サクラチル……

2014-1040268今日の伊豆はまた冬に逆戻りで、朝からなんとまた雪が降っています。

高地にある我が家ではこの前の大雪で積もった雪もまだ完全には融けておらず、もう3月にもなるのにこの雪で、一体ここは本当に伊豆なのか、と思ってしまうのですが、ここでの暮らしがまだ2年にしかならない我々にはこれが異常な状況なのかどうかもよくわかりません。

が、ここでの暮らしの長いご近所さんから伺った限りでは、今年の冬は少々例年とは違うようで、そうした異常気象に引っ越してきてごくわずかの時間の間に遭遇するというのも、きっと何か意味があるのでしょう。

一方、ここはこんなお天気なのに、テレビでは河津の早咲きのサクラがほぼ満開だと告げています。去年は、晴れた日を選んで二人して出かけたのですが、今年は先週急に入った仕事が忙しくて、もう見に行けないかもしれません。

ただ、フツーのサクラはまだまだこれからなので、そちらを楽しみにすることにしましょう。とはいえ、この寒さでは大幅に開花が遅れるのではないでしょうか。

この桜ですが、春を象徴する花として日本人には一番なじみが深いもので、俳句でも「花」といえば桜のことを指すのだそうです。春一番の梅に次いで、春本番を告げる役割を果たし、その開花予報、開花速報は多くのメディアをも賑わします。

話題・関心の対象としては他の植物を圧倒し、入学式や卒業式などの、例年3・4月に行われる式典を演出する花でもあるため、とくに強い印象を与えます。

色々なアンケート調査でも、好きな花として桜をあげる人が断トツに多いそうで、また、咲くときだけでなく、散って行くその姿にはかなさや潔よさ(いさぎよさ)を感じる人も多く、最も日本人の心の琴線に働きかける花といえるでしょう。

この桜の散りゆくさまの、はかなく、わびしいかんじは、古くから「諸行無常」といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象でもあります。

江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜は「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神そのものだと言っています。

一方の「潔よさ」については、江戸時代以降しばしば武士道のたとえにされ、潔いことこそが、武士の模範と見たてられてきました。

無論、江戸時代には、武士だけでなく農民や町民もいたわけですが、士農工商の頂点に立つ侍が尊ぶ花なのだから右へ倣え、というわけでもなかったのでしょうが、その気分が伝染したのか、彼等もまた桜が大好きで、農地や町屋のあちこちに桜を植えてきました。

その「気分」は、明治時代以降も受け継がれ、五千円札にその肖像が使われた新渡戸稲造も著書の「武士道」」で、武士道=日本の象徴たる桜の花、とわざわざ冒頭に書き記しているそうです。

さらにこの気分は、明治、大正、昭和と続いた日本陸海軍にも受け継がれ、この武士道を軍の規律の中心においた旧日本軍でも、潔く散る桜を自己犠牲のシンボルとして多用しました。

太平洋戦争末期に開発された、日本初のロケット戦闘機であり、かつ特攻兵器であった「桜花」に与えられたこの桜の意味は「華と散る」であり、戦死や殉職の暗喩です。

この殉職とは、一般に、特定の業務に従事する職員が、職務・業務中の事故が原因で死亡することを指します。先の太平洋戦争では、軍務こそがこの業務であり、そこで死ぬことは大変な名誉とされ、率先して散ることが美徳とされました。

とくに、日本軍においては、功績顕著な戦死者を階級の上で昇進させ、その死を称えました。この昇進のことを、とくに「特別昇進」と呼び、以後「特進」と略して使うようになりました。また、明治以降の日本では、こうした特進に値する殉職者はとくに、「軍神」として崇めたてられるような風潮も出てきました。

軍神と称された軍人としての代表としては、日露戦争における日本海海戦での大勝利を挙げた連合艦隊司令長官の東郷平八郎がもっとも有名ですが、このほかにも旅順港攻略で功績があったとされる乃木希典大将もまた、軍神とされています。

2014-1040273

「軍神」というのは、当初は公式のものではなく、主にマスコミが用いていた尊称です。

しかし、昭和13年5月17日に、それまで30回以上の戦闘に参加してきた西住小次郎中尉が、流れ弾に当たって戦死して以降、軍が公式に指定するようになりました。軍神に指定された軍人の生家には「軍神の家」という表札が掲げられるようになり、「軍神」の尊称を受け著名な存在になっていきました。

この西住中尉の話は、菊池寛が小説化し、「西住戦車長伝」のタイトルで東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載され大好評となり、1940年(昭和15年)には松竹により映画化され、上原謙が西住役として主演しています。

軍から公式に「軍神」として指定されたのは西住中尉が初めてであり、以後、日本陸海軍においては、「死して国を守った」彼等を神として尊敬するよう強要するようになっていきます。精神的な指導が行なわれるようになり、皇室に忠誠を尽くした彼等を日本史上の人物であるとして神格化していきました。

ちなみに、この西住小次郎中尉も死後、大尉に昇進しています。この軍神が正式な称号とされるより更に以前、功績があった死者を「特進」させるという風習が根付いたのは、日露戦争において軍神とされた広瀬武夫海軍少佐が最初です。

実は、日本では元々戦死者を特進させる習慣は無かったそうですが、日露戦争において軍神とされた広瀬武夫海軍少佐、橘周太陸軍少佐などが、死後それぞれ中佐に一階級特進したのがその嚆矢となりました。

広瀬少佐のことはご存知の方も多いと思います。日露戦争中の旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸を指揮していた広瀬武夫は、敵弾飛び来る中で行方不明となった部下の海軍一等兵曹を探して退避が遅れ、ロシア海軍の砲弾の直撃を受けて戦死しました。

決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず部下の生命を案じて戦死を遂げたことから、歿後すぐに「軍神」とされ、郷里の大分県竹田には、広瀬神社まで建立されました。広瀬少佐はのちにこの功績が称えられ、「中佐」に昇進しています。

一方の橘周太少佐のことは、あまり知らない人も多いでしょうが、この人は海軍ではなく、陸軍の人です。

日露戦争中の遼陽会戦において、歩兵第34連隊第1大隊長を務めていましたが、首山堡という敵の堅固な要塞の攻略に当り、最前線で指揮を執り全身に傷を負いながら、一歩も引くことなく壮烈な戦死を遂げたことで有名になりました。この人もまた郷里の雲仙に橘神社という神社が建てられ、やはりその死後、中佐に昇進しています。

その後も戦争が起こるたびに、こうした「軍神」や「特進」の風習は続いていき、昭和に入ってからの第一次上海事変時には、「爆弾三勇士」と呼ばれた三人の軍人が出ました。

爆弾三勇士というのは、中国の国民革命軍が上海郊外に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した、久留米の独立工兵第18大隊の3名の兵士のことで、彼等もまた、死後に特進されて、一等兵から伍長へと昇進しました。

ところが、一等兵から上等兵を飛び越して、伍長へ「二階級特進」というのはそれまで例がなく、これが初めてのことでした。それ以降、旧日本軍においては、功績抜群の戦死者は全軍布告の上、二階級も階級が上がる、というのが慣例になっていきました。

戦後の現在になってからも、自衛官、警察官、海上保安官、といった職務階級が明確な職業においはて、殉職に伴って在職階級から二段階昇進させる制度は、慣行として残っています。

名誉・叙勲・その他の遺族に対する補償も特進した階級に基づきなされ、この結果「二階級特進」は、しばしば単なる「殉職」とは別のより位の高い称号とみなれることも多いようです。当然のことではありますが、死亡退職金や遺族年金は、特進後の階級を基準とするため、遺族はより多くの手当を受けることができるようになります。

ただし、現在では、自衛官の場合は「昇進」という言葉は使っておらず、「昇任」であり、こうした殉職の場合には、「特別昇任」として1階級だけの昇任が普通だそうで、戦前のような二階級特進(特昇)はごくまれのようです。

ま、これは大きな戦役がないからであり、あまりあってほしくないことですが、今度もし日本が戦争に巻き込まれるようなことがあれば、こうした戦争での二階級特進はありえるかもしれません。

2014-1040294

ところで、残念ながらというか、幸いにも、というべきなのかもしれませんが、私の親族には、戦前、戦後ともこうした二階級特進を受けるような、殉職者はいません。

が、私の母方の祖父は、長年の日本海軍の艦隊勤務で功績があったとされて、勲章を貰っています。勲章といってもそれほど階位の高いものではありませんでしたが、本人は無論のこと、祖母もこれを大変誇りにしていたようで、その勲章は今も郷里の山口の桐ダンスの中に大切に保管してあったかと思います。

ただ、この祖父は、第二次世界大戦では参役していません。第一次大戦直後ころに入隊し、その後長らく艦隊勤務を続けていましたが、戦争が始まる直前に予備役として最前線を退いていました。

とはいえ、軍務についたのはかなり長かったようで、その中には、長門や扶桑といったそのころの日本を代表する大型軍艦での勤務もあったようです。その勤務態度は結構高く評価されていたようで、その軍務の傍ら、官費で海軍の「潜水学校」へも行かせてもらっています。

「海軍潜水学校」は、大日本帝国海軍における潜水艦乗組員を養成する教育機関のことで、水上艦や潜水艦の勤務経験を積んだ士官・下士官・兵が入校し、潜水艦の運用に必要な知識と技能を修得させた学校です。

他の術科学校が横須賀鎮守府の管轄であるのに対し、潜水校は呉鎮守府の管轄となっていて、山口出身であった祖父もまた、比較的郷里に近いこの広島の地で潜水艦についての知識を習得したようです。

他の術科学校とはまったく交流がない特殊な学校だったようで、これは何故かと言えば当時の潜水艦というのは、現在のジェット戦闘機なみの、トップシークレットの塊のような存在であり、その技術の流出を当時の海軍が極端に嫌っていたためです。

とはいえ、他の術科学校と同様に、普通科・高等科・専攻科・特修科の4コースが設定されており、のちに潜水艦長養成コースとして甲種が特設されました。また、すべてのコースが兵科と機関科の二本立てで実施されていました。

残念ながら、祖父からはどういうコースを履修していたのかは直接聞かされていませんが、射撃訓練をよくやらされたと語っていたので、おそらくは普通科の兵科ではなかったかと思われます。

ちなみに、この祖父はかなりの射撃の名手だったようで、この潜水学校当時なのかその後かはよくわかりませんが、何かの大会で優勝して、賞を貰っています。

戦後はその射撃の腕を生かし?、山口の山奥で、猪や兎の狩りによく出かけていたようで、幼い私は、そうした獲物を見るたびにキャッキャと喜んでいたと母が話してくれたことがありますが、無論、遠い昔の話で自分では覚えていません。

2014-1100182

ところで、この潜水学校を卒業後、祖父は予備役に入るまで潜水艦ばかりに乗るようになったようで、この潜水艦乗りとなった祖父よりもかなり先輩の潜水艦乗りで、やはり軍神とされた人物がいます。

大日本帝国海軍の佐久間勉という人で、1910年(明治43年)に、艦長を務めていた「第六潜水艇」という潜水艦の潜航訓練中にこの船が沈没した際の勇敢な行いが絶賛され、以後、軍神とされるようになりました。

この「事故」が起きたのは、1910年(明治43年)のことで、奇しくもその場所は、祖父の出身地と同じ山口県の新湊沖でした。

新湊というのは、錦帯橋で有名な岩国の近くにあった小さな港町だったようで、正確な位置を調べてみたのですが、よくわかりません。岩国沖は比較的推進の浅い海が広がっているため、まだ性能の低かったこの当時の潜水艇(潜水艦と呼ぶのもおこがましいほどの小船)はここら一帯でよく訓練をしていたのでしょう。

第六型潜水艇というのは、アメリカ合衆国の発明家ジョン・フィリップ・ホランドが開発に携わった潜水艇で、この当時日本に技術輸入されて建造され、「ホランド改型」と呼ばれていました。

ホランドの設計に基づき、川崎造船所で2隻が建造され、コピーながら日本で初めての潜水艦建造であり、竣工までに1年半がかかって、1909年(明治39年)に竣工しています。

原型のホランド型のコピーといわれ、船体はより小型で、たった76トンしかありませんでした。これは輸送船に運んで移動し、そこから運用する計画があったためといわれています。

1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇はガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かいました。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様です。

午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生しました。ところが、浸水の際に作動するはずの閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖をしようと手間取っている間に17メートルの海底に着底してしまいます。

第六潜水艇は日ごろから長時間の潜航訓練を行っていたため、同伴していた母艦の歴山丸の船員も、当初は浮上してこないことを異常と思われなかったようです。また、後日の調査では、この母艦の見張り員は、異常と報告して実際には何も問題がなかった場合、佐久間少尉の怒りを買うのが怖くて報告しなかった、と陳述しました。

2014-1040300

この艦長の佐久間勉という人は、福井県三方郡八村(現・若狭町)の出身で、22歳でこの当時の海軍のエリート校、海軍兵学校を卒業していますが、この時の同期には後に内閣総理大臣を務めた米内光政がいました。

兵学校卒業後もわずか二年で海軍少尉となり、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎え、日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいました。

日露戦争後は水雷術練習所で水雷術を学び、水雷母艦「韓崎」に乗り組んで勤務、さらに第1潜水艇隊艇長、第4号潜水艇長、第1艦隊参謀、「春風」駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積み、1908年に29歳になったとき、第六潜水艇隊艇長を命ぜられました。

日本海海戦の経験者でもあり、この当時の海軍は、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮がありました。このため、一船の船長ともなると、部下を叱咤して命に従わせようとする者も多く、この佐久間船長もこわもてで通っていたようです。

佐久間少尉の怒りを買うのが怖かった、と陳述したこの見張も、さすが長時間の間浮上してこない潜水艇を以上と思い、上官に報告。これを受けて、歴山丸は呉在泊の艦船に、これは「遭難」である旨を伝達し、自らも救難作業を開始しました。

その結果、翌日の16日(17日説もあり)に第六潜水艇は引き揚げられ、内部調査が行われました。しかし、既に艇長佐久間勉少尉以下、乗組員14人は亡くなっており、うち12人は配置を守って死んでいましたが、残り2人は本来の部署にはいませんでした。

不審に思った調査員が詳しく艇内を探したところ、2人は、機関室でみつかり、そこにあったガソリンパイプの破損場所で最後まで破損の修理に尽力していたことがわかりました。

母艦の歴山丸の艦長は、この第六潜水艇の訓練においては、まだ性能の安定していない潜水艇でもあり、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止していたといいます。

ところが、艇長であった佐久間少尉は、ガソリン潜航を母船に連絡せずに行っていたようで、その後事故調査委員会において、歴山丸の艦長は佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼しており、このために禁令を無視したのではないか、と述べています。

この事故調査委員会ではまた、このときの潜航深度は10フィート(約3m)であったと記録しており、この深度は、シュノーケルの長さよりもかなり深い潜航深度でした。

このため、母艦からの伝令ミスによって、佐久間船長がこの深さまで潜ったのではないかという指摘もなされたようですが、この調査委員会では、実際にそのような命令ミスがあったのかどうかについては、明らかにしていません。

結局、母艦からの指示ミスだったのか、船長の独断により招いた事故であったのかはうやむやなまま、調査は打ち切られており、また母艦の見張り員が長時間の報告を怠った責任も問われず、この見張り員に対しても同情すべき点が多いとして処分は行われませんでした。

このように、この事故において、誰もが処分されなかった理由としては、亡くなった佐久間艇長以下の死に際を美化しようとした動きがあったことが想像されます。

2014-1040311

実は、佐久間少尉は、艇内にガスが充満し死期の迫る中、長文の遺書を残しており、その中で明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、事故原因の分析を記していました。

この遺書で佐久間勉少尉は、関係者への謝罪の言葉を述べるとともに、事故発生からの経緯を詳しく記し、死期迫段になってようやく自身の状態を書きながら絶命していました。

艇内にガスが充満して死期が迫る中、その遺書では、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いています。

謹ンデ陛下ニ白ス 
我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ

自分の部下たちが死んだのち、その遺族たちの生活が窮することないよう、ご配慮願う、今の私の頭にあるのはそれだけです、と天皇陛下に訴えたこの文章には、さすがに心を打たれるものがあります。

その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と、この当時の海軍大臣である斎藤実を初めとする当時の上級幹部・知人の名を記し、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記して佐久間少尉は絶命しました。

佐久間少尉が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだったといい、これが沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された際には、当時の国内で大きな反響を呼びました。やがてこの話が海外に伝わると、諸外国でも大きな反響を呼び、アメリカなどでは、議会議事堂にこの遺書の写しが陳列されたほどでした。

この事故が起こった時より少し前には、イタリア海軍で同様な事故がありました。その後この潜水艇が引き上げられたときに行われた調査では、乗員の多くが脱出用のハッチに折り重なった状態で発見されました。

このとき出口付近で発見された水兵たちには、他人より先に脱出しようとして乱闘を起こしたような痕跡が発見され、その死の間際にかなりの醜態を晒していたことなどが明らかにされました。

このほかのヨーロッパ諸国の海軍でも似たような事故が起きており、これらのケースでも脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、乗組員同士で互いに殺し合うなどの悲惨な事態が発生したケースもありました。

こうした過去の事例を知っていた帝国海軍関係者は、この第六施潜水艇の事故においても、引き揚げられた潜水艇の中で、同様の醜態を晒していることを心配していたそうです。

が、蓋を開けてみると、出入口への殺到などは全く見られず、船員たちは全員が持ち場でそのまま息絶えており、持ち場を離れていた二人も、最期まであきらめずに潜水艇を修繕しようとして機関室で命を落としていたことがわかりました。

2014-1040343

さらに佐久間艇長が残した遺書の中には、冷静に判断した事故原因の説明だけでなく、帝国海軍の潜水艦開発に関する意見まであったといい、上述のような乗員遺族への配慮に関する事柄までしたためてあったわけです。

当然、帝国海軍としても、「潜水艦乗組員かくあるべし」と内部でほめたたえましたが、さらにはこれを喧伝すべく、この事件を広く公表しました。

おそらくはそうした中で、佐久間少尉は無論のこと、母艦の関係者の責任問題云々を表立たせるのは得策ではない、という意見が出されたことは想像にかたくなく、関係者の処分についても闇に葬るという操作が選択されたのでしょう。

こうして、佐久間船長以下は、軍神として扱われるようになり、修身の教科書(戦前の道徳教育に関する教科書)や軍歌としても広く取り上げられるようになっていきました。

海外などでも大いに喧伝された結果、各国から多数の弔電が届いたといい、前述のとおり、合衆国議事堂には遺書の写しが陳列されたほか、感動したセオドア・ルーズベルト大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版まで設置されました。

ちなみにこの銅版は、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した後も撤去されなかったといいます。さらに、イギリス海軍においても、その王室海軍潜水史料館には佐久間少尉と第六潜水艇の説明があり、第二次世界大戦後の現在でも展示され続けているそうです。

ある駐日英国大使館付海軍武官は、戦前から戦後まで英国軍人に尊敬されている日本人として佐久間少尉を挙げており、戦後の日本人は「佐久間精神を忘れている」と、戦後1986年に岩国で行われた第六潜水艇の追悼式でスピーチしています。

この当時の修身の教科書でのこの話のタイトルは、「沈勇」だったそうで、これは沈没した船に乗船していた勇者というほどの意味でしょう。夏目漱石もまた、事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」という随筆で、佐久間の遺書とその死について言及しており、いかにこの当時の反響が大きかったかがうかがわれます。

今日でも佐久間少尉の出身地の福井県では、「遺徳顕彰祭」という追悼式が毎年行われているそうで、毎回、海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われています。

引き揚げられた第六潜水艇のその後ですが、その後修理が行われて使い続けられ、9年後の1919年(大正8年)には、第六潜水「艦」に改名されましたが、その翌年の1920年(大正9年)12月1日に除籍。

その後は、上述の私の祖父も通った呉の潜水学校で「六号艇神社」として保存されていたようですが、戦争に突入すると、物資不足のおりから船体は桟橋に供用されました。しかし、戦後の1945年の暮れ、進駐軍の命によって解体されたそうです。

その一部の部品は、いまだ海上自衛隊の潜水艦教育訓練隊潜水艦資料室で保存されているそうで、このほか、呉市内にある「鯛乃宮神社」には第六潜水艇殉難者之碑が残っており、ここでも毎年、事故のあった4月15日に追悼式が行われているそうです。

2014-1040358

殉職した佐久間少尉もまた、その死後、二階級特進で、大尉となりました。以後、戦中戦後に至るまで、殉職者の特進は、引き継がれ続けており、自衛隊員や海上保安官はいうまでもなく、警察官や消防職員はもとより、刑務官や入国警備官、税務署員に至るまで、殉職者には、昇進や特進が与えられています。

一般企業や工場においても、勤務・作業中の事故が原因で死亡した場合は殉職と呼び、この場合、「産業殉職者」として顕彰会が建つこともあります。また、その所属する組織から昇進や特進が与えられ、篤い遺族手当が報ぜられる場合もあるようです。

とはいえ、殉職には当然ながら、昇進や特進の処置がなされないものもあります。民間業者が行う土木工事などでは、殉職者が出ることは珍しくなく、青函トンネルで34名、黒部ダムでは171名、東海道新幹線建設に至っては、210名、などの多数の殉職者が出ていますが、その全員が昇進などの処遇を受けたというわけではありません。

また、一般のスポーツ選手が競技中の事故で死亡した場合や、サラリーマンが通勤途中に交通事故などで死亡した場合には通常は殉職扱いにはなりません。ただ、競輪や競馬、競艇といった公営スポーツの場合には、どんなケースがあるかは知りませんが、一応、殉職の規定があるそうです。

「病死」の場合も一般には、殉職扱いにはなりません。

しかし、広島市への原子爆弾投下で警察官と警察事務職員ら233人が即死し、その後も原爆症により病死する者が1946年までに119人いましたが、これらは殉職として扱われています。長崎も同様であり、広島の被爆から19年後の1964年には、原爆症で死亡した警察官が、一階級特進で警部になっています。

最近では、2003年11月29日、日本政府はイラクにおいてテロリストにより射殺された日本大使館の外交官(参事官、三等書記官の2名)に対して二階級特進に相当する職階の特進が行われ、このとき亡くなった参事官は、「大使」に昇格し、三等書記官は一等書記官になりました。

そもそも職務階級制度そのものが存在しない外交官では前例のない、異例なことだったそうですが、これは任地のカントリーリスクが際立って高い状況などを勘案してのものだったといいます。

あまりあってほしくないことではありますが、今後、自衛隊のPKO派遣などを始めとして、海外で活躍する日本人が増えるのに伴い、こうした人達が海外で殉職するケースも多くなっていくのかもしれません。

日本人としてのその散り際に似つかわしいのは、やはりなんといっても桜でしょう。

冒頭でも述べましたが、本居宣長は桜を「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしました。

もののあはれ(物の哀れ)は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つとされ、折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁のことをさします。

もともとは、苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念でもありました。

本居宣長は「もののあはれをしる」ことは同時に人の心を知ることであると説き、これによって人間の心への深い洞察力を求めました。また、人間と、人間の住むこの現世との関連の意味を問いかけ、「もののあはれをしる」心そのものに、美を見出したのです。

2014-1100215

とはいえ、すぐに花が散ってしまう桜は、家が長続きしないという想像を抱かせるためか、江戸期以前の武家社会でも、意外と桜を家紋とした武家は少ないようです。しかも日本ではサクラは公式には国花ですらありません。

とはいいながら、事実上、国花のように扱われており、旧帝国海軍や警察官の徽章は、他国なら星形を使うべき所を桜花で表しています。現在の自衛隊においても、陸海空を問わず、階級章や旗で桜の花を使用した意匠は数多いようです。

1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインであり、このほかにもポピュラー音楽、映画、ドラマ、ゲームなど、桜は様々な作品のモチーフや題材にもなっています。

特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は「桜ソング」として知られています。個人的な好みで選ぶとすれば、以下のようなものがあるようです。

「桜坂」(福山雅治)
「SAKURAドロップス」(宇多田ヒカル)
「さくら(独唱)」(森山直太朗)
「さくらんぼ」(大塚愛)
「さくら」(ケツメイシ)
「桜」(コブクロ)
「桜色舞うころ」(中島美嘉)

さて、今年もこうした曲のメロディーが巷に流れ、桜が満開になる季節が近づいてきました。

財団法人「日本さくらの会」というのがあるそうで、この団体が決めた「さくらの日」は例年、3月27日だそうです。

去年は、伊東のさくらの里や、松崎の那賀川のサクラを見に行きましたが、今年はもっと別なところも訪問したいと思っています。

みなさんおお気に入りのサクラの名所はどこでしょうか。良いところがあれば、ぜひお教え願いたいものです。

最近、最新のブログについては、冒頭のタイトル右の吹きだし、及び最下段の ”leave a reply” からコメントの記入ができるようにしてありますので、よろしかったらご参加ください。

2014-1040423