6月の果て

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6月も今日明日で終わりです。

日本の神道では、年末12月の大晦日に「大祓」の儀式を行いますが、それと同じく6月の終わりにもこの儀式を行います。

いわゆる「お祓い」は浄化の儀式として宮中や神社で日常的に行われるものですが、特に天下万民の罪穢を祓うという意味で行われるのがこの大祓であり、すでに起きてしまった災厄をリセットして今後の国体の鎮守を図る意味のほか、国家共同体の構成員全員の安泰を願うための儀式です。

その昔は、参集者に向かって「祝詞をよく聞け」と呼びかけこれに「おう」と応呼するのに始まり、天孫降臨からの日本神話、罪穢の種類の列挙、そしてその祓い方と、その後祓戸大神によりどのように罪穢が消えていくかを言い聞かせる内容となっていたようです。

朱雀門の前でこれが行われました。平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)において南面する正門です。焼失して無くなっていましたが、1964年の平城宮跡の発掘調査で確認されたのち、復元の話が持ち上がり、実行に移された結果、1998年に竣工しています。フジテレビのドラマ「鹿男あをによし」の撮影に使用されました。

平安の時代には、この朱雀門前の広場に親王、大臣(おおおみ)ほか京(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓いました。しかし応仁の乱で京都市街が荒廃すると、門前でのこのような儀式は廃絶してしまいました。

以降、神仏習合の影響もあって民間で行われることはほとんどなく、一部の神社に限り、「夏越神事」「六月祓」と呼ばれて細々と執り行われていました。

ところが、明治4年(1871年)、明治天皇は宮中三殿賢所の前庭にて大祓を400年ぶりに復活させ、翌明治5年に太政官布告を出して旧儀の再興を命じました。この太政官布告では、大祓の復活と同時に「夏越神事」「六月祓」の呼称を禁止し、この結果、民間の神社でもこの行事を「大祓い」と呼ぶようになりました。

しかし、戦後になってからは「夏越神事」「六月祓」の呼称も復活し、現在に至っています。わりとちゃんとした神社ではだいたい6月末にはこの行事をやるようです。

多くの神社では「夏越えの祓い」と称して「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われます。参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内に茅で編んだ直系数mほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと8の字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うというものです。

また、多くの神社では、陰陽道で用いられた呪詛を起源とする、人形代(ひとかたしろ)という白い和紙で作った人形に息を吹きかけ、体の調子の悪いところを撫でて穢れを遷し、その後に川や海に流す、ということが行われています。

この「流す」行為は、後に願掛と結びつき、同時期に行われる七夕祭と結びついて短冊を流す地域もあるようです。また、これを「食に」代えて邪気を祓うところも多く、京都ではこの夏越祓に「水無月」という和菓子を食べる習慣があります。

水無月は白のういろう生地に小豆を乗せ、三角形に包丁された菓子で、水無月の上部にある小豆は悪霊祓いの意味があり、三角の形は暑気を払う氷を表していると云われています。

この邪気払いの食習慣にあやかってか、最近、農水省の外郭団体が米食を保全・推進することを目的にした、「夏越ごはん」という行事食を広めようとしているようです。赤や緑の旬の夏野菜を使った丸いかき揚げをのせた丼飯です。

「粟」や邪気を祓う「豆」などが入った五穀ごはんに百邪を防ぐといわれる旬のしょうがを効かせたたれをかけ、かき揚げを載せるというもので、なかなか食欲を誘います。今後もしかしたらブームになるかもしれません。お宅でも試してはいかがでしょうか。

さて、明日は大祓いの日ということなのですが、今年前半を振り返ってみると、何かとそうした邪気が多い半年だったように思います。中国長江のフェリー転覆を初めとしてやたらに乗り物の事故が多く、とくに航空機にまつわる事故や事件が多かったように思います。

少し整理してみると、まず、2月4日には、乗客乗員58名を乗せた台湾の復興航空・ATR 72が台北市の松山空港を離陸後エンジン故障を起こし、緊急事態を知らせる信号を出した後、高速道路上をかすめて空港近くの川に墜落。乗客乗員58人中43人が死亡しました。

原因究明の結果はまだ発表されていないようであり、最終的な事故報告書の公表は12月ころになるようですが、現地報道によれば原因はおおむね2つあり、片側エンジンの故障および、パイロットがその警告音を聞いた際に正常側エンジンを停止させる操作を行ったオペレーションミスの、両面ではないかということです。

次いで、この事故から一週間ほど経った2月12日に、今度は日本の宮崎県えびの市で海上自衛隊OH-6DAヘリコプターが墜落。訓練機であり、機長かつ教官、と同乗者の三等海佐、学生の二等海曹3名が殉職しました。学生の航法訓練のため、薩摩半島を経由しながら北上していた時の事故であり、天候不良が原因と考えられているようです。

さらに3月5日。アメリカニューヨーク市のラガーディア空港で、アトランタ発のデルタ航空1086便が着陸に失敗し、滑走路端のフェンスを突き破り、28人が負傷。「デルタ航空1086便着陸失敗事故」と名付けられました。

この4日後の3月9日に、今度は南米、アルゼンチン北西部ラリオハ州で、フランスのテレビ局TF1のリアリティー番組撮影中だったヘリコプター2機が空中衝突。この事故では、ロンドンオリンピック 競泳金メダリストと、北京オリンピックボクシング銅メダリストらを含むフランス人の乗客8人とアルゼンチン人操縦士2人の計10名が死亡しました。

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そして、3月24日。今年前半いろいろあった事故の中では最大級にセンセーショナルな事故といえる、「ジャーマンウイングス9525便墜落事故」が起きました。

スペイン・バルセロナから独・デュッセルドルフに向けて飛行していたドイツの格安航空会社・ジャーマンウイングスの定期便が起こした事故であり、フランス南東部のアルプス山脈の標高2,000メートル付近の山に激突しました。

事故の原因は、その後解析された飛行中の通信記録やその後発見されたボイスレコーダー、フライトレコーダーなどの分析から、副操縦士による自殺だった可能性が高いことが分かりました。この事故では日本人も2人が犠牲になったこともあり、その後日本でも、操縦室内に2人以上が常駐することを暫定的に義務付けられるようになりました。

3月29日。カナダ、トロント発ハリファックス行きのエア・カナダ624便がハリファックス国際空港での着陸に失敗し、大破。23名の乗客とパイロットの2名も病院に搬送されましたが、いずれも命に別条はありませんでした。原因は機体の降着装置(車輪)が地上のアンテナに衝突したことでした。

4月14日。今度は日本の広島空港に着陸しようとしたアシアナ航空162便エアバスA320が着陸後に滑走路から外れ停止する事故が発生、22人がけがをしました。

事故原因のひとつは、事故直前に気象が局地的に急変したためと考えられていますが、それにも関わらず危険を回避した形跡がなく、事故は機長が「最終判断」を誤ったとの見方が強まりつつあるようです。

そして、今月に入っての6月3日、離陸のため那覇空港の滑走路で加速を始めた全日空機の前方上空を、航空自衛隊のヘリコプターが管制官の指示を受けずに横切るという事故がありました。全日空機は離陸を中止して滑走路上で停止。その直後、日本トランスオーシャン(JTA)航空機が同じ滑走路に着陸して止まりました。

両機は400~500メートルまで接近していたといい、JTA機が着陸やり直しを求めた管制官の指示に反した可能性があり、あわや大参事に発展する可能性もあるニアミスでした。

管制官は滑走路に全日空機がとどまっていたためJTA機にやり直しを指示したとしていますが、パイロットは「指示は、着陸後に受信した」としており、この交信に航空自衛隊のヘリコプターからの通信が混線したのではないか、といったこともいわれているようです。

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以上、今年前半の飛行機に関する事故をざっと見てきましたが、なるほど、今年は本気で大祓いをやったほうがいいわい、と思うようなものばかりです。しかし大祓いは日本の慣行なので、これを世界規模でやるべきかもしれません。

それにしても今年前半だけで既に8件が発生しており、これは直近では、2009年の年間航空機事故数12に迫る勢いです。この年も異常に航空機事故が多かった年ですが、そのうちのひとつは、1月15日に起こった、USエアウェイズ1549便不時着水事故です。

ニューヨーク発シャーロット経由シアトル行きのUSエアウェイズ1549便が、ニューヨーク市マンハッタン区付近のハドソン川に不時着水した航空事故ですが、乗員・乗客全員が助かったことから、「ハドソン川の奇跡」と呼ばれました。

また、6月1日には、エールフランス447便、エアバスA330-200が大西洋上に墜落し、乗客乗員228名全員が死亡しました。生存者はその後も発見されず、全員が犠牲になったとされ、エールフランスの75年の歴史において最悪の事故になりました。

このA330は、傑作機といわれています。従来機であるA300に比べて大幅に胴体径を大きくした関係で、無駄な空間が少なく客室やカーゴも広々としているとともに省燃費、かつハイテクを使った制御面での高い安全性をも確保しました。

ボーイングはこれを真似てB757の胴体を太くしてB767を作りましたが、結局世界的には500機程度しか売れませんでした。これに対し、A330はその派生機も含めて、2015年3月末時点で合わせて132の顧客から1501機を受注し、1174機が引き渡し済みであり、ベストセラー機といってもいいでしょう。

その人気の理由のひとつは安全性の高さでもありますが、そんな機体がなぜ墜落したのかについて、仏航空事故調査局(BEA)は、対気速度計(ピトー管)が凍結で作動せず、自動操縦が解除。操縦士が機首を上げすぎて失速、副操縦士が操縦桿を引き続けたため、機首下げによる速度回復ができず、腹打ち状態で海面に墜落した、としました。

ピトー管の故障は確かに機体の不具合ではあったわけですが、墜落に至るような致命的なものではなく、結局はこれと操縦士の不手際が重なったことが原因であり、このため、この事故調査報告書の公表はむしろ、A330の安全性が再確認された結果となりました。

A330が関係した主な航空事故・事件はこれまで、このエアフランス機の事故を含めて20件ありますが、そのうちの2件のハイジャックであり、残りの8件は、パイロットのミスです。また447便の事故が発生するまで全損した死亡事故は1機にすぎず、それも1994年の試験飛行中の機体発生したものであり、運行中に大破した機体はこれが唯一でした。

ただ、2008年10月7日に発生した、カンタス航空のA330-300が乱気流に巻き込まれて乗客・乗員に重傷者が発生した事件では、こうした気象変動に対する機体制御を行うコンピュータに問題があったことなどがわかっています。

また、2010年4月13日には、インドネシアのスラバヤから香港へ向かっていたキャセイパシフィック航空のA330-300が、左右のエンジン出力が制御できなくなり、通常の着陸速度を上回る高速で着陸したのも、コンピュータトラブルと考えられています。

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ただ、こうした不具合はほとんど現在までに修正されていると考えられ、2010年以降、甚大な事故は起きていません。

このA330を製造している、エアバス社という会社は、1960年代から続く、アメリカ企業の世界的な旅客機の独占に対して危機感を抱いた欧州連合によって、1970年12月にフランスのアエロスパシアルと西ドイツDASAが共同出資し設立された会社です。

エアバスとは、広胴型機の隆盛の初期「バスのように気軽に利用できる飛行機の時代をいう」航空用語を、そのまま社名にしたものです。

アメリカのボーイングなどと比べ新興の会社であるため、機体に先進的な設計思想や技術を取り入れ斬新な機体設計が行われています。 エアバスA320に民間旅客機初となるデジタルフライ・バイ・ワイヤやグラスコックピット、サイドスティックによる機体操縦を導入したほか、機体に新素材を導入するなど次々と新機軸を採用しました。

その結果、機体の扱い易さや燃費性能を向上させる事に成功し、これが80年代後半からの同社の躍進に繋がりました。現在、西側諸国で大型旅客機を製造しているのはボーイング、エアバスの二大メーカーだけであり、抜きつ抜かれつの熾烈な競争を繰り広げています。

ところで、このジェット旅客機という乗り物を世界で初めて実用化したのはどこの国かといえば、これはイギリスです。同国のデ・ハビランド社であり、その旅客機の名前は、デ・ハビランド ・コメットといいました。

「コメット」の名称はレース用飛行機、デ・ハビランド DH.88に続いて同社としては二代目です。このレース機は空力的に洗練された単葉双発・流線型の全木製機で、最大時速200マイル(約322 km/h)以上、航続距離2,600マイル(約4,184 km)以上という要求性能を満たすために、さまざまな新機構が備えられていました。

一方、後にDH.106 コメットと呼ばれる機体はこのDH.88の機能を踏襲しつつ、超高速で大西洋横断飛行可能な「ジェット郵便輸送機」として計画されていました。郵便物は軽荷重ですみ、旅客機に比べて安全面での制約も厳しくないので、開発のハードルは旅客機より低くすみます。

しかし、同国初のジェット戦闘機の開発に成功していたデ・ハビランド社には老舗航空会社としてのプライドがありました。このため大型の「ジェット旅客機」という新ジャンルに挑むことを表明。さらに政府からの支援も受け、軍需省から2機、英国海外航空(BOAC)から7機の仮発注を受け、国家プロジェクトとして1946年9月に開発が始動しました。

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こうして新開発の超々ジュラルミン薄肉モノコック構造による徹底した軽量化と、表皮の平滑化が図られたコメット試作初号機が完成しました。そのテストが行われた1949年7月27日は、ジェフリー・デハビランド社長自身の57歳の誕生日でした。

この初号機は当時の最新鋭機であるダグラス DC-7よりもスピードが速く、アメリカのライバル達はいずれも巡航速度500km/h台以下のレシプロ機であり、ジェット機であるコメットの実用性は他の追随を引き離した独走状態でした。

この初飛行は成功し、その後テスト飛行が本格化され、主脚が大型のタイヤ1個から現代の大型旅客機でもよくみられる4個のものに変更されるなど、就航を見すえて様々な改良が施されました。そして、1951年1月9日にはコメットの最初の量産型が英国海外航空に納入されるに至ります。

速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機には、地上支援体制を始め運航システムのほとんどすべてを新規開発する必要があり、イギリス空軍、英国海外航空と協働の上、航路開拓も含めて2年間の入念な準備期間が置かれ、その間2機の試作機は世界各地に飛来し、先々で羨望を浴びました。

1952年5月2日に、満を持した初の商用運航がコメットによってヒースロー~ヨハネスブルグ間で行われ、所要時間を一気に半減させてみせました。ただし、コメットの乗客数は、ダグラスDC-6やロッキード・コンステレーション等の従来のプロペラ機と同等かそれ未満で、航続距離も同様であり、太平洋はおろか大西洋横断路線の無着陸横断も不可能でした。

とはいえ、従来の2倍の速度だけでなく定時発着率の良さに対する評価は高く、さらに天候の影響を受けにくい高高度を飛行することや、ピストンエンジンと違い振動も少ないなど快適性もレシプロ機の比ではない事が明らかになり、英国海外航空のみが就航させていた初年度だけで3万人が搭乗する人気を博しました。

翌1953年にはファーンボロー国際航空ショーで超低空90度バンク(ローリング)ターンを決めて見せるなど、機動面での性能の高さも評判であり、このほか、エリザベス王太后らを乗せた招待飛行を行うなど、イギリス航空界はその存在を存分にアピールしました。

さらにヒースロー~日本の羽田間や、ヒースロー~シンガポールという長距離路線にも定期就航するようになりました。

日本は第二次大戦争中にジェット機の試作と量産開始にまで成功したものの、占領下で航空機開発の一切を禁じられ、ジェット時代が到来したというのに、なす術もなくいました。このため、このコメットの銀翼と快音を見聞して日本の元航空技術者たちは、大いに悔しがったといます。

コメットはやがて順次航路を全世界に拡大するようにもなり、懸念された燃費も低廉なジェット燃料と高い満席率で相殺できることがわかり、就航当初の様子見気分は払拭されました。

世界中の長距離国際線の運航会社から50機以上のバックオーダーを抱え、さらに大西洋横断飛行用に航続距離延長と機体の延長が施されることとなったコメットは量産体制に入り、パンアメリカン航空などのアメリカの航空会社からの発注を受けるなど、前途洋々でした。

ところが、就航からたった1年の間に、2機のコメットが離着陸時に事故を起こしました。最初の事故は、1952年10月26日の雨の夕方、ロンドン発ヨハネスブルグ行のコメット9番機で、夜間雨のチャンピーノ空港を離陸滑走中に失速し、これに驚いた機長が離陸断念したものの止まり切れず、滑走路を逸脱し土盛り部分で停止したというものでした。

続いて翌1953年3月3日にも、カナダ太平洋航空へ引き渡しで移動中の機体が離陸滑走中失速し、空港外にあった橋梁に主輪が引っ掛かり、川の土手に激突し爆発炎上。この事故では乗員5名と、同乗していたデ・ハビランド社の技術者6名全員が犠牲になりました。

いずれの事故も高速機特有の挙動に不慣れなパイロットの誤操縦によるものと判断されましたが、マニュアルが改訂され運用法が変更された他、この「失速」の原因の究明が行われ、性能向上のための改良が施されようとしていました。

そんな中の1953年5月2日、BOAC(英国海外航空)783 便がシンガポールからロンドンに向かう途中、経由地のインド・カルカッタのダムダム空港から、次の経由地ニューデリーに向けて夕刻に離陸したのち、6分後の通信を最後に、強い雷雲に突入して機体が空中分解し、カルカッタの北西約 38km の西ベンガル地方ジャガロゴリ近郊に墜落しました。

機体は 20km 四方に散乱し、乗員6名乗客37名全員が死亡したものと推定され、商用路線に就航中のジェット旅客機として初の有責死亡事故になりました。しかし、事故はこれだけで終わらず、次いで、1954年1月10日、BOAC のシンガポール発ロンドン行781便も離陸から20分程で、地中海のエルバ島付近で墜落。

爆発の後バラバラになった残骸が炎や煙に包まれて海上に落下していき、乗員6名と乗客29名全員が即死。さらには1954年4月8日、BOAC から南アフリカ航空にリースされていた コメット9号機が、ナポリ南東のストロンボリ島付近50km沖合のティレニア海上空を巡航中に空中爆発し、乗員7名と乗客14名の21名全員が行方不明になりました。

このコメット9号機の飛行時間は2,704時間で、1952年の製造から2年しか経過しておらず、飛行回数も僅か900回程度でした。

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こうした一連の連続事故で、コメット自体に重大な問題があることはもはや明白になりました。英政府はこの南アフリカ航空の事故翌日の4月9日中にコメットの耐空証明を再び取り消し、こうして世界中で運用されていたコメットはすべて再び本国へ召還回送され、その後二度と路線に復帰することはありませんでした。

原因究明のためには、こうして墜落した機体の回収が必須でした。最初に事故を起こした783便は150mという比較的浅い海底に沈んでいため、機体の回収に成功。しかし南アフリカ航空201便はサルベージが技術的に不可能と判断され、エルバ島付近に墜落した残る781便のサルベージに全力を注ぐことになりました。

機体の残骸引き上げ作業には、イギリス海軍の潜水夫が動員されましたが、当時の技術では水深100mが限界であったため、それ以上の海底に沈んだ残骸を網でさらうために、イタリアの民間トロール船もチャーターされました。

捜索範囲は19km四方に広がっていましたが、ソナーを使用して海底を探査し、音波の反応があった箇所にマーカーブイを投下し、後に水中カメラなどによって正体が確かめる、という地道な作業を続け、四方にちらばっていたコメットの残骸は次々と回収されていきました。

その中でも8月12日に回収されたADF(自動方向探知器)アンテナがあった胴体天井外壁の残骸が、その後事故原因を追求する上で最も重要なものとなりました。

その後の回収された残骸の分析の結果、一連のコメット墜落事故は燃料の爆発やテロによるものではなく、針で刺された風船が破裂したのと同様の、与圧機体の内外気圧差による爆発的な空中分解が起きたことが基本原因である、と推測されました。

与圧による荷重が、それまでのレシプロないしターボプロップ式与圧旅客機では、運用差圧は大きくても0.4気圧であったのに対し、コメットでは高空飛行を考慮して、0.58気圧と大きく設定されていました。0.58気圧という差圧において、1平方メートルあたりの面積にかかる圧力は6トンにも及びます。

つまり、毎日運航される旅客機においては、1飛行ごとに6トンの圧力がかけられ、緩められることの繰り返しという状態になります。また、飛行機の主要な構造材料であるアルミニウム合金は、自動車や船に多用される鉄鋼と比較すると、部品の取付け孔などの切り欠きや作業時の傷などに敏感に反応し、疲労強度が低下するという欠点があります。

もちろん、コメットの設計者がその点を見落としていたわけではなく、0.58気圧という運用差圧に対し、安全率として1.5倍、金属疲労を考慮した割増係数1.33をかけた1.995倍の安全率、即ち2倍程度の安全率で設計していました。

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デ・ハビランド DH.106 コメット

そこでRAE(イギリス王立航空研究所)では、コメット1機が完全に入る水槽を作り、英国海外航空で運用されていた実機を廃用した疲労試験を行うことになりました。現在でこそ常識となっているこの疲労試験ですが、当時としては前例のない大規模な試験でした。

水槽内・機内にも水を満たし、水を増減して加圧・減圧することで、1回の飛行で加わる荷重を再現します。試験設備では3時間の飛行に相当する荷重を、10分で再現可能なように設計されていましたが、それでも1日150回程度の再現が限界でした。

また当時はこの種の再現試験を自動的に制御・記録するコンピュータの類が存在せず、監視係や作業員を交代しながら、24時間毎日連続して試験を行います。こうして再現実験が始まり、それは最長で5ヶ月かかる見込みでしたが、試験開始後2週間半が経過した1954年6月24日、1830回目の加圧において、試験機の客室窓の隅から亀裂が発生しました。

この亀裂は、急速に前後方向に進み、前後のフレーム(構造部材)に達すると、今度は上下方向、即ち、機体を輪切りにする方向へと進んでいきました。これは5万4000回までは耐えられるという予測とは大きくかけ離れた、短い疲労寿命でした。

これほどまでに短い寿命であれば、南アフリカ航空201便が飛行回数900回で空中分解したことも不思議ではないといえます。試験開始前、設計者や技術者は、この試験によってコメットの安全性が改めて証明されると考えていましたが、実験結果は開発時点の試験と大きくかけ離れた金属疲労の速さを明らかにしてしまいました。

しかも回収された781便の残骸のうち、胴体天井にあったADFアンテナ取り付けのための開口部の隅の亀裂に、実際に疲労破壊の痕跡が発見されたことで、事故原因はやはり金属疲労による破壊の可能性が非常に高くなり、楽観的な事前予測は完全に打ち砕かれました。

1954年10月に2件のコメット墜落事故の法的審問が開始され、1955年2月に事故は機体欠陥による金属疲労が原因とする事故調査報告が発表され、ここにコメットは、欠陥機であったと宣告されました。

全てのコメットは永久飛行停止を宣言され、英国海外航空で運用されていたコメットは各種の試験が行われた後に廃棄処分になりました。また、フランスで運用されていたコメットも、パリのル・ブルジェ空港に集められた上で1960年代ごろに解体されました。

デ・ハビランド社はこの一連の事故によって業績が悪化し、1959年に同じイギリスの航空機メーカーのホーカー・シドレー社(現・BAEシステムズ)に吸収合併され消滅しました。

ボーイング社が行っている航空事故の継続調査によると、1996年から2005年までに起こった民間航空機全損事故183件のうち、原因が判明している134件についての内訳は以下の通りとなっています。

55% – 操縦ミス
17% – 機械的故障
13% – 天候
7% – その他
5% – 不適切な航空管制
3% – 不適切な機体整備

操縦ミスは依然として航空事故原因のほぼ半数を占めていますが、この数字は1988年~97年期には70%もあり、過去20年間に着実に改善されてきたことが分かります。しかし、近代に至ってもそれ以外の機械的故障が17%もあるというのは、驚きの数字ではあります。

機械的故障が、即墜落につながるというものではありませんが、航空機事故の再発防止のためには、少なくとも機体に発生するこうした不具合の徹底した原因究明と、除去は欠かせません。機体は絶対安全で壊れない、としたうえで、あとは人為や天候によるものが多少ある、とされるならば、少しは安心して乗れようというものです。

とはいえ、アメリカの国家運輸安全委員会 (NTSB) の行った調査によると、航空機に乗って死亡事故に遭遇する確率は0.0009%であるといいます。アメリカ国内の航空会社だけを対象とした調査ではさらに低く0.000034%となります。

アメリカ国内において自動車に乗って死亡事故に遭遇する確率は0.03%なので、その33分の1以下の確率ということになり、これは8200年間毎日無作為に選んだ航空機に乗って一度事故に遭うか遭わないかという確率です。これが「航空機は最も安全な交通手段」という説の根拠となっています。

しかし、現実に今年もまた多くの事故が起こっており、現在もその原因究明が行われている事故があります。航空事故はさまざまな要因が複合して事故に至るものであり、事故によっては数年の歳月と巨額の資金を費やしてまで「なぜ」が追及されます。

今年も後半にそうした、「なぜ」が追及される機会がこれ以上増えないことを祈りたいと思います。

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