ちょっと前のオリンピックが始まったころのブログで、ロシアの「黒海艦隊」のことを書きました(ロシアは女尊?)。
その昔、ソ連邦が崩壊してウクライナが独立したとき、この黒海艦隊の母港であるのセヴァストポリ軍港もまたウクライナの領地内になり、ロシアは困ってしまったという話でした。
結局、二国間で協議が進められた結果、艦隊の分割と基地の使用権に関する協定が結ばれ、黒海艦隊の駐留も可能となり、ロシア海軍はウクライナ領に基地を残すことに成功しました。
ところが、先日のソチオリンピックが終わるか終らないかのうちに、このウクライナで政変が起こり、この借地艦隊の行方もわからなくなってきました。
オリンピックまではウクライナは親露派の地域党党首、ヤヌコーヴィチ氏に率いられており、おそらくはこの海艦隊の残存は安泰だろう的なことを書きましたが、そのヤヌコーヴィチ氏が失脚してしまったことから、ロシア軍の軍事介入が始まり、ずいぶんとキナ臭いことになっています。
おそらくは、ロシアはこのままに居座り、事実上ここはロシア領となっていくのでしょう。ウクライナの新政権を支持する西側諸国が何と言おうと、ロシアが長年実効支配してきた歴史を持ち、軍事的にも最も重要視しているこの場所を手放すはずはありません。
それにしても、このウクライナという国ですが、今回の政変によってニュースで取り上げられることも多くなり、また先日のソチオリンピックで黒海周辺のことなども何かとクローズアップされたことから、ヨーロッパのどこにあるのか、という点についてはようやく理解できるようになってきたという人も多いことでしょう。
位置的には、東ヨーロッパにあたり、その東にはロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシなどの東欧諸国が居並び、南に黒海を挟んでトルコが位置しています。
歴史的・文化的にもやはり中央・東ヨーロッパの国々の関係が深く、その前身のキエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、ウクライナ国内の王族諸侯は、近隣のリトアニア大公国やポーランド王国に属していました。
17世紀から18世紀の間に入ってからは、ウクライナ人とコサック騎馬民族の共同体としての国家が興亡しましたが、そのすぐ後には強国のロシア帝国の支配下に入り、以後、ロシアとは切っても切れない縁となってしまいました。
第一次世界大戦後に一度独立を宣言したこともあったのですが、その後勃発したロシア内戦によってロシア国内を赤軍が席巻して勢力を伸ばしたことから、ウクライナもまたソビエト連邦内の構成国となりました。しかし、1991年のソ連崩壊に伴い、ようやく独立が実現しました。
そうした政変に次ぐ政変が起こり続ける中も、ウクライナは、16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られるようになるとともに、19世紀以後は東ヨーロッパの産業の中心地帯として大きく発展しました。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達したことがその要因です。
ちなみに、最近のニュースで話題にならないのが不思議なのですが、原発事故を起こしたチェルノブイリ発電所は、旧ソ連の手によってこのウクライナ領内に建設されています。先進的な工業力を保つためには多大な電力が必要であり、この原発も必要不可欠なものとして建設された経緯があります。
しかし、この原子力発電所事故が起きたあと、さすがのウクライナも1990年には一度原発を全廃しました。が、1993年より原発を再び稼働させ、現代でも原子力発電は世界的にみても盛んな国のひとつになっています。
日本とは一見あまり縁がなさそうに見える国ですが、大きな原発事故を起こした国同士、という点では共通点があります。また、第二次世界大戦の末期、ウクライナののヤルタで行われたヤルタ会談は、その後の日本の行方を大きく左右しました。
これは、1945年2月4日~11日にのヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談です。
第二次世界大戦が佳境に入る中、このヤルタ会談でソ連による対日参戦が決定づけられ、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなりました。
ちなみにこの新たな世界秩序は、後年「ヤルタ体制」と呼ばれています。
このヤルタのあるクリミア半島は、1991年のソ連の崩壊後、独立したウクライナの一部となりました。が、ウクライナの中にあっても、1992年5月5日、は独立を宣言し、ウクライナ内の自治区となり、「クリミア自治共和国」が成立しています。
しかし、ニュースでも頻繁に報じられているとおり、その後、この共和国の主な都市である、シンフェロポリ、ケルチ、バフチサライのほか、このヤルタでも共和国内の多数派住民であるロシア人とウクライナ政府との間での衝突の危機が心配されています。
しかも上述のとおり、ロシアの軍事介入によって一方的にロシア領土に取り込まれてしまいそうな雰囲気であり、ウクライナによる統治は風前のともしびといったところです。
この「ヤルタ」の語源は、古代ギリシア語で「岸辺」を意味するそうです。東ヨーロッパに領土を拡げつつあったギリシャ人の船乗りたちが、安全な岸を求めてさまよっていたところたまたまみつけ、町を築いたといわれています。
南に黒海と接し、森林に取り囲まれており、温暖な地中海性気候であり、オリンピックが行われたソチ同様、現在は黒海沿岸では屈指の保養地として知られています。
このクリミア半島は、第二次大戦では、ソビエト連邦の大祖国戦争における激戦の部隊となりました。セヴァストポリでは、侵攻して来たドイツ軍との間に大規模な戦闘が起き、これはセヴァストポリの戦いと呼ばれています(1941年12月17日~1942年7月4日)。
その後ここは、タタール族の人々(クリミア・タタール人)の人が居住地としていましたが、1944年、対独協力を恐れたスターリン政権によって彼等は強制的に中央アジアに移住させられ、代わりにロシア系住民が多数派になりました。こうしてはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の一部として統治されるようになります。
その翌年の、1945年1月には、連合国の主要3カ国首脳による先述のヤルタ会談が行われましたが、このころソ連軍はポーランドをも占領して、ドイツ国境付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫る情勢でした。
会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてイギリス・アメリカ・フランスの三国はヤルタ協定を結び、ソ連を含めた4カ国によるドイツの分割統治やポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定され、現在までも続く我が国の北方領土問題の端緒となったというわけです。
この会談ではまた、特に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定、いわゆる極東密約(ヤルタ協定)が結ばれました。
1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促しました。
この秘密協定は、当然のことながら日本には知らされておらず、この直後に突然の嵐のように参戦してきたソ連軍に日本は大混乱に陥りました。
この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持することのほか、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなども取り決められました。
またこれを条件に、ソ連はドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経て対日参戦する、という具体的な日程までも決められました。
実は、太平洋戦争以前から、アメリカはソ連に対して対日参戦要請をしており、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日には、早くもソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフに対して、ルーズベルト大統領とハル国務長官からその要請文書が出されていました。
ただ、このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフを通じてアメリカ側に対して返答があり、その中には、独ソ戦へ集中したいという意向と日ソ中立条約の制約から現在では日本への宣戦布告は不可能と書かれていたといい、この中立条約のおかげで、日本はその命を長らえることができました。
しかしその10日後にはスターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明しており、先々での日本侵攻をほのめかしています。
その後、スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際だったといい、アメリカのハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことをハルやスターリンの通訳が証言しています。
ヤルタ協定におけるソ連の対日戦への参戦の決定は、このようにかなり前から引かれていた伏線の上においてその実現が予定されていたことではあったのです。
こうしてドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、ほかにも樺太や千島列島等を占領しました。
これは、ソ連の参戦を全く予想していなかった日本軍には晴天の霹靂の出来事でした。しかも、この宣戦布告は、日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告した前日のことでした(ポツダム受諾は8月10日)。
戦争末期のきわめて微妙なタイミングであり、このためソ連はほんの短い期間しか闘わなかったのに、その後この小さな戦果に対して、日本は樺太や北方4島などの貴重な領土を手放すという、結果としてソ連には極めて有利な内容になりました。
結局、日本はポツダム宣言受諾してしまったために、その後9月2日の降伏文書調印までほとんどこのソ連の参戦に対して何もできず、このため数多くの日本人がソ連軍の攻撃によって死亡し、また生き残った人の多くが捕虜としてシベリアに送られるという悲劇がおこりました。
ちなみに私の父もこの卑怯な侵攻によって、新兵として出陣していた当時の満州で捕虜となり、その後シベリアで3年間もの間、抑留生活を送るハメになりました。その父が無事に帰ってきてくれたからこそ、現在の私がいて、これを書いているわけです。
生き残った日本人の中でも、このソ連の日本北方進出によってその人生を狂わせられた人は多く、ソ連が樺太をはじめとする旧日本の北方領土に押し寄せてきたほんの短い時間の間に、祖国を追われ、日本に逃げ帰った人は多数におよびます。
当時、南樺太にはおよそ40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われました。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功しましたが、避難船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡したほか、陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡しました。
そんな中、からくも母親とこの地を脱出し、のちに戦後の相撲界を代表する力士となったひとりの人物がいました。
「大鵬幸喜」がその人であり、「巨人、大鵬、卵焼き」のキャッチフレーズでも有名となり、日本人なら知らないひとはいないであろうといわれるほどのあの大横綱です。
大鵬がこの南樺太で産声をあげたのは、1940年(昭和15年)5月29日 のことでした。本名は納谷幸喜(なやこうき)といいましたが、その後一時期は母親の再婚によって住吉幸喜(すみよしこうき)と名乗っていた時代もあります。
のちに第48代横綱となって以降は、長年の王者として相撲界に君臨し、生涯戦歴は872勝182敗136休(87場所)を誇り、幕内戦歴746勝144敗136休(69場所)という驚異的な数字をあげたほか、幕内最高優勝32回を誇りました。
その引退相撲は1971年(昭和46年)10月2日に蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて最後の横綱土俵入りが披露されました。
引退後は大鵬部屋を創立し、関脇巨砲丈士・幕内嗣子鵬慶昌たちを育成し、定年後、部屋は娘婿の貴闘力忠茂(現役時代は二子山部屋所属)に譲りました。部屋名は「大鵬」が一代年寄であったので、もともと所有していた「大嶽」部屋となりました。
しかし、覚えている方も多いと思いますが、この貴闘力は賭博問題で2010年(平成22年)7月4日に解雇となってしまい、その後は大鵬の直弟子の大竜忠博(最高位は十両)が部屋を継ぐことになりました。
2005年(平成17年)には日本相撲協会を65歳の定年で退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任しました。協会在籍中には理事長や執行部在任経験がなく、先に定年退職していた理事長経験者の佐田の山晋松と豊山勝男が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われています。
しかし、そのわずか3年後の2008年(平成20年)には、相撲協会理事会で体調不良を理由に相撲博物館館長を辞任することが承認されています。同年暮れには、日本相撲協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退き、このとき、「たまには国技館に足を運んで(相撲を)ゆっくり見たい」と語ったそうです。
2009年(平成21年)10月には、相撲界から初となる2009年(平成21年度)文化功労者に選出されました。これを受けた大鵬は記者会見では、「私一人だけの力でなく、皆さんが力添えしてくれたからこそ。大きな賞を戴けて本当に有難いことです」と喜びを語りましたが、このことばからもわかるように、謙虚そのものの人でした。
それから4年後の昨年、1月19日、心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。72歳でした。死去の数日前までは日刊スポーツの相撲面「土評」の解説コラムを書いたそうです。
大鵬の通夜は1月30日、葬儀・告別式は1月31日にいずれも青山葬儀所で営まれ、この争議には王貞治のほか黒柳徹子、第69代横綱・白鵬翔らが弔辞を読みました。
没後、更に多年に亘る相撲界での功績やその活躍が社会に与えた影響などが評価され、日本政府から没日の1月19日付で正四位並びに旭日重光章が追贈されました。また、2月には、日本政府が正式に国民栄誉賞を贈ることを発表。同年2月25日に遺族(夫人)と白鵬らが出席して故人として国民栄誉賞が授与されています。
この年の2013年3月場所千秋楽、平成の大横綱・白鵬が大鵬と双葉山の8回を上回る、史上最多の9回目の幕内全勝優勝を達成。
その全勝インタビューの際、白鵬自らが、「先場所やりたい事があったんです。今大阪の皆さんと一緒に、亡き大鵬さんにこの優勝を捧げて黙とうしたいと思います。皆さん起立お願いします」と発言し、春場所の観客と共に昭和の大横綱・大鵬へ1分間の黙祷を行いました。
白鵬は大鵬を「三人の父(生みの親・育ての親=師匠・角界の父=大鵬)」の一人と呼んで敬慕していたそうで、大鵬が亡くなる二日前にも見舞いに訪れていたといいます。
ところで、この大鵬ですが、実はそのお父さんが、ロシア革命後に樺太へ亡命してきた白系ロシア人であったということは意外と知られていない事実のようです。
父は、ウクライナ人の元コサック騎兵隊将校であり、その名はマルキャン・ボリシコといい、大鵬はその三男として、樺太の敷香町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に生まれました。
しかし、この父のマルキャンはその後、外国人居留地に強制収容されたため、幼い大鵬は母親の手だけで育てられることになりました。父とはこのとき生き別れとなり、その後の消息は分からなくなっていました。
ところが、まだ大鵬が生きていたころの2001年になって、樺太の日本研究家によって樺太の文書や関係者の証言が確認され、マルキャンのその後の生涯が明らかになりました。
サハリン州連邦保安局や州古文書館の資料によると、マルキャンは1885年か1888年、ウクライナ東部のハルキウ州ザチピーロフカ地区ルノフシナ村に生まれ、ロシア帝国による極東移住の呼びかけに応じた農民の両親とともに、樺太に入植しました。
1917年にロシア革命が起こると、北樺太はアレクサンドル・クラスノシチョーコフの極東共和国に組み込まれました。その後、極東共和国が消滅し北樺太の社会主義化が進むと、1925年マルキャンは単身で日本治政下の南樺太の大泊(現:コルサコフ)へ移ってきます。
1928年、大鵬の母親である、洋裁店勤務の納谷キヨ(後志管内神恵内村出身)と知り合い、結婚。翌年から敷香で牧場経営を始めます。マルキャンは多くの日本人・ロシア人を雇い、肉や乳製品を卸して成功し、南樺太では知られた名士にまで上り詰めたといいます。
この当時の南樺太には日露戦争以来、白系とされたウクライナ系・ポーランド系の住民が居住していました。ところが、このころから日本とソ連の関係が悪化してきたため、日本政府はこれらの住民を美喜内村の外国人居留地に強制収容しました。
このとき、マルキャンも一人居留地に移され、これによって大鵬やその母と引き裂かれ、生き別れになったというわけです。大鵬と母はその後、太平洋戦争末期のソ連参戦によって、樺太撤退を余儀なくされ、1945年8月に船で北海道へ引き揚げ、こうしてマルキャンとその家族との連絡は完全に絶たれました。
その後、ソ連の日本侵攻によって、日本からは自由の身となったマルキャンですが、1949年には、今度は反ソ宣伝を理由にソ連政府から自由剥奪の刑に処せられました。しかし1954年には、恩赦を認められ、サハリン州立博物館の守衛などを務めて余生を過ごしたといいます。
しかし、1960年11月15日、肺炎のためユジノサハリンスク(豊原市)で死去。奇しくもこの日は、息子イヴァーン、つまり大鵬が、入幕6場所目の関脇の地位において、このとき行われた11月場所で初優勝した日でもあったといいます。
2001年(平成13年)に、こうした大鵬の父親であるマルキャン・ボリシコの劇的な生涯が明らかになって以後は、サハリン州の日本研究家の働きかけもあって、ウクライナのハリキフ市には大鵬記念館が建設されました。
その後大鵬自身もこうした事実を知り、ハリキフで相撲大会を企画するようになり、ロシアを挟んで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びるようになりました。
やがてその交流はロシア連邦にも及び、2002年(平成14年)には北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを「露鵬幸生」として自分の部屋に入門させました。また、弟のバトラズは「白露山佑太」として二十山部屋に入門させ、後に北の湖部屋へ転籍しています。
大鵬はこのソスランの四股名に自分の「鵬」を与え、名前にも本名の「幸」の字を入れるほどの入れ込みようでした。この期待に応えた露鵬は、大鵬が定年退職した2006年(平成18年)3月場所で小結まで昇進しました。
しかし、2008年(平成20年)にドーピング検査で大麻の陽性反応が出たことで弟と共に日本相撲協会を解雇されたことは記憶に新しいところです。
さて、少し話を戻しますが、この大鵬の出身地である南樺太の敷香町は当時日本領でした。
出生の直後にソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、この樺太を脱出しなければならなくなったというのは、前述のとおりです。
この母親と共に樺太を脱出したとき乗った船は、小笠原丸といい、樺太からの最後の引き揚げ船でした。
母は、最初は小樽に向かう予定だったといいますが、慣れない船旅によって船酔いし、それまでの疲労も重なって体調不良を起こし、稚内で途中下船を余儀なくされました。
しかし、もしこのときこの母親が体調不良を起こさなければ、その後の大横綱の誕生はなかったでしょう。なぜなら、小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没しており、大鵬親子はその前に下船していたため辛くもこの難から逃れることができたのでした。
この小笠原丸とは、逓信省の海底電纜敷設船で、初の国産敷設船です。1400トンだったといいますから、私が大学時代に乗っていた実習船と同じくらいの小船で、引き上げ船に用いるほどの大きな船ではありません。
東京から小笠原諸島経由でグアムに接続する太平洋横断海底ケーブルの敷設を主目的に建造されたため「小笠原」と名付けられましたが、終戦の日を過ぎた1945年8月22日に遭難し、このとき、この船に乗船していた600名以上が命を落としました。
1400トンで、600名というのは、これでも結構な詰め込みといわざるをえず、おそらくはソ連軍が侵攻してくる逼迫した状況の中で、できるだけ多くの人を助けたいと関係者が考えたのでしょう。
この小笠原丸の沈没は、いわゆる「三船殉難事件」のひとつです。小笠原丸が沈没したのと同日には、北海道留萌沖の海上で他にも、第二号新興丸、泰東丸の二隻がソ連軍の潜水艦と思われる潜水艦からの攻撃を受け、三隻とも沈没して1700名以上が犠牲となり、これを総称して「三船殉難事件」と呼びました。
小笠原丸は、海底ケーブル敷設船として計画され、三菱重工業長崎造船所で建造された本船は、日本初の国産海底ケーブル敷設船でした。竣工は1906年(明治39年)であり、長年海底ケーブルの新規敷設や修理に従事しましたが、そんな中、1910年(明治43年)6月4日には、長崎県池島付近で遭難したロシア船を救助しています。
このときは、この船に同乗していたシャム王族一行および乗員100名を救出したといいますが、この時救った相手のロシアから、その後よもや攻撃を受けることになろうとは、このとき誰もが予想だにしなかったでしょう。
1945年8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表時にも、同年6月から始まった北海道と樺太の間のケーブル敷設に従事していたといいますが、同日稚内港で終戦を迎えた小笠原丸は、樺太所在の逓信局長から急きょ、逓信省関係者の引揚げを要請され、8月17日に稚内を出航し大泊港へ向いました。
樺太では8月15日以降もソ連軍の侵攻による樺太の戦いが続いており、混乱状態にあったといい、18日には、殺到する引揚者のうち老人・子供・女性約1500人を大泊から稚内に運ぶことに成功しました。600人でも多いくらいですから、その倍の1500人いうともう、ギュウギュウ詰めだったことでしょう。
しかし、さらに20日にも再度大泊へ回航し、同じく約1500人の引揚者を稚内に運んでいます。ところが、引き続いて8月21日、乗組員86名、警備隊員13名、稚内で下船しなかった引揚者約600人の合計約700人を乗せ小樽港へ向けて出航していたとき、22日の午前4時20分頃、増毛沖5海里にて国籍不明の潜水艦から小笠原丸は雷撃を受けます。
この時の航海で大鵬親子も乗船していましたが、上述のとおり、母親の体調不良で途中下船したため難を逃れました。
このとき小笠原丸は、沈没しかけている中を、更に浮上した潜水艦の銃撃を受けたといい、この非道な攻撃を加えたことをソ連側は認めていませんが、ソビエト連邦のL-12またはL-19という潜水艦ではなかったかとする説が有力です。
一部の乗員が救命ボートで増毛町の海岸にたどり着き救援を求め救助活動が行われましたが、ほとんどの乗船者が船と共に海中に没し、合計638名(乗組員57名、引揚者581名)が犠牲となりました。生存者はわずか62名であったそうです。
しかし、からくもこの小笠原丸の沈没から逃れ、下船した親子は、つてを頼って道東の川上郡弟子屈町の川湯温泉にたどり着き、大鵬少年はこの地で成長しました。
父親はウクライナ人で母親が日本人というハーフではありましたが、母親似であったため、大鵬にはロシア人の面影はありません。名前も母方の姓を名乗り、納谷幸喜としましたが、この「幸喜」というのは、彼が生まれた年が「皇紀」2600年であり、これにちなんだそうです。
ただ、父親から与えられたイヴァーンというウクライナ語名も持っており、その後生涯において使われることはありませんでしたが、彼自身はこの名にひそかな誇りを持っていたようです。
北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、そのためか、後年母親は再婚しており、このとき住吉姓に改姓しました。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていたといいます。
あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名です。しかしその後、大鵬が10歳の時に母がこの再婚相手とも離婚したため、大鵬は納谷姓に戻りました。
中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じように、中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていました。
ところが、大柄のロシア人の血をひいていたためか、生まれつきの体格がよくスポーツ万能だったといい、1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府へ巡業に来たとき親方に見いだされ、説得されて高校を中途退学し、大相撲の世界に飛び込むことになりました。
実はこの入門に母親は反対だったといいますが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が感心し、彼が母親を説得してこの入門を実現させたという逸話が残っています。
相撲の世界に飛び込んだ大鵬は、1956年9月場所に初土俵を踏んでいます。序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき1958年3月場所では早くも三段目で優勝、1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めました。初土俵から幕下時代までは本名の「納谷」で土俵に上がっていたといいます。
1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることになりました。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関からは「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われたといいます。
「どんな字を書くんですか? 撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは“オオヅツ”と読むんだ」と大笑いされたそうです。
この時に「大鵬」の字とその意味を問うたところ、親方は、大鵬の意味は、中国の古典にある「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来するのだと、教えてくれました。
そして、その鳳のごとく、大鵬はメキメキと頭角を現していきます。1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝。新入幕初日から11連勝は千代の山雅信の13連勝に次ぐ昭和以降2位、一場所でのものとしては昭和以降で最多となりました。また12勝3敗の好成績を挙げ敢闘賞を獲得。
つづく5月場所は11勝4敗で二度目の敢闘賞。7月場所で新小結に昇進すると、この場所でも11勝4敗、9月場所では20歳3ヶ月の史上最年少(当時)で新関脇となっています。11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、これも当時の史上最年少となる20歳5ヶ月で幕内最高優勝を達成し、場所後やはり史上最年少で大関へ昇進しました。
新大関となった1961年1月場所は10勝5敗に終わりましたが、翌3月場所からほぼ毎場所優勝争いにからみ、7月場所では柏戸と朝潮の難敵ふたりを連破して13勝2敗、大関としての初優勝を果たしました。9月場所では12勝3敗、柏戸と平幕の明武谷との優勝決定戦を制して連続優勝、場所後柏戸とともに横綱に同時昇進を果たしています。
この大鵬21歳3ヶ月、柏戸22歳9ヶ月での横綱昇進は、ともにそれまでの最年少記録だった照國萬藏の23歳3ヶ月を更新するものでした。
それ以後の活躍は、紙面がもったいないので、割愛させていただきますが、幕内最高優勝32回は、未だ誰にも破られていない不朽の金字塔です。
大鵬は、現役時代より慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売して、その収益を寄付していたといいます。1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)まで連続して老人ホーム・養護施設へテレビを寄贈し、翌1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)まで、日本赤十字社に「大鵬号」と命名した血液運搬車を贈っています。
血液運搬車の寄贈台数は1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001年(平成13年)まで毎年2台ずつで、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつでした。
2009年(平成21年)9月に70台目となったとき、この数が自身の年齢と同数となったことを理由として、その贈呈を終えたところでこの事前活動も終えたといいます。が、その後も何かにつけて、慈善活動にいそしみました。
こうしたことから、「人格者」としてもその名を世に知られるようになった大鵬は、1982年(昭和57年)には「世界人道者賞」も受賞しています。この賞は日本では余り知られていませんが、ローマ法王などが受賞した世界的に重要な賞です。
相撲人としての人気や知名度は、当時の子供の好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からもわかります。
ただ、人気だけでなく、その強さと出世の早さゆえ、「相撲の天才」ともよく呼ばれました。ただ、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてそう呼ばれることを嫌っていたそうです。
実際、大鵬の素質に惚れ込んだ二所ノ関の徹底的指導によって鍛え上げられましたが、その指導内容は四股500回、鉄砲2000回、瀧見山延雄による激しいぶつかり稽古というスパルタぶりだったそうで、これに耐えながら大横綱になっていく過程においては、人には到底想像できないような努力もあったことは確かでしょう。
少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉の温泉街には、1984年(昭和59年)に開館した大鵬相撲記念館があり、大鵬が実際に使用した化粧廻しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料の展示されています。
このほか、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから最晩年に至るまでの歩みを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもあるそうです。今度、道東へ行く機会があれば、ぜひ立ち寄ってみたいものです。
ところで、前述のとおり大鵬の父親はウクライナ出身でしたが、彼はまた、いわゆる白系ロシア人でした。革命後、日本領南樺太に亡命した旧ロシア帝国国民の白系ロシア人は多く、その内訳には、民族的なロシア人の他にかなり多くの非ロシア人、つまりポーランド人や大鵬の父親のようなウクライナ人が含まれていました。
ただ、旧ロシア帝国からの亡命者を総称して白系「ロシア人」と称しているだけで、本来のロシア民族・スラヴ人種ではなく、中でも、ソヴィエト政府による弾圧のひどかったウクライナ系やポーランド系のほか、ユダヤ人の国外亡命者はとくに多かったといいます。
また、ボルシェビキの赤に対しての「白=反革命」というのも共産主義者側からつけられた彼等へのレッテルであり、偏見という見方もあるようです。
しかし、現在の日本ではこのような白系ロシア人の子孫による利益団体は作られていません。第二次世界大戦後のソ連軍の占領によって第三国に再移住し、こうしたかつての亡命者は極端に少数になったためです。
利益団体はもとより、まとまった社会的集団としても日本には存在しておらず、日本国内の少数民族問題として取り上げられることもなく、白系ロシア人の血を引く日本人の数もごく少数に限られています。従って、大鵬のような人の存在は非常に稀有といえます。
しかし、ロシア正教徒としてのロシア人は現在でも多数日本に在住します。彼等は必ずしも白系ロシア人ではなく、あくまでロシア正教会関係者としての亡命者であり、ソ連が無神論を掲げて反ソ的とみなした宗教組織を弾圧したため、国外に逃れてきた宗教者です。
彼等の多くは、もともとのロシア正教徒の系譜を継ぐものですが、時代が下るにつれ、日本で新たに構築された日本の正教会に所属するようになった者も少なくなく、また日本人と結婚することで、その数を維持しています。
現在もなお神戸ハリストス正教会やニコライ堂など、日本の幾つかの正教会内において、一定の亡命者の子孫からなるコミュニティを形成しています。ただ、民族的には非ロシア人、たとえばグルジア人系等のような人たちが多数派であり、白系ロシア人は多くありません。
大鵬の父親のような多数の白系ロシア人の多くは、戦後、満州国やその周辺地域へ亡命したといいます。太平洋戦争末期には、その中から対ソ謀略専門の「満州国軍浅野部隊」が編成されていたという記録も残っています。
実は、さらにこれより以前、極東では反ソ連派ウクライナ人により「緑ウクライナ」という国が建国されたこともあります。
ウクライナ語で、緑の楔(くさび)とも呼ばれ、アムール川から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地の名称でした。
1917年のロシア革命以降、極東ウクライナ共和国がウクライナ人によってロシア極東に建国されることが計画されました。ボルシェビキの極東共和国が1920年4月6日に設置されると、ウクライナ人が多数であった極東はこの国家を脱して緑ウクライナと呼ばれる国家の建設を試みました。が、この運動はソ連の勃興によりすぐに失敗しています。
しかし、さらにのちの第二次世界大戦中においては、これらの残党であるウクライナ系ロシア人が、反ソヴィエト系のロシア人と結束し、一大組織として、「満州国白系ロシア人事務局」を結成し、日本の関東軍や満州国軍に協力しようとする動きがあり、これが上述の満州国軍浅野部隊などのような具体的な形になったようです。
が、浅野という人物がどんな人だったのか、調べてみましたが、よくわかりません。おそらくは満州国陸軍の諜報担当の有力将校だったのでしょう。
彼等は、樺太などから逃れてきた白系ロシア人と協同してソ連に抗戦する計画を立案したこともあったといいますが、その後、核となるべき大日本帝国の敗戦により反ソ共同戦線は潰え、ここで緑ウクライナの系譜もまた途完全に絶えてしまいました。
もしこの共闘が成功し、ソ連を撃退してこの極東の緑ウクライナが残っていたら、現在黒海でくりひろげられているロシア対ウクライナの綱引きにも参加していたかもしれません。
当然、日本とこの緑ウクライナとの国交は引き続いていたはずであり、それはソ連=ロシアに対抗しうる、極東における一大勢力になっていたに違いありません。
歴史に「もしも」はないとよくいいますが、もしそうであったなら、日本とウクライナが結託して東ヨーロッパでもその勢力を伸ばし、極東でも中国やアメリカと敵対していたかもしれません。
我々の知らない、パラレルワールドではもしかしたらそうなっているかもしれませんが、そういう妄想をあれこれしているうちに、紙面もかなりの長大になってきました。今日のところはこれで終わりにしましょう。