エースよ永遠に……

台風27号はどうやら本土直撃コースは免れそうなかんじですが、雨のほうはまだまだ予断がなりません。伊豆大島の例もあるので、予報にはくれぐれも注意を払うことにしましょう。私は使っているパソコン上に各種の「雨雲ウォッチ」を搭載して、雨域が近づいてくるのをチェックするようにしています。

それにしても曇り空ばかりで嫌になってしまいます。昨日も天気予報では晴れ間が出るようなことを言っていたのですが、結局終日曇天で、がっかりしてしまいました。

早く秋のスカッとした青空が見たいものです。

その青空にちなんでの話ですが、5年ほど前の夏のこと、夏休みに入っていたので、このころもう高校生になっていた息子君ともども山口に帰郷しました。が、近所に友達がいるわけでもなく、退屈そうなので、映画でも見に行くか、と誘ったところ、彼のご指定で、「スカイ・クロラ」というアニメを見ることになりました。

最初はアニメ、ということであまり期待していなかったのですが、本編が始まるとその内容にぐいぐいと引き込まれてしまい、終わったあとには家族3人で大絶賛。映画館と同じビル内にあった、本屋さんでオリジナル・サウンドトラックまで買ってしまいました。

そのCD内の曲を先日もウォークマンに入れて、朝のジョギングの際に聞いていたのですが、久々に聞いたその曲で、3人で暮らしていた東京時代を思い出していました。

「スカイ・クロラシリーズ」は森博嗣の小説「スカイ・クロラ」を初めとする6編からなる小説シリーズであり、そのうちの一番最初のものを映画化したものです。

森博嗣(もり ひろし)さんは小説家ですが、工学博士でもあり、元名古屋大学助教授です。
作者が工学部の助教授であったこともあり、作中ではコンピュータや電子メールを駆使する人物、科学がたくさん出てきます。

また、工学分野に関する専門的な会話が登場人物の間で説明無しに出てくるなど、かなりマニアックな内容のものが多く、難解な数学問題が提示されるという展開から「理系ミステリ」と評されています。

このころ息子君は工業系の高校に在学しており、その関係もあってこの小説については詳しかったようで、彼が我々との映画鑑賞にこれを指定したのも、大人の我々が見たとしても飽きない内容だと思ったからでしょう。そんなところにまで気を使っていたのかな、と改めて思い返している次第です。

森さんは1996年のデビュー当初、広義の推理小説を中心として執筆していたそうですが、次第にSF、幻想小説、架空戦記、剣豪小説などの他ジャンル、ブログの書籍化、エッセイ、絵本、詩集といった他の分野へも進出を果たしていきました。

その後現実とはやや違う世界を舞台に、PMC(民間軍事会社)の戦闘機パイロットをする人間が主人公の作品である、スカイクロラを書こうと思い立ったといいます。この物語の背景には、戦争がありながら政治背景や戦況に関する説明はほとんど無く、物語は終始淡々とした「僕」を語り手として進んでいきます。

主人公は、函南優一といい、本作の語り部でもあるエースパイロットです。詳しい作品の説明はここではしませんが、新しい基地から移って来たカンナミが、何度か敵を迎撃するための出撃を重ねながらも淡々と日々を過ごしていく様子が描かれます。

戦争と並んで「キルドレ」と呼ばれる不思議なクローン人間?の存在が物語に大きく関わってきますが、その詳細は謎に包まれたまま、登場人物の意見が断片的に提示されるという設定です。また登場人物の名前は日本人風なのですが、それ以外に日本を感じさせる要素は全く排除されている点もまたこの作品の不思議さを醸し出すことに寄与しています。

その徹底ぶりは、作中の食事のメニューもステーキやパイなど、特定の国との関わりを連想させないものに限られているそうで、このことから森さんは戦時中の日本のパラレルワールドをを意識してこれを書いたのではないかと思われます。

シリーズは全6巻は、ハードカバー、ノベルス、文庫ともに中央公論新社より刊行されているので、ご興味のある方は購入して呼んでみてください(自分が読んでもいないのに人に勧めるのもなんですが)。

映画版のほうは、「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」というタイトルで、2008年8月2日にアニメーション映画化されました。日本テレビ開局55周年記念作品でもあり、日テレ協賛ということで制作会社としてもかなり力の入った作品だったようです。

監督はこうしたアニメで定評のある押井守で、2004年の「イノセンス」以来4年ぶりのアニメ作品となりました。公開は内容は原作にほぼ忠実ですが、映像表現や音楽・音声などはコリにこっており、押井さんはこの作品をもって「若い人に、生きることの意味を伝えたい」と述べ、「本作が成功しなかったら辞める」とまで語ったといいます。

そこまで入れ込んだこの作品は、2008年9月の、第65回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門では、フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード受賞しています。

また、同年10月の第41回シッチェス・カタロニア国際映画祭では、ファンタスティック長編映画コンペティション部門で最優秀映画音楽賞・批評家連盟賞・ヤング審査員賞を受賞などを軒並み受賞したほか、さらに翌年の2009年2月、第63回毎日映画コンクール・アニメーション映画賞を受賞しています。

さらには、東京国際アニメフェア2009・東京アニメアワードキャラクターデザイン賞をも受賞するなど、数々の栄冠に輝き、アニメ作品としての仕上がりは、宮崎駿の諸作品をも凌駕するのではないかと評する向きもあったようです。

オリジナル・サウンドトラックなどの音楽を担当したのは、作曲家の川井憲次さんで、押井守さんとは、映画「紅い眼鏡」でと出会い、その後も押井作品のほとんどの劇場版の作曲を担当しています。上記の2008年の第41回シッチェス・カタロニア国際映画祭では、押井さんの映画本編の各賞受賞とともに最優秀映画音楽賞受賞しています。

音楽のほうも、なかなかのものですから、みなさんもCDショップで見かけたら試聴してみてください。

さて、前置きが長くなりすぎました。そろそろ本題に入りましょう。

この映画でも描かれた「エース・パイロット」は日本では「撃墜王」と訳されています。多数の敵機を主に空中戦で撃墜したパイロット(主に戦闘機パイロット)に与えられる称号ですが、実はれっきとした定義があり、この「多数」とは現在は5機以上と決められています。

航空機が戦闘に使用され始めた第一次世界大戦時からある名称であり、単にエースとも称されます。中でも撃墜機数上位者はトップ・エースと称されることもあります。

第一次世界大戦で戦闘機が誕生した当初、フランスが10機以上撃墜者をエースの資格と定義し、同じ連合国のイギリスや、対戦相手のドイツも同様に10機以上撃墜者をエースとしたのが始まりです。

しかし大戦終盤の1917年に参戦したアメリカは戦闘が短期間であったことを考慮し、5機以上の撃墜者をエースの資格と定義しました。戦間期を経て第二次世界大戦が開始されると、各国は各々の第一次大戦の定義で使用を再開しましたが、のちに連合国・枢軸国ともに5機以上撃墜者をエースの資格とするようルール更新されました。

エースの定義とは別に、第一次大戦時のフランス軍、および第二次大戦時のドイツ軍は、東部戦線・西部戦線作戦方面の難易度に応じたポイント制により叙勲と昇進で表彰しました。また、第二次大戦終盤に空中戦機会が乏しくなったアメリカ軍は、地上破壊機数を貢献ポイントとして別途カウントしたといいます。

日本には「多数機撃墜者」という通称があり、日本軍航空部隊が本格的に参戦した日中戦争以降は上級部隊からの感状・賞詞・叙勲・祝品授与などで表彰され、個人が所属する各飛行部隊もまた、その功績を称えて戦闘記録などを保存するようになりました。

とくに陸軍では将兵の士気高揚の面からも、太平洋戦争時にも引き続いて奨励が行われましたが、残念ながら敗戦により記録文書の多くは焼却されてしまいました。一方の海軍では1943年後半以降軍令部の指示で多くの部隊は個人撃墜数の記録を廃止しており、こちらも太平洋戦争以後のきちんとした記録は残っていません。

そのため操縦者の日記記録などを除き戦歴の詳細が不明な部分が少なくありません。戦後日本の戦史家達は、まだ生存していた彼等の実績を聞き取りなどから解明しようと努力をしつつ、撃墜数についても当時の史料などから全体数の把握を試みたようです。が、はっきりした数は出なかったようです。

しかし1990年代以降、アメリカ軍などの戦勝国の当時の秘密開示が進んだことから、日本軍の戦果報告と連合国軍の損害報告の比較の中で、双方を照合することにより、ある程度客観的に真の撃墜機数を検証することができるようになりました。

その結果として、推定の部分もまだまだありますが、実在した日本のエースパイロットの実際の撃墜数がおおむね把握されるようになりました。

それによれば、5機以上の撃墜数を誇るエースパイロットしては、帝国陸軍では約60名、帝国海軍が約40名となっています。陸軍のほうが多いのは、上述のとおり、海軍に比べて陸軍のほうが記録の保持に熱心だったためです。

そのリストをすべてここに掲載することはできませんが、エースパイロットして記録されている人数は陸軍に多いものの、個人個人の撃墜数においては、圧倒的に海軍のパイロットのほうが多いようです。

これは海軍のパイロットのほうが優秀であったというよりも、広く太平洋中に広がっていた戦線に参加した海軍機が多かったことや、連合艦隊などの援護などのために敵機と遭遇する機会がより陸軍機などよりも多かったためでしょう。

この海軍のエースパイロットの中でも、その撃墜数において群を抜いているのが、西沢広義という人です。協同撃墜429機、撃破49機、単独撃墜36機・撃破2機といわれており、個人としての撃墜記録は87機とも120機以上であったとも言われています。

しかし、海軍では1943年からは個人撃墜数を公式記録に残さなくなったため、詳細な数は不明であり、彼の家族への手紙では143機、戦死時の新聞報道では150機と書かれています。

西沢広義は、1944年(昭和19年)10月、捷号作戦(来襲するアメリカ軍を迎え撃つためにフィリピンから小笠原諸島にかけて引かれた防衛体制)参加のためフィリピンへ進出した際に、戦死しました。

このとき西沢は、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し、新しい飛行機受領のためマバラカット基地へ輸送機に便乗して移動しましたが、その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、米軍のグラマンF6Fに攻撃を受けて撃墜されました。

戦死後、飛曹長から二階級特進。身長は180センチ以上あったそうで、写真が残されていますが、なかなかの美男子です。ラバウル方面での活躍が多く、戦後書かれた戦記では「ラバウルの魔王」と評されました。

ところが海軍にはまだ、このラバウルの魔王の撃墜記録をはるかに上回る記録を持つ男がいました。

岩本徹三といい、またの名を「零戦虎徹」。「最強の零戦パイロット」と謳われ、日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ最前線で戦い続けました。戦後、その手記は「零戦撃墜王」の題名で出版されていますが。この本で明らかにされている撃墜数は、なんと202機にのぼります。

岩本は、1916年(大正5年)6月14日、警察官の父親の元に樺太国境近くで三男一女のうちの三男として生まれました。父親は東京の警視庁勤務でしたが危険な外地勤務を志願し、陸軍守備隊陣地に囲まれた樺太国境に勤務していたのでした。

父親が北海道札幌の署長に転勤した小学校時代は、札幌で過ごし昭和初期当時にはスキーで小学校に通っていたこともあります。13歳のとき父親の退官で父親の故郷の島根県益田へ引越し、高等科2年から県立益田農林学校に進みました。幼少時よりワンパクですばしっこく勉強より体を動かすことを好んだといいます。

地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝ったりする反面、一本気の頑固な正義感の持ち主で教師を辟易させたことがあると伝えられており、子供の頃は、魚突きをして捕らえる名手であったそうです。

益田農林学校を18歳で卒業後、「若いときは勉強のため大学受験し、大学卒業後都会からもどらないつもりの長男や亡くなった次男の代わりに、家に残ってほしい」という父親の意に反して、大学受験と偽って海軍の志願兵試験(豫科練習生予定者)を受験し1934年(昭和9年)に呉海兵団に四等航空兵として入団。

海兵団に入団する際に「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます」と岩本は、両親に告げたといいます。航空科を選択し、半年後に第三一期普通科整備術練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。1935年(昭和10年)8月20日付けで航空母艦「龍驤」の艦上整備員となりました。

次いで操縦員を志望し、難関を越えて入団してから二年後、1936年(昭和11年)に霞ヶ浦海軍航空隊の第三四期操縦練習生となり、その後も激しい競争を勝ち抜き、同年12月付けで佐伯海軍航空隊勤務、翌年7月に大村航空隊勤務となりました。

これらの操縦訓練生時代ではとくに射撃の成績が抜群だったそうですが、勉学にも励み、消灯のあとでも教本を持って外に出て街灯の光でおそくまで勉強したこともあったと伝えられています。

日中戦争開始後の1938年に第一三航空隊付となり、南京に着任しました。その初陣は、1938年2月25日の南昌空襲であり、このときに4機撃墜確実1機不確実という目覚しい戦果をあげました。さらにその後の支那事変においてはわずか半年の間に日本軍最多数撃墜数である14機を公認されています。

こうした実績を受け、1940年(昭和15年)に勃発した支那事変では、その論功行賞で金鵄勲章の申請の栄誉をうけ、2年後の1942年(昭和17年)夏に、正式に下士官としては異例の「武功抜群相当」に相当する功5級金鵄勲章を叙勲されました。

太平洋戦争開戦前の1940年4月には、日本海軍の中心である連合艦隊第1艦隊の所属として艦隊訓練を開始。とくに予備艦になって整備中だった「龍驤」を使っての激しい母艦訓練を行いました。

その訓練内容は、離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練、洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信での母艦との通信連絡および電波航法(フェアチャイルド社製クルシー方位探知機による)による帰投などなどであり、それまでは大陸での戦闘が多かった岩本はこの訓練によって、海戦でのコツを徐々につかんでいきました。

翌年、1941年(昭和16年)4月付で連合艦隊内の第1航空艦隊創設にともない、この航空艦隊の第3航空戦隊の所属となり、航空母艦「瑞鳳」の戦闘機隊に配属になり、ここで飛行学校を卒業したての若い後輩たちをも迎え、更なる訓練を続行しました。

その後1941年秋まで、岩本たち搭乗員はその理由を知らされず九州各基地のさまざまな艦で集合して、当時の2大海軍国の米国、英国の飛行技量をしのぐ世界最高の艦隊搭乗員実力を目指して連日、日夜激しい訓練がつづけられました。

種類の違う艦でのその訓練の目的は無論、その後の米国との海戦に備えてのことであり、航空機隊の面々にこれを掩護する場合に備え、その艦形や行動形態を覚えさせるためでした。

しかし、この当時彼が所属していた第1航空艦隊には3人乗り雷撃隊、水平爆撃攻撃隊、2人乗り急降下爆撃隊、単座戦闘機隊合せても艦隊搭乗飛行士総数1000名に満たず、とくに岩本のような熟練者はかなり少なかったといいます。

戦後の岩本の回想録の記述には、こうした人員不足を補うため、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面では、幸運や勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を生かし、洋上、夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜くことだったと、書かれています。

やがて開戦が近づくにつれ、岩本が開戦前から所属した母艦戦闘機隊は新型航空母艦の登場と艦隊の陣容一新に伴い、編成が順次変更されていきましたが、そのなかにおいて岩本は貴重な中堅かつ中核的な熟練搭乗員の一人でした。

岩本は1940年当時「瑞鳳」の所属でしたが、訓練自体は「龍驤」を中心に行われ、その技量実力ともに太平洋戦争直前には最高潮に達するレベルにまで達し、この訓練によってもっともレベルの高い搭乗員と目されるようになっていました。

また「龍驤」は第1航空艦隊の最強軍艦であり、これを筆頭として「赤城」、「加賀」、「鳳翔」などの他の航空母艦とローテーションを組み、整備と前線配備の質の向上が図られていきました。

この半年後の、1941年9月、10月に最新最大の高速大型航空母艦の「翔鶴」、「瑞鶴」が進水、相次いで予定通り就役し、これに伴い、第5航空戦隊が創設されました。このとき、
岩本ら瑞鳳の戦闘機隊隊員たちは抜擢され、二手に分かれてこの最新鋭艦所属の戦闘機隊に着任し、ここで開戦を迎えることになります。

こうして米軍との開戦準備が進む中、やがてハワイ奇襲に始まる太平洋戦争がはじまりました。開戦時に岩本は、航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員でしたが、瑞鶴も参加した真珠湾攻撃時では、主に艦隊の上空直衛任務に就き戦果はありませんでした。

しかし、その後母艦と共にインド洋作戦で4月5日機動部隊に接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇一機撃墜し、この太平洋戦争における初撃墜の戦果を得ました。岩本はその後、この瑞鶴とともに珊瑚海海戦へと転戦します。

1942年5月8日の珊瑚海海戦では、「瑞鶴」上空を直接掩護しつつ、米軍の「レキシントン」、「ヨークタウン」から発した攻撃機による数次攻撃を迎撃しました。

このときもそうですが、以後の太平洋戦争において米軍邀撃機は空母レーダーから日本軍機の位置の指示を受けて時々刻々の対応ができました。が、日本軍は母艦から簡単な敵情程度しか知らされないことも多く、情報戦においては圧倒的に不利でした。

そんな中でも岩本は母艦「瑞鶴」をよく護り、戦闘中には度々艦長や飛行長からたびたび賞賛を受けたといいます。

この海戦では、瑞鶴の岩本の瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機が上空警戒に上がり、
高度7500メートルで、30キロメートル先の米攻撃隊を発見し、優位の高度から敵米軍機17機に急降下爆撃を攻撃して投弾を妨害しました。

この攻撃で低空に下がった岩本小隊は、上昇中に瑞鶴後方で味方戦闘機を攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見し、これに対して攻撃を加えて岩本は1機を撃墜しています。

この後、米軍は第二次攻撃を開始し、岩本はこの迎撃のために他の小隊と共に発艦し、空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった急降下爆撃機に攻撃を加えます。

このとき母艦の瑞鶴はスコールの中に退避して無事でしたが、僚艦の翔鶴は甲板に爆撃を受け、航行に支障はなかったものの、飛行機の発着が不能となりました。さらに翔鶴は集中攻撃を受けた上、米軍のSBD4機が放った500ポンド爆弾の1発が艦橋後方に命中しました。

被害の大きさから艦隊を指揮していた井上成美中将は、日本空母部隊を撤退させましたが、瑞鶴だけは攻撃続行命令受けたために反転。しかし、その後両軍が再度会敵することはなく、瑞鶴の護衛に上がった岩本戦闘機隊の収容が珊瑚海海戦の終了となりました。

この海戦では、瑞鶴と岩本が所属する直衛隊は1名の戦死もなく無傷でした。しかし、他の直衛隊や攻撃隊では多くの搭乗員を失っており、この時岩本は同僚に、「さびしい。涙がにじむ。このように一度に多数の戦友を失ったのははじめてだ。優秀な搭乗員を多数なくして、これからさき、いかにして闘ってゆくつもりだろう」と語っています。

また、この時期、後輩に当たる堀建二2飛曹という人物は岩本から次のような指導を受けたことを記憶していました。

「どんな場合でも、実戦で墜されるのは不注意による。まず第一は見張りだ。真剣に見張りをやって最初にこちらから敵を発見する。そして、その敵がかかってきたら、機銃弾の軸線を外す。そうすれば墜されることはまずない」

1943年11月、岩本らが所属していた部隊の16名は一大航空戦が展開されていたラバウルに派遣されます。ラバウル到着から一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃した岩本は同じ中隊9名に損害を出さず7機を撃墜。また、隊全体で敵52機を撃墜する大戦果をあげました。

しかし、激しい戦いによりベテランパイロットが次々と戦死していきました。そんな中も、生残りの数少ない実力派の搭乗士官(飛曹長=准士官)として岩本は空中指揮を担当し続けていきました。

彼はラバウル航空隊の誇りにかけて、死力を尽くして戦いました。

このころラバウルでは「ラバウルの空は岩本でもつ」と称えられるほどであったといい、ラバウル要塞と周辺空域は、米軍からドラゴンジョーズ(竜のアゴ)と呼ばれ恐れられていました。これは、ラバウルの地形が竜のアゴに似ていることと、侵攻すれば大損害を受けることを恐れてのあだ名でした。

ラバウルでの岩本は、迎撃戦のみならず対地攻撃でも多大な戦果を挙げています。特にブーゲンビル島のタロキナ飛行場への攻撃任務では、単機で出撃して超低空侵入で奇襲に成功し、20機以上の米軍機を銃撃で破壊しました。

しかし、12月以降、敵戦爆連合のラバウル空襲は猛烈で、爆撃機を1週間のべ1000機平均、陸・海・海兵隊と連合国空軍によるラバウル総攻撃(グレゴリー・ボイントン作戦と呼ばれた)が行われ、空前の規模で数ヶ月間、圧倒的機数で日本軍に対する攻撃が連日行われました。

これに対して日本軍はわずか20~30機の零戦で粘り強く対抗しつづけ、岩本の同僚・後輩たちもまた多数の敵機を撃墜しました。このため、実際には少数に過ぎなかった日本軍の兵力をアメリカ軍は過剰に見誤り、日本軍は約1000機をもってアメリカ軍に対抗していると考え、このためにアメリカ本国に増援を求める報告まで発信しています。

このころ、日本軍は、「ラバウル航空隊69対0勝利」といった内容に偽りのある記録フィルムを作成しており、これは日本ではニュース映画「ラバウル」「南海決戦場」として公開されました。69対0はいかにも誇張ではありますが、この時期、地上員から撃墜50機以上の撃墜が実際に目撃されたこともあったそうです。

このニュース映画は、岩本の郷里の益田でも流され、この映画にエースパイロットとしてゼロ戦に搭乗していた岩本を見て「益田の岩本さん」を知ったある女学生がいました。戦後岩本とお見合いで知り合い、結婚することになる幸子夫人です。

このラバウル時代の岩本は、劣勢をカバーするため、とくに編隊による優位位置からの一撃離脱戦法を多用し、極力少ない兵力の消耗を避けようとしていたといいます。

1943年末のラバウルは、飛行機の供給が少なく、すでに4機編隊単位の編隊攻撃になっていましたが、海軍戦闘機では稀と言われた機上無線機のモールス電信を活用し連携を心がけ、基地司令部との交信で来襲情報を受信し、常に迎撃隊を有利な位置に導いて戦闘指揮していました。

岩本の空戦戦法は、常に先制攻撃、優位優速のうちに離脱する編隊戦法が主流でしたが、格闘戦でも絶対的な自信を持っており、ある日の空中戦では、岩本単機対F6F戦闘機4機で空戦に入り、そのことごとくを撃墜したことが地上監視所から報告されています。

この頃の岩本は「5倍や10倍の敵など恐くはない。ただし、エンジントラブルだけはどうしようもない」と戦場で活躍する零戦の現実を記しています。

しかし、岩本の同僚の後年の証言によれば、「岩本君は空戦になると、まず空戦圏外に離れて戦況を見て、戦闘が終わって帰ろうとしている敵機を狙うそうで、そうすれば確かに二百何機も墜とせるのかもしれません」と語っています。

また別の同僚は、「岩本君は撃墜の証として、自分で機体いっぱいに桜の花を描いたけれども、海軍では個人の撃墜記録を認めていなかったこともあり、その行為はあまり良くは思われていませんでした」とも語っており、彼を批判する人も少なくなかったようです。

この証言にもあるように、昭和18年末から19年2月まで、岩本飛曹長の搭乗した253航空隊の102号機は零戦二二型で、撃墜数を表す桜のマークが60~70個も描かれており、遠目からは機体後部がピンク色に見えたといいます。

もちろん、この機体は上空でも敵の目を惹きましたが、岩本はこのピンクを標的にやってくる敵機をことごとく返り討ちにしていったといいます。かつての中国戦線を皮切りに数々の激戦を乗り越えてきただけに、その腕は磨きあげられたものであり、このラバウル時代から既に彼を撃墜王と呼び、頼りにする同僚も多かったそうです。

その後のラバウルは、マッカーサーの南西太平洋方面軍のフィリッピンへの進路にあって米陸海軍が圧倒的な戦力で重点的に攻撃を集中するようになります。

岩本はラバウルで邀撃後、基地に帰還する米軍機を狙ってよく奇襲をかけました。多くの日本軍戦闘機を撃墜したアメリカ軍機の帰路、彼等を待ち伏せ攻撃で奇襲しその多くを撃墜したため、米軍は岩本らを「送り狼」と呼んでいました。

このことが、先述のように同僚が、「戦闘が終わって帰ろうとしている敵機を狙う」と評されることにつながったのです。

このように、攻撃を終えて帰還中の敵を攻撃する「敵側の味方攻撃への直接的阻止」に目的を置かない「送り狼戦法」について岩本は、「我々の今やっている戦法は長い間の実戦の経験から体得されたもので、今来たばかりの部隊にはとうてい理解できないところがあった」と後年述べています。

岩本は、空中戦では常に一番に敵を発見していましたが、実際には視力検査をすると彼の視力は日本海軍パイロットとしては良い方ではなかったといいます。

敵機の索敵方法について教えを請われると「敵機は目でみるんじゃありゃせん、感じるもんです」と言いつつ、同僚や部下たちには戦場の経験から敵編隊群の進攻方向を想定し、プロペラが太陽の光を反射する輝きを察知してゆく彼独自の索敵方法を教えてくれたそうです。

また、会敵までの敵距離の予測を、米軍機の機上電話(短波無線)を傍受しその強弱によって、敵との遠近を推測する彼独自の電子戦を実施していました。

さらに、岩本らのラバウル航空隊では、敵爆撃機の編隊に対して1000~2000m上空から敵の進行方向と正対する様に飛行し、緩降下して敵編隊長機との直線距離が3~500m程度になった時に背面飛行に入り射撃角度を調整しながら急降下するという戦法をよくとっていました。

そして敵機との距離が150m以内に近づいた時に20mm機関砲と7.7mm機銃を直上から爆撃機の操縦席を狙って1~2秒の間に発射し高速で下方向に離脱、再度上昇して反復攻撃するのです。

岩本らはこの戦法を繰り返してB-24撃墜の戦果をあげていたといい、大きな相手に対してはかなり効果的な攻撃方法だったようです。後に岩本は大隈半島上空でこの攻撃法によりB-29を一撃で撃墜したこともあるといいます。

この戦法のメリットは、敵編隊は自機の機速と敵の機動により照準がつけにくく、自機へ向けられる機銃の数が制限される点ですが、デメリットとしては高度な飛行テクニックと計算力、射撃能力が要求されることです。

岩本は「この攻撃方法は1秒でも時間を誤れば失敗するが操作時期さえ良ければ十中八九成功するが、若い搭乗員にはそんな難しい攻撃法はとても無理である」と述べています。

1944年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を固めるため岩本の所属する部隊はラバウルより撤収しトラック島に移動し、ここでの防空戦に従事するようになりました。ところがそれ以来部隊はほとんど機材も人員も補充を受けることが出来ず、遂に飛行可能機が搭乗員の1/3となるまでになりました。

1944年6月、機材を自力で補充するべく岩本ら空輸要員4名は、内地に帰還します。当然機材受領後にトラック島に復帰する予定でしたが、帰還直後に米軍のサイパン侵攻が始まり、戻るための主要空路が遮断されてしまいます。

このため復帰は取り止めとなり、岩本はしばらく木更津空にとどまったあと、8月、柴田武雄司令の岩国三三二空に異動となりました。この時期までに飛行時間は8,000時間を超え、離着陸回数 13,400 回を超えていたといいます。

内地では各航空隊を転々としつつ、教官兼指揮官として勤務しました。戦争は既に末期であり、日本軍が敗退を重ねる戦況でしたが、そんな中にあっても岩本は戦果を重ねていきました。そうした実績も上層部は見逃しておらず、1944年(昭和19年)11月に台湾沖航空戦・フィリピン戦から戻ったとき、岩本は少尉に任官されました。

1945年(昭和20年)6月ころまでは岩国で教育任務を果たすことも比較的多くなった岩本でしたが、この時期になってもなお激戦地での前線での戦闘にも多数参加していました。

先述のように台湾沖航空戦、フィリピン戦にも参加し、帰国後の1945年2月16日の関東地区の米軍来襲においてもこれを迎撃して、戦争末期の日本軍の空戦としては珍しいといわれるような勝利を得ています。

さらには沖縄戦開始の米軍上陸地点を最初に確認した夜間単機強行偵察まで行い、4月~6月半ばまで数次にわたる特攻作戦の直掩もし、4月7日の戦艦「大和」の特攻作戦の時にも出撃しました。その後も鹿児島の鹿屋基地上空でのB-29編隊単機撃墜など何度か死線を越えて引き続き戦果を挙げ続けていました。

沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察では、岩本が単機で慶良間諸島で上陸作業中の米軍艦艇を銃撃し、大損害を与えたこともありました。日本軍守備隊があっけなく撃破され、島民が自決を選ぶ最中、勇敢な日本の飛行機がたった1機で米軍に挑む姿が多数の住民に目撃されており、今なおそのときの記憶を留めている人も多いといいます。

太平洋戦争末期には、いろんな形で特攻攻撃が行われるようになりましたが、岩本はこれに対して「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。神ならぬ身、生きる道あってこそ兵の士気は上がる。表向きは作ったような元気を装っているが、影では泣いている。」と批判していました。

特攻隊員募集の調査があり、賛否の意思表示を書類に記入するよう上官に命じられた際「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落としていくのが任務じゃないか。一度きりの体当たりで死んでたまるか。俺は否だ」との自論を展開し、相手を詰ったといいます。

それでも特攻を推進しようとする上官には「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです」と激しく詰め寄ったといい、後年岩本は「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」と回想しています。

しかし軍隊では命令は至上のものであり、全軍的な特攻への流れにも抗する術もありませんでした。心に湧き上がる怒りを抑えつつ、やむをえず自身も教官として補充搭乗員の教育指導にあたりましたが、彼の指導を受けた者のうち多くが特攻配備となってその若い命を散らしていきました。

その部下たちのその後の死出の活躍を伝え聞き、「短期訓練で、あれだけ困難な任務をよくもやりとげたもものだと、強い感銘を受けた」と語っており、また別の回想録では、近接護衛戦闘機として数十機の特攻機の突入を目の当たりにし、数刻前まで共に存在していた部下たちが消えてしまったことについて次のように書いています。

「髪の毛が逆立つ思いであった。せめて彼らの最後と、その戦果を詳細に見届けておこうと、私は何時までも上空を旋回していた」

さらに戦争末期に自分が訓練を施した搭乗員が次々と散っていったことに対しては、「訓練しては前線に送り、一作戦で全滅させて、またもや訓練の繰り返しである。実戦に役立つ戦力に達するには程遠い。しかし、前線では搭乗員が不足しているのだ」と教官としての葛藤も述べています。

岩本の容貌ですが、このころに指導を受けたある後輩の印象では、目つきが鋭くて眉も太い精悍な顔つきだったそうで、なるほどあれが撃墜数150機の撃墜王だと感じたといいます。強い殺気を感じさせるものがあり、さながら昔の剣客といった印象を持つものも多かったようです。

一方で、日ごろは物静かで、その小柄の体でやさしい風貌の岩本少尉には、どこにそのような力があるのだろうかと感じた、と述懐する人も多くいます。

部下や訓練生、整備兵たちにも信頼され愛された人間でした。予科練出身の若年搭乗員の回想録には「優しい人柄で決して乱暴はせず、むしろそれほどエライ方といった印象は受けなかった」と記述されています。

また、上官からも高い評判を得ていました。

ある上官の中尉の編隊が場外飛行に向かう途中、天候不良で岩国に引き返してきたとき、岩本はこの中尉に「無理をしてはいけないですよ。よく引き返しましたね」とその判断を褒め、褒められた中尉は「あの恐ろしいと思っていた岩本少尉が褒めてくれたのは、何よりも嬉しいことであった」と感じたといいます。

岩本は、常軌を逸した命令に対してはたとえ上官であっても決然と筋を通そうとし、時々上官とも衝突を起しましたが、岩本を理解する上官たちからは強い信頼を寄せられ、前線の戦闘員として以上に後方の教育任務に就くことが望まれていたといいます。

「普段は、見たところ田舎のじいさんのような格好をしていましたが、一旦空に飛び上がれば、向かうところ敵なしでたいてい撃墜して帰ってきました。彼の放った射弾は垂直降下中でも、どの方向からでも敵機に吸い込まれていきました」という証言もあります。

しかし被弾して帰ってくることも多かったといい、あるときは、機体じゅうに被弾しても帰還し、同僚から「よく墜ちなかったなあ」と感嘆されたといいます。

岩本は、救命胴衣の背面には通常は所属部隊と姓名官職を書くところに「零戦虎徹」と書いていたそうで、この「虎徹」とは、新選組局長・近藤勇の佩刀の作者として有名な刀工長曾彌虎徹興里になぞらえたものです。

「天下の浪人」など大書していたといい、この「天下の浪人虎徹」の文字はよく目立ち、名前を聞かずとも岩本少尉であるとすぐわかったといいます。

終戦直前、岩本はB-29への空対空特攻を主任務とする「天雷特別攻撃隊」教官として岩国におり、ここで終戦を迎えました。

しかし天皇による玉音放送を聞いたあとは、喪失感のあまり3日ほど抜け殻のようになっていたそうです。終戦から数日後、搭乗員解散命令で、写真など全部の所持品を焼いて、ウイスキー1本を軍用自転車に積んで、岩国から益田まで帰郷しました。

終戦後の9月5日、海軍中尉に昇任しましたが、官位が上がったこともあり、戦後は東京のGHQに2度呼び出されラバウルなどの戦闘の様子について尋問されました。戦犯にこそ問われることはありませんでしたが、公職追放の身分となりました。

その後、北海道の開拓にあたる日本開拓公社に入社し、昭和22年2月11日、同郷の幸子夫人と見合い結婚することになります。しかし、結婚後わずか3日後には、北海道の開拓に単身出発したといい、しかしながら1年半で心臓を病み帰郷。このとき夫人と再会した岩本は、夫人の顔を忘れていたかのようであったと知人が語っています。

その後の生活は不遇であり、空の生活から地上の生活になじめず、また軍隊気分も抜けず、戦後の世相への適応も簡単ではありませんでした。そしてありがちなことですが、次第に心のはけ口をアルコールへ依存していきました。

しかし、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせることも多かったといい、隣家で結核患者が病死した際、感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況をみかねて、岩本は鼻の穴に綿をつめて一人淡々と遺体を葬った、との逸話が残っています。

その後は、益田土木事務所をはじめ、畑仕事、鶏の飼育、駅前の菓子問屋などの職を転々と変わりました。2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、子供のおもちゃは自分で作っていたそうです。

トタン、ブリキを買ってきては、おもちゃの自動車を作って色を塗り、このほかにも時計、電蓄、バイクなどもよく自分で修理しました。自動車でさえ近所のポンコツ屋から入手して修理し、これも立派に動きだすので夫人に感心されていたといいます。

1952年(昭和27年)、GHQ統治支配が終わり益田大和紡績会社に職を得てようやく落ち着きましたが、1953年(昭和28年)、盲腸炎を腸炎と誤診され腹部を大手術すること3回、さらに入院中に戦傷を受けた背中が痛みだし、4~5回の手術を受けました。

手術機材がそろわない時代のことでもあり、麻酔をかけずに脇の下を30cmくらい切開して肋骨を2本取り出したこともあったそうです。

その最後は、敗血症により、原発の病名も不明のまま1955年(昭和30年)5月12日、7歳と5歳の男の子を残して逝去。享年38という若さでした。病床にあっても「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と語っていたといいます。

戦後20年を経て、彼自身の詳細な回想録が世に出るに至り、その戦歴が明らかにされるようになりました。岩本の次男はその後航空自衛隊に入隊しました。

彼の死後、上官だったひとりは「岩本は、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男でした」と語っています。

幸子夫人は、未公開の回想録を後世に伝えた功労者の一人です。先述のとおり、彼がラバウルで活躍していた頃は郷里の女学生であり、日本海軍のエースパイロットとして報道映画を見たのが彼を見た最初のときのことでした。

戦後山陰の郷里にもどった彼と平凡な見合い結婚で結婚し、生き残って苦しい生活の続いた彼を助けましたが、その彼は不運にも早世してしまいました。このため海軍時代を詳細に記した大学ノート3冊の回想録は日の目をみることなく死後10数年間夫人の下に保管されたままになっていたといいます。

その後、ある出版社の人間がこの遺稿の存在を知り、原文を極力尊重して書き写し、戦史研究家にも監修協力してもらって、これは「零戦撃墜王」と題して出版されました。単行本の出版に際し、戦記画家の高荷義之が挿画・装丁図を描き、彼は新装本ではさらに零戦の武装系統図と動作解説を追加し、全面的にその改定に協力したそうです。

幸子夫人もみた、「南海決戦場」という映画は現在も残されているそうです。

1944年1月に撮影されたラバウル基地上空の戦闘を中心にしたフィルムで、岩本の姿が大写しで撮影収録されており、彼自身もこの映画をみたことがあるそうで、彼の回想記には、最後に自分が一人、スクリーンいっぱいに大写しになっているのにはびっくりした、と記述されています。

幸子夫人のほうの回想記には、当時はのちに結婚するとも知らぬまま、彼がラバウル出陣していた頃に益田小学校の屋内体操場で「益田の岩本さん」のニュースが上映されたので大勢で見に行ったと書かれています。そのとき、指揮所の上官に向かって戦果を報告する岩本を見て強い印象を持ったようです。

この映画ではその後半で、白い半そで服、半ズボン夏服姿といういでたちで、難しい顔した部隊の長官らしい人物や他の上級士官たちが、帰りの遅れている搭乗員たちを心配し指揮所の前に出てきて待ち、指揮所前の階段わき、指揮所建物向かって下手側に立てかけた大きな黒板に戦闘報告記入しているシーンもありました。

その次のシーンでは、カボック(綿を中に詰め、ミシンで縫い合わせた救命胴衣)と落下傘バンドを外し、搭乗員帽をかぶったまま搭乗員服に身をつつんだ小柄な空中指揮官である岩本が、中腰で黒板に白墨で書いている斜め後ろ姿が映し出されています。

横書き文字筆跡は、クセや固さ崩しのない整った横書き楷書、当日ラバウル東飛行場零戦隊の全体集計した戦果報告をそのまま最後まで書きつづけ、撃墜計69、被害・被弾8、全機帰着。そして、その最後の「全機帰着」の行に、嬉しく誇らしい勢いある動作でアンダーラインを2本書き込む姿が収録されていました。

このニュースフィルムからは多くの出版社によってスチール写真が取られ、ラバウル戦闘中の零戦関連の写真として焼き増しされ、多くの出版物に掲載されました。

これらのフィルムから焼きだされた写真に写っていた零戦の尾翼機番の部隊マークは、そのすべてが、岩本が所属していた204海軍航空隊の識別番号、「9」で始まっていたそうです……