享保・平成・そして

2015-6033

松が明けました。

昨日1月8日は「正月事始め」ということで、この日から本格的に仕事をスタートした、という人も多いでしょう。

この日は、1989年に昭和天皇が崩御された翌日で、「平成」という年号が公にされた日でもあります。

このとき私は、ハワイにまだいて、ほんの短い冬休みをホノルルに借りていたアパートで過ごしていました。ルームメートの外国人3人は皆クリスマス休暇で帰国していて、この日は私ひとりでした。

朝早く、玄関先のドアを開け、いつものようにそこに放り投げてある(アメリカではこれがふつう)新聞を持ってリビングに戻り、開いたその一面トップに昭和天皇の肖像画が掲載されていたのを見てビックリしたのを今でも覚えています。

亡くなったのは日本時間の7日早朝であり、遠く離れたホノルルにおいても19時間の時差があるため8日朝にはもうその知らせが新聞報道されていたわけです。明るいリビングに差し込む朝日に照らされたその紙面に浮かび上がる天皇陛下のお顔をながめながら、しみじみと、あ~時代が変わっていくんだな、と感じたものでした。

外国で、しかも日本とも因縁の深いハワイでの出来事だったので、かなり鮮明な記憶として残っており、いまさらのように思い出すわけです。と同時にこのときからすぐに帰国、再就職、結婚とまるで平成の時代が始まると同時に時計の早回しのように人生がくるくると変わっていった節目の時期だっただけに余計に記憶に残っているのでしょう。

元号が平成に変わったことの発表がこのときの官房長官、小渕恵三氏によって行われたのは、日本時間の同日の2時ごろのことであり、1月8日は昭和の終わりであるとともに、このときが平成のスタートでもあったわけです。が、昭和天皇が崩御されたのは前日の7日午前6時33分のことでした。

ところが、この直後の午前6時35分ころには、NHKをはじめとするメディア各社では危篤報道が出されただけで、天皇崩御の事実はまだ世間一般には報道されていませんでした。

しかし、この直後からテレビのテロップは、危篤報道から崩御報道へと変わり始め、午前10時くらいまでには、国民のほぼ全員が天皇崩御の事実を知るところとなりました。

以降、NHK、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち、エピソードにまつわる番組などが次々と放送されていきました。なお、この日と翌日にはCMが放送されなかったそうです。

ただ、崩御の知らせは7日の新聞朝刊には当然間に合わず、この日の朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていました。とはいえ、午前中に号外を出した新聞社も多く、またこの日の夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれました。

明けて8日になっても各社の朝刊紙面の多くはこの崩御の話を前段抜きで報じていましたが、一方ではテレビ番組欄は、NHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載されていたそうです。

8日午前までには、NHK、民放各局が既に特別報道体制に入っており、宮内庁発表報道を受けてのニュース、天皇の死にまつわるエピソードなどの番組などが放送されるようになりました。「新元号発表」のNHK放送は、正確には、午後2時34分30秒から午後2時59分までのことであり、人々が「平成」という年号を認識し始めたのはこのときからです。

しかし、宮中では7日の昭和天皇の崩御を受け、即座に歴代2位の年長となる55歳で明仁親王の皇位継承(践祚)の儀式、「剣璽(けんじ)等承継の儀」)を執り行われたといい、新しい元号も関係者の間ではこのときすでに共有されていたようです。

世間一般への公表が1日遅れたのは、諸処の法律手続きがあったからと思われ、7日にはまず元号法に基づき改元の政令が出されています。同政令によって翌日1月8日0時の到来とともに自動的に「平成元年1月8日」と改元がなされた、ということになっています。つまり、報道があった午後2時ころよりかなり前からすでに平成は始まっていたわけです。

以来、28年。すでに大正時代の15年を超えており、現在御年82歳になられる今上天皇にはさらに長生きしていただきたいと思う次第です。さすがに明治や昭和を超えるのは難しいかと思いますが、まだまだお元気なご様子であり、30年代までは大丈夫でしょう。

しかし、おそらくは私が生きている間には再び改元がある「Xデー」が訪れるでしょうし、だとしたら、昭和、平成、○○を生きてきた人間、という肩書を持つことになるわけです。

この平成という時代ですが、なかなかに難しい時代であり、大日本帝国期の昭和時代、すなわち戦前の世界恐慌の時代と大不況の面で類似しているという人もいるようです。また、坂本龍馬が人気となっており、また平成維新の会や大阪維新の会が設立されるなど維新思想がブームとなったことから幕末期から明治維新に続く明治初期に似ているという人も。

あるいは、平成は阪神大震災と東日本大震災が発生していることから、関東大震災が発生した大正時代に類似しているという人もいて、評価はさまざまです。

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一方では、江戸時代の1716年(享保元年)から1736年(享保21年)の享保期の約20年間の転換期と似ている、という人もおり、この享保年間には、8代将軍徳川吉宗による「享保の改革」がありました。

江戸時代中期に吉宗が主導した諸改革であり、宗家以外の御三家紀州徳川家から将軍に就任した吉宗は先例格式に捉われない改革を行いました。寛政の改革や天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の1つと呼ばれましたが、この時の改革は財政安定策が主眼でした。

一定の成果を上げたことから、戦後の高度経済成長期に流行語となった「昭和・元禄」に倣って「平成・享保」と名付けられることも多いようです。しかし、現在進行中の阿部ノミクスはまだ成果半ばといった感があり、この享保の改革と比較するのは無理があるのでは、という意見もあるでしょう。

享保の改革では、事面では出身の紀州藩の人材を多く幕臣に登用して地方の逸材を登用して本家ではない吉宗の指導力の確立を図るとともに、他藩の人材の多く登用して幕政の一新を計りました。また御庭番の創設し、江戸の都市政策を行う一方で庶民の要求や不満の声を直接訴願の形で募るための目安箱を設置しました。

この目安箱の投書から貧病民救済を目的とした小石川養生所を設置しましたが、こうした貧民対策は諸藩にも踏襲されました。また、私娼や賭事、心中など風俗取締りや出版統制も行い、こうした江戸の都市政策は南町奉行の大岡忠相に一任しました。

さらに、町奉行所や町役人の機構改革を行い、防火対策は町火消し組合の創設に留まらず、防火建築の奨励や火除地の設定を実施、米価や物価の安定政策、貨幣政策も行いました。

経済政策としては、倹約と増税による財政再建を目指し、農政の安定政策として年貢を強化して財政の安定化を図りました。また治水や、新田開発、助郷制度の整備を行い、青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じています。

朝鮮人参やなたね油などの商品作物を奨励、サクラやモモなどの植林。薬草の栽培も行うとともに、日本絵図作製、人口調査も行いました。国民教育、孝行者や善行者に対する褒章政策も行うなど、「モラル」を人々に植え付けました。ただ、賤民層に対しては、居住や服装等に制限を設け、農工商との接触を禁止する等、厳しい差別政策を以って臨みました。

こうした改革により、社会不安は急激に減り、また幕府財政も安定するようになりました。しかし、享保の改革で吉宗は、幕府政治の再建に熱心であった5代将軍綱吉時代を範と考えました。それゆえに現実の社会の流れに逆行する政策もかなり断行したため、かなりの混乱もありました。

たとえば、享保年間中期以後には、財政再建や物価対策を急ぐ余り「一時凌ぎ」的な法令を濫発したことなどは、かえって幕府・将軍の権威を弱め、社会的な矛盾を後々に残しました。

また、年貢増徴など農民に負担を強いる政策を行い、特に、年貢を家宣・家継時代の四公六民(4割)から五公五民(5割)に引き上げたことは、農民にとっての過重負担となりました。

建前上は1割の上昇ですが、四公六民の時期においては、四公とは公称にすぎず、実質は平均2割7分6厘程度の負担でした。これに対して、五公五民の五公は、そのままであり、実質的にも5割の負担が課せられたため、庶民にとっては2倍近い増税となりました。

また、それまでは、年毎に収穫量を見てその年の年貢の量を決める検見法(けみほう)が採用されていいましたが、これでは収入が安定しないので享保の改革では、定免法が採用されました。これは、過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず一定の年貢を納めるものです。

こうした増税や定免法の導入は、特に凶作時においては農民の著しい負担増につながりました。この結果、人口の伸びはそれ以前に比べて極めて低くなり、一揆も以前より増加傾向になりました。このため、吉宗の次の家重時代には、建前上は五公五民の税率は守られたものの、現場の代官の判断で実質的な減税がなされています。

ただ、吉宗は、財政に困窮する武士および農民を救済しようとさまざまな試みも行っています。米価引き上げなどがそれであり、弱いインフレ、これをリフレといいますが、これを引き起こして景気を活性化しようとしました。

そこで、貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる「貨幣改鋳に着手」しましたが、この政策は、元文元年(1736年)に行われたため「元文の改鋳」と呼ばれ、日本経済全体に好影響を与えた歴史上でも数少ない改鋳の1つであると高く評価されています。

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さらに、幕府の重臣・旗本・諸大名の間で日常的に行われ、江戸時代全体を通じた社会問題だった贈収賄の取り締まりに、吉宗自身が将軍としては初めて手をつけていたことは、意外と知られていません。

このように表面的にみれば国政や人々の生活は安定したように見えること、また一定のモラルが守られるようになったことは、現在の平成の世の中に似ていなくはありません。世界一安全な国と言われ、文化の面でも海外から高い評価を受けている現在の日本を誇りに思う人は多いでしょう。

一方では、増税にあえぎ、長く続く不況からなかなか脱出できないという構図も享保のころと似ており、消費税のアップに苦しみ箪笥預金を吐き出しつつ、低金利が長く続く中で多くの人が貯金もままならない現在の日本は、なるほど享保と似ています。

一定の成果を上げたと後世で評価されたこの時代と重ね合わせたがる人が多いのはわかる気もします。誰もが平成が終わるころには享保のような成功がきっとくる、と信じているでしょう。

このほか、この徳川吉宗の享保の改革の時代には、意外にも「国際化」が進んでいる点も現在の日本と似ています。

現在、日本を訪れる外国人は1900万人を超えており、一昨年通年の1300万人を大幅に上回って過去最高水準で推移しています。このほか、出国者数のほうは、それほど急激に伸びているわけではないようですが、それでもここ数年は1700~1800万人で安定しており、これほど内外の出入りの多い時代を日本はこれまで経験していません。

鎖国をしていた江戸時代に国際化?と思われるかもしれませんが、実は、この吉宗の享保の改革の時代というのは、洋書輸入が一部解禁されたことが起因となり、急激に蘭学研究が盛んになった時代です。

学問的な興味だけではなく、生活様式や風俗・身なりに至るまで、オランダ流(洋式)のものを憧憬し、模倣するような者まで現れるようになり、中には蘭語名まで持つ者まで出るようになり、こうした人は、「蘭癖」と呼ばれています。

この風潮は幕末にまで至り、幕末期にいたって、水戸藩等攘夷派から「西洋かぶれ」の意で、蔑称として用いられる例が多くなりました。ただし、明治時代になって普及した語であり、「鎖国」等と同様に、明治以降になって普及した後に形容されるようになったものです。

しかし、一般化していないとはいえ、知識人の間では「蘭癖」といえば通じたようです。蘭書やオランダの文物・珍品は非常に高価であり、購入には莫大な経済力が必要だったため、「蘭癖」と称される人物には、学者よりも大商人や大名、上級武士などが多かったようです。

特に藩主の場合は「蘭癖大名」等と呼ばれ、殿様趣味の枠を超えて、自ら蘭学研究を行ったり、学問を奨励する等、文化的な評価は高い反面、蘭学趣味が高じて藩財政を窮地に陥れた人などもいたようです。

蘭癖大名の分布としては、主に九州の外様大名が多いようです。これはオランダに開かれた港・長崎が近く、蘭書や輸入品の入手が容易だったことと無縁ではないでしょう。その点、藩主として蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせた、関東の下総佐倉藩の第5代藩主、堀田正睦などはかなり例外的といえます。

このような蘭癖大名の典型例として知られる代表的な九州の諸大名としては、シーボルトと直接交流のあった長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清(なりきよ)や薩摩藩主・島津重豪(しげひで)が挙げられます。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬もまた、重豪の影響を受けたためかそれぞれ蘭癖大名と称されるほどでした。

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このような蘭癖の存続と拡大は、オランダ商館長と最も密接な関係にあった島津重豪の画策を助けました。その画策とは、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというものでした。

事実これは成功しており、NHK大河ドラマで有名になった、天璋院こと「篤姫」は、徳川家斉と3歳のときに婚約し、幕府に取り入りました。この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基を築く要因となりました。

「高輪」は、薩摩藩邸が江戸の高輪にあったためであり、下馬将軍とは、このころ将軍は江戸城の玄関まで籠に乗ったまま入城できましたが、大名は下馬後に籠から降りて入城しなくてはならなかったのに関わらず、重豪は下馬以後も籠に乗って入城できたためです。

これらは幕末の人物ですが、これ以前の江戸中期、享保の時代を生きた吉雄耕牛(オランダ語通詞、幕府公式通訳で蘭方医)、平賀源内(言わずと知れた蘭学者、発明家)、といった「蘭癖」たちは、「オランダ正月」と呼ばれる太陽暦で祝う正月行事等の西洋式習俗を恒例行事としてスタートさせました。

オランダ正月とは、江戸時代に長崎の出島在住のオランダ人たちや、江戸の蘭学者たちによって行われた太陽暦による正月元日を祝う宴で、「紅毛正月」などと呼ばれることもありました。

このころのオランダの正式名称は、「オランダネーデルラント連邦共和国」ですが、オランダ人の多数が信じるキリスト教のカトリック教会では、12月25日をイエスの誕生日としているのでこの日にキリスト生誕日が祝われていました。

一方、キリストを信仰しないユダヤ人も少なからずおり、彼らは男児が生まれた場合、生後8日目を割礼日として祝っており、このユダヤ人の習慣から、太陽暦における1月1日をキリストの割礼の日、として祝日にしていました。

この当時の日本は旧暦であり、この太陽暦における正月は、旧暦では12月の19~20日ごろにあたり、ちょうど旧暦の冬至の時期でもあります。

一方、日本では江戸幕府によるキリスト教禁令のため、オランダ人たちは表だってクリスマスを祝うことができません。そこで彼らはこの日をキリスト教徒ではない「ユダヤ人の正月」ということにし、表向きは「オランダ冬至」として祝い、キリストの生誕の祝宴に変えることを思いつきました。

こうして、出島勤めの幕府役人や出島乙名(町役人)、オランダ語通詞たち日本人を招いて西洋料理を振る舞い、オランダ式の祝宴を催したのが、「オランダ正月」の始まりです。もともとはオランダ冬至と言っていたわけですが、長崎の人々が「阿蘭陀正月」と呼んだことから、こちらのほうが通称になりました。

文政年間(1818~1829年)の「長崎名勝図絵」にはこのころの彼の家でのオランダ正月の献立が記されており、牛肉・豚肉・アヒルなどの肉料理やハム、魚のバター煮、カステラ、コーヒーなどが饗されていたようです。しかし、招かれた日本の役人はほとんど手をつけず、お土産としてこれらの食事を持ち帰ったといいます。

このため、商館側もオランダ料理のほうは持ち帰り用として別途取り置き、別にその場で食する日本料理を用意していたのでは、ということがいわれているようです。

やがて、出島だけでなく、長崎に住む日本人とりわけオランダ通詞らの家でも、これを真似てオランダ式の宴が催されるようになります。オランダ通詞で長崎生まれの吉雄耕牛(幸左衛門)は、幼い頃からオランダ語を学び、14歳のとき稽古通詞、19歳では小通詞に進み、25歳の若さで大通詞となりました。

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歴代のオランダ商館長(カピタン)は定期的に江戸へ参府することが義務づけられていましたが、吉雄は、年番通詞、江戸番通詞として、毎年のカピタン(オランダ商館長)の江戸参府にも随行するようになりました。彼らのオランダ正月へもその流れで参加するようなり、やがては逆に自宅に彼らを呼び込むようになっていきます。

オランダ正月を開くようになって以来、彼の自宅の2階にはオランダから輸入された家具などが配されるようになり、「阿蘭陀坐敷」と呼ばれるようになるとともに、庭園もオランダ渡りの動植物にあふれ、長崎の名所となっていきました。

通詞以外の吉雄に師事した全国の数多くの蘭学者も彼の家を訪れており、のちに江戸の蘭学者で指導者として有名になった大槻玄沢も、吉雄の晩年に、彼のオランダ正月に参加して感銘を受けたといいます。

江戸において初めてオランダ正月を初めて開いたのはこの大槻玄沢です。寛政6年(1794年)、オランダ商館長(カピタン)ヘイスベルト・ヘンミーの江戸出府において大沢はこのオランダ人と初めて対談しました。これを機に、京橋区水谷町にあった自宅の塾芝蘭堂に、多くの蘭学者やオランダ風物の愛好家を招き、新元会(元日の祝宴)を催しました。

この年は閏年であり、西暦の元旦は旧暦の11月11日だったようです。このときには、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待されていたそうで、その宴の様子を描いた「芝蘭堂新元会図」という絵が残っており、ここには出席者による寄せ書きがされているそうです。

当日の楽しげな様子が伺える絵だということで、大きな机の上にはワイングラス、フォーク、ナイフなどが置かれ、部屋には洋式絵画が飾られており、出席者は他に玄沢の師でありすでに「解体新書」の翻訳で名を上げていた杉田玄白や、玄沢の弟子の宇田川玄随、稲村三伯などがいました。

このころまでには享保の改革から50年以上が経っていましたが、蘭学研究は一段と盛んとなり、蘭癖らの舶来趣味に加え、新しい学問である蘭学は一定の市民権を得るようになっていました。

このことを受け、蘭学者たちも、このオランダ正月において親睦を深めるようになりました。自らの学問の隆盛を願い、最新情報の交換を行う集まりとして日本の伝統的正月行事に把われることなく行われるこの集会に意義を認める蘭学者も増え、以後も毎年行われるようになっていきました。

ただし、このころのオランダ正月は冬至のころではなくなっていました。当時使用されていた寛政暦などの旧暦と太陽暦はずれは毎年異なっていたためであり、便宜上、冬至から数えて第11日目にオランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となっていたそうです。

この江戸におけるオランダ正月の習慣は、玄沢の子・大槻磐里が没する天保8年(1837年)まで計44回開かれたいたといいます。

一方、この江戸でのオランダ正月が始まったころの1795年1月には、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、その国土がフランス革命軍に占領され、ランスの衛星国バタヴィア共和国が建国を宣言しました。

そして、オランダ国は、1815年にネーデルラント連合王国が建国するまでの20年間、地球上に存在していませんでした。すなわち、江戸の蘭癖たちは、オランダ滅亡と同時に存在しないオランダの正月を祝い始めたことになります。

このことを蘭癖の上級武士たちは当然知っていたはずですが、職を失ったオランダ商館の存続を偽装し、さらには滅亡したオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させるようになります。

1797年にまず、オランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船が出島に入港するようになりしたが、さらにオランダ国が消滅した余波を受けて、1799年にオランダ東インド会社は解散。それでもなお、アメリカの船は1809年まで出島に入港して貿易を行っていました。

つまり、オランダ商館に雇われていたオランダ人たちは全員がその雇い主を失っていたことになりますが、オランダ国が存在しないにもかかわらず、この期間、蘭癖たちは他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装していました。

これがそののちの、ペリーの来航につながっていきます。ペリーたちアメリカ人は、その表だった来航以前からこのオランダ商館のオランダ人を通じて日本の情報を得ており、また、蘭癖たちもオランダ船を装ったアメリカ船から、ペリーの来航の予定について詳しく知らされていました。

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1852年、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出しましたが、そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されていました。

また、中国周辺に有るアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載していることなど、詳しい情報が加えられており、出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝わっていました。

当然、日本の幕府に関する情報もアメリカ側に筒抜けであり、幕府の防御態勢が貧弱であること、どこに黒船を停泊させれば、日本人はおののくか、といったこともすべてお見通しでした。

このように、アメリカによる「日本開国」は半ば仕組まれたものであった、というのは現在ではほぼ通説です。現在では実際にはアメリカ人が出島に入国していたのではないか、だとしたらいったいどの程度のアメリカ人がオランダ商館に出入りしていたのか、といったことが研究の対象になっているようです。

以上みてきたように、「享保の改革」以後、日本には蘭学を通じて国際熱広まっていき、引いてはそれが日本を鎖国から解放することにまでつながっていったわけですが、この時代に似ているといわれているこの平成の時代にも同じような国際化が進みつつあるようなかんじがします。

昨今の日本を訪れる外国人の増加や、渡航する日本人が増えていることがその表れですが、このほか、昨年の安保法案の通過により、これからますますアメリカとの馴れ合いが増えていきそうな雰囲気です。アメリカがもくろんでいる世界戦略に日本はさらに引き込まれていくことになるのではないでしょうか。

日本がアメリカと通商和親条約を結んだのは、享保の時代からおよそ100年後。似ているといわれるこの平成の時代からあと100年たったら、日本はどんな国になっているだろう、と思い描いてみるのですが、想像もつきません。

あるいは、日本にすっかり取り入っているアメリカ人の中には多数の宇宙人が混じっているかもしれず、もしかしたら、日本はその宇宙人の住まうどこかの星の人々と通商和親条約を結ぶようになるのかもしれません。

楽しみのような、楽しみでないような……

さて、お天気も良いようです。正月以来の連休3ヶ日を楽しむこととしましょう。

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