先週、お天気もよかったので、タエさんが行ったことのないという箱根の大涌谷方面へ出かけてきました。
修禅寺の我が家からはいつも箱根の駒ヶ岳が見えるのですが、大涌谷はこの北側の裏手にあたり、ここへ行くには国道一号線で箱根峠まで上がり、ここから芦ノ湖スカイラインで北上するのが最短です。
この日はほぼ快晴で、芦ノ湖スカイラインの各所にある展望所からは富士山はもちろん、駿河湾や芦ノ湖も一望の絶景がみられ、大満足したことは言うまでもありません。
この芦ノ湖スカイラインは芦ノ湖の西側の箱根外輪山の稜線上を通っているため、ここからは芦ノ湖越しにその湖岸にある箱根の関所も見通すことができます。
ご存知の方も多いでしょうが、箱根関はかつての東海道にあった関所です。海沿いを走る東海道を通って江戸へ入るためには、この関所のある箱根峠を越えるか、さらにその北側にある足柄峠が最短です。厳密にいえば足柄峠を通ったほうが関東へは近くなりますが。
芦ノ湖の北側にあるのが足柄峠で、南側が箱根峠。前者には東名自動車道が通っており、後者には国道一号線が通っています。
そのさらに南側には熱海峠があり、ここを超えても関東に入ることはできます。が、距離的にはかなり遠くなるため、その昔から江戸へ入るには箱根峠か足柄峠を通るルートがポピュラーでした。
こうした位置関係は、地図を見れば一目瞭然なのですが、どうしても頭の中では熱海のほうが近いのでは……と思ってしまいます。が、実際に地図をみてください。足柄峠か箱根峠を越えるほうが旅程はより短くすむのがわかります。
箱根に最初に関所が設置されたのがいつごろのことなのかについては定かではないようですが、律令期には箱根峠を経由する「箱根路」が開設されていたようで、この当時既にその路上に関所が設置されていたといいます。
この箱根路は足柄路とともに、古くから関東防衛のためにはもっとも重要な役割を担っていたようで、平将門が坂東(関東)で乱をおこしたときにも、西からの討伐軍を抑えるため将門は箱根に兵を派遣してこれを封鎖しています。
源氏と京都の朝廷がその覇権を争った「承久の乱」の際にも、執権の北条義時が鎌倉幕府の御家人を箱根路・足柄路へ出し、この関を固めて関西からの官軍を迎え撃ち、これを退けています。
その後の室町幕府も、鎌倉府に箱根に関所を設置させています。ただ室町幕府はただ単に人の出入りの制限のために関を設けていたのではなく、この関所で「関銭」を徴収することを目的としていました。そしてそれで得た収入で、1380年(康暦2年)には、鎌倉の円覚寺の修繕をしています。
その後戦国時代になり、北条早雲の後北条氏が芦ノ湖の南側の山中に山中城を設置し、この山中城に関所の機能を吸収しました。これも地図をみないとわかりにくいのですが、この山中城は箱根峠よりもかなり沼津側に下ったところの東海道(国道一号線)沿いにあります。
現在、きれいに整備されていて公園になっていますが、その当時はかなり広大なお城だったようで、関所を兼ねていたのです。
その後、後北条氏は秀吉によって滅ぼされ、さらにこれを継承した江戸幕府は、箱根峠のすぐ東側を小田原へ向かって流れる須雲川沿いに新道を切り開き、これを「箱根八里」と称して東海道の本道として整備しました。
そしてこの新道の北側の、芦ノ湖の湖畔にある「箱根神社」の位置に当初の関所を設置しました。ところが、この地が神社の社域であったことなどから、これに対してここに住む住民が猛烈に反発したため、関所をもう少し南側に移し、ここに新しい町である「箱根宿」を設置しました。
この箱根宿にあった関所跡は現在きれいに整備されていて、関所の復元はもちろん、この当時の資料などが展示されている博物館(箱根関所資料館)なども併設されていて箱根観光の中心的存在になっています。
大きな駐車場もあるためいつ行っても観光客であふれていますが、正直言って関所と博物館以外にはあまり見るところもありません。富士山の眺めもイマイチ、というかそもそもこの関所跡の位置からの富士山は頂上付近しか見えなかったように思います(間違っていたらスイマセン)。
この箱根関所を管理していたのは、幕府譜代の大藩である小田原藩でした。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路であったため、外様藩などには任すことができなかったためです。
通行時間は明け6つから暮れ6つまでで、これは冬至のころならば明け方6時くらいから夕方5時ぐらいまでで、夏至のころなら朝の4時から夜の7時くらいに相当します。ようするに明るい時分だけ通行可能だったようです。
夜間通行は原則禁止されており、しかもいわゆる、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られていました。
ご存知の方も多いでしょうが、これは江戸に入ってくる鉄砲、つまり「入鉄炮」と、大名の家族の女性が江戸より出て行かないように江戸から外に出て行く女、すなわち「出女」を特に注意して取り締まった交通政策です。
もう少し補足すると、入鉄炮には老中が発行する「鉄炮手形」が必要であり、出女には留守居が発行する「女手形」の携帯が義務付けられており、この手形がないと関所の通行はできませんでした。
鉄砲を関所の内側(江戸方面)に入れる際には、鉄炮手形を関所に提出させ、関所に備え付けられた「判鑑」によって手形に記された老中の印鑑が真正であるかを確認したそうで、その上さらに鉄砲の所有者・挺数・玉目・出発地と目的地が手形の記載通りであるかが確認された上でないと通過が許されなかったといいます。
また、鉄砲などを隠す空間を作りやすい長持などの検査も厳重に行われたそうです。ところが、逆に江戸からの鉄砲の持ち出しについては、意外にも簡単な検査しか行われなかったといいます。
出女のほうの改めも厳しいもので、女性が関所の外側(地方)に出る際の女手形の提出はもちろん、入鉄砲と同じく「判鑑」で幕府留守居の印鑑が本物であるかどうかをチェックしました。女手形は別名「御留守居証文」ともいい、関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていたといいます。
こうした出女のチェックは現在の浜名湖の西側にある「新居関」などの他の関所でも行われていましたが、江戸により近い箱根関の場合は特に厳しかったらしく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)まで常駐させて、出女をじっくりと観察したそうです。
この検査はかなり厳重なもので、髪の毛の有無や身体的特徴、とくにほくろの有無や妊娠の有無などについてまで吟味が行われたということで、さらには男装していないかを見破るため、男に対しても同じ検査をしていたという記録もあるということです。
これはこの当時の通行手形の発行手続は男性のほうが簡単だったためで、女が男のふりをして手形の発行を受ける可能性があったためです。「男装の麗人」は簡単には通過できなかったわけですが、おかまさんはどうだったのでしょうか。
ただ、伊勢神宮参拝者や温泉湯治などを行う者に対しては「書替手形」と呼ばれる特別な手形を出す例があったそうで、これを受けた者については予め幕府が身元を確認したものとみなされて簡単な手続で済ますこともあったといいます。
とはいえ、基本的には通行手形がないと通行ができず、これを持たずに強行突破をするいわゆる「関所破り」はかなり重大な犯罪とされ、これを行おうとした者、あるいはそれを手引きしたものは磔(はりつけ)にされるなどの厳罰が課されました。
ただ、幕末にもほど近い文久年間のころには改革によって参勤交代が緩和されるようになり、これに伴い関所での手続は大幅に緩和され、「女手形」の発行手続きも簡素化されました。さらに幕末の1867年(慶応3年)には手形が廃止され、事実上関所の通行は自由になり、関所改めもなくなりました。
1686年(貞享3年)ころの小田原藩の職制の記録によれば、箱根関所は番頭1・平番士3の侍身分の番人のほか、小頭1・足軽10・中間2の「足軽」身分の者、そして定番人3・人見女2・その他非常用の人夫などから運営されており、常時20人以上の番人がいました。
侍と足軽身分の者はすべて小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務しましたが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用されたといいます。侍と足軽身分の者の手当ては小田原藩が負担しましたが、これらの農民に対する手当は幕府が肩代わりを行ったといいます。
箱根関所には常備付の武具として弓や鉄砲、槍などが常備されていました。その数も、弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具(突棒・刺股・袖搦)1組・寄棒10などなどきちんと決められていたといいます。
しかし、これは関所に立てかけて置いてあるだけだったそうで、ほとんどが旅人を脅すためだけの示威目的のものでした。火縄銃にも火薬は詰めておらず、弓は置いてあるものの矢は常備されていなかったことなどが記録として残っています。
関所内には主たる番所のほか、番士の詰所や休息所、風呂場まだあったそうで、このほか牢屋や厩、高札場などが設置され、これらすべてが柵で囲まれていました。また、関所裏にある屏風山という山には「遠見」のための番所が置かれ、芦ノ湖南岸にも「外屋番所」という監視所が設置されました。
そのほか、周囲の山林は幕府によって要害山・御用林の指定を受けており、そこを通過して関所破りを行おうとした者は厳罰に処せられました。実際に現地へ行ってみるとわかるのですが、この関所とその周辺の山々はかなりの高所にあるため見晴らしがよく、監視の目をくぐってこれらの場所を通過するのはかなり厳しいのではないかと思われます。
ただ、これより北側の足柄峠や南側の熱海峠側は比較的標高が低く、獣道などもあったと思われることから、秘密裡にこれらのルートを通って江戸へ出入りする「隠密」なども少なからずいたのではないかと推察されます。確たる資料があるわけではありませんが、所詮は街道筋の関所だけで人やモノの出入りを完全にシャットアウトするのは不可能です。
しかし、この辺のことは幕府もご承知だったらしく、できるだけその穴を埋めるべく箱根関所以外にも主要な街道筋(脇往還)には別の関所を設けています。
そのひとつは、芦ノ湖のすぐ北側の仙石原付近をとおる「箱根裏街道」に設けられた「仙石原関」であり、さらにその北側の足柄峠を通過し、丹沢の南側方面へ抜ける「矢倉沢往還」には「矢倉沢関」が設置されました。この「矢倉沢往還」は現在の国道246号とほぼ並行して通っていました、
芦ノ湖の南側の熱海峠を越える「熱海入湯道(熱海道)」には「根府川関」などが設けられ、箱根関以外には全部で5ヶ所の関所が設置されています。
このうち箱根関は、江戸幕府直営の公式な関所とされ、他の5つの関は「脇関所」として位置づけられ、厳重に出入りがチェックされました。ただ、前述のようにこれ以外の経路を通過することはけっして物理的に不可能ではなかったようです。
とはいえ、万一これらの関所を通過しない経路を無断に通行しているのが発見された場合、その行為自体が「関所破り」「関所抜け」とみなされ、厳罰に処せられました。
これらの関所は、明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したとき、同じく廃止されています。いずれの関も、もともと大した構造物もなかったことからその当時の形跡はほとんど残っておらず、私もすべての関所跡を見たわけではありませんが、史跡として整備されているのは観光目的で復元されたこの箱根関くらいのようです。
が、もともと関所というのは狭隘な場所に造られているものです。なので、この場所も、特段眺めが良いわけではなく、観光場所としては今ひとつぱっとしません。
あまりつまらん、つまらんと書くと、箱根観光協会からお叱りを受けるかもしれませんので少しフォローしておくと、この関所の南側には観光船の船着き場があり、ここから出る観光船に乗ると、芦ノ湖周遊船が出ています。乗船料を払わなければなりませんが(北端の湖尻までたしか。1000円くらいだったと思います)。
関所の北側には「関東総鎮守・箱根権現」といわれた壮大な箱根神社もあります。こちらは無論入場料はいりません。かつて総鎮守であった箱根神社の存在感はこの地域においては非常に大きく、吉田茂を始めとする政財界の大物が参拝したことで知られています。
この箱根神社の北東側にそびえるのが「駒ヶ岳」であり、山頂まではロープウェイが通っており、ここからは西の駿河湾はもちろん、東の小田原方面も見渡せる絶景がみれます(こちらの運賃も往復千円くらいのはず)。山頂には先の箱根神社の奥宮(元宮)もあり、山塊自体が境内になっています。
このほかにも先日のブログでも書いた曽我兄弟のお墓や、精進池、お玉ケ池といった小スポットもあり、更に足を延ばせば大涌谷もほど近く、これらをつぶさに見ていこうとすると一日では足りません。
……とまあ、このくらい書いておけば観光協会さんからもお叱りは受けないでしょう。
以上が箱根の関所にまつわるお話です。あまり目新しい話でもないのですが、私自身、地図を見ながらこれを書いていて、長年、箱根の関所ってなぜこんなへんな場所にあったのだろう、と疑問に思っていたのが解消されました。
他の関所があった場所も、地図を見比べながら確認してみるとなぜそこに関所があったのか理由が分かると思います。多くは現在の主要幹線の途中にある場所であり、その幹線道路が遮断されることを考えると大いに不便になることがわかります。
先日の笹子トンネル事故もしかりです。現在、このトンネル一本が不通になっていることで、地域経済への打撃は相当なものになっているそうです。
もし、今富士山が噴火したら、これらのかつての関所があった幹線道路のほとんどが通行不能になることも考えられます。関東と関西をつなぐ大動脈の分断は、東北の大震災以上に我が国の経済に影響を及ぼす可能性があるといわれています。
普段はごく当たり前に通っている道でもそこが自由に通れなくなったときのことを考えると、そのありがたみが増します。そうしたことを考えると江戸幕府がこれらの関所を重視していたわけもわかるような気がします。
関所のあった時代に少し思いを馳せ、普段自由に通っている道のありがたみをあらためてかみしめてみましょう。