいい、というふうに親鸞や日蓮といった大宗教家たちが工夫し、より単純化したものが「念仏」です。

出家して大変な修業をするよりも、それを読み上げれば浄土に行けるということで、やがて在家のままの一般市民に広く浸透していきました。

さて、以上がお彼岸が持つ意味でした。えー、それじゃあ、もともと仏教にない行事なんじゃん。そんならお彼岸なんてやる必要はないか~、と考えるのは早計です。

いつの時代も人として、生を終えた後の世界への関心の高いことは同じであり、かつて生を終えていった祖先を供養する行事であるこのお彼岸に対する「思い」というものが、1200年以上もの間、日本人の魂の中に蓄積されているのです。

その思いは、今や亡くなってしまってあの世にあるご先祖の魂の中にも蓄積されてきているはずです。ですから、単に昔の風習だからといってこれを切り捨てるのではなく、彼岸会をその先祖の思いと自分の思いをつなげることのできる「タイムトンネル」と考え、先祖を敬う大事な一週間としてとらえてみてはどうでしょうか。

とはいえ、さすがに六波羅蜜を実践するのは厳しいかと思いますので、昔から日本ではお彼岸に供え物として作られる定番、「おはぎ」など作り、ご先祖にお供えしましょう。

最近では、おはぎって何?という若い人もいるみたいですが、炊いたもち米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだこのお菓子を、花瓶にさしたすすきを眺めながら月夜の夜に食べる、というのは今もやはり風情があります。

ちなみに、「おはぎ」と「ぼたもち」は同じものだそうで、これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来しているそうです。

日蓮宗の始祖、日蓮さんによれば、彼岸会というのは、善行・悪行とも、どちらとも過大な果報を生ずる特別な期間なのだそうです。いいことをやればもっといいことが起こるし、悪いことをすると、もっと悪いことが起こる。

ですから、お彼岸の間は、毎日おはぎをお供えし(ときにそれをつまみに酒でも飲みながら)、できるだけ善行に励みましょう。お彼岸明けにはきっといいことが倍返しになって帰ってくると思いますよ。