あの子かわいや

2015-65412016年がスタートして6日が経ちました。

今年は3日が日曜日になったため、4日が仕事はじめ、という方も多く、ゆっくりと正月気分を味わうためには少々せわしない年初めだったことでしょう。

我が家では、年末には母が山口から、また年明けてからは一人息子が千葉から戻ってきたこともあり、いつもは二人と猫一匹で静かなこの山荘も少しくにぎやかになりました。

この息子君は今年就職であり、早晩結婚して子供などできようものなら、私もおじいちゃんです。実現すれば、将来の我が家の正月はさらに賑やかしくなると予想されます。

家族が増えることは嬉しいことではあるのですが、しかし、今のこの静かな生活が一変する可能性を考えると少々憂鬱な気がしないではありません。少なくない数の世のじいちゃんばあちゃんが、正月の一時期、孫の帰省によって静かな生活が脅かされることを内心戦々恐々に思っているに違いありません。

かつて父が生きていたころ、山口にまだ幼かった息子や先妻を連れて帰省するたびに、「お前らが来ると生活のペースが乱れる」と笑いながら言っていました。冗談のつもりではあったのでしょうが、どこか本音に近いものがあったに違いありません。

少子化が進む昨今、「孫がいる」というだけでうらやましがられ、「孫をかわいがるのが当たり前」という風潮さえ生まれています。しかし、その陰で高齢者の間では、孫の世話を押しつけられ、疲れ切ってしまう「孫疲れ」が密かに蔓延しているのではないかといわれているようです。

現在は晩婚化が進んでおり、そうした世代の親たちは60代で定年退職した後に孫ができることが多いことがこうしたことが起こる原因のようです。祖父母は既にリタイアしており、若い人のように仕事を理由にして孫の世話を断わることができません。

一方では、体力的にも衰えており、活発に走り回る小さな子供の世話で、腰椎すべり症や高血圧といった病気にかかり、孫育てに「ドクターストップ」がかかるケースさえあるようです。また、団塊世代の男性はあやし方もオムツの交換も知らなかったりするので、余計にストレスを抱えてしまうといいます。

孫がかわいいか、かわいくないかといえば、かわいいに決まっているし、できれば面倒を見たいでしょうが、残念ながらそのための体力と気力が足りなくなっている高齢者も多くなっているようです。

ある60代なかばの元会社員男性は、都内に二世帯住宅で、息子夫婦と4歳の孫と暮らしていますが、毎朝、毎晩、車で嫁を隣県にある会社へ、また孫を保育園へ、送り迎えをしているそうです。

1往復で2時間以上はかかるので、2往復で1日が終わりますが、孫が小学生になるまでの辛抱だと耐えて頑張っています。しかし、孫が小学校に上がるより先に、自分が倒れてしまわないか心配になっています。

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このほか、別のやはり60代後半の元会社員男性が耐えているのは、意外にも「孫とのおしゃべり」だそうです。6歳の女の子の孫が家に入り浸っていますが、この子がまた「口から生まれたんじゃないか?」と思われるほどのおしゃべりなのだとか。

適当に相づちを打っていると、「今の話聞いてた? じゃあ、友達の名前をいってみて」と問い詰められてパニックになる始末で、孫の話に出てくる登場人物もエピソードも多くてとても頭がついていいきません。

さらに最近の子供が持っているおもちゃといったらまるで「ハイテク機器」そのものです。凧揚げや羽子板で育った世代にはとても理解できる代物ではなく、適当に孫に合わせてはみるものの、やはり使い方は分からずじまいで、そうしたわけのわからないものを覚えようとすることだけでもストレスです。

それにしても、なぜそうまでして孫をかわいがろうとするのか、関わろうとするのか?進化論的には、子孫を繁栄させる、ということが一義であり、親子関係については当然子供を守り育てることが、人類の存続の上で必要であるわけです。親が子供を大事にするのは自然選択的に当然と考えられます。

しかし、孫を大事にすることは必ずしもそうではありません。親がそれをすれば十分であり、祖父や祖母が子育てをする必要性は薄いと考えられます。

人間以外のほとんどの動物では孫が生まれるまで親が生存することがなく、そうした状況下では、祖父母世代は孫の面倒などはみはしません。そうすることに進化論的な意味がないからです。親が子を育てて、一人立ちする程度まで成長すれば親は必要なく、祖父母世代が孫の面倒をみる生物というのは人間以外にはほとんど例をみません。

もっともゾウなどのようにグループで子供を見守る、という例はあるようですが、それにしても子育ては親がやることであり、「他ゾウ」がその子にちょっかいを出すのは、その親が死んでしまった場合や外敵からの脅威にさらされた場合だけです。

しかし、人間においては、孫は明らかに直系の血縁者だから、これを守ることはそれなりの価値が認められるのではないか、と考える人が多いようです。

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「血縁選択説」というのがあり、これは、自然選択による生物の進化を考える上においては、個体が自ら残す子孫の数だけではなく、遺伝子を共有する血縁者の繁殖成功に与える影響も考慮すべきだとする進化生物学上の理論です。

ヒトは自分の受精、出産と子育て、といった他の生物で言うところの「繁殖時期」の終了よりも遙かに長い生理的寿命を持ちます。このことが何に由来するか、という生物学的な議論の上において、もしかしたら、祖父母が子育てに参加することで孫の生存率が高まるのではないか、といわれるようになりました。

様々な動物で、子供が親の育児を手助けする「ヘルパー」という行動が知られていますが、これをヒトでは祖父母が担っているという説であり、特におばあちゃんが豊富な経験を自分の子の子育てに生かせることで、孫の生存が高まる、ということも言われているようです。

こうしたことが、ヒトの寿命が長くなることが進化に影響を持っているのではないかということが言われるようになり、「血縁選択説」が生まれました。これが正しければ、祖父母が孫に執着する感情を持つ理由はこれに由来するのかもしれません。

こうした血縁選択説を裏付けるものとして、たとえばカナダでは、継子が血縁のない義理の親と同居している場合、子殺しの起こる頻度が数十倍になることが明らかになっているそうです。また、オセアニアの人々はしばしば養子を育てますが、これを詳細に調べると養子のほとんどは養父母の血縁者(甥や姪など)であることがわかっているそうです。

ヒトの進化の過程で自分の子を識別し、血縁のない相手よりも愛情や養育行動を向けやすい性質を持つようになった、と考えるのはごく自然です。イスラム国に集まっている輩は別として、日本人や欧米人、その他のまともな国(アジアの某国は別として)における一般に文明人、といわれる人種の間では普通のことでしょう。

一方、アフリカや南米にはまだ「部族」といわれるような未開化の人種が数多く残っており、こうした「原始的な」人類を研究すると、こうした血縁選択説をより明確に説明できる行動が見つかってくるといいます。

たとえば、南米のブラジルとベネズエラの国境付近、アマゾンの熱帯雨林からオリノコ川にかけてひろく居住している先住民族「ヤノマミ族」の例があります。狩猟と採集を主な生活手段にしており、「ヤノマミ」とはヤノマミ語で「人間」という意味だそうです。

このヤノマミ族で集団間の争いが起こると、味方のなかでも血縁度の高い者をよく助ける傾向があることがわかっています。ヤノマミ族では部族間闘争が絶えないそうで、その際にもっとも助けになるのは、他人よりも親族のほうだ、というわけです。

ダーウィンは、厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる「突然変異」を選別させ、進化に方向性を与えると「自然選択説」を唱えました。生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られることから思いついたアイデアであり、「変異」は自然選択説の中での中核です。

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ダーウィンはこのほか、こうした変異の中には、親から子へ伝えられるものがあるとし、これを「遺伝」と呼びました。さらに、変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがあり、これが「選択」です。

生物がもつ性質がこの「変異」「遺伝」「選択」の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する、つまり進化を続ける、というのがダーウィンの提唱した自然選択説の根本です。

これによって、生物は自らの子孫をより多く残すように進化していくと予測されます。しかし、実際の生物にはしばしば利他行動、すなわち自分の繁殖成功を下げて他者の繁殖成功を高める行動が見られます。

たとえば、ハチやアリなどの社会性昆虫などでは、働きバチ、働きアリなどの個体があり、これは一般にワーカーといいます。これらの一部の個体は全く繁殖活動をせず、他個体の繁殖を助けることに一生を費やします。このような自分の子孫を残さない形質を持つ生物は、自然選択に従えばすぐに個体群から消えてしまうはずです。

そこで、イギリスの進化生物学者、理論生物学者のウィリアム・ドナルド・ハミルトは、従来の自然選択説がある個体自身の繁殖成功のみを考えていたのに対して、上述の血縁選択説を加えることを思いつきました。

この説では、生物の個体が、遺伝子を共有する血縁個体が共同作業で繁殖成功を増す、という「間接適応度」も考慮に入れたのが特徴であり、自然選択説にこの関節適応度を足し合わせることで、生物の進化は最大化する、とハミルトンは考えました。

これが血縁選択説であり、したがって、祖父母が行う「子育て」も、「血縁個体が共同作業で繁殖成功を増す」行為であり、今後とも人類が進化していく上においては意味がある、というわけです。

ハミルトンはこの説により、「現代におけるダーウィン」といわれるほどの高名な生物学者として称えられるようになりましたが(2000年没)、ただ、この説が生物学者のすべてに受け入れられているわけではありません。

ハミルトンはこのほかにも、「赤の女王仮説」という説を唱えており、これは、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならない、というものですが、これも仮説のままでとどまっており、定説には至っていないようです。

「赤の女王」とはルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する人物で、彼女が作中で発した「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」という台詞からきています。

「赤の女王仮説」はまたその生物学的な過程が、軍拡競争にも似ているといわれます。国家間の争いはとどまるところを知らず、相手をへこますまで自分たちの軍備を増強し、相手がさらにその上を行くのをみるとさらにその上を行こうとするなど、全力で軍備増強を続けようとし続けます。

英語表現では「進化的な軍拡競走」というのがあるほどで、なるほど国家間の軍拡競争は永遠に進化し続けようとする生物の進化にも似ています。人類の進化は実はこの軍拡から来ているのではないか、という学者さえいるようです。

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しかし、人同士の争いは、進化し続ける現在文明人の間においてのみ存在するだけでなく、上述のヤノマミ族のような未開化の人種においても争いはあります。

ヤノマミ族の社会は100以上の部族、氏族に村ごとに別れて暮らしていますが、他の村との間の同盟は安定することはまれで、同盟が破棄され戦争が勃発することが絶えないそうです。

このため現在に至るまで民族内部での戦争状態が断続的に続いているといい、このような状況におかれた人間社会の常として、ヤノマミ族では男性優位がより強調される傾向があります。肉体的な喧嘩を頻繁に行い、いったん始まると周囲の人間は止めたりせず、どちらかが戦意を喪失するまで戦わせるといった気風があるといいます。

そうした中で起こる争いの中では、生きるか死ぬかといった状況になることも多く、その場合には、やはり血縁関係があるものとないとでは結束力が違う、ということなのでしょう。

ヤノマミ族は、現在、ブラジルとベネズエラ合わせて、およそ2万8000人ほどもいるといわれており、南アメリカに残った文化変容の度合いが少ない最後の大きな先住民集団といわれています。

彼らの住居は、シャボノと呼ばれる巨大な木と藁葺きの家であり、多くの家族がその中でそれぞれのスペースを割り当てられていっしょに暮らしています。衣服はほとんど着ておらず、主な食物は、動物の肉、魚、昆虫、キャッサバ(熱帯で生育する芋の一種)などです。

彼らは食事に調味料を用いず、塩などというものもありません。このため極端に摂取する塩分が少ないことが特徴で、彼らはもっとも低血圧な部族として有名です。加齢にともなう血圧上昇もみられないといいます。

最高血圧100mmHg前後、最低血圧60mmHgだそうで、一般的な日本人の場合、上が129、下が84程度ですから、いかに低いかがわかります。

女子は平均14歳で妊娠・出産します。出産は森の中で行われますが、この子供が生まれたてのへその緒がついた状態のとき、その子を「精霊」のまま自然に返すか、人間の子供として育てるかの選択を迫られる、といいます。

精霊のまま自然に返す、というのは、すなわちこのまま育てても無事に成人しない、と判断されるような貧弱な肉体を持った嬰児である場合です。「精霊」とみなされて自然に返すときは、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、なんと、白アリのアリ塚に放り込むそうです。形は違いますが日本でもかつて行われていた「間引き」の行為と同じです。

その後、白アリが食べつくすのを見計らい、そのアリ塚を焼いて、その子が精霊になったことを神に報告するといい、このほか寿命や病気などで民族が亡くなった場合も精霊に戻すため、同じことが行われるといいます。

近代社会に住まう我々からみれば、なんと野蛮な行為だろうか、とついつい思ってしまうのですが、「価値相対主義」によって物事を判断する我々と異なり、彼らには自然そのものが絶対的な価値であり、自然に生まれたものは自然に返す、というのがごく普通の人生感のようです。

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もっとも、ヤノマミ族は未開人であるがゆえに、技術的に人工妊娠中絶ができない、ということもあります。従って彼らなりの「自然主義」に従えば、親にとってその存在が「生育不能」「不必要」である子供は、資源的・社会的にも自然に返すのがふつう、ということになります。

森の中で子供を白蟻に食べさせるという行為は、我々文明社会においては「嬰児殺し」とみなされるわけですが、彼らにとってはごくごく普通の行為であり、我々がふだん「自然淘汰」と呼んでいるものに近いかたちです。

我々にとってのこの「嬰児殺し」の行為、彼らにとっての「自然への返還」の権利は形式上は母親にあるといいます。しかし、ヤノマミ族は基本的には男尊女卑であり、このことから、実際は子供の遺伝的父親や、母親の父親・男性庇護者の意思、村の意思が強く反映されるそうです。

ヤノマミの言葉では、この行為を「子供を精霊にする」といったふうに表現しますが、これは我々の言葉では「中絶」ということになります。不必要な子供を始末する点では一致しますが、「超自然的」な位置づけがされている点が異なります。

いかに人類が進化してもその根本はやはり「人間」という生物であり、この地球に生まれ育って死んでいくという点では他の生物と同じです。

言語や文明を持たないはるか昔の人類から進化してきた我々もまたヤノマミ族と同じように、他の動物と同じように自然の中に生き、自然の中で生きてきたわけです。その体の中に超自然が残っていても不思議ではありません。

どこか「超自然」を信じたいと思う気持ちがあるのはそのためでしょう。じいちゃんばあちゃんが、血縁選択で孫を愛でるのもその名残なのかもしれません。

しかし、はたして孫を本能のままにかわいがることが本当に人類の進歩につながるのか、その子の成長のために本当に必要なのか、といったことも時に考えてみてはどうでしょうか。

近寄ってくる孫を蹴飛ばし、突き放せとはいいませんが、本当にそこまでしてかわいがる必要があるのか、なぜ愛そうとするのか、といったことも、今年はその孫の頭をなでる手をちょっと止めて考えてみてはいかがでしょうか。

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