電流戦争

またまた大型の台風がやってくるようで、今年の秋は短く終わるのかな~とカレンダーをみたところ、まだまだ10月下旬です。

本格的な紅葉の始まる前であり、今度の台風が過ぎ去ってから本番の秋がやってくるはずです。今少し我慢してこの悪天候を見過ごすこととしましょう。

さて、今日は、日本電気協会・日本電球工業会などが定めた「あかりの日」だそうです。

1879年(明治12年)のこの日、エジソンが日本・京都産の竹を使って白熱電球を完成させたのにちなんでおり、このエジソンが白熱電球に使った京都産の竹というのは、京都男山の石清水八幡宮の竹だそうで、この神社の境内には彼の功績を称えた記念碑があります。

電球工業会では「あかりのありがたみを認識する日」と言っているようです。

確かに、今灯りが無くなったら困ることも多いでしょう。夜には何もできなくなりますし、とくに冬場は日が短いので極端に活動時間が減ります。それだけ経済活動も縮小されるということになりますが、逆に子宝に恵まれる家庭が増え、少子化に歯止めがかかるかもしれませんが……

しかし、白熱電球の発明者は実はエジソンではない、ということは意外に知られていません。ご存知だったでしょうか。

実際に白熱電球を発明したのはジョゼフ・スワンという人物で、エジソン自身もフィラメントに京都の竹を使うことで電球の寿命を長くした実績だけを主張していたそうです。

つまり、エジソンはこのスワンの発明した電球を改良しただけということになります。ただ、エジソンにはこの電球に電気を送りこむための送電システムについての大きな功績があり、従って、エジソンは電球を発明したというよりも、電球を改良して「電灯の事業化を成功させた人」として歴史に刻まれるべきでしょう。

電球の発明

この電球を発明した、スワンは、正確には、サー・ジョゼフ・ウィルスン・スワン(Sir Joseph Wilson Swan)といいます。イングランドの物理学者、化学者であり、エジソンが日本の竹を使った電球を開発した1879年よりも30年以上も前の1848年ごろには既に白熱電球の実験に取り組んでいたそうです。

彼の発明した電球は、減圧したガラス球の中に炭化した紙製のフィラメントを入れるというコンセプトでした。1860年にその試作品を実際に発光させることに成功し、この電球はまだ不完全真空でしたが、この炭素フィラメント・白熱電球の特許はイギリスにおいて認められました。

しかし、彼の電球は、充分な真空度がなく、またこのころはまだ一般家庭に対して電力供給が得られなかったことから、小型化と長寿命化、そして実用化はまだ果たせないでいました。

その後、スワンはこの研究から離れていたようですが、15年後の1875年、スワンはより優れた真空技術を手に入れるとともに木綿糸を苛性ソーダで処理したのち炭化させた新型の炭素フィラメントを作成することに成功します。そして、改めてこれを電球に使う研究を再開しました。

このとき、彼はほぼ真空である球内に微量の酸素を残留させることでフィラメントは燃えることなく定常的に白熱し、発光することを発見しました。これによって、これまで懸念であった耐久性(点灯時間)についても飛躍的な性能向上が実現し、1878年12月にはその寿命を40時間にまで伸ばすことに成功しています。

しかし、40時間というのは、これでもまだ実用上はかなり短い寿命であり、しかもスワンのフィラメントは電気抵抗が小さいものだったため、これに対応して電流を小さくするために電力の供給には太い銅線を必要とするというような短所もありました。

しかし、それまではオイルランプが主流であったヨーロッパにおいてはこの発明は画期的なものといえ、スワンがこの電球に関する特許を申請した結果、これは1878年にイギリスで新型電球として再度認可されました。トーマス・エジソンの電球がアメリカにおいて特許認可を受ける一年前のことです。

その翌年の1879年、まだフィラメントの耐久性などに問題はあったものの、スワンはイギリスの一般家庭への電球の導入を検討し始め、その事始めにと歴史的建造物などに電球を試用しました。

また、このころから一部家庭への電気の送電が始まり、イギリスの北東部、ゲイツヘッドのロウ・フェルという場所にあった彼の家にも電気が供給されるようになったため、彼の家は電球が灯った世界最初の一般家庭となりました。

その後彼は、エジソンの改良した竹によるフィラメントのアイデアなども導入し、1881年に彼は「スワン電灯会社」(The Swan Electric Light Company)を創立し、商業的に電球の生産を開始します。

これにエジソンも賛同し、1883 年、二人は合弁でイギリスにエジソン&スワン連合電灯会社(the Edison & Swan United Electric Light Company)を設立しました。

略して「エジスワン」(”Ediswan”)と通称されたこの会社は、エジソンが改良した竹炭にさらに改良を加えて開発した「セルロース製フィラメント」を主力とした電球の販売を本格化させました。

このセルロース製フィラメントは、事実上業界における標準となりましたが、その一方でエジソンは自分が開発した竹製のフィラメントにこだわり続け、自前会社の「エジソン社
(在アメリカ)」は竹製フィラメントによる電球を販売し続けました。

しかしやがてセルロース電球の優位性に兜を脱ぎ、その後エジソン社が1892年にゼネラル・エレクトリック社に吸収されて以降は、完全にセルロースを用いた電球販売に転向しています。セルロースはその後タングステンの発見によりこれに取って代わられ、現在に至っています。

ちなみに、この電球を実用化したスワンは、写真術の研究者としても有名です。このころの写真は湿板写真が主流であり、スワンもまたその研究に取り組んでいましたが、ある日スワンは湿板写真に用いる臭化銀感光剤の感光度が熱によって増進することに気付ましたきました。

こうして1871年までには湿板の乾燥化法を考案し、これが、現在も使われている印画紙となり、写真術の世界に革新をもたらしました。この8年後、彼はこの印画紙の発明によっても特許を取得しています。

戦争の勃発

さて、こうして電球の開発はエジソンとスワンという二人の天才によって実用化の端尾を切り、現代に至るまで人類は暗い夜を照らす灯りに恵まれるようになりました。

その後、エジソンはトースターや電気アイロンなどの数々の電気製品を発明し、自分が設立した研究所で電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離装置などを矢継ぎ早に商品化していきました。

しかし、白熱電球にはとくに思い入れがあったようで、彼は白熱電球の名称をゾロアスター教の光と英知の神、アフラ・マズダーから引用し、「マズダ」とも名付けています。

こうして数々の電化製品を開発したエジソンでしたが、その販売拡大のためには、一般家庭への電気の送電の普及化が最重要課題であることを理解していました。このため、電球などの実用化と並行して電力を供給するシステムを確立し、これをこの時代の標準とする運動なども始めていました。

ところが、エジソンが構築した配電システムは、直流でした。ご存知のとおり、我々が現在一般家庭で使っている電力のほとんどは交流による配電システムによって供給されています。

これはなぜかというと、エジソンが提案した直流による送電システムと、交流による送電システムを提案した人物たちの間に熾烈な競争があり、エジソン側がこれに敗れたためです。

1880年代後半の電力事業の黎明期に起こったこの争いは、電流戦争(War of Currents)と呼ばれています。

このエジソンの直流による配電システムに対して、交流による配電システムを主張したのは、ジョージ・ウェスティングハウスとニコラ・テスラという二人でした。

ウェスティングハウスは、アメリカの機械工場所有者の息子として生まれ、鉄道関連の機械技術に関してその才能を発揮した人物として知られており、彼の最初の発明、ロータリースチームエンジンを作成したのは、彼がまだ19歳の時でした。

その後も鉄道車両用の空気ブレーキ等を発明し、1872年には、発明品を製造・販売するため、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ・カンパニー(Westinghouse Air Brake Company)を設立しました。

まもなく彼の発明はほとんどの鉄道車両で採用されるようになり、その後もオイルランプを用いていた鉄道信号機の改善を追求し、1881年に彼の信号システムに関する発明品を製造するためにユニオン・スイッチ・アンド・シグナルを設立しています。

一方、ウェスティングハウスはガスの供給や電話の回線交換へも関心を持っており、そこから必然的に電力供給システムへの関心を持つに至りました。彼はこのころエジソンが提唱していた直流による送電システムを検討し、直流ではこれを大規模な送電システムとして発展させていくにはあまりにも非効率である、と結論付けます。

ちょうどこのころ、オーストリア出身で1884年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用された技師がおり、これがニコラ・テスラでした。

このテスラは後年、ラジオやラジコン、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明を行い、また無線送電システムを提唱したことでも知られ、磁束密度の単位「テスラ」としてその名を歴史に残すようになった人物です。

1856年にオーストリア帝国(現在のクロアチア西部)でセルビア人の両親のもとに生まれました。父はセルビア正教会司祭で、姉が2人と兄、妹が1人ずついましたが、この兄が12歳で事故で亡くなった5歳の頃から幻覚を頻繁に見るようになったとされています。

亡くなった兄が彼の守護霊として彼に付くようになったためかもしれず、その後の彼の天才ぶりはこの兄の助けによるものかもしれません。

この兄は「テスラ以上の神童」と呼ばれていたそうで、テスラはこの兄を上回るために勉学に励み、特に数学において突出した才能を発揮しました。そして23歳のとき、オーストリア中部グラーツという小さな町のポリテクニック・スクールに在学中に、その後生涯に渡って関わることになる交流の電磁誘導の原理を発見します。

その後プラハ大学を卒業したのち、エジソン社のフランス法人に勤められて渡米。エジソンのもとで働くようになりました。テスラがエジソン電灯に入社した当時、エジソンは既に研究者・発明家として実績を積み重ねた有名人であり、テスラはエジソンに対して憧れや敬意を持って就職したものと考えられています。

このエジソン社に入社したばかりの新人のテスラをエジソンも高く評価していたようですが、技術的には自分のほうが上という奢りがあったのか、エジソンは彼好みの直流用に設計されたシステムをテスラの交流電源で動かすことが出来たなら、褒賞金として5万ドルを払うと彼に提案しました。

直流の優位性・安全性また交流の難しさなどを考慮したうえでの発言だったといわれていますが、ところがテスラはこの難題に挑戦してみごとこれをクリアし、交流の効率の良さを見せつけました。

ところが、交流の優位性を認めたくないエジソンはこの褒賞の件を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒し、その後退社することになります。

こうしてエジソンの元を去ったテスラが、交流による送電システムの検討をしていたジョージ・ウェスティングハウスと知り合ったのは1880年代後半のことであり、必然のように二人は手を組むようになり、トーマス・エジソンと敵対するようになります。

この争いは無論、次世代の送電システムに関して、エジソンが直流送電(DC)を提案したのに対して、ウエスティングハウスとニコラ・テスラが交流送電(AC)を主張したために始まったものです。

このころアメリカ合衆国においては、電力事業の創世時代における送電システムは、エジソンの直流送電が標準方式と目されていました。直流は、このころ発明されていたモーターと同様に白熱灯にも適した送電方式であると考えられ、直流の普及こそが電力需要を押し上げると考えられていたためです。

また、直流送電が主流であり続ければ、これに関しての特許を持つエジソンはこのシステムを電力会社が使うことから得られる莫大な特許使用料を手に入れることができました。このため、彼は直流送電システムへのテコ入れをとりやめるつもりはありませんでした。

しかし、一方のテスラは自身の回転磁界の研究から交流電力の発電、送電、使用のシステムの優位性を確信し、これを商業化するためにジョージ・ウェスティングハウスと契約を結んだのです。

交流送電は、テスラが持っていたようなかなり高度な数学的物理学な知識がなければ、理解し開発することができなかったといわれています。冷静に考えれば、こうした確固たる科学技術に裏付けされた交流システムとの勝負の行方は見切れたでしょうが、残念なことにエジソンは数学物理の専門家とはいえませんでした。

完全無欠な実験科学者であり、大変な努力家でしたが、小学校しか出ておらず、こうした高度な知識を持ったテスラに対しても反感を持っていたと思われ、しかもこのころ電球の実用化によって成功を積んで天狗になっていたエジソンには、実績もない彼等に負けることは許されませんでした。

一方のテスラと手を組むようになったウエスティングハウスは、これ以前からもテスラの業績を評価しており、このため彼の多相システムの特許権を買うとともに、フランスの発明家であるルシアン・ゴーラールらからもAC変圧器のための特許権を買い、これらの技術を用いた交流送電システムをもってエジソンに対抗する準備を着々と進めました。

交流の最大の利点は、変圧器を用いた電圧の変換が容易であることにあります。電線自体の抵抗によって送電する電流の減衰はやむを得ない事ですがが、交流の場合、電圧をより高くすれば減衰は低く抑えられるため、効率良い送電ができます。

このため発電所からの送電を高電圧で行えば遠くへ送電しやすく、家庭で使うときには配電する直前に使用しやすい電圧にまで下げるということが可能となります。

また直流が必須である電気器具を使用する場合も、交流から直流への変換は容易です。ところが、逆に直流から交流への変換は困難であり、こうした点からも一般家庭で電気を送る場合のシステムとしては交流のほうが直流よりも有利であることは明白でした。

一方のエジソンの直流送電システムはまた、発電所と重い配電線、そしてそれらから電気を取り出す消費者の家電製品、例えば照明とモーターなどで構成されていました。

このシステムは全体を通じて同じ電圧で作動します。例えば100Vの電球が消費者の場所に接続されていたとすると、発電機は発電所から消費地までの送電線の抵抗による電圧降下を考慮して、若干高めの110Vで発電を行います。

仮に発電所に近い場所の家庭で110Vに近い電圧がかかっても、この程度の電圧差は電球などの持つ性能で相殺できる程度のものであり、この当時は大きな問題ではないとされていました。

しかし、直流の伝送システムの場合は三線式の配線が必要でした。このシステムでは、三本の線はそれぞれ+110V、0V、-110Vの電圧がかけられています。

そして、例えば100Vの電球を試用する場合、この+110Vの線と0Vの線の間、または0Vと-110Vの線の間のいずれかに電球が接続され、0Vの線(「中性線」)には、+線と-線の電流差分だけが流れるしくみになっていました。

この三線式システムは、送電圧が100V程度と交流に比べるとかなり低い値に留められたにもかかわらず、比較的高い効率を出すことができました。

しかし、電流を流す電線、つまり導体の抵抗による電圧降下はかなり大きく、このため発電所と消費地(一般家庭)との距離はせいぜい1.6km程度にとどめるか、あるいは電圧低下を防ぐために高価な銅線を試用した極太の電線を使用する必要がありました。

一方の交流送電の最大の長所は、前術のとおり、変圧器によって容易に電圧を変えられることです。電力は電圧と電流の積によってあらわされ、電圧V、電流I、電力Pとすると、P=VIの関係が成立します。

これが意味するところは、高い電圧を送電線で送れば、同じ電力を送るときでも電線に流す電流を相対的に低い値で抑えることができるということです。

また、電流を電線に流すとき、金属電線には電気抵抗があるので、送電時に一部の電力は熱として失われます。しかし、変圧器で高い電圧に変えてから送電すれば、この電流を相対的に減らすことができ、この送電損失を減らすことができます。

こうした送電損失を式で表すと、送電線の電気抵抗Rとして、送電損失はP’=R・I2(二乗)となります。すなわち、電圧を10倍にあげてやれば、電流I=P/Vは10分の1となり、この計算式によればこのときの損失は、電流に比例してその二乗分の100分の1にまで減らすことができることになります。

しかし、このために送電線には高圧の電流が流れることになり、大変危険です。ただ、これを人が近づけないような高所に設けるなどして隔離できれば、安全にかなり遠くまで電力を送ることができます。

現在も送電線は人の手の届かないような高架に吊り下げられて取り付けられていますが、今日では、ここでの交流送電のために100万ボルト級もの高電圧の電流が流せるようになっています。

こうした現在では中学校あたりでも教えているような理論も、小学校しか出ていないエジソンには理解できなかったようです。一説によればエジソンは微分積分などの高等数学の知識もなかったといわれており、両者の確執もまたこのエジソンの無知(といえるかどうか)から出たものともいわれています。

が、無論学力の差うんぬんはともかく、近代的な送電システムとしては、この当時としては交流のほうが直流よりもすぐれていたことがこれらのことからもわかります。そしてエジソンは必然的にこの争いに敗れていくことになります。

エジソンの妨害活動

やがてエジソンはこうしたウェスティングハウスとテスラによる交流による伝送システムの提唱に対して、妨害のための激しい宣伝工作を行うようになっていきました。

人々に交流の危険性を印象付けるため、個人的に動物を交流電気によって処分する実験まではじめ、その犠牲者ははじめは野良犬や野良猫でしたが、最終的には象にまで及んでいます。

ニューヨーク市のブルックリン地区にコニーアイランドという半島がありますが、ここの遊園地の象のトプシーは、飼育員を殺すなどしたことから薬殺処分されることが決まっていました。

ところが、エジソン側は交流電流の危険を訴えるために公開の場でこの象を電気ショックで殺すことを提案しました。そして遊園地側はこの提案を受け、こうして哀れなトプシーは、交流電気のショックで殺処分されることとなり、彼がわずか数秒で殺される場面を収めた映画は、エジソンの手によって全米で公開され話題を集めます。

これに対して、テスラ側も黙っておらず、逆に人体に交流電気を流しても安全であることを示すショーを行い、これを新聞に報道させることなどによりその安全性を主張しました。

しかし、エジソンの攻撃はエスカレートする一方であり、新聞などを使って「処刑される」ことを「ウェスティングハウスされる」と呼ぶように働きかけをするなどさらにその攻撃はエスカレートしていきます。

また、エジソンは死刑制度には反対派だったといわれていますが、このころ発明された電気椅子が交流電源を用いていたことから、このことを世間に知らしめることによって交流が非難されるよう仕向けるようになります。

そして、このころ電気椅子を発明したハロルド・P・ブラウン(Harold Pitney Brown)という男を使って、交流はより致命的であるという考えを普及させようとたくらみます。

あるとき、交流電流で感電死した若い技術者の事故死の記事をブラウンがニューヨークポストに書いたのがトーマス・エジソンの目に留まり、感電死の研究ならびに電気椅子の開発の為にわざわざ彼を雇うことにしたのです。

やがてブラウンはこのエジソンの意向を受け、交流電流の危険性をアピールするためにニュージャージー州の研究所で様々な感電ショーを開催しはじめました。

犬や猫から豚や牛などの大型獣の殺処分を交流により行い、先述の「トプシー感電死」も彼が企画したものであり、電気+処刑(Electric+execution)で感電死(Electrocution)という造語を作ったのも彼だといわれています。

このころ、ニューヨーク州は、絞首刑に代る新しい、より人道的な死刑執行システムを模索しており、1886年、これを検討するための委員会を設立しました。エジソンらはここにも電気椅子を売り込み、この電気椅子は1889年にニューヨーク市に正式に採用されました。

こうして、ブラウンの感電ショーは最終的に人間で行われることにまで発展しました。

最初の電気椅子は1890年に使用されるところとなり、その最初の処刑は、州の電気技師のエドウィン・デーヴィスの管理によって一般公開で実施されることになりました。このとき、「被験者」である死刑囚ウィリアム・ケムラーへの最初の死刑執行では必要な電圧が足りず、最初の電撃では処刑ができませんでした。

ケムラーの体からは煙のようなものが上がったものの重傷を負わせただけで死にきれず、電撃を繰り返さねばならなかったといい、このとき公開処刑場には肉が焼ける臭いが充満したといいます。この公開処刑を取材していたリポーターは「恐ろしい光景だ。絞首刑よりはるかに悪い」と書き残しています。

この事実を知ったジョージ・ウェスティングハウスは、のちに新聞記者の取材を受けたときに次のようにコメントしたと伝えられています。「彼らは斧を使うべきだった」……

ナイアガラの滝

さて、こうして両陣営化に激しい電流戦争が生じていたこのころのアメリカは、エジソンらが世に送り出した電球やその他の電気製品の普及により、次第に莫大な電力が必要になってきていました。

このため、政府お抱えの専門家たちは、とくに東部に集中する電力需要の上昇に対して、このエネルギー問題の解決手段としてナイアガラの滝を利用して発電することを提案しました。

このころ、エジソンは現在までも続くゼネラル・エレクトリック社を既に設立しており、彼はこのナイアガラ発電所からの送電システムにおいてもこの会社を配給会社として直流電流を送ることの提案をし始め、これに対して、テスラ側もまたACシステムの採用を提案してきました。

ナイアガラの滝は、カナダとの国境にあります。このため、このナイアガラ発電所からのこの送電システムの論争については、両国による国際的なナイアガラフォールズ委員会が結論を下すことになりました。

この委員会は電磁気学や流体力学の権威でイギリスの著名な物理学者ケルヴィン卿によってリードされ、アメリカの五大財閥のひとつ、J・P・モルガンや、かの有名なロスチャイルド家のロートシルト卿のような企業家に支持されたた委員会でした。

その結果として、委員会はテスラ側の交流式を正式採用しました。こうしてナイアガラフォールズ発電プロジェクトは1893年に始まり、テスラらの技術は滝からの電力を生成する過程においても適用されるようになり、また送電ステムにおいても交流が採用されることになりました。

しかし、実際に発電所が完成し、設備が完成するのにはその後5年もの年月がかかりました。

この間、このシステムが米東部のとくにバッファローなどの工業の電力需要をまかなうことができるか否かについては、エジソンを含めて疑問を呈する者が多数でましたが、テスラは発電所がうまく機能することを確信しており、ナイアガラの滝は東海岸のすべての電力需要をまかなうことができると発言しました。

1896年11月16日、ついにナイアガラの滝のE・D・アダムズ発電所(Edward Dean Adams Station)に設置された水力発電機からバッファローの工業地帯への送電が始まりました。水力発電機はテスラの特許を用いてウェスティングハウス・エレクトリックが作成したもので、発電機の銘板にはテスラの名前が刻まれていました。

ただ、このとき、テスラは北アメリカの電源周波数の標準として60ヘルツを設定しましたが、このナイアガラの最初の発電所は25ヘルツであり、この発電所はその後も長い間25ヘルツで発電されることになりました。が、それ以外ではテスラらの技術力が全面的に米政府に認められた形となり、このときエジソンらの敗退が決定づけられました。

戦争の末

その後交流による配電システムは、全米の発電および送電において直流から主役の座を交替させることになっていきました。これは交流の特性を生かした送電範囲の大幅な拡大と、送電における安全性と効率の向上によるものにほかなりません。

エジソンの直流を用いた低電圧送電システムは、最終的にはテスラの多相システムに敗れることになりましたが、エジソン傘下のゼネラル・エレクトリックの中にも交流を支持する者が出てくるようになり、その一人、チャールズ・プロテウス・スタインメッツという技師が提案した交流用機器が政府に採用されるといったようなことも起きました。

こうしてテスラらによるナイアガラの滝の発電所の成功は、その後アメリカという国が、国をあげて交流を受け入れる上でのターニングポイントとなりました。その後、最終的には、エジソンのジェネラル・エレクトリック社もまた交流システムに転換し、交流用機器を製作するようになっていきました。

しかし、20世紀に入ってもなおアメリカ以外の世界の幾つかの都市では直流送電網を採用していました。例えばフィンランドのヘルシンキの中心部では1940年代の後半まで直流送電網がありました。そのため都市部の直流送電網のために水銀整流器による整流所で交流を直流に変換していました。

その理由は、直流送電には電線などの送電設備が重厚になるという欠点はありますが、小規模な送電網においては、末端で使われる機器の規模も小さくできるという利点があったためです。

このほか、アメリカでもニューヨーク市の電力会社であるコンソリデーテッド・エジソン社は、20世紀初めまでは主としてエレベータ用として直流を採用した利用者のために直流の供給を続けていました。ただ、2005年1月、コンソリデーテッド・エジソンは、年末までにマンハッタンの残り1600件の顧客への直流送電を停止すると発表し、現在は停止しています。

しかし、現在もなおニューヨーク市の地下鉄は直流で動き続けています。他にも世界中で直流電化のもと稼動している鉄道は数多く、日本でも大都市圏を中心に人口密集地を走る路線で多用されています。

ただし、これらのほとんどは電力会社から直流の電流を直接供給されているのではなく、交流で供給された電流をいったん変電所で直流に整流してから車両に供給されています。

鉄道の電化については、運転密度が過密であるほど直流送電のほうが低コストとなる事情が絡んでいるため、都市近郊路線では、現在でも直流送電が主力であり、これは日本も同じです。

そもそも電気鉄道は、アメリカも日本も直流電源を用いる方式ではじまったものです。しかし市内電車や近距離鉄道には向いていましたが、長距離鉄道には変電所の建設や送電のコスト、電圧降下などの問題があり、このために現在では交流電化のほうが主流になりました。

交流は変圧が容易なため、交流電化方式では架線に特別に高い電圧(10kV以上)をかけ、車上でこれを降圧・整流してモータに供給するため、少ない変電所の増設で50~100kmもの長大区間に同一システムを使って鉄道を敷設することができます。

これに対して、直流では500~3000V程度の電圧で済みますが、太い架線や給電線を使う必要があり、これによる電圧降下を考慮すると変電所間隔は5~10km程度と狭くなり、多数の変電所が必要となります。

このため、直流電化では地上設備側のコストが高くつきますが、一方では車両側では降圧・整流装置などが不要となり、製造コストは交流車両にくらべて低くなります。したがって、運転頻度が高く、編成両数の多い路線に向いた電化方式といえます。

このため、日本でも現在も北陸本線のように、列車本数を増やすため、および他線区からの直通を目的として、交流電化区間の一部をわざわざ直流電化に転換した例さえあります。

また、電圧の高い交流電化に比べて周囲の絶縁物を少なくすることができるので、結果として鉄道を構成する線路周りの建築物等の規模もまた小さくできます。このため、トンネルなどのような重厚な断面区間が多い地下鉄では直流電化のほうが有利になります。このため東京などの地下鉄では直流システムが大多数です。

このほか、非電化であった七尾線をディーゼルから電化するにあたっては、既に交流電化が終わっていた金沢駅が起点とされましたが、従来の小断面トンネルをそのまま利用するため、直流電化が採用されたといった例もあります。

このように、テスラとの電流戦争に破れはしたものの、エジソンの提案した直流による電力伝送システムは現在も我々の生活を支えています。

さて、今日の話もだんだんと長くなってきたので、そろそろ終わりにしましょう。が、最後にもうひとつだけエジソンにまつわるお話をひとつだけ。

京都嵐山の法輪寺というお寺にはエジソンの記念碑があります。この境内には「電電宮」というお宮があり、これは法輪寺の鎮守社のひとつで、電気・電波の祖神として信仰されている神社です。

昭和31年(1956年)、当時の近畿電波監理局長・平林金之助は、今後電波の利用が多くなることから、それまでこの地にあった電電明神を電気電波の祖神として祀り、併せて電気電波関連の研究先覚者や事業者の霊を顕彰すべきであると主唱しました。

これに賛同した関西の電気電波関係者により、法輪寺境内に電気電波関係者の霊を顕彰する記念碑として「電電塔」が建てられました。このとき、この電電塔には電気研究者の代表としてエジソンの銅製の肖像が掲げられることとなり、また電波研究者の代表としてヘルツの銅製の肖像も掲げられました。

昭和44年(1969年)には大阪万博を記念して社殿が再建され、これは正式に電電宮と改称されました。

そしてその後の昭和54年(1979年)には、電電宮護持会という後援組織まで結成され、電電宮・電電塔の維持行われるようになり、この電電宮は今日では、電気・電波だけでなくコンピュータ関係者や電気通信事業者からも信仰を集めるようになっています。

おそらく今日はエジソンにもちなむ「あかりの日」ということで、このお宮さんでは奉納神事が行われているに違いありません。いつもコンピュータにお世話になっている私としては、今すぐにでも手を合わせに行きたいところですが、さすがに距離があることでもあり、西方に手を合わせるだけにしたいと思います。

ちなみにこの法輪寺では、電気自動車およびハイブリッドカーの電気システム安全祈願を受け付けているそうです。

プリウスやフィットにお乗りの貴兄も、一度参拝に参られてはいかがでしょうか。