「飛行器」のはなし


今日17日は、1903年(明治36年)にライト兄弟による初の飛行機の動力飛行が行われた日として知られています。この初飛行は飛行時間59秒でしかありませんでしたが、その2年後には33分17秒の飛行時間を記録し、その後各国の開発者により飛行機はめざましいスピードで発展していきました。

ところが、日本ではこれに先立つことの1889年(明治22年)に、二宮忠八という人物が既に「飛行器」を考案していました。その翌年には、ゴム動力による模型の「烏(からす)型飛行器」を製作しており、その成果を踏まえて軍用としての「飛行器」の実用化を訴え、軍部へ二度にわたる申請を行っています。

しかし、軍部はそんなものは夢物語であると一蹴し、その主旨は理解されなかったため、以後、二宮忠八は独自に人間が乗れる実機の開発を目指す道を選ぶことにしました。

この二宮忠八という人は、伊予国宇和郡(現・愛媛県八幡浜市矢野町)出身の裕福な商家の生まれでしたが、父が事業に失敗したため没落。忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働きましたが、本来勉強好きでそのかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていたといいます。

収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したといい、この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれます。

その後、錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった彼は、これをもとに飛行器を考案するようになったといいます。

軍部からはけんもほろろにあしらわれた忠八でしたが、何事につけ計画的な性格だったらしく、その夢を実現するためにはまず資金が必要だろうということで、大日本製薬株式会社という会社に入社し、資金をためはじめました。

そんな矢先の明治36年(1903年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功しました。このニュースはすぐには日本には伝わらなかったようで、それを知らない忠八はなおも飛行器への情熱は持ち続けます。

やがてこの会社で業績を挙げて明治39年(1906年)には支社長にまで昇進します。そして、その成功をもとに本格的に飛行器の開発を進めようとしましたが、支社長の収入だけでは開発資金をまかなうことができませんでした。このため、スポンサーを募りますが思うように集まらず、その開発は停滞しました。

そして、その当時軍部でオートバイ用のガソリンエンジンを使い始めたということを知ります。これを動力に利用できないかと考えていた忠八は、明治41年(1908年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入しますが、購入後にこれでは力不足であることが判明。

そして、さらに高出力のエンジンを探し求めていましたが、なかなか良いものが手に入らず、ついには12馬力のエンジンを自作する構想を立てました。この12馬力という出力は、偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」に搭載されていたエンジンの出力と同じだったといいます。

ところがその開発を始めようとした矢先に、ライト兄弟が飛行機を飛ばすことに成功したという事実を忠八は知ります。落胆した彼は、開発中だったエンジンの研究こそ続けましたが、完成しつつあった飛行器本体の開発は取りやめてしまい、製薬の仕事に打ち込むようになりました。

こうして忠八の飛行器の開発の夢は途中でとん挫しました。当時彼が製作していた機体はその後の軍の調査では重量が重過ぎ、完成しても飛べないだろという診断だったといいます。

しかし、現在の専門家がこの当時の機体の設計図等を再度改めたところ、もし完成していたならば理論的には飛べたのではないかと言われており、その設計が正しかったことが今は認められているそうです。

もし、忠八が軍部に行った飛行器開発の申請が認められ、国産飛行機の開発が成功していたら、人類初の飛行機の成功の栄誉は日本人が手にしていたに違いありません。

ともあれ、飛行器開発への夢をあきらめてしまった忠八は、大日本製薬も退社してしまい、その後、自分の会社を創立します。この会社「マルニ」は1909年(明治42年)に創業。大阪府大阪市北区に本社を置き、現在までも続く食塩メーカーであり、家庭用食塩としてその名を知られる「エンリッチ」の製造販売をおこなっています。

2002年4月に塩事業法の期限終了に伴う食塩の自由化後も、一般食塩メーカーとして高いシェアを持つ企業の一つであり、最近は真夏の炎天下でのスポーツ・作業時の熱中症を防止するため、水と共に塩分を補給するスポーツドリンクなどの製のも販売にも力を入れています。

飛行器開発をあきらめた二宮忠八ですが、その後の大正8年(1919年)に同じ愛媛県出身の陸軍中将の白川義則と懇談した際、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げます。

このため、白川が専門家にその当時の忠八の設計図等を見せたところその内容は技術的に正しかったことがわかり、ようやく軍部は忠八の研究を評価するようになりました。

そして、大正11年(1922年)、忠八を表彰。大正14年(1925年)には逓信大臣から銀瓶1対を授与され、さらに昭和2年(1927年)には勲六等に叙せられました。

その後、忠八が当初、軍用の「飛行器」の実用化へ向けての申請を行った当時の責任者で、その後「航空機の父」と呼ばれた元陸軍中将の「長岡外史」は直接忠八のもとを訪れ、その当時のことを謝罪したといわれています。

さらに忠八の死から18年後の1954年(昭和29年)には、英国王立航空協会が自国の展示場へ忠八が最後に製作した「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介しています。

こうして、忠八の飛行器づくりへの夢は潰えてしまいましたが、それでは日本で初めて国産飛行機を飛ばしたのは誰でしょうか。

これは、ライト兄弟の初飛行から遅れて6年後の1909年(明治42年)気球および飛行機の研究を目的に組織された「臨時軍用気球研究会」だと言われています。

陸海軍大臣の監督のもと、軍民両方の委員で組織されたもので、その目的は、

1.国内で飛行船、飛行機を制作する
2.設計のための基礎実験及び実験設備建設
3.性能試験、実用実験及び飛行場の建設運営
4.外国の飛行船、飛行機の購入と制作技術、操縦技術の修得

だったそうです。そして、この組織によって制作された初の国産機が、1910年(明治43年)の10月13日に同研究会の徳川好敏大尉の操縦によって代々木練兵場の空を飛びました。

しかしこの設計は、フランスから輸入された「アンリ・ファルマン1910年型」という飛行器を参考にしたものでした。しかし、オリジナルから翼断面形状や面積を変更し、また各部の形状を流線形にして空気抵抗を減らし、速度の向上などが図られました。

その結果として、高度50mで時速72kmを出し、オリジナルのファルマン機より操縦性も良好であると評価されたといいます。

この飛行機は全幅が11.00m、全長11.00m、総重量550Kgという現在の水準からするとかなり小さなもので、複葉の翼の下にはまるでリヤカーのタイヤのような車輪が4つついているだけのシンプルなものであり、無論、操縦席にカバーなどなく、むき出しでした。

発動機も国産ではなく、グノーム空冷式星型回転式と呼ばれるフランス製で50馬力しかありませんでした。ライト兄弟が初飛行させたものと比べれば馬力は4倍以上もありましたが、まだまだ軍用に仕えるような代物ではなく、当時の軍部もこれは試験機ととらえ、これをもとに純国産機を開発しようと考えていました。

この飛行機を飛ばした「臨時軍用気球研究会」に、群馬県尾島町の農家の出身で苦学の末海軍機関学校を卒業した「中島知久平(なかじまちくへい)機関少尉が御用掛として任官したのはちょうどこのころでした。

この当時の海軍は、この研究会とは別に独自に飛行機を開発しようと考えており、1912年(大正元年)には「海軍航空術研究委員会」を発足させました。中島少尉を陸軍の研究機関に派遣したのは、その基礎技術を一から学ばせる意図があったものと考えられます。

そして海軍は、「海軍航空術研究委員会」の事務所を横須賀に設置し、海軍独自の「水上機」を飛ばすために飛行場建設を近くの追浜海岸で始めました。飛行機開発を進めるために、アメリカのカーチス式水上飛行機やフランスのモーリス・ファルマン式水上飛行機を購入し、研究をスタート。

陸軍で飛行機の基礎を学んだ中島少尉は気球研究会を離れ、1913(大正2年5月)にこの海軍航空術研究委員会に属して実地研究に携わるよう辞令を受けます。

さらに横須賀海軍工廠造兵部の飛行機造修工場長、監督官に任ぜられ、ファルマン機生産監督のためフランスへの出張します。この間、第一次大戦が勃発し、その際に開発されてまだまもない航空機の活躍を目の当たりにしたことからその重要性を痛感するようになります。

そして帰国後、当時の大艦巨砲主義におおいに異論を唱えるようになり、「経済的に貧しい日本の国防は航空機中心にすべきであり、世界の水準に追いつくには民間航空産業を興さねばならない」と意を固め、1916年(大正6年)、健康上の理由にして海軍に休職願いを出します。

そして神戸の肥料問屋の石川茂兵衛の援助を得て、群馬県尾島町の生家の近くの養蚕小屋を借り、ここに所長たった一人だけの「飛行機研究所」の看板を掲げます。時は1917年(大正7年)10月、後年の「中島飛行機」の歴史の第1ページの始まりでした。

最初は知久平一人でしたが、その考えに賛同した横須賀海軍工廠時代の盟友や若い技術者がここに次々と集まるようになります。

まず、海軍時代からこの日のために中島知久平と共に当初より画策してきた栗原甚吾が合流し、また後の大幹部となる三竹忍、稲葉久太郎、小山悌、杉本一郎、長門春松、小林弥之助、佐々木新治などが集まってきましたが、こうして集まった8名のほとんどは20代でした。

この「飛行機研究所」は現太田市内にある旧尾島町から太田町にある金山という山の麓にあったそうで、家賃はわずか3円。当初の機械設備といえば10馬力のモーター1台とかんな機、帯鋸、丸鋸、旋盤、ボール盤各1台だけという寂しいものだったといいます。

もっともこのほか東京の三田の古道具屋で300円で手に入れたイギリス製の単気筒エンジン付きの自動車1台があったといい、これは飛行機の部品などを購入して運搬するためには不可欠な装備でした。

こうして設立当初は知久平を含めてたった9名で始まった中島飛行機ですが、若いエネルギッシュなパワーの集結によって、はやくもその翌年にはアメリカ製エンジンを搭載した中島式一型1号機を完成させました。

しかし、その記念すべき初飛行でこの機は離陸直後にあえなく大破。続く2号機も失敗に終わりましたが、3号機でようやく17分間の飛行に成功。しかし、その着陸時に溝に落ちて大破してしまい、実用化には程遠いといったありさまでした。

これを再び工場に持ち帰って修理し、4号機として尾島で飛行を行いましたが、今度は利根川の中に墜落し、機体は大破。しかも操縦していた佐藤飛行士が重傷を負ってしまいます。

このころ、おりしも第一次大戦後のインフレで各地で米騒動が起こっていましたが、この騒動と中島飛行機の飛ばないことを絡ませ、太田の人々は、「札はだぶつく、お米は上がる、何でも上がる。上がらないぞい中島飛行機」とはやしたてたという逸話が残っています。

しかし、その後も試行錯誤の中、挑戦は続きました。そして、その苦労の中、1919年(大正8年)に完成した中島式四型は、それまでの三型に対して新しい設計の主翼を採用し、空力的にも大幅に改善され、それなりに近代的な外観設計となっていました。

そしてその試験飛行を陸軍を予備役となり中島に入社した水田中尉という人物が尾島飛行場でおこなうことになります。

この飛行機に社運をかけていた面々が固唾を飲む中、試験飛行が始まりましたが、水田中尉はなんなく離陸し、しかも周回飛行だけではなく、何と宙返り飛行を5回も行い、一同は嬉しさの余り放心状態に陥ってしまったといいます。

同年10月、帝国飛行協会主催で「第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会」という競技会がが計画されましたが、中島飛行機ではこの試験飛行での成功を踏まえ、自社機をこれに参加させることにします。

しかしまだ飛行機の開発は黎明期であったため、競技への参加希望は少なく、中島機のほかには1機しか参加表明がありませんでした。このため、協会の要請で中島飛行機は2機参加させることにしました。

この競技会は東京大阪間を無着陸でしかも8貫目(約30kg)の郵便物を積んで往復飛行するというものでした。中島飛行機からは、150馬力の中島式四型と200馬力の中島式六型が参加し、アメリカ製のゴルハム125馬力機の3機で競技を行いましたが、この往路で200馬力の中島六型機はコースを誤り和歌山県紀ノ川付近に不時着して失格。

残る2機が競う結果となりましたが、中島式四型機は往路3時間40分、帰路3時間18分、計6時間58分で、8時間28分で飛んだゴルハム機に勝利を得ることができ、賞金9500円を獲得しました。

往路で失格した六型機も帰路では2時間39分というこの当時としては信じられないような大記録を打ち立て、中島飛行機の優秀性を世に知らしめる契機となりました。

この結果は軍部に高く評価され、同年陸軍は中島式4型練習機として20機の発注を中島飛行機に行うことを決め、これが我が国の民間飛行機製作所が軍部から得た初の調達となりました。

その後も軍部からの中島飛行機への飛行機の発注は続き、こうして中島飛行機は日本を代表する航空機メーカーとなっていきました。そしてエンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備えるようになり、1945年の第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーといわれるまでに成長しました。

1917年の創業から終戦までに計29925機の航空機を生産し、三菱が設計した零戦の全体の約2/3も中島飛行機が生産しています。独自開発機としては九十七式戦闘機や、隼、疾風などの名機があり、このほか1944年には大型爆撃機「富嶽」の開発に着手しています。

この富嶽の開発は戦況が不利に傾く断念されていますが、B29を超える超大型機であり、アメリカ本土の爆撃のために開発されたていたといわれ、もしこれが完成していたらその技術は現代の旅客機の開発にもつながるものであったであろうといわれています。

1944年(昭和19年)12月には、すべての工場の集計で最高生産機数7940機を記録していますが、しかし1945年(昭和20年)8月に日本は敗戦。これを受け中島飛行機も全工場を閉鎖し、社名を富士産業株式会社に改称。中島知久平取締役社長も辞任に追い込まれます。

同年11月には、この富士産業株式会社も占領軍により「財閥会社」に認定されたため、航空機の生産はもとより研究も禁止され、1950年(昭和25年)5月には二度と軍需産業に進出できないよう、12社に解体されました。

しかし、この解体により技術者の多くは自動車産業へ転進することになり、その後の日本の自動車産業の発展に多大な貢献をするようになったことは多くの人が知る事実です。

ちなみに、この中島飛行機の流れを汲む「富士重工業(SUBARU)」の車に、私もかつて乗っていたことがあります。水平対向エンジンという他社に例をみない特殊なエンジンを搭載したこの車は力強く、ドライビングフィールも秀逸でお気に入りでした。

富士重工業の車は数多くの戦闘機の製造開発で培った技術力が受け継がれている車として、年長の人いは根強い人気があり、私の叔父や亡くなった義父もこよなくSUBARUを愛し、義父などはその生前に10台近いスバル車に乗っていました。

現在もやや元気のなくなってきているトヨタ車やホンダ車を尻目にスポーツ車やSUVを中心としたラインナップは大いに人気を集めているようです。

この中島飛行機が戦後に解体されてできた自動車会社はこの富士重工業だけではなく、現在はニッサンに吸収されてしまったプリンス自動車も中島飛行機の浜松工場がその前身です。このほかにも精密機械メーカーのTHKや電動工具でおなじみのマキタなども中島飛行機から派生してできた会社です。

こうした中島飛行機の流れを汲む会社として生き残り、現在も航空機産業に関わっているのは、唯一「新明和工業」だけです。しかし中島飛行機そのものが解体されてできた会社ではなく、戦前に中島飛行機の技術者を引き抜いてできた「川西航空機」が前身です。

水中ポンプ、機械式駐車場、理美容機器のメーカーとして知られていますが、自衛隊に「飛行艇」を納入しており、この優秀な飛行艇の海外輸出をめぐって、これが「武器」にあたるのではないかということで論議を引き起こしたことを記憶されている方も多いでしょう。

このほか、中島飛行機は終戦直前にはドイツからの技術情報等に基づき、ジェットエンジンやロケットエンジンの独自開発にも着手しており、こうした技術力は富士重工と富士精密工業のほかプリンス自動車工業に継承されました。

このプリンス自動車を吸収したニッサンは糸川博士による国産初のロケットペンシルロケットの開発の際、その共同研究に参画しています。

こうした技術力はその後石川島播磨重工業(現:IHI)に受け継がれ、自衛隊のミサイル開発や宇宙航空研究開発機構(JAXA))のロケット開発技術に生かされているといいます。

また、富士重工業は、もともと中島飛行機出身の有志が、国産航空機開発の再開を目指して設立した会社であり、戦後の航空機生産解禁後は航空機分野への参入も視野に入れてきたといい、自動車の販売が好調なため、いずれはそうした方面にも参画していくのではないかとみられています。

二宮忠八に始まった日本の航空機製造技術は、今も脈々と国内のメーカーに受け継がれています。国産初のジェット旅客機MRJが世界の空を席巻する日も近づいており、自動車産業が成熟期を過ぎ、衰退期にあるのではないかといわれるなか、日本の航空機産業には大きな期待が寄せられています。

いつか国産のロケットで宇宙旅行へ行く日も来るに違いありません。その日を楽しみに頑張って生きていくことにしましょう。