法隆寺の鬼


心配された台風はどうやら本土直撃は免れそうです。

しかし、前線の活動が活発となっているようで、四国や九州では激しい雨が降っているみたいです。これから更に東へ進むにつれ、ここ伊豆でも結構雨が降りそうです。先日土砂災害があった伊豆大島でも二次災害が発生しなければ良いのですが……

さて、ところで、ですが、私ぐらいの年齢の方は、カーペンターズをご存知の方も多いでしょう。

またまた前回に引き続いてCDの話からで恐縮ですが、前日の整理の際に昔懐かしこのグループのCDも出てきたので、懐かしさも手伝って久々に聞いてみることにしました。

すると思いもかけず斬新で、とても40年も前に流行した曲とは思えないほどであり、今聞いても十分に聞けるではありませんか。というわけで、改めて優れた楽曲は時間を超えても色あせないものだと感じた次第です。

カーペンターズは、アメリカの兄妹ポップス・デュオで、楽器を兄のリチャードが受け持ち、ヴォーカルを妹カレンが担当したグループです。ロック全盛の1970年代において独自の音楽スタイルを貫き、多くのファンを獲得しました。

私はこのころ、中学生から高校生にかけてのころであり、どうもロックには馴染めませんでしたが、このカーペンターズの歌は好きで、よく聞いていました。

代表曲の「スーパースター」、「イエスタデイ・ワンス・モア」は大ヒットしましたが、そのほかにもプチヒットした曲も多く、「プリーズ・ミスター・ポストマン」なども軽快な曲で、聞くと気持ちを明るくしてくれました。

また、あまりヒットはしなかったかもしれませんが、「マスカレード」というのがあり、これはジョージベンソンが歌っていたもののカバーのようでしたが、カレン・カーペンターの歌ったこのバージョンもまた魅力的でした。

しかし、この人気グループの活動は、兄妹の妹、カレンの1983年の死により、突然終わってしまいました。

カレンはその死の3年前の1980年、30歳のときに不動産業者のトーマス・ジェイムズ・バリスと瞬く間に恋に落ちたあと、結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行いました。

しかし、結婚してから1年ほどの間に彼女の容姿は変わり果てていき、ときおりテレビに登場するときや、コマーシャルで撮影されたビデオなどから窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であることは明白でした。

カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居します。二人の仲がうまくいかなくなったその理由はよくわかりませんが、彼女自身がこのころから喉の不調をかかえるようになり、仕事がうまくいかなくなったことに起因して、精神的に不安定になっていたことが関係しているようです。

その翌年の1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピストを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻ります。

この当時、カレンの甲状腺を気にしており、新陳代謝を加速するために甲状腺薬を通常の10倍服用していたことが分かっています。またこれに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となったようです。

ニューヨークの病院での2ヶ月以上にわたる治療を経て、カレンは30ポンド(13.6キログラム)以上も体重を戻しましたが、急激な体重の増加は、長年の無理なダイエットですでに弱っていた彼女の心臓に、さらなる負担をかけました。

1983年の2月4日の朝、カレンはダウニーの両親の家で心肺停止状態に陥って病院に担ぎ込まれましたが、それから20分後に死亡が確認されました。彼女はその日、離婚届へ署名するつもりであったといいます。

検死によれば、カレンの死因は神経性無食欲症に起因するエメチンの心毒性であったようです。エチメンというのは、催吐薬(さいとやく)の一種であり、要は嘔吐を誘発させることによって胃の内容物を吐かせることを目的とした薬です。

拒食症に陥っていたカレンは、この薬を常用していたようで、解剖学的な結論としては、心臓麻痺が第1の原因で、拒食症が第2の原因であったということです。

しかし、カレンの死後も、兄のリチャードは未発表音源集やコンピレーション・アルバムなどデュオの作品のプロデュースを続けました。日本におけるカーペンターズのファン層は厚く、リチャードの努力もあって、カレンの死後もカーペンターズの人気はその後も長く続きました。

日本人でないアーティストのシングルが日本で大きく売れることは稀であり、しかも長く続くことは少ないようですが、カーペンターズの人気は例外といえます。

たとえばシングルの「スーパースター」、「イエスタデイ・ワンス・モア」、「青春の輝き」、「トップ・オブ・ザ・ワールド」などはオリコンチャートのトップ10入りしており、その他にも7曲がトップ40に入っています。

また、カレンの死後20年以上も経た1995年にも、日本市場向けにリチャードが編纂した「青春の輝き:ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズ(22 Hits of the Carpenters”)」がチャートトップを獲得しており、2002年には累計の出荷枚数300万枚を突破したといい、2005年には10周年記念盤も発売されました。

現在、兄のリチャード・カーペンターは、妻のメアリ・ルドルフ・カーペンターおよび4人の娘と1人の息子らとともにカリフォルニア州サウザンド・オークスに住んでおり、夫妻は芸術家の後援活動をしているといいます。

カレンの死後もこの仲の良かった兄妹デュオの名曲は、これからも長く日本では歌い継がれていくことでしょう。

さて、話は一転します。いわずもがなですが、カーペンターとは英語では大工のことをさします。

カーペンター兄妹のご先祖が大工だったかどうかまではわかりませんが、欧米ではそれほど珍しい名前ではありません。そういえば、ドイツではトリューベルというのが大工という意味だと、その昔通っていた教会でこの苗字を持つドイツ系アメリカ人の牧師さんも言っていました。

このように、欧米では、職業の種類をそのまま苗字にする家庭も多かったようです。「大工のリチャード」が長い間に、「リチャード・カーペンター」のようにそのまま名前になっていったのでしょう。

しかし、日本では「大工」という苗字はあまり聞きません。名字は、元々、「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われます。現在も地名としては、「字」が残っている地域がたくさんありますが、このことから日本人の苗字としては職業よりも地名に由来するものが多いようです。

大工とは、現在では木造建造物の建築・修理を行う職人のことですが、古くは建築技術者の「職階」を示し、木工に限らず各職人を統率する長、または工事全体の長となる人物をさしていました。その呼び方も「大工」ではなく、番匠(ばんじょう)というのが普通だったようです。

その職階としては、宮大工のほか、家屋大工、数寄屋大工、船大工、建具大工、家具大工、 型枠大工、造作大工(たたき大工)などがありました。が、現在では家屋大工や数寄屋大工は統合されて普通に大工と呼ばれるようになり、そのほかの大工もまた、建具屋、型枠工などの専門職に統合されています。

しかし、宮大工や船大工は特殊な伝統的職業として、現在も昔ながらの技術がそのまま伝承されています。

とくに、宮大工は、神社・仏閣の建造などを行う大工であり、数ある大工の中でも最も技術力の高い大工として、昔から尊敬されてきました。堂宮大工とも、宮番匠とも言われ、釘を使わずに接木を行う、引き手・継ぎ手などの、伝統的な技法は芸術ともいえるほどのものです。

その昔、元々は寺社のことを親近感から「お宮さん」と言っていたので、これを建造する大工のことも宮大工というようになっていったようです。が、寺社大工とも呼ぶこともあり、いまでも宮大工といわず寺社大工という地域もあります。

宮大工は主に木造軸組構法で寺社を造ります。江戸時代に町奉行、寺社奉行という行政上の自治の管轄が違っており、一般庶民の家を建てるのは町奉行管轄の町大工であり、寺社奉行管轄の宮大工とは区別されていました。

ただし郊外などでは、どちらの管轄から外れる地域があり、この場合には明確な区別がなく、その名残で、現代でも町はずれでは、宮大工も町大工もできる大工さんを抱えた工務店が多いようです。

こうした郊外の町大工(宮大工)は、空間上の制限がない場所柄と農家の顧客が主なこともあり町中とは違い、大断面の木材を使うことも多く、仕口や材料も奢ったものを使うことが多かったようです。

基本となる間尺(和風建築の基本モジュール)も比較的大きい傾向にあり、こうした大工が造った都市部近郊の農家の古民家には、非常に立派なものが多いのはこのためです。

こうした寺社や古民家を造ってきた宮大工の中には、人間国宝級の人もいます。残念ながら日本文化財保護法の規定には、人間国宝として大工の設定はありませんが、文化財保存技術者として優れた技術を持った人を文化功労者として表彰するという仕組みがあります。

そうした一人に、「最後の宮大工」と称された西岡常一(にしおかつねかず)という人がいます。が、惜しくも1995年(平成7年)に47歳という若さでこの世を去っています。

飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝えるなどの業績を積み重ね、文化財保存技術者として認定されるとともに、1981年(昭和56年)には、勲四等瑞宝章と日本建築学会賞を同時受章、その後法隆寺のある斑鳩町の名誉町民にも指名されました。

西岡家は代々法隆寺の宮大工を拝命してきた家柄であり、祖父西岡常吉、父西岡楢光はともに法隆寺の宮大工棟梁でした。

祖父西岡常吉は、後継者たる男子に恵まれず(長男は夭折)、次女ツギの婿養子に二十四歳の松岡楢光を迎えて弟子に仕込みまし。やがて両者の間に長男が生まれると大いに喜び、自身の「常」の字をつけて「常一」と命名しました。

このため常一は、婿養子の楢光よりも祖父常吉を師匠として幼いころから厳しい指導を受けて育ち、長じてからは、法隆寺解体修理、法輪寺三重塔の再建、薬師寺金堂、西塔などの再建、道明寺天満宮の復元修羅の制作といった、いずれも歴史の教科書に出てくるような伝統構造物の修理・再建を手掛けています。

それでは、その名宮大工としての生涯をみていきましょう。

幼少期から見習いへ

常一は1908年(明治41年)9月4日に奈良県斑鳩町法隆寺西里で生まれました。幼少期は、祖父に連れられ法隆寺の佐伯定胤管主に可愛がられ、「カステラや羊羹を定胤さんからようもろうたことを覚えています」と述懐していることからもわかるように、棟梁になるべく早くから薫陶を受けていました。

斑鳩尋常高等小学校3年生から夏休みなどに現場で働かされました。そのころの法隆寺の境内では、西里の村の子供たちの絶好の遊び場で、休日にはよく野球をして遊んでいましたが、常一少年はみんなの遊んでいる姿が仕事場から見ることが多く、「なんで自分だけ大工をせんならんのやろ」とうらめしく思ったといいます。

1921年(大正10年)生駒農学校入学。父は工業学校に進学させるつもりでしたが、祖父の命令で農学校に入学することになります。一方在学中は祖父から道具の使い方を教えられるなど、大工としての技能も徹底的に仕込まれました。

西岡常吉は祖父としては普通に接し、菓子をすぐ与えたり、いたずらをしても厳しく注意することもないなど、この孫に対しては非常に甘いところもあったようですが、常一が四歳のころから法隆寺の現場に連れて行って雰囲気に慣れさせ、小学校に上がると雑用をさせました。そしてこのころから祖父は別人のように厳格になっていきました。

以降、祖父は婿の楢光と常一とを将来の棟梁として育成すべく尽力することになります。特に常一には徹底した英才教育を行い、常一自身にとっても貴重な財産となっていくことになります。

1924年(大正13年)に小学校卒業後は見習いとなりました。見習いの時から祖父常吉には、厳しく仕込まれました。まず、大工としての基本である道具の研ぎ方をしこまれましたが、常吉は一切その方法を教えず、常一は常吉の砥ぎ方を見よう見まねでマネし、これを覚えるまで毎晩のように研ぎ続けました。

後年常一は「頭でおぼえたものはすぐに忘れてしまう。身体におぼえこませようたんでしょう」と述懐し、「手がおぼえるー大事なことです。教えなければ子供は必至で考えます。考える先に教えてしまうから身につかん。今の学校教育が忘れていることやないですか。」とも述べています。

このころ祖父の意見で、渋々農学校に入った常一は、学習意欲に欠け農場の果実を無断で食べたりして怠けていたそうです。しかし、実習を重ねるうちに興味を持ち成績も上がっていきました。

肥料をどのくらいの分量を、いつ、どの時間に施すかは、自ら体験しながら、自分で考える必要があり、タネをおろして、芽が出、葉やつるが育ち、実りがあることなどがだんだん面白くなってきたのです。

「土の命」を知ることにこそ祖父は大事と考え、常一を農学校にやったのでしたが、本人は「それが本当にわかったのは、のちのことである」と述懐しています。祖父は生命の尊さと土の性質によって生命も変化することを学ばせようとしたのであり、この農学校時代は彼の将来の棟梁としての必要な資質を涵養する時期となりました。

果たして、後年になって原木の見極め方や地質調査などで農学校時代の知識が大いに役立ち、常一は「三年間の農業教育のおかげやと思います」と祖父や当時学校関係者に感謝の意を示しています。

さらに農学校を卒業した常一に、祖父は一年間の米作りをさせました。

このため学校で教えられた通りに稲作をはじめましたが、その結果、祖父は誉めるどころか、他家の農家よりも収穫が低いことを指摘し、「本と相談して米作りするのではなく、稲と話し合いしないと稲は育たない。大工もその通りで、木と話し合いをしないと本当の大工になれない」と諭したといいます。

このように大工の修業に関しては祖父はまず単に見本を示すだけか、全く関係のないことを指示し、後は一切教えず、自身で何回も試行錯誤させて覚えさせる指導方法をとっていました。

厳しく叱責することもありましたが、評価するのも上手く、母親を通して褒めさせたといいます。母親に対して、「常一は偉い奴や。わしが言わん先にこういうことをしおった」というふうに吹き込むと、母親が喜んで彼にそのことを話したのです。

また、祖父は、夜には、常一に身体をマッサージさせました。そして彼に身をゆだねながらも大工としての多くの知識を教えていきました。こうして常一の宮大工としての技量は次第に研ぎ澄まされたものとなっていきました。

独立

1928年(昭和3年)大工として独立し、法隆寺修理工事に参加することになります。1929年(昭和4年)1月から翌年7月まで舞鶴重砲兵大隊に入隊し衛生上等兵となり、除隊後の1932年(昭和7年)、法隆寺五重塔縮小模型作製を行いましたが、この経験を通じて、「設計」ということに関してもその技術を学ぶことになります。

その5年後の昭和8年に祖父が死去。享年80でした。祖父常吉はその晩年、一人前となった父楢光と常一に西岡家に代々伝わる口伝を教えました。これは一度しか口移しで教えることができない秘中の教えで、一つずつその意味となる要点を教え、十日後に質問して一語一句違わず意味を理解するまで次に進まなかったといいます。

その内容とは、例えば、

・神仏を崇めず仏法を賛仰せずして伽藍社頭を口にすべからず。
・伽藍造営には四神相應の地を選べ。
・堂塔の建立には木を買はず山を買へ。
・木は生育の方位のままに使へ。
・堂塔の木組は木の癖組。
・木の癖組は工人たちの心組。
・工人等の心根は匠長が工人への思やり。
・百工あれば百念あり。一つに統ぶるが匠長が裁量也。
・百論一つに止まるを正とや云う也。
・一つに止めるの器量なきは謹み惧れ匠長の座を去れ。
・諸々の技法は一日にして成らず。祖神の徳恵也。

といった具合であり、後年常一は、「法隆寺の棟梁がずっと受け継いできたもんです。文字にして伝えるんではなく、口伝です。文字に書かしませんのや。百人の大工の中から、この人こそ棟梁になれる人、腕前といい、人柄といい、この人こそが棟梁の資格があるという人にだけ、口を持って伝えます」と述べています。

また、丸暗記してしまうと、「それではちっともわかってない。そういうのはいかんちゅうので、本当にこの人こそという人にだけ、口を持って伝える。これが口伝や。どんな難しいもんやろかと思っていましたが、あほみたいなもんや。何でもない当然のことやね」
とも語っています。

1934年(昭和9年)には法隆寺東院解体工事の地質鑑別の成果が認められ、法隆寺棟梁となり、と同時に父の西岡楢光もこのとき、法隆寺大修理の総棟梁をつとめることになりました。

しかし、戦火の拡大と共に、西岡自身も戦争に巻き込まれていくことになります。1937年(昭和12年)8月、衛生兵として召集、京都伏見野砲第二十二連隊を経て、翌歩兵第三十八連隊、歩兵第百三十八連隊機関銃部隊に入り中国長江流域警備の任務につきました。

このとき軍務の傍ら中国の建築様式を見て歩いたといい、この経験は彼自身の知識を増やすために大いに役立ちました。1939年(昭和14年)に除隊されましたが、1941年(昭和16年)には今度は満州黒龍江省トルチハへ召集されました。

また、1945年(昭和20年)にも朝鮮の木浦望雲飛行場へ二度目の招集を受け、このとき陸軍衛生軍曹になったまま終戦を迎えることになります。これらの期間、日本に戻っている間中も常に法隆寺金堂の解体修理を続けていたといいます。

戦後は法隆寺の工事が中断され、「結婚のとき買うた袴、羽織、衣装、とんびとか、靴とか服はみんな手放してしもうた。」と述懐するほど、生活苦のため家財を売り払わざるをえなくなりました。

一時は靴の闇屋をしたり、栄養失調のために結核に感染して現場を離れるなど波乱含みの中で法隆寺解体修理を続けましたが、その卓抜した力量や豊富な知識は、寺関係者のほか学術専門家にも認められ、1956年(昭和31年)法隆寺文化財保存事務所技師代理となります。

さらに1959年(昭和34年)には明王院五重塔、1967年(昭和42年)から法輪寺三重塔(1975年(昭和50年)落慶法要)、1970年(昭和45年)より薬師寺金堂、同西塔などの再建を棟梁として手掛けるようになりました。

特に薬師寺金堂再建への関与は有名となり、NHKの「プロジェクトX」で取り上げられて紹介されています。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

また常一の大きな功績の一つに古代の大工道具「槍鉋(ヤリガンナ)」の復元があります。

焼けた法隆寺金堂の再建の際に飛鳥時代の柱の復元を目指した常一は、回廊や中門の柱の柔らかな手触りに注目し、その再現は、従来の台鉋や手斧ではなく創建当時に使用されていた槍鉋であれば可能だと気付きまし。しかし、槍鉋は15~16世紀に使用が途絶え、実物もなければ使用方法も分からない幻の道具でした。

そこでまず、古墳などから出土した槍鉋の資料を全国から集めたのですが、思うようなものはできず、やむなく正倉院にあった小さな槍鉋を元に再現してみました。しかし、鉄の質が悪くて思うように切れなかったため、そこで法隆寺の飛鳥時代の古釘を材料に堺の刀匠水野正範に制作を依頼。こうしてようやく思っていたような槍鉋が完成しました。

完成した槍鉋は刃の色から違っており、常一も感服するほどの出来栄えでした。常一は絵巻物などを研究し3年間の試行錯誤の末、身体を60度に傾けて腹部に力を入れ一気に引くやり方を見出し、これを「ヘソで削る」と表現する技法として仕上げていきました。

その切り口は、スプーンで切り取ったような跡になるのですが、そこに、あたたかみ、ぬくもりがかもし出される、独自のものであったといいます。使い方が上達すると鉋屑が長く巻いたきれいなものになり、その出来栄えに、常一自身も「家に持って帰ってしばらく吊っておいたことがあるんですけどね」と語るほどでした。

あまりの美しさに見学者がその木屑を記念に持ち帰ったこともあったといいます。

修羅の復元

1978年3月、大阪府藤井寺市三ツ塚古墳で橇式の木製運搬具「修羅」がほぼ完全な形で出土しました。修羅とは、古代の巨石運搬用の橇(そり)です。この修羅は樫の巨木が二股になった全長9mのもので、考古学関係者の関心を呼び、朝日新聞社の後援で、実際に復元して運搬の実験が計画され、その責任者に常一が抜擢されました。

折悪しく薬師寺西塔再建工事途中で、常一は躊躇したようですが、文化的な貢献にもつながると思い直し、薬師寺側の了解をとりつけました。

常一は元興寺文化財研究所に保存されている出土品を調査。ここで古代の技術者たちが、樫の木が水や衝撃に強い利点に着目した点と、二股の巨木から橇を自然なままほとんど手を加えずに完成させた点などを発見して驚嘆します。

しかし、実際の制作に際しては、問題が相次ぎました。材料には沖縄県の徳之島に生育するオキナワウラジロガシが用いられたのですが、出土した修羅と違い、材料は二本に分かれていて継がねばなりません。そして材質面でもかなり劣っていました。

さらに常一が激怒したのはこの木を切り出すタイミングが悪かったことです。「霜がおりんと切ったらあかんねん。ほかの時期に切るとみなボケてしまうんや。切り旬も考えんと切って復元やなんて、そんなん根本から間違うてるでというたわけですわ」と憤慨しました。

前途多難な開始でしたが、結局はこの二本を継ぐことになりました。しかし、二本を接合するボルトは、学者側が強度のために2~3本を主張したのに対して、常一は修羅は水平に引かれるのでなく、上下に揺れる事を予想すれば、そのボルトが本体を割ってしまうと主張しました。

高低差がついても、真ん中でどうにか動くように細工しておけば、ボルトは一本でよいと彼が主張したため、結局学者たちの意見は退けられ、ボルトは一本で済ませ、後は木材で補強することになりました。

作成にはできるだけ古代の作業工程が用いられ、鋸をあまり使用せず、斧とチョウナだけでたった一カ月で彫り上げました。

しかし、常一は、復元作業では接合という余分な作業があったことと、一方では古代には二股の樫の巨木が豊富にあったことを考え、古代のオリジナルの制作にあたっての所要時間は、その当時はもっと早く、半月ほどで完成したのではないかと推測しています。

また、このときこの巨木を鋸を用いずに斧で切ったといいます。

このときの経験から常一は「一日かかったら十分切れます。……力はね。今の人はつかれてきたらもうヒョロヒョロしまんがな。昔の人はああいうもんを使いなれててね。なんでっしゃろ。おそらくわれわれがいま一日かかるものは半日でやってしまうと思います。」と述べて、古代の職人の技量を評価しています。

こうして復元された修羅は同年9月、大阪府藤井寺市の石川と大和川の合流部の河川敷において巨石の運搬実験が行われて、このプロジェクトは成功裏に終わりました。これに感激した唐招提寺長老の森本孝順の依頼も受け、翌1979年インドから請来した大理石宝塔の運搬にもこの修羅が用いられました。

こうして復元された修羅は現在は道明寺天満宮に保存されています。常一はこの修羅復元に際し「昔の人の体力の強さというか優秀さといえばいいのか、それがしみじみと感じられたこと。・・・そして木の使い方がとてもうまいということ。・・・そらえらいもんやな。」と感想を述べています。

論戦

常一が手がけた数々のプロジェクトにおいては、時として学者との間に激しい論争や対立がありました。が、常一は一歩も引かず自論を通し、周囲から「法隆寺には鬼がおる」と畏敬を込めて呼ばれていました。

現場でたたき上げた豊富な経験と勘は、多くの寺院再建の際に大いに活用されたが、その際、多くの学識関係者が持論をもって口を挟んできても堂々と反論し、そのたびに衝突を繰り返しました。

常一は「学者は様式論です。……あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。……学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする。結局は大工の造った後の者を系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下ということです」と述べて、学者の意見を机上の空論扱いし、歯牙にもかけなかったといいます。

古代建築学の権威で、東京大学工学部名誉教授だった藤島亥治郎や京都大学工学部名誉教授の村田治郎らとも激しくやりあいました。

両者は、創建時の法隆寺金堂の屋根は玉虫厨子と同じ錏葺き(しろこぶき、兜の錏のように途中で流れを変えて二段にした屋根の葺き方)であったという説を指示していたのですが、常一は解体工事の際に垂木の位置と当て木に使われていた釘跡を発見したことから、これは入母屋造りと判断し、彼等にそう主張しました。

双方の論争にまで発展しましたが、結局は釘跡が決定的な証拠となって入母屋造りと判明します。が、常一は特にこのとについて根に持っている風はなかったといい、後年、この時のことを振り返り常一は「ありがたい釘穴やったなあ」とだけ述べていたといいます。

そのほかにも、学者同士の無意味な論争に業を煮やした時は、飛鳥時代は学者でなく大工が寺院を建てたもので「その大工の伝統をわれわれがふまえているのだから、われわれのやっていることは間違いない」と論破するなど、辛辣な言い方をすることも辞さなかったそうです。

法輪寺三重塔再建でも、名古屋工業大学教授の竹島卓一と大論争になりました。竹島教授は法隆寺大修理の工事事務局長で、常一とも面識があり、中国古代建築の専門家としての知識を生かして三重塔の設計を行いました。

しかし、その設計の中に、江戸時代に多用されていた補強用の鉄骨が使用されていたことから、常一はこれに猛反発しました。初めは法輪寺住職の井上慶覚の仲介で両者の関係は穏便になっていましたが、住職の死後、対立は激化していきます。

竹島は、常一の力量を認めながらも、地震などにより飛鳥時代方式の建築技術で造った構造物の崩壊によってその伝統技法が断絶することを恐れ、より高い強度の望める江戸期の技術を採用したいという考えでした。

しかし、常一は江戸期の鉄を補強したやり方ではかえって木材を痛め寿命を縮めるとし、伝統技術の点についても、たとえ構造物が崩壊しても伝承する人間さえ残れば断絶することはないと主張して竹島の考え方を真向否定しました。

やがて両者は感情的に口論する事態となり、果てには新聞紙面で論陣を張るまでに至ります。

もっとも常一は「あの人は学者としてちゃんとした意見を主張してはるわけですわ」と、竹島には敬意を示していて、むしろ本来仲介に立つべき文化庁関係者のほうをより批判していたといいます。

結局、最低限度の鉄骨使用ということで折り合いがつきましたが、帝塚山短期大学名誉教授で日本史家の青山茂が「非常に気持ちのいい論争」と評したように双方とも正論を吐き、情熱を傾けた事件であったといえます。

このように、職人肌の強面の常一でしたが、優しい面も持ち合わせており周囲の人々に慕われていました。弟子の一人がある日、初対面の時薬師寺の塔の図面を一週間貸してほしいと懇願すると、常一ははじめ「門外不出のもんやから貸すことはできん」と断ったそうです。

しかし、この弟子の残念そうな表情を見て「お前、本当に一週間で返しにくるか」と聞き、彼が「もちろんです」と答えたのに対して、「そうか」と言って図面を渡しました。弟子はその優しさに感激し、このときから家族を連れて奈良に住むことを決めたといいます。

1945年8月15日の終戦の日、常一は朝鮮南部の木浦にある望雲飛行場で衛生曹長として警備防衛に就いていました。昭和天皇の玉音放送が流れると、普段威張っていた将校たちは放心状態となり、師団司令部からの終戦報告書提出の命令が出ても書くこともできなかったそうです。

このため、上官から常一が報告書を書くよう命じられ、一時間くらいかかって「八月十五日、終戦の詔勅を拝す。全軍、粛として声なし……」から始まり、日本再建を誓う堂々とした内容の文を書きました。これを読んだ将校から職業を聞かれると「大工です」と答えたのに対して、この上官は驚嘆したといいます。

後年、この時の出来事について常一は「星は上やけど、人間はなっとらんかった」と述懐しています。

また、終戦直後の生活難の時代、息子たちが友人と草野球をするためにグローブを買ってほしいとねだったことがありました。

このとき常一は「お前、今の日本の現状を見よ。遊んでいる暇はないやろ。みんな腹すかしてるんやから、鍬持っていけ。たまには天秤棒でこやしをかついでいけ。それが今の日本のスポーツや。それで鍛錬せい。」と叱ったといいます。

さらには、先人の技術についても時に辛辣ながらも鋭い視点を持って的確にこれを評しました。

「古代の釘はねっとりしとる。これが鎌倉あたりから次第にカサカカして、近世以降のはちゃらちゃらした釘になる」

「寺社建築で一番悪いのは日光東照宮です。装飾のかたまりで……芸者さんです。細い体にベラベラかんざしつけて、打ち掛けつけて、ぽっくりはいて、押したらこける……」といった具合で、独自の感覚による表現を用いて建築、道具などを批評していましたが、どれもが分かりやすく核心を掴んだものでした。

また、大工の腕は一流でしたが、自身はあくまでも法隆寺の宮大工であるという分をわきまえており、神社仏閣は聖なるものとし、これ以外は造営しないという掟を堅く守っていました。

「宮大工は民家は建ててはいかん。けがれるといわれておりましたんや。民家建てた者は宮大工から外されました。ですから、用事のないときは畑作ったり、田んぼ耕しておりました」と語り、自宅を改装する時もわざわざ「よその大工さんにやってもろた」という程の徹底ぶりでした。そのために収入が少なくても気にすることなく清貧に甘んじていました。

幼くして法隆寺に出入りしていた影響から敬虔な仏教徒でもありました。太平洋戦争で召集された時にも、「お太子様が必要とおぼしめしならば、この私をどうぞ生かせてください。」と聖徳太子に祈ったといいます。

幼いころ、法隆寺の管主、佐伯常胤から法華経現代語訳全集を読むように勧められ、親から金を出して貰って購入して読みましたが、後に佐伯に感想を聞かれたとき、「理解できまへんが、ありがたいもんやいうことがわかります」と答え佐伯を喜ばせたといいます。

その晩年、息子には「宮大工というのは、お堂や伽藍を造営するねん。……仏法を知らなあかん。仏法もわからんようなやつは宮大工の座から謹んで去れ」との言葉も残しています。

最晩年は視力の衰えで砥げなくなり、さらに病気のため薬師寺伽藍復興工事の第一線から引いてしまいました。しかし以降も寺側の要請で棟梁の職にとどまり、現場に見回りに出たときには、若い大工に優しく声をかけて教えていたといいます。

後輩たちには優しい棟梁でしたが、しかしそれでも常一が現場に来ると現場には緊張感が走り、休憩時間にもかかわらずテレビが消されるほどであったといいます。

常一はインタビューや座談会で数々の言葉を残しています。ここではそのすべてを紹介できませんが、そのどれもが、彼の人生観や宮大工の仕事へのこだわりが感じられます。

建築史学の学者に対しての意見を求められたときには、「明治以来建築史学いうもんができたけれどね、それまでは史学みたいなもん、あらへん。大工がみな造ったんやね、飛鳥にしろ、白鳳にしろ……結局は大工の造ったあとのものを、系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下やというんです」など宮大工という職業に高い誇りを持っていました。

「自然の試験を通らんと、ほんとうにできたといえんのやから、安心はできません」とは、薬師寺西塔再建直後の感想であり、自分が完成させたものがパーフェクトではないという謙虚な姿勢を生涯崩しませんでした。

「自然を征服すると言いますが、それは西洋の考え方です。日本ではそうやない。日本は自然の中にわれわれが生かされている、と、こう思わなくちゃいけませんねえ。」など、東洋と西洋の比較などの文化・歴史的な視点についても独自の考えを持っていました。

そして、「今は太陽はあたりまえ、空気もあたりまえと思っとる。心から自然を尊ぶという人がありませんわな。このままやったら、わたしは1世紀から3世紀のうちに日本は砂漠になるんやないかと思います」と、日本の将来についても警鐘を鳴らしています。

ちなみに常一の父の西岡楢光は、修羅の復元の3年前の昭和50年3月に90歳でその生涯を閉じました。前述のとおり、常一が法隆寺の棟梁となった昭和9年から法隆寺大修理の総棟梁を長らく勤め、のちに法隆寺保存事務所の棟梁となりました。そして死去の前年の昭和49年、常一と次男の楢二郎とともに吉川英治文化賞を受賞しています。

常一本人は、その20年後の1995年(平成7年)癌で死去しました。その墓所からは右前方に、法隆寺大宝蔵院の金色に輝く宝珠を望むことができます。戒名は「光棟院常念大居士」であり、そこには宮大工の棟梁を示す「棟」の文字が誇らしく刻まれています。

常一は、その生涯に一人だけ内弟子を持ちました。寺社建築専門の建設会社「鵤工舎」の創設者であり、栃木県矢板市出身の小川三夫です。

小川は、高校の修学旅行で法隆寺五重塔を見たことがきっかけとなり、卒業後法隆寺宮大工の西岡常一の門を叩きましたが、このときこれを断られています。しかし、あきらめきれず、その後は仏壇屋などで修行をした後に、22歳で再度西岡家の門をたたき、その熱意が認められてこのとき西岡家棟梁の唯一の内弟子となりました。

その後、楢光・常一親子の片腕として彼等を支え、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、薬師寺西塔(三重塔)の再建に副棟梁として活躍しました。

生前常一は、小川を評して「たった一人の弟子であるけれども、私の魂を受け継いでくれてると思います」と述べています。

1977年に独立し、徒弟制を基礎とした寺社建築専門の建設会社「鵤工舎」を設立。 弟子の育成とともに、現在も国土安穏寺、国泰寺ほか全国各地の寺院の改修、再建、新築等にあたっています。

こうして最後の宮大工、西岡常一の血脈は現在も絶えずに継承され続けています。その中からいつか、常一よりも優れた宮大工が再び現れることでしょう。