河津の一日 ~河津町


ここ数日、暖かい日が続きます。我が家の庭先の梅の花も3~4輪が花開いたので、おそらく修善寺梅林の梅も満開なのではないでしょうか。今日か明日、行ってみたいと思います。

修善寺虹の郷のほうも気にはなっているのですが、こちらはあまり梅の木はないと聞いており、見事なのはこのあとすぐに咲く桜と、4月中旬ころから咲き誇るというシャクナゲの群落ということです。

このほか、狩野川沿いの桜や韮山城址の桜などももうすぐだと思います。去年は引越し直後のゴタゴタでこうした花の名所を落ち着いてみることもできませんでしたが、今年はじっくり見て回ろうと思っています。

さて先日、忙しい中をぬって、河津町まで桜を見に行ってきました。

ここからは通常だと一時間半ほどの行程ですが、平日だというのに141号は結構混んでおり、途中何度か滞りがありました。おそらく、我々と同じく河津へ行く車と、あとは伊豆西海岸のあちこちで今盛りという、マーガレットや菜の花を見に行く車による混雑だったのでしょう。

天城峠を抜け、ループ橋を回ってそろそろ河津町に近づこうとすると…… 思ったとおり町の入口付近から渋滞が始まっており、ああ、こりゃいかん、ということで、とりあえず迂回路を使って下田まで出、昼食を済ましてから改めて河津町まで北上することにしました。

下田での昼食は、「ペリーロード」沿いにある、「ページワン」さんで頂きました。去年のあじさい祭りのときにもここでパスタを食べましたが、ここのズワイガニのパスタは絶品でした!

今回は別のお店に行く予定だったのですが、タエさんお目あてのこのお店がご店主の都合で休憩中だったために入れず、再びページワンさんに行くことに……

タエさんは、トマトのボロネーゼ、私が今回頂いたパスタは「4種のチーズのショートパスタ」というものでしたが、これがまた絶品で、とてもおいしかったです。

今回は写真を撮らなかったのでこのおいしそうなパスタをご紹介できませんが、下田へ行かれる方、ぜひ立ち寄ってみてください。我々と同年齢?ぐらいのご夫婦がやっておられて、お客さまへの対応もとてもエレガント。小さなブティックも兼ねていて、なかなかしゃれたものも置かれています。女性向きのものが多いようですが……

食事後は、下田を出て再び河津へ戻ることにしました。海岸沿いを北上するルートで海側から街中へ侵入しましたが、今度は目立った混雑ぶりもなく、スムースに駐車場まで辿り着きました。

今、河津町では「河津桜祭り」の真っ最中で、この期間中は、町内のあちこちで料金一律500円の駐車場サービスをやっていて、どこへクルマを止めても同じ料金です。ただ、我々が行ったときには、平日だったにもかかわらず、駅に近い駐車場などでは既に満杯状態でした。

とはいえ、ちょうど一台空いたスペースに、滑り込むことができ、ここはメイン会場からすぐ近くにある駐車場でとてもラッキーでした。すぐ目の前には伊豆急行、「河津駅」も。ここから河津川沿いの桜並木まで300mほどの「参道」があるのですが、この道沿いには出店がびっしりと並んですごい熱気です。

人の数もかなりのもので、年末のアメ横ほどひどくはありませんでしたが、伊豆の南の端のちいさな町にこれほどの人が集まるのか、というほどの人出です。ちなみに我々が行ったのは水曜日でしたが、これが土日ともなるともっとすごいのでしょう。今日、土曜日あたりは更にものすごいことになっているに違いありません。

そして、川沿いに出てようやく桜を見ることができましたが、これはもう……見事としか言いようがありません。

河津川を伊豆急の線路がまたぐあたりから上流3kmほどの川沿いには、びっしりと見事なピンク色の河津桜が並び、サクラであるため花の香などはしないのですが、川沿いはまるで「桜色が匂うような」と書くと、少しはその雰囲気が伝わるでしょうか。

お天気が良かったせいもあり、川沿いにもびっしり並んだ出店の間を縫うようにしつつ、あちこちで写真を撮りあってはうれしそうに笑う人達の表情は、これもまたほんのりとピンク色に染まっているような気さえします。

我々二人は結局、最上流まで行き、ここからまた引き返して帰ってきましたが、この間、何枚写真を撮ったでしょう。やはり有名な桜の名所だけのことはあります。どこを撮っても絵になるとはこのことです。

ただ、惜しむらくは、うまく撮らないとどうしても他の観光客が写り込んでしまうこと。仕方のないことではありますが、これがいやならば今度は早朝にでもやってきて、人がほとんどいない中で撮影するしかありません。今年はともかく、来年はこれにチャレンジしてみようかな、と帰りながら思ったものです。

……と、ここでブログを終えてしまうのも少々名残惜しいので、もう少しこの河津町のこ
とについて書いておきましょう。

地図を見ればわかることではありますが、河津町は、伊豆半島の南端、下田から北東に十数キロ行ったところにある「今井浜」というところから山側に入ったところにあります。ここから天城山に向かって国道が通り、この道路に並行して天城山南東の山稜を源流とする河津川が流れており、この川沿いにできた平地に形成された細長い町です。

江戸時代末期には、およそ15の村々があったそうで、この村々を領有していたのは当初沼津藩の水野氏と掛川藩の太田氏でした。しかし、1868年(慶応4年)に両藩とも移封となり、幕府の直轄地になりました。その理由はよくわかりませんが、幕末に下田が開港され、一躍この地域が国際的な要地になったためではないかと思われます。

明治以後、幕領地であった土地はすべて県地となり、韮山県となりますが、1871年(明治4年)に伊豆はすべて足柄県の管轄になったのに合わせて、河津も足柄県所属となり、そして、1876年(明治9年)に足柄県が廃されたとき、晴れて静岡県に編入されました。

現在の人口は約8000人あまりであり、山間にあって耕作できる土地も限られることから農業はあまりさかんではなく、工業もいわんやであり、やはり最も大きな収入源は観光業のようです。その目玉はもちろん、河津桜ですが、このほかにも以前このブログでも紹介した「河津バガデル公園」があり、ここはバラの名所です。

このほかにも「峰温泉」という温泉街があり、ここには間欠泉があって、「大噴湯」と呼ばれて人気のようです。我々もまだ見にいったことがないので、今度またじっくり見学しに行こうと思います。

このほか、河津川の上流には、「河津七滝(かわづななだる)」と呼ばれる景勝地があり、その名の通り、七つの滝があるようですが、こちらも我々はまだ未踏破。なかなかのものとのことなので、今年こそぜひ探訪してみたいところです。

こうしてみると、小さい町ながら、「観光地」と呼ぶにふさわしい、たくさんの見どころがあり、下田と伊豆高原の間に挟まれて目立たないながらも、なかなかの人気もあるようで、「隠れ名所」とでもいうのでしょうか、ここだけを目的に遊びにきてもそれなりに楽しめそうです。みなさんもいかがでしょうか。

町のHPによると、川端康成の小説「伊豆の踊り子」にもこの町が出てくるそうで、また河津町の東の端にある前述の今井浜は、三島由紀夫の短編小説「真夏の死」の舞台にもなったということです。

このほか、井伏鱒二、梶井基次郎、石坂洋次郎、西村京太郎などもここを舞台にした小説を書いているということで、これら作家さんのゆかりの地だけを訪ねて歩くのもまた面白いかも。

このほか、ウィキペディアには、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)という人が、「かっぱの甕」という作品を残している、と書いてあったので調べてみたのですが事実かどうかよくわかりませんでした。

種田山頭火とも親交のある俳人だったようですが、俳句を詠むために河津の町を訪れたときに地元の人から聞いた話を随筆にでも残したのかもしれません。

気になったのでさらに調べてみたところ、この「かっぱのかめ」というのは、河津駅からほど近いところにある栖足寺(せいそくじ)というお寺に伝わる話のようです。

1319年(元応元年)草創と伝わる禅寺ということで、かなりの歴史を持っています。大きなお寺のようですが、調べてみたところとくに歴史的に重要なエピソードはなさそうです。今回は訪問しなかったのでよくわかりませんが、こちらも案外と隠れた名所かもしれません。

このお寺に大事に保管されているのが、その名も「河童のかめ」と呼ばれる古い甕であり、甕自体は、古瀬戸風の黒褐色の焼き物で、底に、「祖母懐加藤?右門」の記銘があるということです。江戸時代の中頃の作といわれることから、この話も江戸時代ごろから伝わるものなのでしょう。

それはこんなはなしです。

栖足寺のすぐ近くそばには河津川が流れています。寺にほど近いところの淵は裏門(うらもん)と呼ばれ、昔からかっぱが棲んでいるという言い伝えがありました。

その日はお寺の田植えの日でした。大勢の檀家衆が、お寺が持っている広い寺田の田植えを手伝いましたが、大人数で田植えをしたので、早めに終りました。田植えの終わった村人たちは、体や馬を洗うために「裏門」にやってきて、にぎやかにどろを落としていました。

そのとき、一頭の馬が何かにおどろいたのか、一声いななくと土手に飛び上がりました。村人がハイドウドウ……といくらなだめても暴れるので、何だろうと思ってよく見ると、おやっ? 馬の尻尾に河童が取り付いているではありませんか!

これを見た村人たちは、「ウチのせがれが、水浴びしたときにいたずらした河童だ」「ウチの娘も川に引っ張り込まれた」などと、口々に叫びながら、鍬や棒を手に持ってきて、大勢でこの河童に打ち掛かって殺そうとしはじめました。

そのとき、この騒ぎを聞きつけて、和尚さんがお寺の中から飛び出てきました。村人たちが河童にひどいことをしているのを見た和尚さんは、「めでたい寺の田植えの日じゃ、殺生はいかん。今日のところはいのちだけは助けてやってくれまいか。」と村人たちに頼みました。

村の檀家衆は、「こやつは、馬を脅したり、子供に悪さをする悪い奴ですよ」とにくにくしげに言いながら、ふたたび鍬や棒を振り挙げましたが、和尚さんは、まあまあと手でこれを制しながら、村人たちに頭を下げました。「わしに免じて、河童を殺すのを止めてくれんか。これ、この通りじゃ。」

そして、河童に向かってこういいました。「こりゃ、河童、よく聞け!これは日ごろのおまえのいたずらの報いじゃ。これからは悪いことをしてはいかん。この川を出ていき、どこか人の邪魔にならないような遠くへ行って暮らせ!」

これを聞いた河童は聞いているのかいないのか、とにかく命を助けてもらったので、うれしそうに淵にするりと潜りこむとすぐに姿を消していきました。

村人たちは、「あぁぁ、和尚さんのおっしゃることだで、仕方ないわい。じゃあ、庫裏(くり)で、お寺さんのご馳走になるとしようか……」と、その後は夜更けまで酒を飲んだり唄を歌ったりして、賑やかに村人の宴が続いていきました。

……そして、深夜になったころのころ。和尚さんはうとうとしながらも、“今日は、河童の命を助けてやって、よいことをした。”と思い返して微笑みながら、ようやく眠りかけようとしていました。

そのときのことです。雨戸がとんとん、とんとんと鳴ります。

“おかしいな、風も吹いている様子もないが……“と、また眠ろうとすると、また、とんとん、とんとん、と叩く音がします。

「いったい誰じゃ!こんな夜更けに!」と和尚さんが飛び起きて引き戸をガラリと開けると、広いお寺の庭の片隅に誰かがしょんぼりとたたずんでいました。

よくみると、その姿は頭もひげも真っ白い老人で、和尚さんが「誰じゃ、こんな時間に!」と声をあらげると、その男が申し訳なさそうに口を開きました……

……「こんな夜更けにお騒がせして申し訳ありません。私は今日の昼間、命を助けていただいたあの河童です。」

驚いた和尚さんですが、「いったいその河童がいまごろ何しに来たのじゃ?」とおそるおそる河童に尋ねました。

すると河童は後ろ手に持っていたものを取り出し、和尚さんに差し出しました。そして、

「私はこれから遠い土地へ行き、今後はもう二度と悪さをいたしません。助けていただいたお礼にと、このかっぱの宝瓶を持って参りましたのでどうぞお収めください」と言いながら大きな黒ずんだ甕を差出しました。

和尚さんは、河童の申し出をいぶかりながらも内心では、“ふうん、動物といえども気持ちがあるもんじゃな。”と、感心しながら河童が差し出す甕をだまって受け取りました。

甕を和尚さんに渡した河童は、安心したのか、と同時に煙のように消えてしまい、和尚さんの手には河童の残したずしりと重い甕だけが残りました。

“不思議なこともあるもんじゃわい”と和尚さんは思いつつも、この甕を床の間に飾り、それからようやく訪れた長い眠りにつきました。

……ところが、さらに数時間たった朝方のこと、和尚さんは、どこかからチョロチョロ、チョロチョロ、サラサラ、サラサラという川の流れるような音がすることに気付きます。

…………? とそば耳を立ててみると、どうやらその音はさきほど河童が持ってきた甕の中から聞こえるようです。“

“おやおや? さっきの甕の中から聞こえるようだぞ!?”……と和尚さんがさらに耳を甕につけて聞くと、さらに水の音が大きく聞こえます。

“もしかしたら、これは河童が泳いでいる音かもしれん!”と思ってさらに音を聞いていると、河童の声のような音も聞こえてきました。そして、それはどうやら「この音の続く限りお寺も村も栄えますよ」と言っているように和尚さんには聞こえました。

和尚さんは翌朝目覚めると、“村のみなにもこれを聞かせてやろう”と思い、檀家衆に知らせたところ、大勢の人が集まり、村人たちもまた、サラサラ、チョロチョロという川の音を聞き取ることができました。

このためこの甕は村中の評判になり、また「甕の中で、河童が泳いでいるそうだ!」とやがて他の村々にも評判が伝わり、これをひと目みようと大勢の人がおしかけるようになりました。

こうして、「河童のかめ」は栖足寺の寺宝として大切にされるようになり、今でもかめの口に耳を当てるとすんだ川の音が聞こえてくるということです……

と、こういうお話です。甕の中に黄金や小判が入っているというわけでもなく、ただの水の音がするだけ、というのが素朴なかんじで、私はなかなか面白いし、いい話だなと思いましたがみなさんはいかがでしょうか。

この河童のかめのお話の伝わる栖足寺だけでなく、河津町にはこのほかにも「杉桙別命神社(すぎほこわけのみことじんじゃ)」というたいそう古い神社があります。

社伝によれば、かなりの古代から鎮座していたようですが、和銅年間(708~15年)ころに再建され、1193年(建久4年)には源頼朝がこれを更に再建したといい、その後も洪水や火事で何度も社殿が失われたものを時の権力者が建て直してきました。

現在のものは、1538年(天文7年)あった火事でやはり社殿が焼け、小さな祠だけになっていたものを、1544年(天文13年)にこのころの国守で代官であった「清水康英」らが再建したものだそうです。

古くは「桙別明神」、「木野大明神」、「来宮大明神」、「木野神社」、「木之神社」、「鬼崎(きのさき)明神」などと呼ばれており、現在でも「河津来宮神社(かわずきのみやじんじゃ)」と通称で呼ばれています。

が、本当の名前は、前述のとおり「杉桙別命神社」であり、「来宮」、すなわち「木の宮」ということで、木にまつわる神様が祭神という説もあるようです。

この神社には、以前のブログでとりあげた「伊豆の七不思議」のひとつである「鳥精進酒精進(とりしょうじんさけしょうじん)」という神事が伝承されていて、これは、年末の12月17日から23日の間には、鳥や酒を口にしてはいけないというものです。

これは、この神社の祭り神であり、大酒飲みだった「杉桙別命(すぎほこわけのみこと)」が、ある日酒に寄って野原で眠ってしまっていたところに、「野火」が起こり、ミコトがあやうく焼死しそうになったとき、小鳥の大群が河津川へ飛び込み、羽に付いた水を運んできてまたたくまにこの野火を消火したというエピソードにちなむお祭りです。

この鳥たちのおかげで一命を取り留めた、ということで杉桙別命はその後、大酒を慎むようになり、また年末のこの時期、飲酒とともに鳥肉、そして鳥が生む卵も食べることを禁じたといいます。

・鳥を食べない
・卵も食べない
・お酒を飲まない

ということで、「鳥精進酒精進」と呼ばれるようになり、その神事が現在までも続けられているというもの。ちなみに、この禁を破ると火の災いに遭うと信じられており、河津の町では、いまでも、小学校の給食のメニューから鶏肉・卵が外されるなど風習が守られているそうです。

この来宮神社の境内の本殿奥には、樹高約24m、幹周14mの巨大な楠の木があります。昭和初期の時点で樹齢1000年以上と推定されたそうで、昭和11年(1936年)には国の天然記念物に指定され、現在に至るまで「来宮様の大クス」と呼ばれ、神木として崇められてきました。

かつて河津には7本の大楠があり、明治時代中頃まで河津郷七抱七楠(ななかかえななくす)と呼ばれていたものが、現存しているのはこの1本だけになってしまったということ。

しかし、境内の参道入口付近と、拝殿右前にもかなり大きな楠の大木があり、とくにこの参道入り口の楠の木は「となりのトトロ」のモデルになったのではないかと思われるような大きな「ムロ」があります。

これら古い楠木に囲まれた境内は静けさが漂い、神社好きの私にとっては、たまらなく心地よい空間でした。河津観光の目玉はこんなところにもあったのか、とこれまた大きな穴場をみつけてずいぶん得をしたような気分にさせてくれたものです。

ちなみに、熱海市にも同名の「来宮神社」という神社があり、こちらは「阿豆佐和気神社」というのが本名のようで、ここにも有名な天然記念物の大楠があるということです。こちらも今度ぜひ行ってみたいと思います。

そんなかんなで、夕方かなり遅くまで河津の町を散策し、その日は大満足で修善寺に帰ったのは言うまでもありません。

おそらく今日いまごろは、土曜日ということもあって河津の町はこの日以上に賑わっているに違いありません。

我々が行ったときには、まだ全然花は散っていませんでしたが、これからは次第に散っていくことでしょう。しかし、おそらくはまだ一週間くらいは楽しめるのではないでしょうか。

河津の桜が咲くのを皮切りにようやく春が訪れたような感のある今日この頃。みなさんもこの週末、河津桜を見に、伊豆へやってきませんか?