鍋 時々 カレー


寒い日が続きます。ここ修善寺でも日中はともかく、早朝には氷点下になる日もあり、霜柱もできます。もっとも我々が住んでいる場所は標高200mほどもある山の上のため、ふもとに比べるとより寒い、ということもありますが。

こういう寒い日が続くと、夕食なども温かいものが食べたいということで、どうしても鍋料理が多くなります。我が家でも、「鍋ときどきカレー、ところによっておでん」というほど汁ものが多くなっており、昨夜もメニューのひとつはトン汁でした。

その昔の日本家屋には、台所のかまど以外に、暖房も兼ねて囲炉裏(いろり)がある家も多かったようですが、冬の間にはこの囲炉裏に架けた鍋にいろんな具材を入れてほぼ毎日のように鍋料理をたべていたようです。なので、我が家の鍋料理の多さも「誇るべき日本の伝統的風習」であり、何ら非難されるべきところはありません。

もっとも、鍋料理は料理をする手間が省けるという点が最大の魅力であり、ものぐさ夫婦であるわれらにとっての強い味方…ということでもありますが……

この鍋料理は、このようにお手軽料理であることから大昔からあるようですが、肉を入れた鍋料理を普通に食べるようになったのはごくごく最近であり、その人気に拍車をかけたのは、明治時代に流行した「牛鍋」のようです。

いわゆる「すきやき」のはしりですが、この当時のものは現在我々が食べているような薄切り肉を使ったすきやきではなく、ぶつ切り肉(角切り肉)を使用したそうで、割下も今のようなしょうゆ味ではなく、味噌仕立ての汁で食する「味噌鍋」に近いものでした。

幕末から明治時代初期の牛肉は質が低く固くて獣臭さが目立ち、それらを緩和するため、牛鍋とはいいながらも、イノシシ肉やシカ肉も加えた「ぼたん鍋」や「紅葉鍋」に類似した内容で、肉の臭さを緩和するためには味噌が最適の調味料だったようです。

肉以外に入れる野菜も当初はネギのみだったそうで、ネギを五分の長さに切って入れたことから、明治初期には具材のネギのことを指して「五分」と呼んでいたそうです。

そもそも、日本では幕末になるまで、牛肉に限らず、肉を食べることは一般には行われていなかったようです。しかし、「すきやき」と称された料理は存在していたそうで、古くは江戸初期の1643年(寛永20年)刊行の料理書「料理物語」に「杉やき」と呼ばれる料理が登場しています。

ただし、この料理は肉を使ったものではなく、鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理だったようです。

さらに時代が下がり、江戸末期近くの1801年(享和元年)の料理書「料理早指南」では、「鋤やき」は「鋤のうへに右の鳥類をやく也、いろかはるほどにてしょくしてよし(鋤の上に右の鳥類を焼くなり、色変わるほどにて食してよし)」と記述されており、ここでいうところの鋤焼きとは、文字通り「鋤」のような農具を熱して、この上で鶏肉を焼いて食べるものでした。

1804年(文化元年)の「料理談合集」にもこれと同じような記述がみられるそうで、使い古した鋤(すき)を火にかざし、これに鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱するといったメニューが紹介されています。

1829年(文政12年)には「鯨肉調味方」という料理本が出されており、鳥や魚以外にもクジラが調理され広く食されていたことがわかります。

これらの料理本には、他にも、「すき身」の肉を使った料理などが紹介されており、このように古くは「杉やき」と呼ばれていたものが、その後「鋤」や「すき身」を使った料理に変わっていき、これらのことから「すき焼き」という料理名が定着していったのではないかといわれています。

しかし、江戸時代ではその後も長いあいだ、牛肉を食べるという風習は日本にはありませんでした。ところが、幕末の1859年(安政6年)に横浜が開港すると、居留地の外国人たちから西洋の食肉文化が入ってきました。

この当時の日本には肉牛を畜産するといった産業はなかったため、当初は中国大陸や朝鮮半島あるいはアメリカから食用牛を仕入れていましたが、居留地人口の増加に伴い牛肉の需要が増加し、のちに神戸の家畜商が横浜へ輸入した食用牛を搬送するようになりました。

このような状況をうけて、幕府は1864年(元治元年)に居留地に指定されていた現在の横浜市の海岸通あたりに屠牛場の開設を認め、このため比較的安価な牛肉が流通するようになり、やがて牛鍋のようなものが流行したため庶民も普通に牛肉を食べるようになりました。

そもそもの牛鍋を一番最初に始めたのは、横浜の入船町で居酒屋を営んでいた「伊勢熊」という店で、もともと一軒だった店を二つに仕切り、片側を牛鍋屋として1862年(文久2年)に開業したのが最初の事例ということです。

このころ開港場の横浜では既に牛肉の煮売り屋台があったそうで、その後1867年(慶応2年)になって、江戸の芝で牛肉屋を開いていた中川も牛鍋屋を開業したことから、江戸でも流行するようになりました。

その後、1877年(明治10年)ころまでには、東京における牛鍋屋は550軒を超えるほどにまでなりました。1887年(明治20年)頃になると、具材において牛肉や野菜の他に白滝や豆腐が使われ始め、ネギはザクザクと切ることから「ザク」と呼ばれ、この「ザク」という言葉は具材全体の総称にもなりました。

その後、明治も時代が下がるにつけ、牛肉の肉質が良くなっていき、東京などの関東では、肉もぶつ切り肉だけでなく、薄切り肉の牛鍋も増えていきます。

やがて味噌ではなく、醤油を割下として使う牛鍋も登場するようになり、これが現代の「関東風すき焼き」の原型となります。しかしこのころ東京ではまだ醤油ベースのすきやきは主流ではなかったようです。

一方、関西では、1869年(明治元年)に神戸で牛肉すき焼き店「月下亭」が開店しました。関西では先に焼いた牛肉を砂糖・醤油で調味する、いわゆる現在と同じ「すき焼き」が既に行われていたそうです。

その後大正時代におきた関東大震災では、東京の牛鍋屋が大きな被害を受け、このため多くの店が閉店を余儀なくされましたが、震災後には関西から進出してきたすき焼屋が多くなり、関東で流行っていた牛鍋を関西風にアレンジして出すようになったため、その呼称も「牛鍋」から「すき焼き」に変わり、これが定着していきました。

この牛鍋やすき焼きでは、鍋には鉄なべを主に使っており、調理の熱源も木質のものが多く、加熱をしながら食べるという方式は飲食店での提供が主でした。しかしその後調理の近代化が進み、調理の熱源は木質からガスなどに転換するようになったことから、普通の家庭でも気軽に鍋料理ができるようになりました。

また昭和に入ってからはカセットコンロなどが発明され、この普及によりさらにさかんに鍋料理が食べられるようになりました。近年では電磁調理器の普及も進み、食卓でも安全に鍋料理ができるようになったことから、鍋料理の普及はさらに進んだといわれています。

しかし、現在のように鍋の中に牛や豚、鳥などのいわゆる家禽の肉をたくさん入れて食べるという風習は、江戸時代より昔にはあまりなかったようです。日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していました。

縄文時代の貝塚跡からは、動物の骨も数多く発掘されており、その9割が鹿、猪の肉で、その他にクマ、キツネ、サル、ウサギ、タヌキ、ムササビ、カモシカなどの狩猟によって得られたと思われる60種以上の哺乳動物が食べられています。

その調理法は焼く、あぶる、煮るなどであり、焼けた動物の骨も見つかっており、また、動物の臓器を食べることで有機酸塩やミネラル、ビタミンなどを摂取していたようです。

続く弥生時代にも、狩猟による猪、鹿が多く食べられ、その他ウサギ、サル、クマなども食べられましたが、その後の農耕時代になると、動物の臓器が食べられることは少なくなり、塩分は海水から取られるようになりました。

よく食べられていた猪は野生のものだったようですが、発掘された動物の骨や歯の状態から家畜として飼われていたと見る研究者もいるようです。しかし、3世紀に書かれた魏志倭人伝には、日本には牛馬がいなかったことが明記されており、家禽を飼うという風習はまだ一般的でなかったことがわかります。

奈良時代になると、貴族食と庶民食が分離するようになります。また、このころ、仏教が伝来し、その影響で、動物の殺生や肉食がたびたび禁じられるようになりました。日本書紀には、675年、天武天皇は仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じたと書かれているそうです。

また、農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止されました。ただしこれらはあくまで貴族に対するお触れであり、庶民の間では禁止されていたとはいえ、鹿と猪を中心として依然獣肉が食されていました。

とはいえ、その後も罠や狩猟方法に関する禁令がたびたび出されたそうで、奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していた韓国や中国からの渡来系の官吏や貴族を牽制するためとする説もあるようです。家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものではなかったかといわれています。

しかし度重なる禁令にも関わらず、とくに庶民の間ではまだあまり仏教が浸透していなかったためもあって、一般的には肉食は続けられていたようです。

その後、平安時代になっても食肉の禁忌は続きますが、平安時代には陰陽道が盛んになったこともあり、貴族の間での獣肉食の禁忌はさらに強まり、代わって鳥や魚肉がよく食されるようになりました。

今年の大河ドラマの平清盛の中で出されていた宮廷料理などをみても、魚や野菜の料理ばかりで獣肉は登場していません。が、鶏が飼育されていたシーンなどがあり、頼朝が配流されていた伊豆では北条政子が鶏肉をぱくつくというシーンがあったように思います。

NHKの大河ドラマは時代考証に熱心なので、ドラマを作った方々もこうしたシーンを取り入れる際、この時代の食文化をよく研究されたのでしょう。

しかし、鎌倉時代になると、武士が台頭し、再び獣肉に対する禁忌が薄まります。武士は狩で得たウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を食べたようです。ただ、鎌倉時代の当初は公卿などの間ではあいかわらず獣肉の禁忌を続けていたようで、1236年(嘉禎2年)に書かれた「百錬抄」では、武士が寺院で鹿肉を食べて公卿を怒らせるシーンが出てくるそうです。

しかし時代が下ると公卿も密かに獣肉を食べるようになり、1227年(安貞元年)に書かれた「明月記」に公卿が兎やイノシシを食べたといいう噂話が載せられているということです。ただし、牛乳やチーズといった乳製品を食したという記録は、この当時一切ないそうで、その後の戦国時代や江戸時代までも含め、日本では乳製品は流通していません。

これはおそらく家禽を飼うという風習がなかったため、西洋のように絞った牛の乳などから乳製品を作るという技術が発達しなかったからでしょう。

一方、鎌倉時代以降は、それまでと打って変わり、獣肉の食習慣も逆にバリエーションが広がっていきました。南北朝時代に書かれた「異制庭訓往来」という随筆には、珍味として熊掌、狸沢渡、猿木取といった獣の掌を食べたという記録があり、豕焼皮(脂肪付きのイノシシの皮)を焼いたものなどが掲載されています。

このほかにも「尺素往来」には武士がイノシシ、シカ、カモシカ、クマ、ウサギ、タヌキ、カワウソなどを食べていたことが記されているそうです。動乱の時期を生き抜いていくためには何でも食べないと生き残れないということだったのでしょうか。

南北朝時代以降さらに国内が乱れ、戦国時代に突入しますが、この時代には航海術が発展したため、南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化します。そしてこの時代には新大陸である南北アメリカ大陸の食習慣などももたらされるようになります。しかし、牛や豚などの家畜を飼ってその肉を食べるという習慣はなかなか広まっていかなかったようです。

フランス人宣教師のジャン・クラッセ (Jean Crasset)が書いた「日本西教史」には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれています。

宣教師フランシスコ・ザビエルは日本の僧の食習慣を見習って肉食をしなかったといいますが、その後の宣教師は信者にも牛肉を勧め、1557年(弘治3年)の復活祭では買ってきた牝牛を屠って飯に炊き込んで信者に振舞っています。

このように、徐々にではありますが、西洋の食文化に触れる機会が増えるにつれて日本人も牛肉ような家畜の肉を食べるようになっていきます。

九州の大名家の歴史書「細川家御家譜」には、キリシタン大名の高山右近が小田原征伐の際、蒲生氏郷や細川忠興に牛肉料理を振舞ったことが書かれているとのことで、このころになると、上下を問わず牛のような家畜肉を食べる習慣がある程度浸透してきたことがわかります。

戦国末期からは阿波などで商業捕鯨が始まっており、阿波の三好氏の拠点であった勝瑞城という館の跡地からは、牛馬に豚や鶏、鯨、犬や猫などの骨が数多く出土したといい、食用だけでなく鷹の餌や、愛玩用として家畜が飼われ、肉が市場に流通していたと考えられています。

ただし京などの中心地では、あいかわらず獣肉は一般的に食されておらず、例えば秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた際の献立には、獣肉は一切入っていないそうです。畿内の住人にとって牛馬の肉を食べることは当然のごとくの禁忌事項だったのです。

秀吉は天下取りをめざしていただけにこうしたことに敏感な人で、近畿の人たちのこうした風習にも配慮していたようです。1587年(天正15年)、宣教師ガスパール・コエリョと対面したときも「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問したという記録が残っています。

これに対してコエリョは「ポルトガル人は牛は食べるが馬は食べない」とヘンな弁明をしています。日本人(近畿人)は獣肉を食べないという風習を理解していなかったのでしょう。

その後、時代が江戸時代にまで下ると、幕府の方針である質素倹約が是とされる風習が定着し、それまでさかんに行われた獣肉食の風習はすたれていきました。

江戸時代全期を通じ、建前としては獣肉食の禁忌が守られるようになり、特に上流階級を中心にこの禁忌は守られていました。しかし、庶民の間では鶏肉や鯨肉、魚肉などは広く食べられていました。

上流階級で獣肉を食べないという風習はかなり徹底していたようで、例えば狸汁といえば戦国時代には狸を使っていましたが、江戸時代に入ってからはコンニャク、ごぼう、大根を煮たものに変わっています。

獣肉食の禁忌のピークは、17世紀後半の元禄時代に発せられた生類憐れみの令のころのことと思われます。ただ、この法令は徳川綱吉の治世に限られたため、その影響も一時のもので終わりました。

しかし、特に犬を保護した事についての影響は後世まで残り、中国や朝鮮半島で犬肉が一般的な食材になっている一方で、日本では現代に至るまで犬肉は一般的な食材とみなされないようになりました。ネコについても同様と思われます。

江戸中期の18世紀には、なぜ獣肉食が駄目なのか、獣肉食の歴史はどのようなものだったかについての研究が行われ、儒学者の熊沢蕃山は1709年(宝永6年)に刊行された著書「集義外書」の中で、牛肉を食べてはいけないのは神を穢すからではなく、農耕に支障が出るからだと書いているそうです。

牛は畑を耕すための大事な労働力であり、これを食べてしまうと農耕ができなくなってしまうということを言いたかったのでしょう。

また、鹿が駄目なのはこれを許せば牛に及ぶからなのだ、との見解を示しており、幕府はとくに獣肉禁止令といったものは出していませんが、こうした儒学者の研究を広めることで、獣肉食が国内に蔓延することを暗に禁止する方針をとっていたことがわかります。

ところが、江戸中後期になると蘭方医学が日本に入ってくるようになり、この学問の浸透は獣肉食に影響してきます。このころ描かれた「名所江戸百景」という絵には江戸の比丘尼橋(現八重洲)付近にあった猪肉店が描かれているそうです。

また江戸後期19世紀の国学者、小山田与清の「松屋筆記」という随筆には、猪肉を山鯨、鹿肉を紅葉と呼んで売られていたという記述があり、そのほか熊、狼、狸、イタチ、キネズミ(リス)、サルなどの肉が売られたことも記されています。

さらに1829年(文政12年)に完成した地理書「御府内備考」にも麹町平河町や神田松下町に「けだ物店」があった旨が書かれており、江戸末期に近づくにつれ、獣肉を食べないという風習のタガがはずれてきたことがわかります。

幕末の儒学者、寺門静軒の著「江戸繁昌記」にも、大名行列が麹町平河町にあった「ももんじ屋(獣肉店)」の前を通るのを嫌がったことが記されており、この店では猪、鹿、狐、兎、カワウソ、オオカミ、クマ、カモシカなどの多様な獣肉が供されていたことが記されており、もはや獣肉はタブーではなくなりつつありました。

その後、幕末の動乱期に突入し、海外から外交目的で外国人が再々入国するようになります。江戸幕府は当初、江戸城の正餐では日本の本膳料理を出していましたが、その後朝鮮通信使などをイノシシ肉でもてなすようになります。

ペリーやハリスにも最初は本膳料理を出していましたが、江戸最末期の1866年(慶応2年)にはパークスとの会食で西洋料理を提供するまでになりました。

以後、冒頭で述べたように明治期で牛鍋が流行したころから、日本ではもう獣肉を食べることに抵抗はなくなりました。

こうしてみると、日本では仏教伝来当初のころこそ獣肉全般が敬遠されましたが、その歴史全般を見る限りでは、日本人の間で獣肉が全く食べられなくなったという時期はありません。

無論、獣肉食に関する嫌悪感も時代と共に変わり、時代時代で食する獣肉も異なりましたが、おおむね狩猟で得た獣肉は良しとされてきました。しかし家畜を殺した獣肉は駄目という時代は結構長く、これは足が多いほど駄目、すなわち、哺乳類>鳥>魚という風習として残り、今もこうした考え方は日本の食文化の底流に根付いています。

京都や金沢などの老舗料理店で出てくる和食メニューにはほとんど獣肉は含まれておらず、出て来たとしても鳥や魚が主体です。いわゆる「和食」の文化の中には「獣肉」の文字はなく、和食といえば鳥や魚が中心の質素なものであり、これが長い間に育まれてきた日本の伝統的な食文化と言っても良いでしょう。

獣肉消費量が魚肉を上回ったのは、第二次世界大戦後の高度成長期より後のことだそうで、それまでは日本人の獣肉の食文化は魚や鳥が中心でした。

ところが、現代はむしろ老化防止のためには、牛や豚などの獣肉を積極的に食べたほうが良いとされ、鳥や魚、穀物や野菜中心の和食はむしろ敬遠される傾向にすらあります。

だからといってこうした日本人の和食離れが特段悪い、というわけではありません。

むしろ、こうした食生活の変化に伴い、獣肉などの良質なタンパク源とともに、もともとの風習であった穀物類や野菜類も一緒に多くとるという食生活が根付いたことから、トータルとしては優れた栄養バランスに恵まれるようになりました。

結果として、日本人の体型も欧米並みに変化してきましたが、肥満の多い欧米人よりもむしろスマートでバランスのとれた体型の日本人が増えてきています。

しかし、反面BSEや鳥インフルエンザなどの外来の獣肉由来の病気も蔓延するようになり、我々の健康を脅かすことになってきていることはあまり歓迎できません。

今後、よほど大きな国策変化がない限り、獣肉を食べるという今の日本人の食習慣が大きく変わることはないでしょうが、こうした輸入の獣肉(とくに家畜)だけでなく、日本人が本来食べていた野生動物によるメニュー復活などももう少し声高に叫ばれてもいいのではないかと思います。

伊豆では野生の鹿やイノシシが増えて困っているといいます。外来の牛や豚を食べるのをいったんやめて、こうした環境破壊のもととなっている「国産生物」を食べよう!という風潮がもっと出てきてもいいのかもしれません。

さて、明日は衆議院議員選挙の投票です。まだ候補者たちの政策をじっくりみていませんが、もしこうした国産動物を食べよう!を公約に掲げている候補者がいるようならば、その人に一票を投じるのも良いかもしれません。

冗談ではなく、とくにTPPの問題に絡み、日本の農業をどうしていこうとしているかについての意見は注意深く見る必要があります。

みなさんはもうどの候補者に投票するか決めましたか?もし決めていないなら、ぜひ鹿やイノシシを食べるのが好きな候補を選ぶことも考えてみてください。