雨の日には……


週中くらいから、ようやく梅雨らしくなってきました。と当時に、気温もぐんぐんと上がり、日中は少し汗ばむほどになってきています。が、ここ伊豆地方ではそれでも、近畿以西のように連日30度を超えるというほどの暑さでもありません。

また、伊豆の中でもここはとくに山の上ということもあり、昨日の日中最高気温は26°と我慢できないほどの暑さではなく、この点、夏が苦手な我々夫婦にとっては本当にありがたいことです。

とはいえ、年中毛皮を着ているネコにとっては多少の気温の上昇もあまり歓迎できるものではないらしく、ウチのテンちゃんも、動きが活発ではありません。

雨のせいもあるのでしょうが、一日ほとんど寝ていることも多く、とくに日中は、フローリングの上にべったりとお腹をくっつけ、まるで敷物のようになって平たくなっています。床板の冷たい感触が気持ちいいのでしょう。

このテンチャンの行動が物語るように、昨日はまったく雨も降らず気温は上がる一方だけだったのですが、今日は朝から結構ざんざんと降っていて、気温もあまり上がらないようで、今日は日がなそんな雨模様の一日になりそうです。

こんななか、雨音を聞きながらうたたねをするのは気持ちのいいもの。今日は日曜日ということもあり、朝早くから起きたものの、この雨音が子守唄になったのか、食事後いつのまにか絨毯の上に突っ伏して朝寝をしてしまいました。

さて、このそぼ降る雨ですが、雨滴(うてき)とも書き、こう書くとなるほど音を立てて降るさまが目に浮かびます。雨水が軒などから落ちる様子も「雨垂れ」といいますが、雨だれが落ちて打ち当るところは、雨垂落(あまだれおち)ともいい、雨ひとつとってもいろいろな表現があるものです。

こうした文学的な表現以外にも、日本語では雨の強さや降り方によっていろんな呼び方があります。

霧雨はご存知のように細かい雨であり、気象学的には雨粒の大きさが0.5mm未満の雨だそうです。小糠雨(こぬかあめ、糠雨)は、さらに細かく、まるで糠のように非常に細かい雨粒が、音を立てずに静かに降るさまをいいます。

弱い雨ではこのほかにもあまり使いませんが、「細雨(さいう)」とうのがあり、これはあまり強くない雨がしとしとと降り続くことをいいます。

ご存知、小雨(こさめ)は、弱い雨です。あまり粒の大きくない雨が、それほど長くない時間降って止む雨ですが、微雨というのもあります。「びう」と読み日常用語としてはあまり使われませんが、これは急に降り出すものの、あまり強くなくすぐに止み、濡れてもすぐ乾く程度の雨のことです。

このほか、必ずしも雨によるものではありませんが、濃霧の時、森林の中で霧の微小な水滴が枝葉につき、大粒の水滴となって雨のように降り落ちる現象が見られ、これは樹雨(きさめ、きあめ)というそうです。冬に雪が樹木にまとわりついてできる「樹氷」と似た現象といえるでしょう。

これらの弱い雨より少し雨脚が強くなったものの中には、例えば時雨(しぐれ)があります。あまり強くないけれども、降ったり止んだりする雨のことであり、これは夏の間に降る俄雨(にわかあめ)とは異なり、晩秋から初冬にかけてよく降る雨のことをさすようです。

秋晴れの日などに、晴れていたかと思うとサアーッと降り、傘をさす間もなく青空が戻ってくるような通り雨がしぐれです。

一方、俄雨というのは、その名のとおり降りだしてすぐに止む雨のことで、降ったり止んだり、強さの変化が激しい雨のことです。こちらは夏の雨であり、夕方になって入道雲が発達したときなどにワーッと降ります。夏の日の夕方、晴れているのに降ることも多いため、狐の嫁入り、天照雨などと呼ばれることも多い雨です。

俄雨は、地方によっては「肘かさ雨(ひじかさあめ)」というところもあり、また気象学などの専門用語では「驟雨(しゅうう)」と呼ばれることもあります。

このほか、俄雨に似ていますが、「地雨」というのもあります。これはあまり強くない雨が広範囲に一様に降る状態をいいます。俄雨に対して、もっとしとしと降り続くといった感じの雨で、俄雨のように、降る勢いが急激に変化するようなことはありません。

さらに同じ俄雨でも、降りだしてすぐに止んでしまうような、気まぐれな雨のことを「村雨」といいます。群雨、業雨などとも書き、読んで字のごとし「群」や「業」は気まぐれを指す漢字です。

村時雨(むらしぐれ)という村雨もあって、これはひとしきり強く降っては通り過ぎて行く雨です。降り方によってさらに細かい分類ができ、片時雨、横時雨などともいい、片時雨とはひとところに降る村時雨であり、横時雨というのは、横殴りに降る村時雨のことです。

また、村雨は降る時間帯によって朝時雨、夕時雨、小夜時雨といった分け方もします。この村雨については、最近ではほとんど聞くことがなくなりました。ましてや片時雨とか、小夜時雨などのさらに細かい分類表現は全くといっていいほど使いません。

それだけ、日本人の風情がなくなってしまったのかなという気がします。我々が子供のころにはまだまだ農村風景が至るところに広がっており、こうした微妙なお天気表現も通用しうる環境が残っていました。しかし、今はどこもかしこもコンクリートやアスファルトばかりの都会になってしまって、「村雨」などと言う表現もどうもしっくりときません。

とはいいながら、「涙雨」といった感情表現的な雨の呼称は残っていて、これは本来は涙のようにほんの少しだけ降る雨のことです。悲しいときや嬉しいときなど、感情の変化を表現する場合にも用いることも多く、これは日本各地が都会化しようがどうしようが関係ないことから生き残った雨用語といえるでしょう。

このほか、日本の風土の変化に関係なく生き残っている雨表現としては、「通り雨」があり、これは雨雲がすぐ通り過ぎてしまい、降りだしてすぐに止む雨のことです。「スコール」という場合もあり、こちらはどちらかといえば通り雨よりも激しいイメージ。

短時間に猛烈な雨が降る様子であり、近年では「ゲリラ豪雨」なんてのもスコールの一種として普通に使われるようになりましたが、スコールというのは本来は、東南アジアなどの熱帯地方で雨を伴ってやってくる突然の強風に由来する雨のことをさします。

このほかにも天気予報用語としては、大雨、豪雨、雷雨、風雨、長雨などなどがあり、こうしてみると、日本には本当にいろんな雨の表現があるなぁと感心してしまいます。

四季の移ろいがはっきりしていて、それぞれの季節での季節感を表すもののひとつが雨であり、ほかにも風や雲や緑にも多彩な表現ができ、こうした環境に育まれてきたからこそ、日本人独特の細やかな感情表現が培われてきたのだといえます。

ところで、雨粒というのは、3mm以上のものはないのだそうです。日本を含む温帯地方の雨の水滴の大きさは、通常0.1~3mm程度だそうで、日本の上空の気象条件下では3mm程度以上の大きさの雨粒は途中で分解してしまうことが多いためです。

また、0.1mm以下の雨粒は雲の中の上昇気流によって落ちなかったり、落下中に蒸発してしまい、消えてしまうことが多く、このため、日本の大地に降る雨は、0.1~3mm程度に規定されるのだとか。

これに対して、熱帯地方の雨の水滴の大きさは、小さい雨が少なく温帯よりも大きいといいます。が、それでも3mmを大きく超えるような雨は降らないといい、これは雨粒の形状などの物理的な要因が原因です。

普段我々が目にする雨粒は、空調メーカーのダイキンのマスコットの「ぴちょん君」のような涙滴形だと思っている人が多いようですが、これは間違いです。空気中を落下するときの実際の形は、雨粒が小さい場合は球の形をしているものの、雨粒が大きくなると、落下するときに空気に触れる下の面がやや平らになり、下が平らになった球の形になります。

平らなまんじゅうの形ともいえ、雨の形といえば涙滴と勘違いしている人が多いのは、木の葉の先などから露が落ちるときや、窓ガラスを伝う水滴が涙形をしているためでしょう。

この雨の形が「まんじゅう形」であるのを世界で初めて発見したのは日本人だそうで、1951年に北海道大学の孫野長治という博士が空中を落下する雨粒の写真撮影に世界で初めて成功しました。

実際の写真などをみると、まんじゅう形とはいうのですが、もう少しふっくらしていて、ちょうどお正月に供える平べったい鏡餅の形状と、これを網であぶって膨らませたときに風船のような形の中間ぐらいの形をしています。

大きなものは、風呂敷の四隅を縛って下でくくったような形になり、この場合は落下の際の空気抵抗のため、雨粒はお椀を伏せたようになり、中身はほとんど空洞のような状態で落下していきます。

雨粒の落下速度も雨粒の大きさによって変わり、小さい粒は空気抵抗によって遅くなりますが、大きな粒でもおおよそ毎秒9m程度にすぎないため、この程度ならば当然怪我をすることなどありえません。

が、一方では雨水は大部分が水とはいうものの、微量の有機物、無機物、特に重金属類を含んでおり、ときにこの化学成分が悪さをします。

これらの不純物は雲が発生する際、あるいは雨となって地上に落ちてくる際に、周囲の空気や地上の土壌から舞い上がった粒子を集めてくるために雨に含まれることになります。

通常でも雨水は大気中の二酸化炭素を吸収しているため、pH(水素イオン指数)は5.6とやや酸性を示しますが、亜硫酸ガスなどを大気中から取り込み、強い酸性を示すものもあり、日本では目安として、 pHが5.6以下の強酸性のものを「酸性雨」と呼んでいます。

近年、世界的な大気の汚染により、酸性雨による影響が懸念されていますが、その問題の大きなものとしては、湖沼を酸性化し、魚類の生育を脅かしたり、土壌を酸性化させて、植物の生存を脅かしたりするといったことがあげられます。

溶け出した金属イオン(特にアルミニウムイオン)が河川に流入することで、水系の動物に被害を与えることも増えています。

酸性雨による植物の枯死、樹木の立ち枯れはとくにヨーロッパ・北米を中心に深刻であり、とくにドイツのシュヴァルツヴァルトなどが、酸性雨被害を受けた森として有名です。

一説によると、西ドイツの森林の半分以上が酸性雨による被害を受けているといわれており、その被害のさまからヨーロッパでは酸性雨のことを「緑のペスト」とまで呼んでいるそうです。

また、近年酸性雨による被害が著しいと報告されている中国でも酸性雨のことを「空中鬼」と呼んでいるそうで、中国国務院の全国一斉酸雨による土壌影響調査では、ph5.6以下の省、直轄市、自治区は20に上り、また、2400余の観測地点のうち1,000カ所以上から酸性雨が記録されたといいます。

日本でも、群馬県赤城山、神奈川県丹沢山地などでの森林の立ち枯れが進んでいるのが確認されており、屋外にある銅像や歴史的建造物を溶かすなど、文化財にも被害が出始めているということです。

酸性雨は、鉄筋コンクリート構造の建物、橋梁などに用いられる鉄筋の腐食をも進行させるため、戦後の高成長期から50年以上も経た老朽インフラが多い我が国では今後ともこの酸性雨対策が深刻となっていきそうです。

しかし、酸性傾向が強かろうが弱かろうが、一般的には雨自体に臭いはありません。ただ、長い間雨が降らなかったときなどに、地面に降った雨によって独特な臭いが出ることがあります。

おそらく誰しもが経験したことがあると思うのですが、長い間雨が降らずに乾燥した地面に突然雨が降ってきたときに、生臭~いというか、草の匂いでもない、なんともいえない臭いを嗅いだことはないでしょうか。

あぁこれがいわゆる土の臭いか、と納得したりするのですが、これは、地表の特定の植物から生じた油が、地面が乾燥している時に粘土質の土壌や岩石の表面に吸着し、雨が降ったときに、これが土壌や岩石から放出されることによる独特の匂いであって、「ペトリコール」と呼ばれています。

このほか、雷によって発生するオゾンや土壌中の細菌が出すゲオスミンもこうした臭いの原因だといわれており、これとペトリコールが合わさって、雨が降るときに独特の臭いが発生するのです。ペトリコールということば自体は、発見者のオーストラリア人の鉱物学者による造語だということです。

別の科学者は、このペトリコール油が植物の種子の発芽と初期の生育を遅らせる性質があることを発見しており、現在ではこれは植物が成長するのに厳しい環境において種子の発芽を防ぐために発散させると考えられているそうです。

そういう臭いがするような場所はあまりいい環境じゃぁないから、芽を出さない方がいいよ、という植物からのメッセージということになるのではないかと思われます。

ゲオスミンのほうも、地下水が少なく、水の供給を表流水に頼っている地域ではこの物質がその水源に放出されると、急にその水がまずくなるそうです。またコイやナマズなど水底に住む淡水魚が持つ泥臭いにおいのもととなるのもこのゲオスミンだそうです。

従って、雨が降ったときに、地面からこうした泥臭いようなヘンな臭いがする場所というのはそもそもあまりきれいな場所ではない、ということになるようです。

酸性化にせよ、ペトリコールやゲオスミンにせよ、植物や生物の生息・生育にとって悪しき環境が増えていることをこのような形で「雨」が教えてくれている、あるいは警告してくれているのだと考えると、自然の摂理というのはなるほど生き物に優しくできているのだな、と改めて感心してしまいます。

とりわけ日本人にとって雨とは、その生活においてなくてはならないものです。日本は温暖湿潤気候に属し国土における山地の割合が多いため雨が多く、また生業においても歴史的に水田稲作や林業をはじめとする山の生業に広く依存しています。

他方、大雨は河川を増水させ洪水被害を及ぼすなど厄災を及ぼすことも多く、治山・治水を強いられてきたともいえますが、それゆえにその方面の土木技術は欧米と比べても格段に発達しており、これらの技術をODA(海外開発援助)などで諸外国に提供しているだけでなく、産業として海外へ輸出しているほどです。

渇水の多い地域では雨乞い習俗が発生し、これは山の神と関係した民俗として発展しました。季節を感じさせるものとして四季それぞれの雨に対する感性が育まれるようになり、古来より雨は多くの文学や芸術のモチーフとして叙情的に描かれてきました。

江戸時代の浮世絵版画においては歌川広重が交差する線の表現など多様な雨の表現を開拓しており、日本の文化の原点であると評価する人もいます。

ただ、雨の概念や雨に対する考え方は、どちらかといえば暗いイメージがあり、これはやはり雨による災害によって多くの被害を受けてきた歴史があるからでしょう。

雨が少ないアフリカや中東、中央アジアの乾燥地帯などでは、雨が楽しいイメージ、喜ばしいものとして捉えられることが多く、雨が歓迎される日本のような地域とはまた違った文化を持っているといえます。

四季の移ろいがなければ、またその四季折々に降る雨がなければ、今のような日本文化は育っていなかったに違いありません。

そう考えると、うっとうしいはずのこの雨の季節もまたよしとしよう、という気になってくるから不思議です。雨の降る日にはまた雨の日に似合った行動をすればいい……ということで、今日はこれから何をして過ごそうかなと考え始めています。

雨の日には野外活動はあまりする気にはなりません。で、あるならばやはり映画鑑賞、読書といったところでしょうか。伊豆にはあちこちに博物館やら記念館、民間の室内娯楽施設があるので、そうしたところをはしごするのもまた楽しいかもしれません。

皆さんの週末はいかがでしょう。雨の中のお散歩ですか……それもまた良いかもしれません。雨に濡れたアジサイも風情があるものです。

そういえば下田のアジサイも気になり始めています。来週にでもまた出かけてみましょう。沼津御用邸のアジサイも気になります。そういえば虹の郷のアジサイも……

ということで、来週はアジサイ三昧の一週間になるかも。なので、今日のような雨の日はそれに備え、一日寝て過ごすというのもまた良いかもしれません……