台風が近づいているのだそうで、今年の梅雨はこの台風の行先いかんによって、だいぶ様相が変わってくる、というようなことをテレビで気象予報士さんが言っていました。
台風がそのまま梅雨前線を押し上げる形になれば空梅雨、梅雨前線と合体する形で日本近辺に居残れば、長梅雨ということのようです。
今週末にかけて太平洋岸に接近する台風の動きが気になるところです。
筋肉痛です。おとといは住人総出で、この別荘地内の公共場の大掃除をするという日になっており、この掃除の主眼は主に雑草の除去と繁茂する樹木の伐採でした。
ウチは、別荘地内の中央公園のすぐそばにあるということで、この公園の境にちょっとした緑化ベルトや公園内の広場、道路脇の雑草処理が担当でした。
この公園脇の緑地には、樹齢が数十年にもなる椿や桜の樹が十数本あります。そして私はこの椿や桜のうっそうと茂った枝を落とす作業を買って出た、というか、ここではお年寄りが多いので、こうした作業を進んでやる人もなさそう、ということで、自主的にこの作業をすることにしたのでした。
最初はあまり本気でやるつもりはなかったのですが、気が付いてみると、下草を刈り、樹にまでよじ登って、うっそうとした枝を切り落とす作業に没頭しており、朝の8時くらいから始めたのですが、気が付くと、お昼前になっていました。
最近あまり体を動かしていないので、こりゃー明日には筋肉痛になるかも、と思ったものですが、大当たり。そして昨日の夜あたりから、すっかり上半身不随状態……というわけです。
ま、張り切ったおかげでグリーンベルトはすっかりきれいになり、いままで我が家から見通せなかった公園がすっかり見えるようにもなり、地域の住民さまからもかなり感謝されました。
すごーい、ナタとのこぎりだけで、こんなにきれいにできるなんて、プロみたい!と大絶賛の嵐。
へへん、どんなもんだい、と多少誇らしくはあるのですが、来年もまた今年のこの成果と同様のものを期待されるのでは……と内心はやや複雑。
歳も年だし、あんまりはりきりすぎるのもたいがいにせんと……と反省しきり。それにしてもあれだけ重労働したのに、その見返りは小さな寿司折とペットボトルのお茶だけ。ビールを出さんかーいビールを!
……というわけで、今日は痛む肩をいといつつ、パソコンを開け、いつものように仕事を始めたわけです。そして、しばしブログのテーマを探してネットサーフィンをやっていたのですが、その中で、今日は関門トンネルの「下り線」の開通した日であることを書いてある記事を見つけました。
下り線?なぜ下りだけ?と少々疑問に思ったので、ちょっと調べてみることに。
すると、驚くべき事実が判明。
そもそも関門トンネルというのは、鉄道と道路が共用のものが一本だけだとばかり思っていたらそうではなく、それぞれ別のトンネルだということがわかったのです。
1942年(昭和17年)の6月11日に開通したというのは、このうちの鉄道トンネルのほうということで、昭和17年といえば戦前です。
えーッ、関門トンネルってそんなに古かったけーとさらに驚き、調べてみたのですが本当みたいです。
構想そのものは明治時代からあったようで、1896年(明治29年)に「全国商業会議所連合会」なる団体さんが関門海峡に鉄道隧道を建設して欲しい旨の嘆願を帝国議会に提出。
しかしすぐには了承されず、10年以上も経ったあとの1911年(明治44年)になって、このころ鉄道院総裁だった後藤新平が、土木技師に命じて関門海峡を挟む北九州と下関間の間にどうやって鉄道を通すかの検討を命じています。
この検討の結果、「海底隧道」による鉄道敷設が可能ということになったようですが、なぜ橋梁にならなかったについては、橋にした場合には、万一外国が侵略してきたときに、橋梁だと艦砲射撃にさらされるおそれがあるから、ということだったようです。
その後、具体的な工法が検討されますが、トンネルを掘る技術がまだ未熟だったためかすぐには実行に移されず、その後20年以上も経ったころになって、ようやく工事開始が決定。このころ明治時代は既に終わり、大正時代も通り越して、時代は昭和に入っていました。
1936年(昭和11年)9月19日起工。2年と7カ月後の1939年(昭和14年)4月19日には、先通導坑(工事促進のため先に掘削された小トンネル)が貫通。この当時既に日本は戦時体制下になっていたため、来たるべき戦争に備え、輸送力増強を図るために工事は突貫作業で行われたといいます。
工法は、当時としては最先端、現代でも主流のシールド工法であり、この当時としては最新鋭のシールド掘削機を駆使しならが作業が進められましたが、多量の湧水に対抗する難工事でした。
日本としては初めての海底トンネルであり、このため海底からのトンネルの深さを十分に取ることを忘れ、土被りが極端に小さかったため、坑内で掘削中には頭上を通過する船舶のスクリュー音が聞こえたといいます。
また、それだけならまだしも海底に坑内の空気が漏れ出したりしたこともあったといい、このチェックのために超小型潜水艇による調査まで行われたそうです。
しかし、工事中は死傷者も出さず、大きな出水などもなく、起工から5年弱を経た1941年(昭和16年)7月に、「下り本線」が貫通。
なぜ下り線だけなのか、が私の疑問だったのですが、どうやらこれはこのトンネルが、「単線並列方式」で建設されたためのようです。
上下線共に上り下り双方向の運行が可能とする方式であり、万一、どちらかのトンネルに障害が発生した場合でも、もうひとつのトンネルが使えるようにすることを想定したもので、こういう方式を「冗長方式」というのだとか。
戦時設計のため、橋梁と同じく敵の攻撃を想定し、二本の路線を確保しておくことにしたというわけです。これで私の疑問は解けました。
この単線並列方式では、日中の閑散時間帯に軌道点検・保守を実施する際は、上下線いずれかを閉鎖し、単線運転を実施することもでき、そう考えるとなるほどなかなかか効率的なシステムです。
そして、1942年(昭和17年)、下り本線で試運転開始したのが今日6月11日だったというわけ。その二日後の6月13日には、この下り線で貨物列車の運行が開始されており、さらに人間後の1944年(昭和19年)9月9日には上り本線も完成、複線化が完成しました。
「山陽本線」としての「開業」はこれに先立つ1942年(昭和17年)7月1日のことであり、上り線はまだ開通していないので、下り本線だけで開業が宣言されました。この年の11月からは、下り線を使っての旅客営業も開始。
このとき、下関駅も開業、門司側でも接続駅の大里駅(だいりえき)が門司駅に改称され、旧門司駅は門司港駅に改名。
世界最初の鉄道海底トンネルとして喧伝され、海底を通るが故に「龍宮の回廊」とも呼ばれましたが、戦時中であったため写真はほとんど残っておらず、数少ない報道写真も軍による検閲を受けて多くを偽装修整されたといいます。
この関門トンネルの開業の日をもって全国的にもダイヤが改正され、日本の鉄道は24時間制に移行しており、11月15日は日本の鉄道史においても記念すべき日となっています。
このとき日本は既に前年(1941年)12月の真珠湾攻撃によってアメリカと海戦しており、アメリカやその他の同盟国からこの関門トンネルも攻撃されるのでないかと心配されました。
実際に太平洋戦争末期の1945年ころ、アメリカ軍では日本側の抗戦が続いて本土決戦となった場合に本州から九州への輸送路を絶つことなどを目的に、関門トンネルを爆破する計画を持っていたといいます。しかし実行前に終戦となったため、中止されたそうです。
アメリカ軍の攻撃をまぬがれた関門トンネルですが、一度だけ陥没しています。
1953年(昭和28年)6月28日北九州地区に大水害をもたらした西日本水害の集中豪雨により、トンネル内に土砂混じりの大水(延べ9万m³)が流入し、1.8kmに渡り水没。
門司駅では直ちに上り特急列車の出発を抑え、トンネル反対側の下関駅へも連絡しましたが、既に1本の下り列車が下関駅を出発していたことが判明。
鉄道関係者をハラハラさせましたが、程なくして下り列車が滝のように大水が流れ込むトンネルからずぶ濡れになりながら現れ、なんとか脱出に間に合いました。門司駅に到着した列車が到着すると、大きな歓声が沸き上がったといいます。
無論、死者はなし。資材不足のため復旧には米軍から借り受けたポンプなどを用い、復旧は7月13日、一般営業は同19日に再開しました。
このころ、並走する「関門国道トンネル」はまだ工事中でした。1937年に試掘導坑の掘削を開始し1939年に完了。同年、本坑掘削に着工し1944年12月に貫通しましたが、太平洋戦争によって工事中断を余儀なくされました。が、1952年に事を再開し、1958年3月9日に開通。
その上を通る「関門橋」もその15年後の1973年(昭和48年)11月14日に開通。現在関門橋にはこうして、「三本の矢」ができ、本土と九州を結ぶ重要な路線として今も活躍しています。
……そんな関門海峡にはもう何年も行っていません。ときおり、ふとしたひょうしに、そのすぐそばにある火の山の頂上から眼下に広がる海峡の姿を思い浮かべることがあります。
キラキラひかる海とそこを行きかう船、これをまたぐ関門橋のとその背後に広がる青い九州の空を思い出すたび、この場所にむしょうに行きたくなります。
梅雨空の下の関門海峡。今日はどんな姿でいることでしょうか。