6月に入ってすぐのこと、いつも沼津市内に出かける際に側を通るたびに気になっていた沼津御用邸(沼津御用邸記念公園)に行ってきました。
昭和44年12月に廃止になるまで皇室の方々の保養施設として使われていたものであり、昭和20年には、沼津大空襲によりその本邸が消失したため、戦後は消失を免れた西附属邸が本邸の役目を果たすようになりました。
現在この西付属邸内は「皇室博物館」のような形で一般公開されており、同じく消失を免れた東付属邸とともに内覧が可能になっています。
もっとも、観光の中心は西付属邸のほうであり、東付属邸のほうにはあまり展示物はないようです。もともと来客用の離れとして造られたようであり、現在も一般向けに「貸しホール」として共用されているとうことで、我々が行ったときも何等かのイベントで貸し出されており、中身を見ることができませんでした。
とはいえ、西付属邸だけでもかなり見応えがあり、明治から大正、昭和にかけ、ここで皇室の一族がどのように過ごされたかがよくわかります。館内をガイドしてくださる女性も数人いて、邸内各所のみどころを観光客に懇切に説明されておりました。
沼津御用邸は、1893年(明治26年)、大正天皇(当時は皇太子)の静養のため、当時は駿東郡静浦村の「島郷」と呼ばれていた字に造営されました。もともと「御料林」があったところで、それ以前から皇室のための保養地として確保されていたもののようです。
敷地面積は約15万平方mもあります。南北およそ1kmにも及ぶ長大な敷地は、すぐそばが駿河湾に面しており、広大な松林の中の砂浜の中にあります。
大正天皇が亡くなられたあとも他の皇族全般の保養のために用いられてきており、いわば皇室御用達のリゾート施設です。当時、このあたり一帯は小さな漁村でしたが、気候が温暖なうえ、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地であることから別荘地として注目されはじめていました。
加えて明治22年(1889)年には東海道線が開通して、東京からの交通の便がよくなったこともこの地が別荘地として利用されるようになった理由の一つにあげられます。
造営が始まったころ、すでに大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸、海軍大臣)、などの別荘が建てられており、公園入口にあった看板には、この地にはこれ以外にもたくさんの保養所が建てられていたことが示されていました。
それによると、このほかにも西園寺公望の別荘があり、さらに他の男爵、侯爵、伯爵などなどの明治政府の高官の保養所も多数存在しました。
さらには若山牧水邸や、オッペケペー節で有名な川上音二郎の縁者などの文化人の保養所、東京府立の三つの中学の保養所ほか、東京在住の経済人が避暑として使った大きな旅館などがひしめいており、その数およそ30ほどもあったようです。
これらの別荘保有者の一人、「川村純義」は、薩摩出身の海軍軍人で、妻が西郷隆盛の従妹にあたります。安政2年(1855年)に江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所へ、薩摩藩より選抜されて入所しており、慶応4年(1868年)1月にはじまった戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として各地、特に会津戦争において奮戦しています。
明治維新後は、明治政府の海軍整備に尽力、明治7年(1874年)には海軍ナンバー2である海軍大輔、海軍中将に任ぜられました。
西南戦争の際には政府要人として暴発する薩摩隼人を抑える側にも回ったようですが、不首尾に終わり、開戦すると山縣有朋とともに参軍(総司令官)として海軍を率いて参戦。海上からの軍員及び物資輸送、海上からの砲撃等により戦争の鎮定にあたったといいます。
戦後も太政官制のもとでは枢要な地位を占めたようですが、新しい内閣制度が発足すると古い時代の人間は不要だということでその座を追われたことから、その後の日露戦争などでは活躍していません。
政府を追われた理由のもうひとつとしては、物事をはっきりと言いすぎる性格が災いしたとも言われます。が、維新以降の貢献が認められてその後枢密顧問官となっています。
明治天皇からの信任が篤く、その孫にあたる後の昭和天皇の養育を明治34年に任じられ、死後海軍大将に昇進しており、日本海軍で戦死でなく死後大将に昇進したのは、川村純義が唯一の例だそうです。
その後伯爵となり、明治34年には昭和天皇、36年にはその弟君の秩父宮雍仁(やすひと)親王の養育係にも任命されています。明治37年に68歳で没していますが、その最晩年にこの二人の皇子の養育係となったことはかなりの重圧だったようで、そのことが命を縮めたのではないかと言われています。
現在残っている西邸は、この川村が自分用の別荘として建てたものを増築して現在の形になったものです。この建物はもともと本邸の西隣にあり、明治38年に宮内省が買い上げ、昭和天皇のための御用邸としました。
川村の別荘地の敷地だけで約10,000平方メートル(3,030坪)もあったといい、ここに木造平屋建て880平方メートル(約266坪)の建物が建てられていました。
もともと明治23年頃に建築されたものでしたが、宮内省が購入したのちには、翌39年に皇居内の附属建物424平方メートル(約128坪)が移築して継ぎ足され、さらに明治41年にも車寄、浴室などが増築、大正11年にも増築があって、最終的には全体面積1,270平方メートル(約384坪)の「附属邸」とはいえ、広大な別荘練が完成しました。
昭和天皇は天皇になられてからも日常のおくつろぎやお休みになられる時はここをよく利用され、人とお会いになるなどの公務の場合には本邸のほうを使われていました。そして昭和20年の空襲で本邸が焼失した後は西附属邸が本邸の役目を果たすようになり、昭和44年に廃止になるまで、昭和天皇以外の皇室の方々にも利用されてきました。
昭和天皇はご誕生の翌年からすでに川村邸で夏冬の多くを過ごされていましたが、その後、皇太子時代も長期滞在が多く、歴代天皇の中ではもっともご利用日数が多くなっています。
ご幼少の頃から沼津の海や自然に親しまれる機会が多く、また周辺の同年輩の子供達と相撲をしたり、散歩の途中で地元の小学生に気軽に話しかけられるなど、地域住民との交流を楽しまれたそうです。
沼津の大空襲で消失してしまいましたが、明治26年に完成したという沼津御用邸の「本邸」には、大正天皇もよく訪れていたそうです。完成直後にもおよそ一か月滞在されたそうですが、その後もご利用の機会が多く、延べ日数にすると1,000日以上を沼津で過ごされており、この地で狩猟などを楽しまれることもあったそうです。
ここでの大正天皇一家の暮らしぶりは、明治政府の要請によって来日した、いわゆるお雇い外国人の一人「エルヴィン・ベルツ」の「ベルツの日記」にも詳しく書かれているといいます。明治9年に来日し、日本の近代医学の基礎作りに貢献したドイツ人医師です。
明治35年には皇室侍医となり、沼津御用邸にもしばしば訪れていました。日記には昭和天皇(このころは皇太子)が庭園や海浜で自由に遊ぶ様子や父親としての大正天皇の満悦ぶりが記されているといいます。
当時の皇室では親子別々に暮らすのがあたりまえでしたので、このように一家が親子一緒の生活を過ごされているのを見て「西洋の意味でいう本当の幸福な家庭生活」が実現したと自分のことのように喜んだといいます。
来日後27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くし、その通算滞日年数は29年にも及びました。我が国に保養地(リゾート)の考え方を導入した人としても知られ、温泉療法や海水浴の有効性を主張していました。
草津温泉を発見し、世界に紹介したことでも知られています。1878年(明治11年)頃より草津温泉を頻繁に訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価しています。
このほかに箱根でも温泉開発の提案をしており、沼津や葉山などの御用邸の地の選定にも関わりを持ったようです。
同じくドイツ出身でオーストリアの外交官であり、明治2年には日本にも来たことのあるシーボルト(ハインリッヒ・フォン・シーボルト)とはかねてよりの親友だったそうで、祖国ではシーボルトの主治医も務めていたほど親しかったようです。
ハインリッヒ・シーボルトのお父さんは、あのフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトであり、江戸時代末期に来日し、蘭学を通じて日本に西洋文明を伝えた先人として有名です。
ハインリッヒの異母姉には、日本人女性として初の産婦人科医となる楠本イネがいます(日本人女性と結婚した父フィリップの娘)。ハインリッヒもその父も元々はドイツ出身ですが、ハインリッヒは後に外交官としての功績が認められ、オーストリア=ハンガリー帝国の国籍を得ています。
父のフィリップ・シーボルトは、1828年(文政11年)に帰国の際、日本の地図を持ち帰ろうとしたとしたことが発覚して国外追放処分を受けていました。が、その後日本は開国し、1858年(安政4年)には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除されたため、1859年(安政5年)、オランダ貿易会社顧問として再来日しています。
1861年(万延元年)には対外交渉のための幕府顧問となり、1862年(文久元年)に官職を辞して帰国していますから、その生涯では二度来日し、二度幕府に重用されていることになります。
その後、3度目の日本への渡航を計画していたといいますが、1866年にミュンヘンで70歳で死去。このとき、息子のハインリッヒは、再度の来日を準備する父の研究資料整理を手伝っていたといい、このことによって日本に強い興味と憧れを覚えたようです。
この父の二度目の来日のとき、ハインリッヒのお兄さん(アレクサンダー・フォン・シーボルト)がやはり外交官として父に同行して来日しており、父が帰国した後、この兄は徳川昭武使節団に同行して帰国。
そして、そのお兄さんが1869年(明治2年)に再び来日したとき、共に同行して初来日を果たしています。日本では兄と共に諸外国と日本政府との条約締結などの職務に着手、その合間に父の手伝いする中で学んだことを活かし様々な研究活動を始めています。
その中で町田久成(後の東京国立博物館の初代館長)、蜷川式胤(にながわのりたね、明治初期の官僚、古美術研究家で日本の陶器を海外に紹介した)らと親しくなり、その後も親交を続けたことで、日本文化への造詣を深めていきました。
ちなみに、ハインリッヒは、この来日後日本人と結婚しており、これは日本橋の商家の娘「岩本はな」という女性であり、芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったそうです。
後に福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務めたといい、ハインリッヒとの間には2男1女を授かりましたが、その娘も長唄と琴で免許皆伝を受けています。
しかし、長男はハインリッヒがウィーン万国博覧会へ出かけている間に夭折。その後、産まれた男子は岡倉天心の開いた上野の芸術学校に入学して日本画家を目指しましたが、創作活動の中、体調を崩し、こちらも25歳の若さで没しています。
ハインリッヒ自身も晩年になり重病を患い、公使館の職を辞して帰国。このとき夫人のはなを日本に残しています。詳しいことはよくわかりませんが、どうやら母国にももともとの妻がいたらしく、日本での結婚は重婚であったようです。
帰国したハインリッヒは、その後イタリア南チロルの古城にて静養生活をおくるようになりました。このとき、親友で主治医でもあるベルツ博士も既に帰国しており、彼に懸命の治療を施しましたが、その甲斐なく58歳で死去。1908年(明治41年)のことでした。
このように、ハインリッヒ・シーボルトは重婚疑惑はありながらも、公私ともに日本文化へとどっぷりと浸かった人であり、日本がその後急速に西洋文明に感化されていくにあたっては、古来から育まれた日本文化の衰退を危惧し続け、この当時の廃仏毀釈の嵐吹き荒れる中での美術品の散逸に対してはかなりの危機感を持っていたそうです。
シーボルトの親友であったベルツも彼の感化を受けまた同様の考えを持つようになり、彼が在日中に多くの美術品・工芸品を購入し、保存に努めようとしていたのと同じように、多くの美術品の蒐集活動に取り組みました。
来日して、翌年の1876年(明治9年)、お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれたあと、1881年(明治14年)には、東海道の御油宿(愛知県豊川市御油町)戸田屋のハナコ(花)と結婚。
この花夫人(シーボルト夫人の名も同じハナ)の協力を得ながら、江戸時代中後期から明治時代前半にかけての日本美術・工芸品約6000点を収集しました。
こうして集めたベルツ・コレクションは現在、シュトゥットガルトのLinden-Museum(リンデン民族学博物館)に収蔵されており、2008~2009年(平成20~21年)には「江戸と明治の華-皇室侍医ベルツ博士の眼」展として日本各地で公開されました。
シーボルトからは晩年そのコレクションの管理を託されるほどの信頼関係があったといいますが、シーボルトは死に際にはほとんど人事不省だったためかベルツへの移譲手続きはおこなわれないまま、こちらのシーボルト・コレクションのほうは現在までに散逸してしまっているそうです。
ベルツの来日中、こうした美術資料の収集のかたわら、シーボルトの誘いで歌舞伎の鑑賞などにもよく出掛けており、またフェンシングの達人でも合った同氏と共に当時随一の剣豪であった直心影流剣術の榊原鍵吉に弟子入りまでしています。
東京医学校で教鞭を取りながら様々な医学研究も行っており、この中で特に有名なのが、「蒙古斑」の発見です。江戸時代までの日本人は、赤ちゃんのお尻にある青い痣を妊娠中の性交で出血した跡と考えていましたが、ベルツはこれをモンゴロイドの特徴ととらえ、1885年(明治18年)に”Mongolian Spot”として学位論文を発表しています。
ちなみに、子供や若者に対して未熟であることを揶揄して言う、「ケツが青い」という表現はこの蒙古斑にちなんでいます。
このほか、ベルツの功績として名高いものに、「ベルツ水」があります。1883年(明治16年)、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見たのをきっかけに、この「ベルツ水」を処方しました。現在でも「グリセリンカリ液」として日本薬局方・薬価基準に収載されている薬品だそうです。
ひびやあかぎれのケアに有効で保湿効果があり、水仕事の後によく手を拭いて、これを付け、さらに潤いが逃げないようにハンドクリームか白色ワセリンを塗るとさらに効果があるそうです。
単純にハンドクリームを使うよりもよりしっとりとなって、割れてひびが入ってカサカサしている所も引っかからなくなるといいます。
このように、長年にわたり、日本の文化や医学に貢献したベルツ博士ですが、来日後27年経った1902年(明治35年)には、東京大学を退官。このとき、53歳でしたが、まだまだ現役ということで、このあと宮内省侍医を勤めることになります。
沼津御用邸、西邸の建設、そして大正天皇一家の保養に関わったのは、このときのことと思われます。こうした日本での数々の功績が称えられ、1905年(明治38年)、旭日大綬章を受賞。
そして、この年に夫人とともにドイツへ帰国。このあたり、日本人妻を見捨てて単身帰国した親友のシーボルトよりも人間性が上だったということでしょうか!? 母国ではその後、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務めたあと、1913年(大正2年)、ドイツ帝国のシュトゥットガルトにて死去。享年64歳でした。
沼津御用邸は、明治、大正、昭和の三代、七十七年間にわたって皇族に愛され続け、特に、歴代の天皇皇后両陛下、皇太后陛下のご利用日数は、のべ五千日以上にも及び、同時期の他の御用邸にくらべても最も利用の頻度が高かったといいます。
今上天皇もまた、疎開生活や戦後の復興期のご利用が多く、狩野川での煙火大会も何度かご覧になるなど、市内各地へのお出掛けや、隣地の学習院游泳場へのご滞在の機会も多かったそうです。
それだけこの沼津の気候や風土、景観が愛されたということなのでしょうが、現代の沼津は戦後の焼け野原からの復興後の際の区画整理がまだ終了していない、といったかんじでどちらかといえば雑然とした印象のある街です。
とはいえ、現在、沼津御用邸記念公園となっているこの一角は、北側すぐのところに狩野川の河口を控え、遠く富士山と愛鷹山を望み、更に箱根の連山を望み、西は日本平から、晴れた日には遠くアルプスの峰々を見ることができ、なかなか風光明媚なところではあります。
南には波静かな内浦湾から伊豆の山々へと連なる眺めもみることができ、無論、伊豆の各地の温泉にはほど近く、また東には柿田川の清流や三島の街並みが続いており、海岸線沿いにはきれいな遊歩道兼防波堤も整備されていて、市民などの憩いの場になっています。
海岸沿いを走る国道414号から近く交通の便も良く、市民らからは公園地域共々「御用邸」と呼ばれて親しまれており、我々も普段はそう呼んでいます。
ガクアジサイ・ヤマアジサイ・西洋アジサイ等の約2,300株ものアジサイが咲く名所としても知られており、これからがいまその盛りです。みなさんも一度行ってみてはいかがでしょう。
園内散策だけなら入園料100円、西邸を見学したい場合でも400円は格安です。伊豆観光の中ではどちらかといえば地味な存在ですが、ぜひ一度訪れてみてください。きっと良い経験になると思います。