旅にしあれば……

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今年初めての三連休が終わり、いよいよ新しい年が本格始動した、というかんじです。

今年はオリンピックイヤーであり、8月にはブラジルで夏季大会が開催され、また11月にはアメリカの大統領選挙の投票などもあって、これらを中心に国際的にいろいろ活発な動きがありそうです。

また、先日は年が明けてすぐだというのに、北朝鮮が水爆実験を行っており、はたまた今年も波乱の一年か?と思わせるような雰囲気があります。昨年は年明け早々にイスラム国に日本人ジャーナリストが人質にとられる、といった事件があり、日本中を震撼とさせました。

その日本国内でも5月末に、伊勢志摩G8サミットが行われる予定であり、ここに訪れる各国首脳の動向に日本中の耳目が集まるであろうし、審議内容に関しても国際的な関心が寄せられるでしょう。また、これに先立つ、3月には、 北海道新幹線が開通する予定であり、こちらも日本中で話題になりそうです。

新青森駅〜新函館北斗駅の開通は3月26日の予定であり、これにより、東京と北海道はわずか4時間余りで結ばれます。飛行機であれば、函館までは約1時間半のフライトですが、都心から羽田までの電車の時間、および函館空港から市内までのアクセスを考えれば、待ち時間を含めて実質3時間を超えるはずであり、新幹線とほとんどかわりません。

しかも羽田函館間の航空運賃は3万円超であり、函館新幹線が2万円前半ということなので、どう考えても新幹線のほうを利用する人のほうが多くなるような気がします。ただ、当面、新幹線は函館止まりなので、札幌ほかの道内の地域にアクセスする場合にはさらに費用や時間が嵩みます。

フライトならば、札幌や釧路、稚内をはじめとして北海道内には離島も含めて14もの空港があり、ピンポイントで目的地に行きたい場合はこちらのほうが便利です。東京からの直通便は札幌などの数都市に限られるものの、乗継による地方空港への便を使えば、それらの地域へのアクセスはレンタカーを使うよりもずっと楽ちんです。

がまあ、いずれ北海道新幹線も札幌まで行くことですし、遠い将来にわたっては道内各地に延伸されていくに違いありません。とくに道東には釧路や帯広などの大きな町もあり、また風光明媚な観光地も多いことから需要も多いのではないでしょうか。

現在、新幹線は南は鹿児島までつながっていますから、将来的には北海道発鹿児島行の「夜行新幹線」なんてのもできるかもしれません。函館までの路線が開業すれば、その時点でも九州へのアクセスが可能です。現在でも東京から鹿児島へは、大阪で乗り換えが必要になりますが、それでも5時間30分ほどで行けるようです。

これに函館~東京間の4時間を加え、待ち合わせ時間も合わせれば所要10時間ほどの乗車時間となるはずであり、将来にわたって「寝台特急」」に仕立てるとするならばなかなかいい塩梅です。

無論、現在はこうした直通運転の予定はないようですが、仮に実現するとすれば、常夏の鹿児島を夕方に出て、朝目覚めてみたらそこは雪国の北海道だった、といった旅行も可能になるわけです。

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現在、JRは各地方毎に分かれており、これを実現しようとしたら、九州、西日本、東海、東日本、北海道とほぼほとんどのJRグループ各社が協力せねばなりません。が、もともと国鉄の時代から同じ穴のムジナだったわけですから、やろうと思えばできるでしょう。あとは本当にそうした需要があるかどうかの見極めと、JR各社のヤル気の問題ですが……

ちなみに、飛行機の場合、札幌(千歳)~鹿児島という路線もあるようで、こちらも名古屋や大阪での乗り継ぎが必要ですが、格安航空券だと4万円を切る路線もあるとのこと。鹿児島から北海道、もしくはその逆を移動する目的が何かにもよりますが、ともかく列島を手短な時間で移動したい、という向きには歓迎されていることでしょう。

しかしそれにしても、新幹線にせよ飛行機にせよ、こうした乗りものの発達によっていかにも世界が狭くなったかを痛感させられる時代です。

新幹線が初めて登場したのは、1964年(昭和39年)10月1日のことで、この日に、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業しました。新幹線乗入区間以外の在来線改軌区間での最高速度は1910年代から1950年代まではせいぜい100km/hが最高速度であり、現在でも130 km/hにすぎません。

仮に新幹線がなかったとして、北海道から鹿児島まで100km/hで走り続けたとしても、20時間かかる計算であり、いわんや実情の運行速度が平均60~70km/h程度であることを考えると、30時間前後かかる勘定となり、一日で列島を縦断するのは不可能です。

いっそ、足の速い船を利用したほうが早いかも、と調べてみましたが、貨物船で最高速のコンテナ船でも24ノット(時速約44㎞)前後だそうで、とても太刀打ちできません。ただ、軍艦の中でも高速が出せる駆逐艦が40ノット(時速約74㎞)ほどといいますから、こちらなら列車と競争になるかもしれません。

ま、早ければいいというものではなく、そもそもそうした距離を乗りものを使って移動することの意味を考えると、これはもう旅行というよりも、冒険に近いものといってもいいかもしれません。

最近テレビのバラエティー番組でも、タレントさんがたちが列車や飛行機を乗り継いで日本中を移動するプログラムがよく作られ、放映されていますが、これらを見ているともう「旅番組」というよりもむしろゲームのようであり、旅の醍醐味のようなものはほとんど感じられません。

時間や乗継回数の制約が課せられており、その条件を満たさなければ完遂したとはみなされず、不眠不休で移動する彼らを見る限り楽しそうには見えません。なかにはほとんど拷問にしかみえないような番組すらあります。

そうしたことを考えると、地球上を移動する方法は、やはりゆっくりしていたほうがいいよな、と思います。究極を考えれば、できれば乗り物は使わず、交通手段は足だけにして、勝手気ままに時間をかけて日本中を歩く、といった旅をできればしてみたいな、と思う人もいるでしょうし、私もときにそう思います。

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かつて、江戸時代末期に伊能忠敬とその弟子は、自らの足だけで日本全土を周ってこの地を実測し、「大日本沿海輿地全図」を作り上げました。江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものであり、ご存知のとおり、本邦初の詳細な日本地図です。

しかし、その測量にあたっては長い長い時間がかかっており、本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)の16年もの歳月をかけて完成しました。詳しい数字はわかりませんが、本州全部の海岸線を見て回るとするとざっくり3500km位はあるはずなので、これに北海道や九州四国を合わせるとおそらくはその倍近くを測量したことになります。

国策による事業であったとはいえ、人力以外では馬などの交通手段があっただけの時代です。その他の機械的動力による交通手段がなかった時代に、しかも馬はほとんど使わず、徒歩だけで日本中を巡ったというのは、すごいことだなあと改めて思う次第です。

伊能忠敬は56歳でこの測量の旅に出ていますが、若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあったといい、そのため、とりわけ食事に気をつけて体を鍛えるようになってといいます。着ていた着物の寸法などから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されているそうです。

この体格はこの当時としては必ずしも小柄とはいえませんが、かといって、けっしてがたいが大きいといえるほどのものではありません。このため、食べ物に関しても食材の少ないこの時代にできるだけバラエティーに富むものを食べ、体力をつけるよう気を付けていたようです。

残っている記録では、野菜としては、かぶら、大根、人参、せり、長いも、蓮根、くわい、菜、菜類、椎茸など多岐におよび、このほか動物性のものとしては鰹節、鳥、卵、及びといったものを好んで食べていたといいます。

本人が実家などにあてて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらにタンパク質の豊富な豆類や豆腐も好物だったとされています。

厳格な性格であり、測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていたといい、また、根気強く、几帳面であったようで、根気強い観測と食事や健康に関する様々な工夫によってこうした偉業を成し遂げたといえるでしょう。

もっとも日本は島国であり、海岸線に沿ってゆけば伊能忠敬たちのように日本の周囲を回って最後には必ずスタート地点に戻ることができます。海岸線沿いに四島回れば、日本一周の達成であり、近年では海岸近くにはたいてい道路があり、海岸沿いの幹線道路を通ることで一周とすることが可能です。

近頃では、バックパックを背負って移動する人も多くなり、各地の観光地でこうした日本一周旅行をしている若者を見ることも多くなりました。「日本一周旅行中」と書いた旗を掲げていたりしていることなどからわかるわけですが、一昨年、広島の原爆ドームに行ったときにも、こうした若者をみかけました。

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このバックパックとは、日本風に言えば「リュックサック」であり、これはオランダ語の「リュッフザック」)ドイツ語の「ルックザック」のことで、本来の意味は「背中袋」です。「ルック」でなく「リュック」であるのは、ドイツ語で背中を「Rücken」(リュッケン)と言うことに影響されたため、といわれています。

一方、バックパックというのはこのドイツ語の英訳であり、用語としては1910年代にイギリスで定着し、その後北米に広がりました。当初は「ナップサック (knapsack)」「サックパック (sackpack)」と呼ばれていたものが、のちに単に「パック (pack)」に変化しました。

その後、主として英米において低予算で国外を個人旅行する旅行者のことをバックパッカー(backpacker)と呼ぶようになったものですが、従来の旅行者との違いとして、移動に公共交通機関を使うこと、ユースホステルや安宿を値段の高いホテルよりも好むことなどが特徴とされます。

部屋や寝袋や長期滞在の場合はアパートの利用などで宿泊費を節約し、屋台や自炊などで食費を削ります。公共交通機関の利用やヒッチハイクや格安航空券の現地調達や陸路の多用で移動費なども抑えつつ、限られた予算で遠く・長く旅するために大なり小なり節約しながら旅するのが、伝統的な低予算のバックパッキングです。

とはいえ、その定義を厳密に定めるのは難しく、彼らの行動原理や意義は多様です。観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことに意義を見出す人などが多いようですが、中にはバックパッキングの旅の目的を「安く上げること」に定め、それ自体を楽しみとする者もいるようです。

また、バックパッキングは、「自己教育」の手段でもあると受け取られているようで、ツアー旅行のような「パッケージ化された」ものではなくリアルな現実を体験したいと望み、「舞台裏を密かに歩く」感覚に虜になる人も多いようです。

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1960年代から欧米で流行しはじめ、航空券の低価格化と共に瞬く間に世界の若者の旅装の代表となりました。2000年代にはライフスタイルとしてのバックパッキングが定着しましたが、一方ではビジネスとしてのバックパッキングが大きな成長を見せました。

格安航空会社はもとより、世界の各所にあるユースホステル・ゲストハウス・ドミトリーなどの安宿が普及したためであり、このほか、インターネット上のブログ・電子掲示板・SNSなど、デジタルなコミュニケーション手段や情報資源により、バックパッカーが長期の旅行を計画し、実行し、継続することは以前よりもかなり容易になっています。

バックパッカーの正確な起源は不明ですが、17世紀末に世界を一周したイタリアの冒険者ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリが世界最初のバックパッカーとされることもあるようです。

ジェメリ・カレリは、ナポリのイエズス会大学で法学博士号を修得し、学業を終えた後の短期間、裁判官でもあった英才でしたが、その職務に飽き、休暇を取ってヨーロッパ諸国を旅したのをきっかけとして、最終的に世界一周旅行のためにキャリアを中断することを決意しました。

1693年にエジプト、コンスタンチノープル、聖地パレスチナの訪問から始め、ペルシアとアルメニアを横断し、南インドを訪れてから中国に入り、北京で皇帝に謁見し、元宵節の祝典に出席し、万里の長城を見学しました。さらに海路フィリピンに渡り、さらには太平洋を渡ってメキシコのアカプルコへ渡り、ここで半年間を過ごしました。

メキシコでは、いくつもの炭鉱の街やテオティワカンの遺跡を訪問しましたが、これらの5年間の世界放浪の後、キューバの財宝艦隊に合流して大西洋を渡ってイタリアに帰国。

この世界一周の間、移動手段としては「公共交通機関だけ」を貫いたことが、「世界初のバックパッカー」とも言われる要因になりました。また、カレリの旅はジュール・ヴェルヌが「八十日間世界一周を著す契機」となったと考えられています。

しかし、カレリ自身がバックパックをしょって旅をしていたわけではなく、また安宿ばかりに泊まっていたわけではないようです。また、バックパッカーすべてが世界一周を目指しているわけではありません。

このため、現在のバックパッキングといわれる旅行形態の起源は、1960年代から1970年代にかけてのヒッピー・トレイルがそのルーツではないか、ということがいわれているようです。

ヒッピーとは、この時代主にサンフランシスコなどのアメリカの若者の間で生まれたムーブメントあり、ヒッピー・トレイルとは、のちに彼らが「巡礼」としてシルクロードを巡るようになったことに由来します。

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ヒッピーは、当初は「正義無きベトナム戦争」への反対運動を発端とし、愛と平和を訴え徴兵や派兵に反発した若者達でした。彼らは当初戦争に反対し、徴兵を拒否する反戦団体のような形容を持っていましたが、のちに自然と平和と歌、そしてセックスを愛するという、「人間として自由に生きる」というスタイルを確立するようになります。

彼らのスタイルは戦時下にあり、厭戦ムードの漂っていた全米で一大ムーブメントとなりましたが、初期は薬物による高揚や覚醒や悟りから出発したことから、大きな批判を呼びました。

各地にコミューンと呼ばれるヒッピー共同体が発生し、社会的な問題にもなりましたが、その後若者を中心に爆発的な人気を誇ったロックバンド「ビートルズ」がさらにこれに火をつけました。

ビートルズは、かなり真面目なロックグループと目されがちですが、一方ではマリファナやLSDを使用した精神解放等を訴えていた時期があり、これとヒッピーとの活動が結び付き、全米・そして世界へとそのムーブメントは広まっていくことになります。

このムーブメントは同時に日本にも飛び火し、一時期、「フーテン」といえばヒッピーのことだ、と勘違いされたこともありました。

ビートルズの言動や行動はヒッピーに多くの影響を与えましたが、特に彼らの「インド巡礼」は特に大きな影響を与えました。彼らが作曲した曲のある時期のものはかなりインド音楽に影響されているものがあり、とくにジョージ・ハリスンは、北インド発祥の弦楽器、「シタール」に魅せられ、その習得の際にインドの瞑想に深く関るようになりました。

1965年頃に友人の勧めで聴いた、インド人のシタール奏者ラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入し使用。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接シタール演奏のレクチャーを受けています。

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このジョージの発案により、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで催されていたインド人の瞑想家、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。その教義を気に入ったため、その後メンバー全員がこうしたインド瞑想セミナーの数々に参加するようになりました。

1968年1月、ジョージがインドのボンベイで「不思議の壁」を録音(発売は11月)。その後メンバー全員でヨーギーの講義に参加しており、これがいわゆるビートルズによる「インド巡礼」です。

ヒッピーたちは、こうしたビートルズの行動や彼らがリリースした楽曲に触発され、インドをはじめとする、いわゆる「シルクロード」と呼ばれる地域を順番に辿るようになっていきます。ただ、かつてのヒッピー・トレイルを辿る旅は、1980年代以降のアフガニスタン・イラク・イランの政情不安のため困難なものになっています。

しかし、これをきっかけとして、バックパッカーたちは世界のほとんどの地域に広がっていくようになります。近年では、格安航空会社や航空便の増加がさらに彼らの活動を活発にすることに寄与するようになり、現在ではこうした格安航空でアクセスできるようになった、北アフリカのモロッコやチュニジアを中心にその他の地域にも活動が及んでいます。

こうした、旧来のシルクロードも含めたパッカーたちの活動領域が「ヒッピー・トレイル」であり、現在では「ワンワールド」や「スターアライアンス」や「スカイチーム」といった航空会社間の協定に基づいて「世界一周航空券」などが利用できるようになったことから、さらにこうした活動が活発化しています。

こうしたシステムを利用して、バックパッカー・スタイルで世界一周をする猛者も数多く現れるようになりましたが、とはいえ、バックパッカーのことをヒッピーと呼ぶ風潮は最近ではあまりないようです。必ずしも自然と平和と歌を愛している人たちばかりとはいえず、旅をすること自体に意義を求める若者が増えています。

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純粋に旅だけを楽しみたい、と考えるこうした人種が増えた理由には、科学技術の変化と進歩も関係しています。

これまでの、旧来の伝統的なバックパッカーたち(=ヒッピー)は、ノートパソコンやデジタルカメラや携帯情報端末といった高価な情報機器は盗難や破損の恐れがあり荷物も重くなるとして持ち歩きませんでした。しかし、技術の発達により、これらの携帯機器は電子機器として著しく発達しました。

発達したのはとくに小型軽量化、多機能化であり、と同時に、こうした最新技術を常に袂に持っていたい、と考える若者のバックパッカーの欲望は、その後「フラッシュパッキング」と呼ばれる様式を生み出しました。

フラッシュパッキング(flashpacking)のflashとは「光るもの」「見せびらかし」などの意味ですが、これはすなわち、携帯電話、デジタルカメラ、iPod、ノートパソコン、タブレット端末などの近代テクノロジーの粋とされるような電子機器です。

こうした最新鋭の機器を持って旅することを好むバックパッカーは、「テクノロジーに通じた冒険者」としても定義されるものであり、従来のバックパッカーと区別して「フラッシュパッカー(flashpacker)」と呼ばれます。

こうした機器というものは必ずしも安価なものばかりではありません。このため従来のバックパッカーのように貧しい人々ばかりではなく、裕福なバックパッカーも多く、こうした比較的潤沢な資金を持つバックパッカーを指す新語でもあるといえます。

伝統的にバックパッキングが低予算の旅行と物価の比較的安い目的地に結び付けられてきたのと対照的に、フラッシュパッキングは旅行中により多くの予算を使える人種が行う行為として定義されているわけです。

もっとも、かなり漠然とした定義でもあり、従来通りのパッカーがハイテク機器を持っただけだ、という人もいます。しかし、従来のバックパッカーと明らかに異なるのは、宿泊や食事にはそれほどお金はかけないものの、こうした機器には金をかけ、かつ選んだ旅先での活動には時としてふんだんに、場合によっては過剰にお金を使うことです。

従来の貧乏バックパッカーとは明らかに異なり、昼は低予算の旅行者たちと共に冒険的な旅を行ものの、夜は落ち着いた食事と快適な宿泊を楽しむようなフラッシュパッカーが増えているといいます。

ある程度裕福でありながら、たとえば「スラムを覗く」ことにスリルと冒険を覚え、これと贅沢との不調和な混淆の状態が楽しい、と考える人々もおり、これが新たに生まれたフラッシュパッカーが従来のバックパッカーと違うといわれるゆえんです。

かつては、組織的な旅行を見放し、高収入な仕事から離職したりキャリア上の休暇を取ったりして自力での旅行に時間を費すことによる冒険目的の旅がバックパックの醍醐味と考えられていました。しかし、近年ではより快適に、自宅で慣れ親しんだ多くの装置と共に旅するような旅行者に変貌しており、その数もかなり増加しているといいます。

結果として宿泊施設も変化し、従来のバックパッカーのためには安価で手軽なものであったものがより高級な設備に変化しつつあるといい、こうしたフラッシュパッカーの増加に呼応して旅行業界全体も変化しつつあるようです。

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一方では、従来型のバックパッキングこそ、旅の醍醐味だとする古いタイプのパッカーたちも少なからずおり、高級な宿泊施設などには泊まらず、しかも乗り物を使わず、人力でのバックパックにこだわるパッカーも数多くいるようです。

従来のバックパッキングにこだわったパッカーの中には徒歩だけで世界一周を遂げた人もおり、ギネス世界記録保持者としては、2007年10月6日に世界で初めて人力での世界一周に成功した、ジェイソン・ルイス(Jason Lewis)という人がいます。

ギネスブックでは、その2006年版で人力での世界一周に関するガイドラインを発表しており、そこで示された条件は、距離 36,787.559 km (北回帰線の距離)以上で赤道を通り、出発地点と完全に同じ場所に戻ってくることであり、ルイスはこの基準を徒歩でクリアーしました。

これはエクスペディション360という企画で、多数のサポーターに支えられた13年におよぶ旅程でした。

ただ、乗り物は使わないといいながらも、ローラースケートやスケート靴を履いたり、自転車を使うことは許されており、あるときは岩礁地帯をモーターボートで渡ったこともあるといいます。しかし、彼は後にこの地点を人力で渡り直しており、ギネスへの登録はこうした努力が認められたものです。

また、最近では、2012年にトルコ人冒険家のErden Eruç、これはどう読むのかよくわかりませんが、英語風ではアーデン・エルクでしょうか、この人は世界で初めての「単独での」人力世界一周に成功したとされ、同じくギネス登録されました。

Eruçはこぎ舟、シーカヤック、徒歩、そして自転車によって2007年7月10日から2012年7月12日の約5年間で世界一周を達成しており、総移動距離は66,299キロメートルでした。ただし、中断期間があるため、延べでは1,026日の旅でした。

これ以外にも、大洋は飛行機で渡り、陸路のみを歩行または自転車で世界一周した人物はあまたいるようですが、海洋を除いた移動距離はギネスのガイドラインを下回っているため、ギネス登録はなっていないようです。それでも記録を目指すのが目的ではない、チャレンジすることに意義がある、と彼らは考えているようです。

ただ、徒歩で歩いて世界一周というのはよほど時間に余裕がなければできないことであり、またやはり潤沢な資金がないと実現できないことであり、そうした意味ではフラッシュパッカーの一形態といえるのかもしれません。しかしかなり泥臭い冒険ではあります。

なかなか我々にはできない冒険でもあるわけですが、しかし、何も世界一周をしなくても、日本でも北から南まで徒歩で歩き、しかも車道を通らずにバックパッキングして旅できるルートが日本中に整備されています。

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「長距離自然歩道」といい、環境省が計画を定め、各都道府県が整備、管理運営している複数の都府県間にまたがる自然歩道であり、昭和45年(1970年)の東海自然歩道に始まり、各都府県が事業主体となって整備を進めた結果これまで九州・中国・四国・首都圏・東北・中部北陸・近畿と8つの自然歩道が整備されています。

長距離自然歩道は、自然景観や文化財等に恵まれた既存の道路を、標識等の整備によりネットワーク化した長距離の自然歩道であり、四季を通じて「手軽に楽しくかつ安全に」がモットーの遊歩道であり、沿線の豊かな自然や歴史、文化に触れることもできます。

計画総延長距離は約27000キロメートルであり、一部悪路の場所などもあるようですが、現在までには、ほぼ整備が終わっているようです。

以下がそれらの自然遊歩道ですが、今年はひとつこれをすべて網羅してやろう、という人がいらっしゃれば、ぜひチャレンジしてみてください。

またすべてを歩かなくても、このうち身近な一つを制覇してみる、というのを今年の目標に掲げる、というのもいいかもしれません。今年一年を通じて分割して歩いてみるという手もあるでしょう。

私もこうした徒歩を中心にした旅行を通じて、今年一年を無事で健康でいられるように努力したいいと思います。みなさんもひとついかがでしょうか。

東海自然歩道(1697キロメートル)
九州自然歩道(愛称「やまびこさん」、2932キロメートル)
中国自然歩道(2295キロメートル)
四国自然歩道(愛称「四国のみち」、1637キロメートル)
首都圏自然歩道(愛称「関東ふれあいの道」、1800キロメートル)
東北自然歩道(愛称「新・奥の細道」、4369キロメートル)
中部北陸自然歩道(4085キロメートル)
近畿自然歩道(3296キロメートル)
北海道自然歩道(4600キロメートル)
東北太平洋岸自然歩道(愛称「みちのく潮風トレイル」、700キロメートル)