100万回生きてみそ

2015-9871今日は彼岸の入りです。

21日の春分の日を中日とし、その前後3日間を彼岸と呼びますが、その彼岸ウィークの初日というわけで、春の到来を祝うその日にふさわしく、ここしばらく経験していなかったようなぽかぽか陽気です。

この期間にお寺さんなどで行われる仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼びますが、仏教が中国伝来だからといって、この彼岸会もそうだろうと思う人も多いでしょうが、これは日本独自の風習です。

浄土教という、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く民間宗教のような形で流行したものであり、がしかし「宗教」」と呼ぶほど格式は高くないため、「浄土思想」と呼ばれるほうが多いようです。

その思想の中身ですが、阿弥陀如来が治めている土地、これを「浄土」といい、西方の遙か彼方にあるとされ、これを極楽浄土、または西方浄土と呼びます。ようするに西方にあるパラダイスであり、生前に悪いことをしなければ死後にはここへ行って仏様になれる、という思想です。

なぜ西方かといえば、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むためです。陽が沈む=死、というわけで、この西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸会の始まりです。

極めて原始的な思想であり、従って宗教ごとというよりは、もともとは庶民の間で自然崇拝として流行った行事というふう捉えるほうが正しいようです。

それをなぜお寺さんで仏事としてやるようになったのか。その答えは簡単です。江戸幕府が定めた「寺請制度」により、人々は必ずどこかの寺の「檀家」として登録が義務付けられたため、庶民と寺は切っても切り離せない仲になったためです。

寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられ、現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされました。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招いたり、逆にお寺に行く、という慣習ができました。

従って寺院というのはいわば今の公民館のようなものであり、彼岸会のような年間行事もここに皆で集まり、寺側が総元締めとして取り仕切るようになりました。

寺受制度は、もともと江戸幕府が人々の戸籍を明確にして税収入を安定化させる目的でつくられた制度であり、また宗教統制の観点からは、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度でもありました。

法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、この際には「お布施」という形で寺院に一定の収入が与えられ、僧侶の生活が保証される形となりました。が、一方では檀家の信徒を指導統制する責務が負わされることになりました。

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こうして僧侶を通じた民衆管理が法制化され、寺院は事実上幕府の出先機関の役所と化しました。従って、本来の宗教活動がおろそかとなり、江戸期を通じて汚職の温床にもなりましたが、こうした腐敗に対する反感が明治維新を起こす原動力にもなったわけです。

ただ、民衆の側からすれば、死後の葬儀や供養、あるいは彼岸会のような行事などの七面倒くさいことはすべてお寺でやってくれるため、楽ちんということはあったでしょう。江戸期以前の戦国時代で破壊された多数の寺院は、その多数がこれら門徒の寄進によって再建されています。

それだけ人々の間には、菩提寺になる寺を求める要望が高かったということであり、寺院側にも地元の人々の間にも双方ともにメリットがあったために、寺請制度は社会へ定着していきました。

なお、神社については、江戸時代以前にはお寺と合体しているところも多く、神社なのかお寺なのかよくわからん、というものも多かったようです。従って隣接するお寺が受け元となって檀家となった信徒は、同時にその神社の氏子でもある、というケースがほとんどでした。

従って、神社の氏子もまたお寺の檀家として寺に管理統制されていたわけです。しかし、こうした制度も、明治維新後に政府が断行した廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)制度によって完全に打ち砕かれました。

仏教排斥を意図したものではなかったともいわれますが、まずはこれら寺社と人々の結びつきを払って、明治政府があらたに定めた戸籍制度上にひっぱってくることがその目的でした。

その目論見は確かに成功し、また仏教・神道以外のキリスト教のような宗教も解禁されたため、それまでのような民衆と寺社の絆はかなり弱まりました。

と同時に、神仏習合を廃止、すなわち同じ領地内にお寺と神社が一緒に祀られている、寺社をみつけると、これを分離するように政府は命じました。また仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭なども行われましたが、その結果、おびただしい数の仏像・仏具・神像や神具が破壊されました。

空前絶後の文明破壊ともいわれるほどの暴挙であり、明治政府が行った数々の改革は評価されたものも多い中での暗黒部分である、とは良く言われることです。

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この新制度によって、人々はお寺、あるいは神社から監視され、統制されることはなくなりました。が、今でも江戸時代の名残により寺院や神社との結びつきを保っている家庭は多く、こうした場合、彼岸会にはその菩提寺へ行って先祖の墓に参り、ついでにそのお寺で行われている法事に参加したりします。

ちなみに、上述のように彼岸はもともと遙か彼方の極楽浄土に思いをはせる原始宗教的なものでしたが、現代ではその性質が変わり、祖先を供養する行事に変わっており、彼岸といえばお墓まいり、というのが当たり前のようになっています。

死線を越えるのは自分だけではない、ということでいつのまにやら民間信仰としての彼岸会は、家族の中から出た死者をも弔う仏事になっていき、ひいては死んでいった祖先までをも供養する仏事として定着したわけです。

このように、現在の日本でこの仏事として定着しているものは、この彼岸会もそうですが、インドや中国を起源として伝来した元々の仏教には含まれておらず、日本独自の風習が仏教と習合したものです。

それぞれがくっつきやすい要素を持っていたから合体したわけですが、逆にオリジナルの仏教が持っていた思想でも日本には定着しなかったものもあります。

例えば輪廻転生という考え方。死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言うわけですが、「輪廻」の一語で使う場合は動物などの形で転生する場合も含み、「転生」だけだと間の形に限った生まれ変わりを指すようです。

両方を一緒くたにして輪廻転生として使われることも多いので、ここでもそうしますが、それにしてもなぜ定着しなかったか。

これは、釈迦に原点を発するオリジナルの仏教では、「解脱して成仏する」か、「輪廻転生という苦しみの中にいる」がその考え方の根本にあるからです。

この釈迦仏教では、成仏しなかった場合には死後49日を経ていれば生まれ変わり、別人として人間界に生まれ変わっていたり、動物界に生まれ変わって犬やネコになっているかも知れないということになります。

仏にならない限りは、常に生まれ変わりを果たしているのですが、一方、その後中国から入ってきて日本で普及した仏教は、死後の転生はなく、そのかわり信心さえしていれば死んでも必ず成仏する、とされています。従って、既に仏様になったご先祖様はこちらの世界に帰ってくることはなく、このため「先祖供養」なるものが成立しました。

そして、死者であるご先祖様がこちらに帰ってくるのは、輪廻転生ではなく、お彼岸のようなイベントがあるときだけであり、しかもその行事が終わると、あちらにお帰りになる、というわけです。

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しかし、元々のお釈迦様の教えによれば、何十年も前に死んだ血縁者の供養・先祖代々の供養などは全くのナンセンスであり、不必要なものということになります。さらに言えば、もはや死んだ本人は別の体を持って生まれ変わるわけですから、抜け殻である肉体や骨は用のないものであり、墓も必要ないということになります。

ところが日本人の信じる仏教では、先祖供養と墓がきわめて大切なものとされ、信仰の中心となっています。こうして考えてみると、シャカの説いた仏教と、日本人が信じる仏教は明らかに異なり、極論すれば、日本人はシャカの教えに反した仏教を信仰しているということにもなります。

これが、輪廻転生が日本では定着していない理由です。日本の仏教で常識となっている先祖供養や墓の存在は、シャカの教えとは矛盾しているためであり、日本における自称「仏教徒」は、「先祖供養」と「死後の救い」をこの宗教に期待しているわけです。

シャカの教えでは、成仏とは悟りを得て輪廻を卒業することであるわけですが、悟りを得られて真の仏になれるならば墓は不要だ、と唱えているようなお寺や宗派は日本には存在しません。

むしろ死んだら仏になれる、その仏を供養するためには墓が必要だよ、とせっせと寺の土地を法外な値段で切り売りしたりしています。お墓の中に魂はいません。千の風になって吹き渡っているはずです。

だからといって、古来からの先祖崇拝的風習をすべてやめてしまえ、などと言うつもりはありません。亡くなった人々を敬い、弔うという考え方は当然あってよろしく、そのひとたちのことを思い遣るという気持ちはいつの時代にも尊いと思います。

が、私自身は輪廻転生という考え方を信じており、死んだらすぐに仏様になる、という考え方は否定的です。今あるからだが滅びたあとその魂はいったんあちらの世界に帰り、そこでまた修業をするなりして、機会あらばまたこの世に降りてきます。

機会あらば、というのはそれほど人間に生まれ変わりたい魂が多いからです。そのすべてが実現すれば、この地球という環境がパンクしてしまいます。このため、選ばれた人しか生まれ変われない、というわけであり、機会あらばというのは、君が生まれ変わるのを優先していいよ、と言ってくれる他の魂が多い場合に限る、という意味です。

従ってこの世に生まれて今生きているというのは非常に貴重な体験であり、その体験を通じて学んだことが、その魂を成長させ、それが何度も何度も繰り返されることで、さらに上質な魂になっていくわけです。

そして、その行きつく先が、お釈迦様の言うところの仏であるわけです。

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この輪廻転生を描いた絵本があります。以前、このブログでも少し触れたかもしれませんが、「100万回生きたねこ」という童話です。

1977年に佐野洋子さんという方が書かれたもので、画も文章もご本人のものです。一匹の猫が輪廻転生を繰り返していく様を描いた作品で、ご存知の方も多いかもしれませんが、子供より大人からの支持を得ており、「絵本の名作」と呼ばれます。

仏教的な内容なのかといえばそういうことでもなく、読み手により宗教を超えた様々な解釈ができ、私も読んだあとちょっと考えさせられてしまいました。

生まれ変わるたび、それまで飼われていた主人には心を開くことなく、虚栄心のみで生きていた猫が、その最後の生まれかわりでは家族を持ち、大切な人を亡くすことで、はじめて愛を知り悲しみを知る、というストーリーで、非常にシンプルなのですが、奥が深い物語です。

そのあらすじをここで書こうかなとも思ったのですが、読んだことがない人にはぜひ読んでいただきたく、あらすじを書くとその最初の感動が失われてしまうかもしれませんのでやめておきます。

ただ少しだけ書いておくと、100万回生きて100万回死んだ主人公のオスネコは、最後には二度と生き返らなくなります。このエンディングのあと「めでたし、めでたし」と思う気持ちがある反面、さらに複雑なさまざまな思いが浮かんでくるのがこの本の不思議なところです。

今いくらするのかな、とおもったら税込で1512円もするようで、この値段の絵本が売れるというのは、やはり現在でもそれなりに人気があるからでしょう。が、それなりの価値はあると私は思います。

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著作者の佐野洋子さんというのは、作家、エッセイストであり、脚本家、詩人としても有名だった谷川俊太郎と結婚されていましたが、のちに離婚されています。

北京生まれで、7人兄妹の第二子、長女でしたが、幼少時に病弱だった長兄を亡くしており、これが後の作風、そしてこの作品にも影響を与えた、ということが言われているようです。

武蔵野美術大学デザイン科卒。ベルリン造形大学でリトグラフを学び、ここを卒業後、デパートで働いていましたが、すべての工程を自分で決めたいと、デザイン、イラストレーションの仕事を手がけながら、「やぎさんのひっこし」で絵本作家としてデビュー。

1990年、谷川俊太郎さんと結婚し、1996年に離婚したころに、沢田研二さん主演のミュージカル「DORA 100万回生きたねこ」がヒットしたことから人気が再燃したようです。無論、現在でも人生や愛について読者に深い感動を与える絵本として子供から大人まで親しまれて重版を重ね続けており、海外でも訳本があります。

エッセイストとしても知られ、「神も仏もありませぬ」で2004年度の小林秀雄賞を受賞。その後のエッセイの中で、がんで余命2年であることを告白しておられましたが、2010年11月5日、乳がんのため東京都内の病院で亡くなられました。72歳没。

まだ5年しか経っていないので、まだ転生は果たしていらっしゃらないと思いますがわかりません。あるいはもうすでに我々のすぐ近くのどこかに生まれ変わっておられるかも。

あるいは99万回生まれ変わったあとの最後の死だったかもしれず、既に仏になられているかもしれません。だとするとこのお彼岸には帰ってこられるのかもしれません。一度お会いしてお話を伺ってみたいものです。

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