ソチは何者?

台風一過のあとの昨日は、久々に太陽の光を浴びました。洗濯物もよく乾いて、折り畳んだ衣類に鼻を近づけると、これもまたお日様の良いにおいがします。

一方では気温も低くなり、澄んだ空気の中で庭先に揺れているコスモスを見ると、あぁようやく秋になったな、と実感できます。

それにしても、もう来ないだろうな、台風……

さて、テレビでは連日、日本シリーズを放映していて、これは今年の日本プロ野球の最後のイベントであり、こちらも秋の深まりを感じさせる一幕です。と、同時にフィギア・スケートのグランプリ・シリーズもカナダで開催されていて、男女ともに日本選手の活躍が光ります。

そのフィギア・スケートの中継の中でも、再々アナウンサーさんが、ソチオリンピックの話題を口にしますが、その開催は、来年の2月7日ということで、あともう3か月ちょっとに迫っています。

ロシアのソチという町で開催予定の第22回冬季オリンピックであり、2007年シウダ・デ・グアテマラで開催されたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、オーストリアのザルツブルクと韓国・平昌を破って、ここが開催都市に決定しました。

ロシアでの冬季オリンピックは、ロシア帝国・ソビエト連邦時代も含めて史上初となりますが、夏季オリンピックとしては、1980年にモスクワオリンピックが開催されています。

が、冷戦下において東側諸国の盟主的存在であるソ連で行われたこの大会は、前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、大量の西側諸国の集団ボイコットという事態の中で開催されました。

冷戦でソ連と対立するアメリカ合衆国のカーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱し、この当時はまだ分断国家であった東西ドイツのうちの西ドイツや韓国が同調。無論、アメリカの子分の日本政府もボイコットを決めました。

さらには、この年の前年にIOC加盟が承認されたばかりの中華人民共和国もまた、1960年代以降ソ連と対立関係にあったことからこれをボイコット。

はたまた、アフガニスタンと同様にソ連の軍事的脅威に晒されていたイラン、パキスタンといった諸国、このほかにも反共的立場の強い諸国なども合わせて総計50カ国近くがこのオリンピックのボイコットを決めました。

一方では、西欧・オセアニアの西側諸国の大半、すなわちイギリス、フランス、イタリア、オーストラリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、スペインなどはこの大会に参加しています。

ただし、アメリカと仲良しのイギリスは、政府自体はボイコットを表明しており、この参加は、表向きはオリンピック委員会が独力で選手を派遣したもの、ということになりました。

また、フランス、イタリア、オランダなど7カ国は競技には参加したものの開会式の入場行進には参加せず、イギリス、ポルトガルなどの3ヵ国もまた旗手1人だけの入場行進となるなど、開会式は寂しいものでした。

しかも、これらの参加した西側諸国はおおむね国旗を用いず、優勝時や開会式などのセレモニーでは五輪旗と五輪賛歌が使用されました。これは一応参加はしたものの、国家としてのオリンピック参加ではないことを暗に示そうとしたものです(ただしギリシアだけは国旗を用いていたようです)。

政府が大会ボイコットの方針を固めた日本でも、イギリスと同じく、国家としての参加が無理ならば、ということで、日本オリンピック委員会(JOC)が単独での参加を模索し、多くの選手もまたJOC本部で大会参加を訴えました。が、結局最終的にはそのJOC総会の投票では、29対13で反対多数となり、ボイコットすることが決定づけられました。

このように有力なスポーツ選手を数多く抱える西側諸国の多くがボイコットしたことで、この大会は当然ながら、東側諸国のメダルラッシュとなりました。

キューバを含めた東側諸国の経済協力機構であるコメコン(1949年旧ソ連の提唱によって、西側諸国に対抗して創設された社会主義諸国間の経済相互援助機構)の加盟国全体では全204個の金メダルのうち161個を獲得し、これは実に79%を独占したことになります。

特にソビエトは自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃系に加え、アメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得していきました。

その獲得した金メダル80個は、現在でもロサンゼルスオリンピックでのアメリカの83個に次いで、一つの大会で一国が獲得したメダルの数としては2番目の記録となっています。

また、ソ連と同じく「ステート・アマ」と呼ばれる選手のほとんどを占める東ドイツも、ボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、ソ連に次ぐ47個もの金メダルを獲得しました。

ステート・アマというのは、ソビエト連邦や東ヨーロッパなどのかつての共産主義国で、プロのスポーツ選手としての道を選ばず、国家から報酬・物質的援助・身分保障をされ、競技に専念できる環境を整えられ、これによってアマチュアを貫く道を選んだスポーツ選手を指す言葉です。

東側諸国では「国威高揚」の名の下、有望な選手を各地から発掘し家族の身分を保証する代わりに、幼少期より国家が運営する学校とトレーニングセンターが併設されたスポーツ施設で育て、オリンピックや世界選手権などの国際舞台で優秀な成績を取らせるべく徹底的な管理と養成が行われました。

元卓球世界チャンピオンの荘則棟(そうそくとう)は、卓球の3つの世界大会で連続優勝していますが、1965年にスロベニアのリュブリャナで行われた大会での優勝戦では相手に同じ中国人があたり、このとき上層部からこの対戦相手にわざと負けるよう指令が下ったことなどをほのめかしています。

ステート・アマは国威高揚のために育てられた選手であるがゆえに、自国からの指示があればたとえ自分が負けるような状況をも甘んじて受けざるを得なかったわけであり、このほかにも、この当時中国選手には外国人に手の内を見せないため、彼等とは接触していけないという鉄の規律があり、接した場合にはスパイ扱いされたといいます。

ところが、のちに日本に帰化して日本選手として1996年のアトランタオリンピックと2000年のシドニーオリンピックに出場することになった、小山ちれ(中国名・何智麗)は、1987年の世界卓球選手権ニューデリー大会でこの指令を無視して中国選手同士の試合を制して優勝してしまいました。

このため、この翌年の1988年には、世界ランキング1位であったにもかかわらずソウルオリンピック中国代表から漏れ、このことが原因となって現役を引退。さらにその翌年に日本の池田銀行卓球部のコーチ、小山英之と結婚して来日し、大阪府池田市へ移住しました。

その後に現役へ復帰して夫の指導を受け、1992年10月に日本に帰化して日本国籍を取得し、同年の全日本卓球選手権大会で女子シングルスに初優勝。以来1997年までの6連覇を含む8度の優勝を飾るなどの活躍をしました。

残念ながらアトランタ、シドニーではメダルをとれませんでしたが、両大会とも準々決勝まで進出して大いに日本を沸かせました。ただ、この間、1997年には夫との離婚調停を申し立て、シドニーオリンピック後に成立。

引退後の現在は、池田銀行がその後の合併で名前を変えた池田泉州銀行に残り、同銀行のシンクタンクとして地域貢献活動を行っているそうで、年に数回行われる卓球教室なども指導しているということです。

こうしたステート・アマを育てていた東側諸国では、選手を大事に育てながらもその一方では、練習についていけない選手は文字通り「捨て去り」、またドーピングなどの倫理に反する行為が半ば正当化され、当たり前に行われていたといいます。

旧東ドイツでは女子のステート・アマの顔に髭が生えた事例まであるそうで、これはドーピングによりホルモンのバランスが崩れ、男性ホルモンが分泌されるようになったからです。

またインタビューの際には、自国に不利な発言をしないようにその言動のチェックがされたりすることもしばしばで、国家から肉体・精神面で徹底的な管理を受けることにもなるため、かつて活躍したナディア・コマネチなどのように、個人の自由を求めて西側諸国へ亡命するケースも時々発生しました。

その後、ソ連邦の崩壊やベルリンの壁の除去などによって東欧革命が進み、共産主義圏の解体が進む中、オリンピックのプロ化も進んだことも手伝って、現在ではステート・アマはいなくなり、そのことばさえ、ほとんど死語となっています。

かつての東側諸国で建設された多くのスポーツ施設は閉鎖されるか、国から運営費が支給されなくなったり、減らされたりするようになり、このためかつてのステート・アマの中には施設や報酬の面で恵まれた西側諸国でプレーすることを望み、祖国を捨てて、他国で帰化するものも数多く現れました。

日本でもかつて大相撲に所属していた露鵬・白露山兄弟の父親は、旧ソ連・ロシア連邦のアマチュアレスリングのステート・アマを育成していた教官でしたが、食べるのに困り、息子たちを日本に送り込んだといわれています。

さて、少し話が飛びすぎました。モスクワオリンピックの話でした。

このようにこのオリンピックではステート・アマが活躍する東側諸国に押され、参加した西側諸国はあまりふるいませんでした。しかし、イギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し、100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得するなど、なんとか面目を保ちました。

このモスクワ大会での閉会式で行われたマスゲームでは、アメリカや日本、西ドイツや韓国といった西側諸国がボイコットした事に対して、大会のマスコットであるミーシャの着ぐるみが涙を流すという演出が行われたそうです。

ミーシャというのは熊をモチーフにしたマスコットで、このころ日本ではテレビ朝日系列で開催の前年からこのマスコットを主人公とした「こぐまのミーシャ」というアニメが放映されていので、覚えている人もいるかもしれません。

ちなみに、モスクワ大会では、このテレビ朝日がその独占放映権を獲得していましたが、日本のボイコットが決まったため、中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなりました。

テレビ朝日は、その三年前の1977年の社名変更に続き、大改革の柱と位置付けていたこのときのオリンピック独占中継がこのような結果になったことに起因して、株価が大幅に下がったといいます。また、社員たちも少なくないダメージを負い、この中継の留守番予備軍として大量に採用されていたアナウンサー達の多くが辞めていきました。

このときテレ朝を辞めてフリーとなった人達の中には、古舘伊知郎、南美希子、佐々木正洋などがおり、このほかにも、宮嶋泰子、吉澤一彦、渡辺宜嗣といった、現在でも他局の現場で活躍するメンバーがたくさんいます。

しかしモスクワ大会は、西側諸国の大量ボイコットというアクシデントに見舞われはしたものの、大会そのものは事件もなく平穏に終わりました。ただ、閉会式での電光掲示板では次のオリンピック開催地を称えた「ロサンゼルスで会いましょう」といった文字などは一切出なかったそうです。

このことからも、西側諸国の集団ボイコットを受けた東側諸国、とりわけソビエトの失望と怒りがいかに深かったかがうかがわれ、次のロサンゼルスオリンピックではこれらの東側諸国が大量に報復ボイコットをするという事態につながっていきました。

モスクワオリンピックへのボイコットを呼びかけた中心的存在であったアメリカが開催した1984年ロサンゼルスオリンピックでは、今度はアメリカのグレナダ侵攻を理由に多くの東側諸国が報復としてボイコットしました。

しかし、その後、モスクワオリンピックをボイコットした韓国で開催された次の1988年のソウルオリンピックでは、ソ連をはじめとする大半の東側諸国も参加し、これでようやくオリンピックは正常な大会に戻りました。

以後、夏季大会では、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京、ロンドン、と順調に続いています。

一方の冬季オリンピックとしては、1980年のモスクワオリンピックのすぐ後に開催されたものは、1984年に開催されたユーゴスラビアでのサラエボ冬季オリンピックでした。

この大会は、共産圏で初めて開催された冬期オリンピックでしたから、すわ、またアメリカなどの西側諸国のボイコットか、と思われましたが、このときはそれはなく、ソビエトなどの東側諸国はほとんどが参加しています。

ただ、この同じ年の夏に行われた夏季オリンピックロサンゼルス大会はアメリカ主催の大会ということで、東側の多くの国がボイコットしました。上述のとおりです。

とはいえ、冬季オリンピックではこのサラエボ冬季オリンピックも含めてその後も一度もボイコットは起こっておらず、サラエボに続き、カルガルー、アルベールヴィル、リレハンメル、長野、ソルトレイクシティー、トリノ、バンクーバー、と順調に回を重ねてきました。

ちなみに、1992年にバルセロナで夏季オリンピック、フランスのアルベールヴィルで冬季オリンピックが行われて以降、夏季と冬季のオリンピックは、同じ年に行われなくなり、二年毎に夏季オリンピックと冬季オリンピックが交互に行われるように改められました。

そして、今回のソチでの第22回目となる冬期オリンピックです。

日程としては、2014年2月7日~2月23日の17日間行われます。この大会の決定は、
2007年7月4日にグアテマラのグアテマラシティで開催された第119次IOC総会でのことであり、総会直前までは、前回2010年冬季オリンピックの開催地投票でバンクーバーに接戦で負けた韓国・平昌が最有力候補でした。

しかし、ソチとの決選投票で平昌はまたしても接戦で落選しました。が、2011年7月に南アフリカで行われたIOC総会では、平昌はみごとに1回目の投票で過半数の票を得ることができ、2018年には晴れて冬季オリンピックを開催できることになりました。

ちなみにソチが開催地として選ばれた2007年のIOC総会では、平昌のほかには、ソフィア(ブルガリア)、アルマトイ(カザフスタン)、ボルジョミ(グルジア)、ハカ(スペイン)などが立候補していましたが、いずれも一次選考で敗退しています。

ソチでのオリンピックの競技会場は大きく分けて、ソチの黒海沿岸に面したソチ・オリンピックパークを中心とした地域と、クラースナヤ・ポリャーナと呼ばれる西カフカース山脈の「ソチ国立公園内」の山岳地区の2ヵ所に集まっています。

このソチ国立公園は、黒海沿岸のソチの北方50kmに位置しており、ロシアでも2番目に古い国立公園だそうで、といっても、1983年に制定されたばかりです。この公園がある西コーカサスという地方には、コーカサス諸国自然生物圏保護区があり、ここは重要な生態学的、生物学的特徴を持つとしてユネスコの世界遺産として登録されています。

これまではあまり人間の介在を経験してこなかかったヨーロッパで残された最後の自然であるということが世界遺産登録のユネスコ委員に評価されたようです。

その環境は、低地から氷河地帯まで、目まぐるしくかつ極端に変化していくそうで、とくにここはかつて、ヨーロッパバイソンの生息地として有名でした。バイソンというのはかなり大きなウシ科の大型哺乳類で、オスは角を持ち、その体長は2.5~3.5mもあり、メスも2.2~2.8mもあります。

世界最後の野生種ともいわれるヨーロッパバイソンは、その最後の自然種が1927年に密猟者によって殺されてしまったため、野生固体は絶滅状態にあり、このため、飼育したヨーロッパバイソンを野生に戻す試みが何十年にもわたって行われているそうです。

一方の、黒海沿岸にあるソチの町は、ロシア語では、「ソーチ」のほうが正しい発音に近いようです。ロシア連邦クラスノダール地方の都市で、ロシア随一の保養地でもあり、そのすぐ西側が黒海に面し、そのすぐ南側にはグルジアとの国境があり、グルジアのさらに南側には黒海南岸に横長く広がるトルコがあります。

黒海の周りには、このトルコの西北にブルガリア、ルーマニア、モルドバなどの東欧諸国があり、さらには黒海北岸に面したウクライナ、そしてソチを有するロシア連邦といった位置関係です。

人口はだいたい40万人ほどで、その市域は、黒海の東側沿岸に沿って細長く、およそ150kmほどに渡って広がっています。

6世紀から11世紀にかけて、この地域はグルジアのラジカ王国やラジカ王国から独立したアブハジア王国に属し、11世紀から15世紀はグルジア王国に属していました。

こられの国の国教はキリスト教であっため、ソチ市内にもこの当時から多くの教会が作られましたが、これらの教会は、もともとの住民であるテュルク系遊牧民に何度も打ち壊されてきており、古いものはそう多く残っていないようです。

15世紀からはオスマン帝国に領有されました。オスマン帝国というのはよく聞く名前ですが、これは、後のトルコ人の祖先であるテュルク系と呼ばれる人達の中から出た、「オスマン家」という家の君主を皇帝とするようになってから発展した多民族帝国です。

15世紀には現在のトルコの都市イスタンブールを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南は紅海を挟んでイエメンからサウジアラビア、エジプト東部やサウジアラビア西部から、北は現在のレバノン、トルコ、ウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及びました。

現在のトルコを中心とするアナトリアと呼ばれる小アジアの片隅に生まれたこの小君侯国は、イスラム教を国教としたイスラム王朝であり、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパのキリスト教諸国と敵対するようになり、これらをことごとく打ち破っていきました。

またマムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を力でねじ伏せて征服し、地中海世界のほとんどを覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展していきました。

ところが、17世紀末頃から次第に衰退しはじめて、その領土は他国に蚕食されて急速に縮小していきます。この挽回を図るためにと、このころこの地域で強大な軍事力を持ち台頭してきていたロシアを攻略することを目的に第一次世界大戦に参戦。

しかし、逆にこの戦いでロシアに負けてしまい、敗戦により帝国は事実上解体されてしまいます。そして、20世紀初頭、最後まで残っていた領土アナトリアから新しく生まれ出たのが現在のトルコ民族と呼ばれる人たちです。彼等はかつてのオスマン帝国の家人を追い出し、自身たちの国民国家、すなわち、現在のトルコ共和国を建設することになります。

かつてのオスマン帝国は、一次大戦での敗北により英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体されましたが、このときギリシャは、どさくさに紛れて自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻してきました。

また、東部ではアルメニア国家が建設されようとしており、こうした「外国人」らの横暴に対して、旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人といったトルコ人たちは、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こします。

この抵抗運動をトルコ独立戦争といい、1919年5月に勃発しました。彼等はアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して戦い、1922年9月、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取り、ムスタファ・ケマルはトルコ共和国の初代の大統領に就任しました。

こうしてアンカラ政権は1924年にオスマン王家のカリフ(国家指導者)をイスタンブールから追放し、以後、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家として成長していきました。

第二次世界大戦後は、ソ連に南接するトルコは反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟、以後も西洋化を邁進し続けています。欧州連合(EU)への加盟も現在申請中です。

しかし、かつてのオスマン帝国が所有していた、ソチを含む海岸地帯は、帝国の崩壊により、1829年にロシアに割譲されています。

オスマン帝国時代のソチは、多くの民族が入植し国際色豊かな都市でしたが、こうしてロシアの領土になった以降、ロシア革命期には白軍、ボリシェヴィキ、グルジア民主主義共和国の3勢力で激しい争奪戦の舞台となったこともありました。

しかしその後ソ連時代になってからはこれらの紛争は落ち着き、1923年、黒海の北東岸にある港湾都市・トゥアプセからグルジアの最西端に位置し、黒海北岸に面する、いわゆるアブハジア地域へ観光客・療養者を運ぶ目的の鉄道が開通しました。と同時にソチにも西ヨーロッパ方面からも少ないながらも観光客が訪れるようになりました。

その後この地にダーチャと呼ばれる別荘を設けたヨシフ・スターリンに愛され、スターリン政権時代はソ連最大のリゾート都市に成長し、多くのスターリン様式の豪華建造物が建てられるようになりました。

やがてニキータ・フルシチョフ政権時代にクリミア半島がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移されると、ソチはさらに隆盛し、ウラジーミル・プーチン政権下でさらなる投資が行われるようになります。

そしてアブハジア、南オセチア、グルジア、ロシア間の協定などいくつかの重要な条約締結の場所にも選ばれるなど、国際都市としても注目されるようになりました。

このように、ソビエト連邦時代から保養地として整備されてきたこともあり、ソチは北のアナパやトゥアプセ、南のグルジア領アブハジアのガグラやピツンダなどの黒海沿岸のリゾート都市とともに、「ソビエト版リビエラ」ともいえるリゾート地帯を形成してきました。

現地へ行くと、雪をかぶったカフカース山脈を望みつつ、その背後には黒海の美しい砂浜が広がるといった風情であり、気候は温暖でしかも温泉を産し、多くの療養施設もあるという、聞くとまるで夢のような場所のようです。

こうした立地から、現在では毎夏には数百万人もの人がソチを訪れるそうで、すぐ北にある西カフカース山脈が先述のとおり、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に選ばれたこともあって、最近さらに観光客が増えているようです。

スターリンをはじめ、歴代のソビエト連邦やロシア連邦の指導者たちの別荘があり、プーチンもソチの別荘で夏期休暇を過ごしているそうで、また、イタリアの政治家シルヴィオ・ベルルスコーニも休暇を過ごすために毎夏ソチを訪れているといいます。

雄大なカフカース山脈の他にも、美しい砂浜や温暖な気候による亜熱帯風の植生、公園やスターリン時代の様々な建築などで、休暇を過ごす人々に大変人気があるといい、かつてのソ連邦時代には解放されていなかったような地域にまで、外国人が立ち入ることが可能になっています。

スポーツ設備も充実しており、ここにあるテニス・スクールでお父さんと貧しい暮らしをしながら練習をして世界チャンピオンになったのが、あのマリア・シャラポワです。また、1996年の全仏オープンと1999年の全豪オープンに優勝した男子テニスプレーヤー、エフゲニー・カフェルニコフもここで育ちました。

最近では、ロシアサッカー連盟もソチに年間を通じて利用できるサッカーロシア代表チームの練習施設を建設することが発表されており、こうしたメジャーなスポーツの誘致などがこの地で冬季オリンピックが開催しようという機運につながっていったようです。

2014年の冬季オリンピックに向けては、会場へ押し寄せる観客の利便性確保のため、ロシアで3都市目になるライトレール鉄道が運営予定だそうです。

ライトレールというのはあまり聞き慣れないことばですが、アメリカ人が名付けたようで、邦訳としては「輸送力が軽量級な都市旅客鉄道」ということになるでしょうか。普通の電鉄線と路面電鉄を足して二で割ったようなものであり、日本での例としては、ここ静岡県の静岡市にある、静岡鉄道静岡清水線がこれに近いようです。

これは旧静岡市・清水市の都市圏輸送兼インターアーバン路線として建設されたもので、1両約18mの2両編成・朝夕3~5分、昼間約6分間隔といった、短編成・高頻度運転が特徴で短い駅間距離、簡易な駅施設といった輸送形態を持ちます。また全線複線の鉄道でワンマン運転を行ったのはこの静岡鉄道が日本最初だそうです。

東京にある東京急行電鉄の世田谷線もこれに近いといわれており、全線が専用軌道を走り、プラットホームの若干のかさ上げとともに車両も全て低床タイプのものに置き換えられています。短編成、高頻度運転、短い駅間距離、簡易な駅施設といった輸送形態は静岡鉄道とよく似ています。

このソチのライトレールは、オリンピック村、市街地中心部、ソチ空港を結ぶ3路線からなり、総延長は86.4km、駅数24だそうです。高架と地下、山岳トンネルからなり、時速160kmで運行される予定です。

おそらく、こうした鉄道についての紹介もソチオリンピックが近づくにつれ、おいおいテレビでも紹介されていくと思うので、前知識として持っておくと良いでしょう。

ソチオリンピックの組織委員会は、今月30日で開幕まで100日になるのを前に、24日までの2日間、競技施設を外国メディアに公開しました。

黒海に面した沿岸部と山あいの2か所に分かれている会場のうち、沿岸部のほうでは、フィギュアスケートやスピードスケートなど5つの競技施設の建設がすべて終わっています。

組織委員会は、完成していない施設のうち、開会式が行われる予定のメインスタジアムは年内の完成を目指し急ピッチで建設を進められているとアナウンスしており、このほか、選手村も建物はほぼ完成しており、来年1月末のオープンまでには間に合わせるとしています。

委員会が準備は順調に進んでいると強調しているとおり、山あいの会場でも、スキージャンプやバイアスロンなどの施設の整備が終わり、沿岸部と山あいの会場を結ぶ全長およそ40キロのライトレールも、来月1日から無事に運行を開始するということです。

ソチオリンピックを巡っては、競技施設に加え他の地域のライトレールや道路も新しく整備するため作業が大幅に遅れ、建設費用も日本円でおよそ5兆円と当初の4倍以上に膨れあがったそうです。

心配性なプーチン大統領は、ホントに間に合うかいなと、ちょっと前までかなりいらだっていたそうで、つい先日もみずからが進捗(しんちょく)状況を監督するために現地に赴いたそうです。

が、まあおそらくは間に合うでしょう。というか、間に合わせるでしょう。ロシアとしては、西側諸国をも迎えた初の自国開催のオリンピックであり、ロシア連邦として生まれ変わった後に、その威信をかけた大会を成功させたいというその意気込みは相当なものであり、失敗は許されないからです。

それにしても、かつてはオスマン帝国時代とはいえ、自国の領土であった、すぐ近くのソチでオリンピックが開催されることについて、トルコの人たちはどう思っているでしょうか。

つい先日には、日本との2020年オリンピック開催を争って敗れたばかりでもあり、かつての自分のテリトリーで華やかに開催される大会について、多少は苦々しく思っているに違いありません。

が、その一方で、自国のすぐ近くで開催されるオリンピックであるともいえ、将来的にトルコにその開催権が手に入るときには、おおいに参考になることでしょう。近いこともありきっと、大勢のトルコ人がソチに入るに違いありません。

ちなみに、ですが、日本とソチとの時差は、5時間です。日本の方が、5時間進んでいます。なので、夕方から行われる競技の生放送は日本では深夜以降になりそうです。

また寝不足の日々が続くのか……と少々心配ですが、やはり二年に一度のお祭りですから、頑張ってニッポンを応援したいと思います。

2月といえば日本でも一番寒い時期です。風邪をひかないよう、みなさんも頑張って応援してください。