目にホタル……


カツオがおいしい季節になりました。

スーパーに行くと、脂の乗ったカツオがかなりリーズナブルな値段で売りに出されていて、思わず涎が出てしまいます。が、実はタエさんがこのカツオがダメで生臭く感じるらしく、ニンニクスライスなどと一緒にならばなんとかいけるという程度です。

なので、半身であっても一人で食べるのには少々大きすぎることもあり、なかなか我が家の食卓に上がる機会がありません。かつ節は食べれるのに、なぜカツオがダメなのかよくわかりませんが、人にはそれぞれ苦手なものがあるもの。

かくいう私もあまり生のトマトは好きではないのですが、トマト味のパスタとかトマトスープは美味しくいただけます。タエさんは生のトマト大好き人間なので、今度一度、生トマトと生カツオを合わせたマリネなど作ってみようかと思いますがどんなもんでしょう。

ところで、カツオといえば、”目には青葉 山ほととぎす 初鰹” という句が有名です。江戸初期の俳人、山口素堂が詠んだ歌です。

山口素堂は江戸初期の人で、甲斐国巨摩郡(現北杜市の白州町)で家業を酒造業とする家庭に生まれています。20歳頃に家業を弟に譲り江戸に出て漢学を学んだといいますから、家業から仕送りがあり、お金には困らなかったのでしょう。その後、俳諧をたしなむようになり、30歳を過ぎたころには京都で和歌や茶道、書道なども修めています。

翌延宝3年(1675年)ころには上野不忍池や葛飾に住むようになり、このころ松尾芭蕉とも知り合っています。芭蕉より2歳ほど年上でしたが、門弟関係ではなく相互に信頼しあって兄弟のような交わりをしていたようです。

漢詩文の素養が深く中国の隠者文芸の影響を受けていたといい、仲の良かった松尾芭蕉の「蕉風俳諧」の確立にも大きく寄与したといわれています。

江戸に最初に出たころには仕官したこともあったといい、役人としての気質にも恵まれていたのでしょう。その後、元禄8年(1695年)には甲斐を旅したおりには、甲府の代官から「濁川」の開削について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承があるようです。

芭蕉ほど有名でもなく、あまり逸話も残っていませんが、多才な趣味を持つ教養人だったということで、蓮を好んだことから晩年は「蓮池翁」などと呼ばれていました。 延宝4年(1676年)には「江戸両吟集」を、延宝6年(1678年)には「江戸三吟」を芭蕉との合作で発表。

“目には青葉山ほととぎす 初鰹” の句は、延宝6年(1678年)の「江戸新道(えどしんみち)」という江戸でも人気だった句集に収録され、広く知られるようになりました。享保元年8月15日(1716年)、75歳で死去。

この句の「目には青葉」は6文字で、なぜか「は」が入っています。「は」を入れて字余りにしない方が区切りよく、テンポよく詠みやすいと思うのですが、なぜここだけ「は」を入れたのかは俳句に詳しくない私にはよくわかりません。

まあ、ほかの俳人、とくに種田山頭火の句などをみても、字余りどころから五七五の基本構成すら完全に無視しているものも多く、あまり気にせずその場の風情を詠めれば素直に良い句になるといいますから、これはこれで良いのでしょう。

それよりも、最初が青葉で、二番目がホトトギス、三番目がカツオというこの順番のほうが意味があるのかな、と思ったりしてこちらのほうが気になります。

青葉はどこにでもあるものですから、すぐに目にすることができます。一方、「山ほととぎす」は、この「山」を入れているということは、山奥でホーホケキョーと鳴いているのをふと耳にした風情を表しているのだと思います(ホトトギスの鳴き声って、ホーホケキョじゃないですよね。なんでしたっけ)。

つまり声は聞こえるけれども、なかなか目にすることはできない、青葉に比べると、どちらかといえば「手に入りにくい」風情です。

そして、「初鰹」。これはおそらくこの当時最も手に入りにくいものであり、これを山口素堂は一番強調したくて順番の一番最後に持ってきたのではないかと思うのですがどうでしょう。

調べてみると、確かに、初鰹は、この当時の庶民の手には入りにくいものだったようです。とくに江戸においてはその人気のために常に品不足だったらしく、このため初鰹志向が過熱し、「女房子供を質に出してでも食え」と言われたぐらいです。

このように初鰹が珍重されるようになった理由としては、江戸よりもさらに前の室町時代末期のある夏に小田原でおきた出来事が原因といわれます。

このころ、伊豆国・相模国を平定した北条早雲の後を継いで、小田原などの地を領していた早雲の嫡男、北条氏綱はさらに領土を拡大させるべく房総進出を狙っていました。

この野望は京都の室町幕府と対立する古河公方の利害と一致するものであり、同じく関東一円をわが物にしたいこの当時古河公方、足利晴氏は氏綱に対し、関東地方で勢力を持っていた安房の里見義堯らの追討を命じました。

そんな不穏な空気の中のこと、北条氏綱がある日小田原沖でカツオ釣りを見物していたところ、 一尾のカツオが跳ねて船の中に飛び込んできました。

これをみた氏綱は、「戦に勝つ魚(かつうお)が舞い込んだ」とその吉兆を喜びましたが、その後天文7年(1538年)、見事、武州や安房の兵と戦って大勝利をあげ、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功したのです。

この時から、鰹は縁起の良い魚とされるようになりました。その後の江戸っ子が縁起物として初鰹を珍重するようになったのは、こうした逸話が素因になっているようです。

カツオは、夏に黒潮と親潮とがぶつかる三陸海岸沖辺りまで北上し、この際に日本の沿岸で漁獲されるものですが、年によっては黒潮が大きく太平洋側に蛇行し、カツオ漁が不漁になってしまう年もあります。

こうした年が続いたときにはとくにカツオの値段は高値となった時期がありました。江戸中期にもそういう年が何年かあり、ある年には魚河岸に入った初鰹は17本しかなかったそうです。

この鰹のうち、6本は将軍家へ献上され、残りを高級料理屋の八百膳と魚屋が引き取り、そのうち一本を歌舞伎役者・中村歌右衛門が一本三両で購入したという記録が残っています。

一両は現在の3~50万円ぐらいだと考えられますから、現代でも給料一カ月分くらいの値段であり、この当時ではさらに最下級の武士の一年分ほどの給料に相当するとも言われる額です。

こうした不漁の年は無論のことですが、通常でも初鰹は人気があり、庶民の手には入りにくい高嶺の花だったわけです。このため、素堂の「目には青葉…」がひとしきり流行ったあと、初鰹を題材とした川柳が数多く作られており、例えば「目と耳はタダだが口は銭がいり」というのもそのひとつです。

山口素堂は、俳人としてはそこそこ有名でしたが、特に資産家でもなかったようですので、初鰹はやはり高嶺の花であったはずです。そう考えると、この句も青葉を眺めつつホトトギスの声を耳にしながら、「はっ、初鰹が食いたぁ~い」という切望を込めて詠まれたものではなかったかとも思えるのです。みなさんの解釈はいかがでしょうか……

さて、そんなカツオですが、マグロと混同している人も実は多いのではないでしょうか。確かに似てはいるのですが、見た目や味はかなり異なり、どちらかといえばカツオのほうが生臭いと感じる人が多いようであり、我が愛妻もどうやらその一人のようです。

生物学的にみると、このカツオとマグロは、同じ「ツナ」に属する魚のようです。ツナとえば、「ツナ缶」に代表されるように、マグロの英語表記と思っている人が多いようですが、これは間違いです。

ツナ(英語: tuna)は、学術的にはマグロやカツオ等を含む広い範囲の魚を指す用語です。マグロ属とカツオ属を含み、ズキ目サバ科に属する魚全部を「Thunnini」と呼び、これを日本語では「ツナ」と称するようになったものです。ツナには、カツオやマグロを含む5属があり、全部で14 ~15種類の魚がいます。

マグロとカツオの関係を分かりやすく例えるならば、共通の先祖を持っているが身体的特徴が大きく異なる「犬」と「猫」の関係に似ているといえます。学術的に同一視される場合があるものの、ツナとカツオは全く異なる生物といってよいようです。

また、カツオは、マグロと同じくスズキ目・サバ科に属し、「カツオ属」に分類されますが、1種のみしかいません。これに対して、マグロもスズキ目・サバ科ですが、「マグロ属」に分類され、クロマグロ、タイセイヨウクロマグロ、ミナミマグロ、ビンナガ、キハダ、コシナガ、タイセイヨウマグロ、など8種類もいます。

カツオにはbonito(ボニート)という正式な英語訳があり、名詞的意味でもマグロとは異なるもの、ということになります。

大型のものは全長1 mもあり、体重18 kgほどになるものもいるといいます。が、普通我々が食することが多いのは全長50 cm程度以下のものです。食性は肉食性で、魚、甲殻類、頭足類など小動物を幅広く捕食するそうです。

日本では太平洋側に多く、日本海側で釣れることはめったにありません。摂氏19~23度程度の暖かい海を好み、南洋では一年中見られるそうですが、日本近海では黒潮に沿って春に北上し、逆に秋になると南下するという季節的な回遊を行うことで知られています。

夏に黒潮と親潮とがぶつかる三陸海岸沖辺りまで北上するカツオは、日本人にとっては夏の到来を告げる風物詩であり、その年初めてのカツオの水揚げを「初鰹」と呼んで珍重されるのは、江戸時代からの名残です。

この時期の鰹は脂が乗っていないためさっぱりとしており、この味を好む人も多いようです。これより早い3月初旬の頃に上ってくるものもいるようですが、型が揃わず淡泊なので比較的安価に手に入ります。しかし、夏が近づくにつれて釣れるものは脂が乗りだし、だんだんと高値になっていきます。

「初鰹」をいつにするかについては、地方の港によって異なるようです。が、食品業界の一般常識としては、最も漁獲高の大きい高知県の初鰹の時期をもって毎年の「初鰹」とするそうであり、多くの消費者もそう考えているようです。

これに対し、秋に親潮の勢力が強くなると南下する、カツオは「戻り鰹」と呼ばれます。低い海水温の影響で脂が乗っており、北上時とはまた異なる食味となります。戻り鰹の時期もまた港によってずれがあり、北の地方では夏の終わりごろには既に戻り鰹が収穫され、逆に南の地方ではかなり晩秋に近いころになって出回ります。

が、一般的には戻り鰹といえば、サンマと同じく秋の味として受け入れられているようです。

船団の母港がある静岡県および鹿児島県が漁獲高の大半を占めますが、南洋での遠洋漁業では1年を通して漁が行われ、この多くは巻き網と呼ばれる漁法で漁獲されます。漁獲後、冷凍されて日本まで運ばれて水揚げされ、鰹節や生利節の原料になりますが、この鰹節の産地としては高知県やここ静岡県が有名です。

この「鰹節」の歴史は結構古く、紀元400年代頃の古墳文化時代には、既に「堅魚(干しカツオ)」が造られ、堅魚を煮だした「煎汁(いろり)」などが料理として出されていたといいます。

701年に大宝律令、賦役令により「堅魚」、「煮堅魚」、「堅魚煎汁」、が重要貢納品と指定されており、このころ伊豆、志摩、駿河、紀伊、土佐などでカツオが盛んに漁獲されていたという記録が残っています。

「堅魚」とはカツオを干し固めた物ですが、「煮堅魚」とは、カツオを一度煮てから干し堅めた物、また「堅魚煎汁」とは、煮汁をさらに煮詰めて調味料とした物です。現在味噌汁などに使う顆粒状の「かつおだし」の原点のようなものでしょうか。

平安時代や鎌倉時代には、堅魚煮汁がもっとも重要視されたといい、この頃から既に料理に使う調味料としてなくてはならない物になっていたようです。

現在のような鰹節が造られるようになるのは、室町時代に入ってからになります。1489年(延徳元年)の「四条流包丁書」という書物の中にすでに「花鰹」の文字があるそうです。これは、鰹節を削った物だと思われます。

しかし今みたいにカビのついた鰹節ではなく堅めのなまり節みたいな物だったようで、堅魚をワラなどで燻(いぶ)してからワラや麻など吊るし乾かした物だそうです。このころから単に鰹を干し固めるだけでなく、燻乾する技法が定着していくようになります。

しかし、カツオを燻し固めたものが、さらに現在の「荒節」といわれるようなより痛みにくい形になるのは、江戸時代に入ってからになります。

それまで造られていた鰹節は干して燻してあったとはいえ、まだまだ柔らかく半生であったため、長く日持せず遠くまで運ぶのに適していませんでした。江戸時代に入ると、この鰹節の改良が進んで行きます。

それまでのワラなどを使った燻乾法から木(クヌギ、樫)を使った燻乾法が考え出されます。初めて考え造り上げたのは、紀州印南(和歌山県熊野印南浦)の「甚太郎」という漁師だったといわれています。

これが現在のような「荒節」の元祖であり、現在の固乾法の製造の基本となっていきました。甚太郎により考えだされたマキを使った燻乾製法は、秘伝とされていましたが、2代目甚太郎により土佐清水浦に伝えられて行きます。しかし、この燻乾法はこの浦の掟として長年紀州と土佐以外の他国には、教えられませんでした。

土佐では、この燻乾法で固めた鰹節がさらに改良されて行きます。鰹節の腐敗防止と中に閉じ込められている水分を吸い出し日持ちさせるため、あらかじめカビを付ける方法が考えだされます。

初めてカビ付けをした鰹節を造り上げたのは土佐清水浦の佐之助という人物であり、ここにカビを付けて仕上げた「仕上げ節」が誕生することになります。この後、このカビ付けをした改良節は高い評価を受け、江戸時代後期から明治時代になると土佐、薩摩、伊豆節が3代名産品として全国に広まって行くようになりました。

このうちの伊豆節は、土佐節をさらに改良し燻乾に時間をかけ、カビ付けも4回以上行い造り上げていったものであり、これは「本枯節」と呼ばれ、明治時代の末までには鰹節製法は、この本枯節が主流となっていきました。

この「伊豆節」の発祥の地は、西伊豆の堂ヶ島のやや北にある「田子地区」といわれている場所です。田子漁港といわれる小さな漁港がありますが、ここは、かつて伊豆水軍が根拠地としていた場所のひとつといわれています。

江戸時代末期にこの地の職人たちは、伊豆節は、紀州、土佐、薩摩節などの他のライバルに追いつけ追い越せの独自の改良を続けていたようです。が、1801年(寛政13年)、ここに土佐節の製造法を伝えた人物がいました。「土佐の与市」という人だったそうで、もともと紀州印南浦の漁師で伊豆に来る前は安房の千倉で土佐節を教えていたようです。

田子に来た与一は隣村の安良里で3年間鰹節製造法を指導し、この時、従来の伊豆節の燻乾法がかなり改良されたそうです。与一が教えたのは、オリジナルの土佐節の製造方法を改良したものだったそうですが、田子地区の人たちはこれをさらに改良し、かび付けを何度も繰り返して鰹節を乾かす方法を考案します。

こうして鰹節の改良が進んで行きます。この結果、従来品よりもさらに長期にわたり保存がきくようになり、こうして編み出された「手火山式燻乾法」では、カツオの本来の味を鰹節の中に閉じ込め、味を凝縮させることができるようになりました。

この「手火山式燻乾法」を使った改良節は、伊豆全体に広まって行き、その後土佐、薩摩節と並び江戸時代には3代名産品と呼ばれるまでになっていったのです。

その後この田子伊豆節の製法は土佐の与市がかつて指導を行った安房の職人にも伝えられ、これ以外の国々にも伝えられるようになっていきました。

伊豆節の発祥の地である田子地区でも、明治から昭和にかけて漁業を中心とした鰹節加工業が栄え、昭和初期には、40艘もの鰹漁船と40軒もの鰹節製造店があったといいます。伊豆節の中でも特に高い評価を受けていた伊豆田子節は、主にご贈答用として、お祝いの席に多く使われていたそうです。

ところが、昭和時代のオイルショックや200海里問題などが、この地の鰹漁業の衰退を引き起こすきっかっけとなります。さらに漁船の老朽化、漁法の変化、船の大型化などに伴い、田子地区から鰹漁船は徐々に姿を消して行き、と同時に鰹節製造者も同様に少なくなってしまいました。

平成の現在、田子地区の鰹節製造店は、わずか4軒となっています。しかし、土佐の与市から教えられた製法と、伝統製法の「手火山式燻乾法」を今も、守り続けて現在にいたっているそうです。

この田子地区では、現在、「潮鰹(しおかつお)」という鰹を独自の保存法で保存したものをもとに新たな地域活性化を図ろうとしています。

もともとこの地で航海の安全と豊漁豊作を祈願し、神棚などにカツオの塩漬けを干して、ワラでお飾りを付けていたもので、伊豆独特の季節風を利用し11月から1月の上旬までの限定期間に製造していたようです。

地元ではお正月の期間に限っての旬の食べ物として味わわれていたようですが、これを冷蔵保存するなどして、販売を始めたところなかなかの好調のようです。

昨年10月に北九州で行われたB級グルメの祭典、「B-1グランプリ」には「西伊豆しおかつおうどん」として出典されており、なかなか好評だったようで、田子地区にはその評判を聞きつけてか、テレビの取材なども何度か来ているようです。

「西伊豆しおかつお研究会」なるものも立ちあげられ、田子地区や堂ヶ島、松崎や土肥といった西伊豆地区を中心とした町の食事どころで、いろんな他の潮かつおレシピも考案されメニューとして出されています。

私はまだ一度も食べたことがないのですが、写真をみるかぎり、「西伊豆しおかつおうどん」はさっぱりとしておいしそうです。これから夏に向けて、観光客の間でも流行るのではないでしょうか。

みなさんも西伊豆へ行くことがあったらぜひ、試してみてください。無論、私もぜひ一度食してみたいと思います。

さて、季節が進み、梅雨も本番になってきました。ホタルがそろそろ盛りになりつつあるようだということで、タエさんがしきりに蛍狩りに行こう、と言っているので、今晩あたり修禅寺温泉街を流れる桂川沿いにでも出かけてみようかと思っています。

みなさんはいかがでしょう。もうホタルをご覧になったでしょうか。カツオを肴に一杯も良いでしょうが、この季節にしか見れない風物詩、ぜひとも見に行ってください。

目にホタル 旬のトマトに 初鰹。