オニオニ

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1300年以上前の今日、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が伊豆大島に流罪されたといいます。

飛鳥時代から奈良時代にかけての699年(文武天皇3年)のことであり、その理由は、天皇に対して謀叛を企んでいると弟子に讒訴されたためでした。

役行者は別名「役小角(えんのおず)」とも言い、修験道者ですが、呪術者でもあり、実在の人物だと伝えられています。

現在は「やく」「えき」と読むこの「役」をなぜ「えん」と呼ぶのか調べてみましたが、よくわかりません。中国地方では峠のことを、「たお」と呼ぶことがあり、この苗字を持っている人もたくさんいます。役氏は現在の京都の賀茂を本拠とする賀茂氏から出た氏族だということなので、この地方の方言から出てきたのかもしれません、

また、「役」は、律令制度下では歳役(さいえき)・雑徭(ぞうよう)をさす語であり、これはようするに雑役のことです。「役」は当初「えだち」と発音していたようですが、やがては「えの」となり、「役」の字そのものが労役を提供する意味となり、職業として律令として制度化されるようになったと考えられています。

やがて、これからこうした下働きをする人々を「役民(えのたみ)」と呼び、この役民を統括する役人の職名は、「役君(えのきみ)」と呼ぶようになりました。

役小角の先祖は、代々役民を管掌する役君を世襲する一族であったために、「役」の字をもって名跡としたといわれています。なので、「えのきみ」の「えの」が長い間に「えん」と読むように変わっていったのではないか、というのが私の推測です。

役小角は、そんな賀茂の役君を司る家柄に、舒明天皇6年(634年)に生まれたとされます。生家のあった場所もある程度わかっており、大和国葛城上郡茅原だそうで、これは現在の奈良市の南に位置する、御所市茅原になります。そして生誕の地とされる場所には、吉祥草寺というお寺が建立されています。

17歳の時に奈良の元興寺で孔雀明王の呪術を学びました。南都七大寺の1つに数えられる寺院で、奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院でした。

孔雀明王の呪法というのは、孔雀は害虫やコブラなどの毒蛇を食べることから、そこから出てきた法術のようです。毒を持つ生物を食べる=人間の煩悩の象徴である三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らう、すなわち「魔を喰らう」という意味の「除魔法」が確立されました。また雨を予知する祈雨法(雨乞い)などもその術のひとつです。

孔雀明王像は、このクジャクを具象化した仏像であり、「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされて信仰の対象となっており、これを御本尊とする元興寺で役小角はこの呪術を学んだのでしょう。

また、弘法大師を祖とする真言密教においては、この孔雀経法による祈願は鎮護国家の大法とされ最も重要視されたものでした。従って役小角がこれを学んだということは、将来的にも王道を行く青年と目されていたのでしょう。

その後、現在の金剛山である、大和葛城山で山岳修行を行い、熊野の山にも分け入って大峰の山々で修行を重ね、さらに吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いたとされます。金剛大権現とは、「権(仮・かり)の姿で現れた神仏」という意味で、仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括している神様です。

それを体得したということは、すなわち神仏並の力を得たということになります。しかし、そういう力を得た、と口で言っただけでは信用されないため、役小角はその力をわかりやすく人々に説明するために「金剛蔵王大権現像」を作りました。そしてこの像はそれ以後、修験道の御本尊とされるようになり、各地で同様の像がつくられるようになりました。

激しい忿怒相で、怒髪天を衝き、右手と右脚を高く上げ、左手は腰に当てるのを通例とします。代表作として、鳥取県・三仏寺奥院の本尊像(平安時代、重文)などがあります。

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こうして奥義を会得した役小角は、20代の頃その術を用いて、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説もあります。また、その名が高まるとともに、弟子もたくさんでき、その中には、のちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である「典薬頭」に任ぜられた韓国広足(からくにのひろたり)がいました。

広足は小角を師と仰いでその呪術を学び、その術を持って宮内省に属する医療・調薬を担当する典薬寮のトップにまでなりました。が、後に役小角の才能をねたんで、天皇に人々を言葉で惑わしていると讒言しました。また、天皇に対して謀反の心があると告げ口したとも言われ、これによって役小角は伊豆大島に流罪となりました。

しかし、2年後の大宝元年(701年)には大赦があり、郷里の大和茅原に帰りましたが、その年に、現在の大阪府豊能地域に位置する天上ヶ岳において修業をしている際に、享年68で亡くなったと伝えられています。

その死後、中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役小角の伝承を含んだ縁起や教義書が成立し、「役行者本記」という小角の伝記まで現れました。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっています。

役小角は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたといいます。伊豆大島に流されていたとき、島では人々は口々に「小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせている」と噂しました。また、鬼神たちが命令に従わないときには呪で縛ったという噂も立ちました。

その死後100年以上経ったあとの弘仁年間(822年とされる)に書かれた「日本霊異記」という随筆では、役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(うばそく、僧ではない在家の信者)として現れます。

この中でも役小角は孔雀王呪経の呪法を修めたとされており、鬼神を自在に操りつつ、雲に乗って仙人と遊んでいた、と書かれています。そんな中のある時、役小角は、ちょいとした遊び心で、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとし、その一人である「一言主」も徴用しました。

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一言主(ひとことぬし)は、能の演目「葛城」では、女神とされています。460年(雄略天皇4年)ころの記録では、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣をまとうという、天皇にも勝ると劣らない恰好で向かいの尾根を歩いている一言主をみつけた、とされます。

雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えたといい、天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせ、この「一言主神」に差し上げたといいます。

しかし、これより260年を経た720年に書かれた「日本書紀」では、雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じですが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっています。

さらに上の「日本霊異記」では、一言主は役行者に使役される神にまで地位が低下しているわけで、この時代にはもう神様視されていませんでした。

葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思いたった役小角は、一言主も動員してこれを実現しようとしましたが、彼女は自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働きませんでした。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てたといいます。

そして、この「日本霊異記」では、役小角を讒言した人物こそ、この一言主としています。実際には、上述のように男性の韓国広足が、謀叛を企んでいると讒訴した張本人のわけなのですが、100年を経たこの時代には役小角は神格化されおり、広足もまた神に祭り上げられましたが、その地位は低く、しかも女性化されたわけです。

この話においても、役行者は朝廷によって捕縛されます。ただ、彼の母親を人質にされたため、仕方なく捕縛されて伊豆大島へと流刑になったと変更されている点など、脚色も多くみられるようです。

このほかにも、伊豆大島に流された役小角は数々の奇蹟を起こしたとしており、たとえば昼間は伊豆大島におり、夜になると海を渡って富士山に行って修行した、と言った具合です。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は、このとき海を渡ってやってきた役行者が建立した寺だといわれています。

「日本霊異記」の記述でもその後、役小角は赦されて大和に帰ります。が、このときも仙人になって伊豆大島から天に飛び去ったとされ、また小角を讒言した一言主は、仙人になった役小角の呪法で縛られ、長い間動けなくなったと記述されています。

その後1200年の時を超えた現在、葛城山麓の御所市にある「葛木一言主神社」が全国にあるこの一言主を奉る神社の総本社となっています。御所市は役小角の生地でもあります。地元では「いちごんさん」と呼ばれており、「一言」の願いであれば何でも聞き届ける神とされます。

逆に言えば「一言」より多くの願いを立てるなど、欲張ると願いを叶えてくれないということであり、これは一言主が無口な神様とされているためでしょう。「無言まいり」の神として信仰されており、これは今でも役小角によってかけられた呪いによって口を封じられているから、と解釈できます。

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一方の役小角の信仰の場としては、大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社に霊蹟札所があります。これらの寺社では「神変大菩薩」が役小角の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、「南無神変大菩薩」と記した奉納のぼりなどが見られることがあります。

また、このほかの修験道系の寺院でも、役小角の肖像を描いた御札を頒布していることがあります。その多くは老人の姿をしており、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖を持ち、たいていその左右に役小角よりは一回り小さい小鬼、「前鬼」・「後鬼」を従えています。

前鬼・後鬼は夫婦の鬼で、前鬼が夫、後鬼が妻で名は「善童鬼」と「妙童鬼」ともいいます。役小角の弟子とされる「義覚」・「義玄」と同一視されることもあります。夫の前鬼は陰陽の陽を表す赤鬼で鉄斧を手にし、その名の通り役小角の前を進み道を切り開きます。

笈(おい:仏具や経巻、衣類などを入れて背負う道具)を背負っていることも多く、この赤鬼とされる義覚は、現在の奈良県吉野郡下北山村出身です。

一方の妻の後鬼は、陰を表す青鬼(青緑にも描かれる)で、理水(霊力のある水)が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多いようです。義玄は、現在の奈良県吉野郡天川村出身とされます。

前鬼と後鬼は阿吽の関係です。本来は、陰陽から考えても、前鬼が阿(口を開いている)で後鬼が吽(口を閉じている)ですが、逆とされることもあります。

実在の人物、義覚・義玄をモデルとしているわけですが、物語性を高めるために創作された話では、元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた鬼とされます。そして、彼らを不動明王の秘法で捕縛したのが役小角であり、捉えられた山は鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にあります。

また、静岡県小山町須走にも、役小角が前鬼と後鬼を調伏し従えたとする伝説があります。二人の鬼を捕まえた小角は彼等を改心させるために、彼らの5人の子供のうちの末子を生駒山の麓の鉄釜に隠したといいます。

そして、彼らに対し、「子供を殺された親の悲しみがわかるだろう」と訴えました。これによって2人は改心し、役小角に従うようになります。典型的な勧善懲悪ばなしです。さらには、このとき改心した二人の鬼に人間の名前が与えられた、ということになっており、実際には義覚・儀玄ですが、これが「義学」・「義賢」と改変されています。

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この話は、このように鬼が改心して人間になったあたりから、さらに何やら現世の現実的なものへと変わっていきます。

その後2人は、修験道の霊峰である大峰山麓、現在の下北山村前鬼に住んだとされ、この地には2人のものとされる墓もあります。また、この地で5人の子を作ったとされますが、これは上述の生駒山のエピソードと時間順序が矛盾します。

さらに、その後、前鬼は後に天狗となり、日本八大天狗や四十八天狗の一尊である大峰山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)になったという話もあるようですが、一度鬼から人間になり、さらに天狗になるというのは、話の流れとしてはむちゃくちゃです。

前鬼と後鬼の5人の子は、五鬼または五坊と呼ばれました。名は真義、義継、義上、義達、義元。そして、これらの名は、役小角の弟子とされる義覚、義玄のほか、義真、寿玄、芳玄と合わせて、「五大弟子」とされる弟子たちと同一視されることもあります。

彼らは下北山村に修行者のための宿坊を開き、それぞれ行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊を屋号としました。またそれぞれ、五鬼継、五鬼熊、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助、五鬼童の5家の祖となりました。これらは実在する家です。5家は互いに婚姻関係を持ちながら宿坊を続け、5家の男子は代々名前に「義」の文字を持しました。

ただし、明治初めの廃仏毀釈、特に1872年の修験道禁止令により修験道が衰退すると、五鬼熊、五鬼上、五鬼童の3家は廃業し里を出、その後、五鬼継家も廃業しました。小仲坊の五鬼助家のみが今も宿坊を開き、現在61代目の五鬼助義之さんが当主となっています。

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こうしてみてくると、日本における鬼の神話というのは人間といかに密接な関係を保ってきたかというのがよくわかります。鬼が改心して人間になり、また人間が化けたものが鬼でもあるわけで、日本では、鬼と人間は表裏一体のものとして扱われてきました。

民話や郷土信仰に登場する悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する存在であるわけですが、一方では、「鬼」という言葉には「強い」「悪い」「怖い」「ものすごい」という意味もあり、これは極めて人間的な表現です。

「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものである、という話は有名です。そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドのイメージが定着したと考えられています。

日本人が「鬼」を一般的に連想する姿は、頭に「角」(二本角と一本角のものに大別される)と巻き毛の頭髪を具え、口に「牙」を有し、指に鋭い「爪」が生え、虎の毛皮の褌を腰に纏い、表面に突起のある金棒を持った大男です。また、肌の色によって「赤鬼」「青鬼」「緑鬼」などと呼称されます。

この「角」は「牛の角」であり、「爪」は「虎の牙」です。そして牛とは、「丑」であり虎は「寅」です。すなわち、丑の方角と寅の方角を表したものであり、この二つは艮(うしとら)と呼び、陰陽道で言うところの「鬼門」です。方角としては北東と南西となりますが、こうした陰陽道の思想は、平安時代に確立したものです。

元々は死霊を意味する中国の風水における「鬼(キ)」が、6世紀後半に日本に入り、日本固有の「オニ」と重なり鬼になったのだといい、さらにこれが陰陽道と結びついて、丑寅の方角が鬼門とされるようになりました。

日本古来の「オニ」とは上述のように、隠(おぬ)から来ていますが、もともと見えないものという意味であり、古くは、「祖霊」あるいは、「地霊」とされる霊でした。見えないものほど人間にとっては恐ろしいものはなく、それゆえに崇め奉られてきたわけですが、その後信仰の対象とするようになると、まったく形がない、というのは困りものです。

そこで、最初は「目1つ」のもの、としてオニが表現されました。片目という神の印を帯びた神の眷属と考えたという説や、「一つ目」の山神と考えたという説もなどがありますが、いずれにせよ一つ目の鬼は、死霊と言うより民族的な神の姿を彷彿とさせます。

しかし時代が下ると、より邪悪なものに変わっていき、例えば日本書紀における鬼は、「邪しき神」とすべきところを、「邪しき鬼(もの)」と表現しており、得体の知れぬ「カミ」や邪(や)しき「モノ」が鬼としてみなされるようになりました。

「邪」は訓読みで、「よこしま」と読みますが、これは「横しま」とも書き、正しくないこと、横道にはずれていることを意味します。鬼とはよこしまな存在であり、道から外れた外道という意味になります。

つまり、鬼とは我々が住まう世界を離れた異界の存在であり、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者が、人の世界から追放され、その異界に棲むようになって変化(へんげ)したものです。

そしてこの鬼のイメージは暗闇に潜む「カミ」、「モノ」といった当初の素朴なものから、想像力豊かな古代人によって変化し、夜叉、獄鬼、怪獣、そして妖怪などとも結びつき際限なく鬼のイメージは広がっていきました。

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現代では「鬼畜」という言葉をよく使いますが、この時代の鬼とはまさにそのイメージであり、多くの説話における鬼は、人を喰らうような凶暴なものです。平安のころの町の夜というのは、現代から想像するよりもはるかに漆黒の闇夜であり、その奥にどんなものが潜んでいるのだろう、という人々の恐怖が生み出した産物ともいえます。

しかし、人に化けて、人を襲う鬼の話が伝わる一方で、憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化したとする話もあり、人の怨霊が姿をなしたものと考えることも多くなりました。

憎しみや怨念から人を呪いで鬼にする、あるいは自らが鬼になるといった話も出てくるようになり、現在の頭に角が生えた鬼のイメージは、この呪いにかかったために人間が変化したものとして、12世紀末に確立したとされます。

例として能の「鉄輪」や「紅葉狩」は嫉妬心から鬼と化した女性の話です。そしてこれらの中から「般若の面」がつくられるようになりました。

一方、この日本の鬼の原型である、中国の「鬼(キ)」は、現在においても、死霊、死者の霊魂のままです。日本で言う「幽霊」の方がニュアンスとして近く、事実、中国語版ウィキペディアの記事での「鬼」は、日本語版の「幽霊」にリンクされています。日本にもこの思想が入っており、人が死ぬことを指して「鬼籍に入る」というのはそのためです。

中国では、この「鬼」と口にすること自体がタブーとされており、日本以上にこの幽霊を忌み嫌います。なので、中国人同士では婉曲して「好兄弟」という言葉を使います。ところが、他国の人種を蔑称する際などには、平気で「鬼子」と呼びます。

そして、最近日中関係がぎくしゃくしている中、中国人の多くは、日本人をこの最大級の蔑称である鬼を使って、「日本鬼子」と表現します。

「鬼子」とはもともと、中国の清代の短編小説集「聊斎志異」の表紙に使われた魔物になった「道士」に対して使う蔑称でした。道士とは、道教を信奉し、その教義にしたがった活動をする一種の僧侶ですが、香港や台湾のキョンシー映画では妖怪として紹介され、一躍存在が知られるようになりました。

実際の道士は、精進料理を食べ、修養を重んじ、護符を書いたり、道教儀礼を行うことを主な活動としており、こうした映画がその姿を正しく描いているかといえばそうではありません。が、魔物に変化した道士という架空の存在はやはり忌み嫌われた存在であり、それを中国を侵略した日本人と同一視しているわけです。

同様に忌み嫌う幽霊である、「鬼」の字を「日本鬼子」にあてたのはそのためですが、当初は中国を侵略する西洋人のことを「鬼子」と蔑称していました。モンゴロイドと大きく異なるコーカソイドの顔立ちが魔物に見えたからですが、時代が変わって、顔立ちが同じモンゴロイドの日本人もこう呼ぶようになりました。

そして、日清戦争以降は、「鬼子」はもっぱら日本人を指す言葉となりました。日本人への最大級の蔑称であり、無論現代の中国でも彼等のナショナリズム的な主張の際には頻繁に使われます。その昔はヨーロッパ人を指して「鬼子」と呼びましたが、現在では「鬼子」といえば大抵は日本人を指します。

ちなみに、「洋鬼子」や「西洋鬼子」といえば西洋人を指します。これと区別し、より明確に日本人を蔑視したいがために「日本鬼子」を使い、最近ではさらに日本人を卑下するためにこれに「小」の字をつけた「小日本鬼子」も使われます。

これまでは日本人もあまり気にしていなかったのですが、2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件を受け、中国で発生したデモによって日本でもその認知度が高まりました。中国の反日デモの際に掲げられるプラカードに「日本鬼子」や「小日本」と書かれているのを見たことがある人も多いと思います。

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このように中国では「日本鬼子」が乱発されているわけですが、ところが、多くの日本人にとっての鬼のイメージは、上述のように「幽霊」ではなく、凶暴な怪物のイメージです。

古くは中国と同じく忌み嫌う存在でしたが、江戸期以降は、おとぎ話や伝説に登場する親しみやすい妖怪として扱われることも多くなり、近年においてはさらに「鬼」=「力強さ」といった肯定的なイメージで捉えられることも多くなってきました。

「悪い」「怖い」というイメージよりも、「ものすごい」「強い」というイメージのほうが先に立つことも多く、「○○の鬼」といえばその道のエキスパートを指し、「鬼神のような」といえば、獅子奮迅の働きをする人のことを指したりもします。

節分の鬼や幼少期に読み聞かせられた昔話など、身近な生活の場にもしばしば登場する馴染みのある存在という側面もあり、「日本鬼子」といわれても、日本人にはいまひとつ彼等が訴えたいところの、侮蔑の意が伝わりません。

「悪鬼」や「鬼畜」と言われれば怒り出す日本人も多いでしょうが、単に「鬼」といわれてもピンとこず、むしろ褒められているのかしら、と誤解する向きもありそうなくらいです。

このため、「鬼子」の語に込められた侮蔑の意図は必ずしもストレートには受け止められておらず、彼らにとっては顔を真っ赤にして日本叩きをしているつもりなのでしょうが、当の日本人にはまったくこたえてない、というのが実情です。

しかも、これに対して日本の若者は、その字面に“萌え要素”を見出しました。いわゆる「オタク」と呼ばれる人々は、中国人が意図とした政治的な意味を突き抜け、「なんだか最近中国人がネット上で騒いでいるな」というわけで、この「鬼子」という言葉を「上書き保存」してしまおう、というプロジェクトを立ち上げました。

上書き保存とは、本来は文字やファイルを別のものに書き換えて、過去のデータを消去する意味ですが、彼等はこの「日本鬼子」という言葉を別なもので上書きしてネガティブな意味を払拭してしまおうと考えたわけです。

やがて、「2ちゃんねる」でスレッドが建ちはじめ、日本鬼子を美少女キャラクター化してネガティブな意味を払拭、上書きしてしまおうという草の根プロジェクト、「日本鬼子ぷろじぇくと」が立ち上がり、「日本鬼子」の萌え擬人化キャラクター化が進められるようになりました。

日本鬼子というキャラを作り、日本鬼子に別の意味、概念を作るというこの活動は一種のお祭りとなり、絵心のある多くのオタク絵師たちが、この「鬼子ちゃん」のイラストを描いて投稿するようになりました。こうして、誕生したのが、「日本鬼子=ひのもと おにこ」というキャラクターです。

その外見や性格付けも進んだことから、より具体的な萌キャラクター化がなされ、それは色白で長い黒髪を持ち、外観の年齢は、16〜18歳、紅葉柄の着物を着ており、角が生えているものの、穏やかな性格、といったものです。

こうして、日本のインターネット閲覧者上では、「日本鬼子」という中国の蔑称が「ひのもと おにこ」という1キャラクターとして捉えられるようになりました。

ただし、2ちゃんねるなどでは、暗黙のルールとして、彼等の間ではこの日本鬼子は単に「萌えキャラ」として扱うこととし、基本的には政治的に利用を禁じるよう、参加者に呼びかけたといい、これに反すると「粋じゃない」「野暮だ」として、排除されたといいます。

このように、「鬼子」といった言葉を使って、日本に対する批判を繰り返していた中国に対して、これを単なるジョーク混じりに意趣返しした日本の若者については、諸外国も注目しました。そして、台湾の東森新聞台(ETTV)のほか、イギリスの「タイムズ」紙などでニュースとして取り上げられると、国際的にも大きな話題となっていきました。

中国以外の国の人々には、「また日本がやらかしたか」といった程度の感触で受け止められたようで、タイムズの論評などでもおおむね好意的な評価だったようです。また、当事者の中国もこれには直球で攻撃することも出来ず、反応に困りながらも受け入れざるを得なかった様子です。

中国語メディアでは「萌萌男子 反抗中國」などと紹介されましたが、「萌萌男子」などの表現にその困惑ぶりがうかがわれます。また、その文面には振り上げた斧を下す場を失ったような雰囲気が漂っていたといい、侮蔑するための言葉が、日本国内では勝手に上書き保存されてしまったことを多くの中国人が知りました。

この成功?を喜んだ彼等はさらに「小日本(こひのもと)」という、ひのもと・おにこの妹分まで誕生させました。「こいのもと」ともいい、「=恋の素」という連想から、縁結びを行う鬼子の妹分と設定されていて、「こにぽん」とも呼ばれます。

現在も、2ちゃんねるのニュース速報板やPixivやTwitterなどでこの「ひのもと・おにこ」や「こにぽん」が使われているそうです。

ちなみに、ブームの走りとなった、「ひのもと・おにこ」の性格は、「大人しいけどキレると怖い」だそうで、目は切れ長で、普段は黒ですが怒ると赤になるといいます。鬼だけに角は二本あり、薙刀と、般若の面を持っています。

好きなものは、わんこそばと白米で、嫌いなものは「炒った豆」。そして、得意なことは「人の心に住まう鬼(心の鬼)を退治すること」だそうです。

もしかしたら、中国人の心の中に住まう鬼も退治してくれたのかもしれません。

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