切り捨て御免

台風一過のもと、秋の深まりが加速しているかんじがします。

あちこちでヒガンバナが咲いたとの便りが聞こえてきていますが、わが家の庭の曼珠沙華もようやく芽を吹き始めていて、今週末にも第一花が咲くのではないでしょうか。

それにしても… 解散総選挙だそうです。こんな時期に…

野党側にすれば、これから、というときに出鼻をくじかれたかんじ、与党側にすればしてやったり、と思っているのかもしれませんが、相手の弱みにつけこんで、こういうやり方で強硬手段に出る、というのはあまり良い印象のものではありません。

後世でどういう名前の解散総選挙になるのかわかりませんが、「抜き打ち」解散というよりは、「不意打ち」のイメージが強く、人によっては、「だまし打ち」解散と呼ぶひともいるかもしれません。

日本人は、不意打ち、だまし討ちといったことが嫌いです。先の大戦の真珠湾攻撃は、相手への警告が手違いで遅くなった、という理由はあったにせよ、そうなってしまいました。アメリカ人から卑怯者のレッテルを張られ、そう言われるようになったことについては、いまだに「恥」と感じている日本人は多いのではないでしょうか。

同じ日本人で「恥」という言葉を理解しているなら、もう少しやり方があるのではないか、と思うわけですが、数に任せてやりたい放題をやっている政党には、「厚顔無恥」の意味も分からないに違いありません。

都民選では大打撃受け、一度は死んだふりをしていましたが、ここへきて「いないいないバア」とばかりに突然の侵攻。何の準備も整っていない野党にとっては「弱いものいじめ」にほかなりません。

日本人は、こうした弱い者いじめも大嫌いです。「判官びいき」のことばにあるように、弱い立場に置かれている者に対しては、ついつい同情を寄せてしまう傾向にあります。なので、今回の解散も、国民感情を考えれば必ずしも与党の思う通りにはいかないのではないか、と思ったりもします。

とはいえ、あまりにも弱すぎる野党ばかりで、ひいきにするにしても頼りなく、じゃあ、いったいどうすればいいのよ、といったかんじです。




それにしても、ここまでこう書いてきて、日本語の中に「○○討ち」とされる用語があまりにも多いのに少しびっくりしています。

ほかに、「上意討ち」というのもあります。主君本人、またはその部下が主君の命で不都合をしでかした家来を討つことで、この場合の家来には武士のみならず中間や下男下女などの武士以外の奉公人も含まれており、理論的には日雇いの奉公人も対象となりました。

主従関係に基づく、こうした無礼討ちでは、主人が有する家臣への懲罰権の行使と考えられたため、合法な行為とみなされました。正当防衛云々は関係なく、懲罰であるため、殺害自体の刑事責任も問われません。

ただし、家来に対する管理能力に問題があるとみなされ「家中不取締」として御役御免や閉門といった処分を受けることもありました。また懲罰であるため、とどめを刺すことも許されるなど、無礼な行為と判断し手討ちにすることは主人の家来に対する特権として認められていました。

また、江戸時代には、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う「敵討ち(または仇討ち)」も認められていました。

殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていましたが、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められていました。

ただし、基本的には子が親の仇を討つなど、血縁関係がある親族のために行う復讐だけが認められていたわけであり、誰しもにリベンジが許されていたわけではありません。

こうした上意討ちや敵討ちは、武家社会の秩序を保ち、幕藩体制を維持するための観点から武士同士のいさかいを調停するために認められていたものです。しかし一方では、武士と武士だけでなく、武士と町民や農民などのトラブルが生じる場合もあり、こうした場合に許されていたものに、「切捨御免(きりすてごめん)」というのがあります。

苗字帯刀とともに武士に認められていた、階級を超えての殺人の特権であり、別名を「無礼討ち」ともいいます。ただし、「切捨御免」という言葉は近代になり、時代劇が流行るようになって、この中で使われるようになった用語です。史料においては「手討(ち)」「打捨」などと表現されていました。

武士が耐え難い「無礼」を受けた時は、相手の身分にかかわらず切っても処罰されないとされるもので、法律的には、江戸幕府が定めた「公事方御定書」の「第71条追加条」によって明記されていて、れっきとした合法行為です。

ただし、あくまでも正当防衛の一環であると認識されているため、上意討ちや敵討ちと違い、結果的に相手が死ぬことはあっても、とどめを刺さないのが通例でした。また無礼な行為とそれに対する切捨御免は連続している必要があり、以前行われた無礼を蒸し返しての切捨御免は処罰の対象となりました。

こちらも合法的な行為でしたが、その判定は極めて厳格だったそうで、実際に切り捨て御免を実施する場合には、命懸けでやる必要があったといいます。

と、いうのも、切り捨て御免を行使するためには、それなりのきちんとした理由がなければ許されない、とされており、れっきとした証拠がない限りは、逆に死刑となる可能性が大きかったためです。死刑までいかなくても、重い刑は必至であり、ましてや処罰を免れる例は極めてまれだったといいます。

そもそも切り捨て御免が行使される前提としては、武士である本人に対する相手の「無礼」な行為があることです。相手に対して失礼な態度を意味し、例えば目上あるいは年上の人に対して「お前」などといった言葉を使い、敬語を使わないなどがこれにあたります。

もっともこうした言動だけでなく、なんらかな無礼な「行為」の行使についても、「不法」「慮外」ととられるものについては対象となりました。ただ、その受け取り方については個人によって差異があったため、対象たりうるとされた「無礼」は、2段階に分類されて慎重に吟味されていました。

まず、第一段階としては、武士に対して故意に衝突、及び妨害行為があった場合で、これら一連の行為や言動が「無礼」「不法」「慮外」なものととらえられケースです。この段階では必ずしも手討ちには至るレベルとは限りませんが、武士に対してなんらかの「非礼」があったと認められる段階であり、後日それが認められた場合には何等かの処罰の対象になりました。

問題は第二段階目で、その行為が武士に対して著しい「名誉侵害」にあたると考えられ、かつその回復が不可能と判断された場合、および、その無礼が発言の身にとどまらず、何等かの生命を脅かす行為である場合には、「著しい無礼」と判断されました。すなわち相手からの「攻撃」があった場合であり、自身の身を守る「正当防衛」が成り立つ場合です。

この第二段階目に行った場合は、「切り捨て御免」となるわけですが、この後の行動にも規定があり、斬った後は速やかに役所に届出を行うことが義務付けられていたほか、その討ち捨てにどのような事情があったにせよ、人一人斬った責任の重みのため、20日以上に及ぶ自宅謹慎を申し付けられること、などでした。

また、斬った際の証拠品を検分のため一時押収されるとともに、無礼な行為とそれに対する正当性を立証する証人も必要とされました。

近年の時代劇では、武士が町民を切り捨ててそのままその場を立ち去る、といったシーンもよく放映されますが、実際にはそんな風に簡単には済まされません。法律的に「手討ち」の適用になる条件は極めて厳格であり、証人がいないなど、切捨御免として認定されない場合、その武士は処分を受けました。

この時代、武士の「切腹」は不始末が生じた場合にその責任をみずから判断し、自分自身で処置する覚悟を示すことで名誉を保つ社会的意味がありました。切り捨て御免の場合、最悪はその切腹も申し付けられず、斬首刑を受けるなど、「罪人」として扱われることもありました。

家の取り潰しと財産没収が行われる可能性も大いにあり、このため、本人謹慎中は家人及び郎党など家来・仲間が証人を血眼になって探したそうです。見つかりそうにない場合、評定の沙汰を待たずして自ら切腹する者が絶えなかったといいます。

もっともこれは首尾よく無礼討ちを完遂できた場合のことであって、時には手討ちを行おうとしたものの、相手に逃亡されて果たせなかった、といったこともありえます。

この場合、そうした「無礼討ち」を果たせないほど愚かなヤツ、とみなされ、相手に逃げられたことがつまびらかになった場合には、「武士の恥」といわんばかりに、不名誉とされ処罰の対象となることもあったそうです。

一方、上意討ち・無礼打ちを受ける側の方ですが、こちらも一方的にやられっぱなし、で放っておかれたわけではなかったようです。無礼を理不尽を感じた者は、両者にどのような身分差があっても、たとえ殺すことになっても刃向かうことが許されていました。

とくに、討たれる者が士分だった場合、必至で反撃しなければなりませんでした。何も抵抗せずにただ無礼打ちされた場合は、むしろ「不心得者である」とされてしまい、生き延びた場合でもお家の士分の剥奪、家財屋敷の没収など厳しい処分が待っていたからです。

無礼討ちをする相手に逃げられてもダメ、ただ単にやられっぱなしでもダメ、ということで、この当時の武士のトホホさがうかがわれますが、逆にいえばいかに武士の「名誉」が重んじられていたかがわかります。

このため、こと「切り捨て御免」といった事態に突入した場合には、無礼打ちする方も受ける方も必死になり、命懸けで臨まねばなりませんでした。いざそうしたトラブルが発生した場合には、武士の体面を賭けて、「真剣勝負」で臨むことが求められていました。

こうしたことから、無礼討ちをされる相手が帯刀していなかった場合などには、手討ちをする側も無腰の相手を切ったとしてお咎めを受けるケースがありました。このため、自分は太刀を持って優位に立った上で事に臨み、相手には脇差を持たせた上でけしかけ、刃向かわせてから即座に斬る、という場合もあったそうです。

ところが、相手がいつの場合も同じ武士とは限らないわけであり、こうした「武士道」を対手がいつも理解しているとは限りません。

記録に残っている中では、尾張藩家臣の“朋飼佐平治”なる武士が、雨傘を差して路上を歩いている際、ある町人と突き当たりました。佐平治が咎めたのにもかかわらず、この町人は無視してそのまま立ち去ろうとしたので、佐平治はそれを無礼とみなし町人を手討ちにしようとしました。

このとき、佐平治は無腰の町人を手討ちにするのを不本意と考え、自らの脇差を相手に渡して果たし合いの形式をとろうとしますが、あにはからんや、相手の町人はその脇差を持ったまま、遁走してしまいました。

そして、「あまれ(痴れ)、佐平治をふみたり(アホの佐平治を打ち負かしたのは俺だ)」、と触れ回ったといい、悪評を立てられた佐平治は、やむなく書き置きを残して出奔たといいます。しかしメンツをつぶされ、根にもっていたのでしょう。その後、このままでは捨て置かぬ、とこの町人の家を突き止め、女子供に至るまで撫で切りにしたといいます。

このほか、江戸時代には他領の領民に対して危害行為におよぶことはご法度でした。この時代、封建社会であったとはいえ、各大名がそれぞれの領地においてある程度独立した統治機構(藩)を形成しており、地方分権はある程度認められていました。

このことから、他領で切り捨て御免を行うことはたしなめられていました。仮に自分が属する藩以外の領地で切捨御免に及んだ場合、その切られた領民が属する藩主・領主への敵対的行為とされる恐れがあったためです。

これは幕府直轄地である江戸でも同じであり、江戸の町民に他藩の武士が危害を加えた場合は、江戸幕府への反逆行為とみなされる恐れがありました。

このため諸藩は江戸在勤者に対し、「町民と諍いを起こさずにくれぐれも自重すべき」旨の訓令をたびたび発していました。これを知っていた町民の中には、武士たちが簡単には斬れない事情を知り、粋をてらったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する言動をする者もいたといいます。

ただ、芝居小屋・銭湯といった人が大勢集まる場所で切り合いをされてはたまったものではありません。このため、こうした無用のトラブルを避けるため、江戸中期以降には、武士と町民がかち合う可能性のあるようなこうした公共施設では、だいたいのところで、刀を預ける「刀架所」が下足所の横に設けられていました。

また諸大名家は江戸町奉行の与力・同心には毎年のように付け届けを行うことで、万一そうしたトラブルがあった場合でも握りつぶしてもらうよう配慮していました。このため、彼らは正規の俸禄の数倍に相当する実収入を得ていたといいます。



以上のように切捨御免は武士の特権として一般的に認められてはいたものの、気ままに実行出来るようなものではありませんでした。正当な行為とは認められず、逆に「違法」とされるリスクも高かったため、実際に切捨御免を行い、認められた事案はそれほど多くはないといいます。

例外としては、明和五年に岡山藩士が幕領内で起こした無礼を理由とした手討ちについて、幕府道中奉行は無礼討ちに当たると認定してお咎め無しと判断、そればかりでなく当該行為を「御賞美」しました。

この岡山藩は、どうもこうした無礼討ちには寛容だったようで、ほかにも証人の証言を元にして無礼があったと認定されれば、無礼討ちと認定され処罰されなかった事例があったということです。

また、徳島藩では“林吉右衛門”なる人物が藩の禁令だった夜間の相撲見物をしていた際に町人を無礼討ちしたことがありました。この件については、相撲見物の件を咎める一方で無礼討ちの件では林吉右衛門を咎めなかったといいます。

同じく徳島藩の”星合茂右衛門”が家臣と銭湯入浴に出かけた際に町人を無礼討ちした件でも、藩の禁令だった家臣の入浴については咎められましたが、無礼討ちの件は咎められなかったそうです。

こうした無礼討ちの事例は、旗本奴(やっこ)といわれるようなかぶき者(遊び人)があふれていた江戸初期に見られましたが、江戸中期に減りはじめ、後期には殆ど見られなくなっていきました。

とはいえ、江戸期を通じて参勤交代終始行われていたため、江戸市中を諸大名や旗本が行列を作って通る場合などには、武士と町人の間のトラブルとしてたびたびあったようです。

宝永6年、“戸田内蔵助”なる武士の一行が江戸木挽町を通過した際、町人が偶然に行列を横切ろうとしました。お供の者がそれを咎めると、町人は逆に悪口を言ってきたため、お供が町人を掴んで投げ飛ばしました。

しかし、町人はさらに悪口を言ってきたため、籠の中からそれを見ていた内蔵助は町人の切り捨てを命じ、町人は無礼討ちにされました。後日この事件を幕府に届け出ましたが。お咎めは無かったといいます。

もっとも、江戸後期になると、こうした通行中のトラブルも減っていきました。江戸市中での行列では通行人の妨げにならぬよう行列の途中で間隔をあけ、通行人の横断が許可されるようになったためで、また、人命に係わる職業である医者と産婆の場合は、「通り抜け御免」として行列を遮ることが許可されるようになりました。

このほか、実際には、刃傷沙汰や喧嘩によって死者が出た場合でも、手討ちや無礼討ちとして処理される、といったこともあったようです。

西洋では「決闘」による名誉回復がありましたが、日本では基本的には敵討ち以外の「私闘」は認められていなかったためです。切捨御免は、その抜け道として使われることもあり、記録に残っていない刃傷沙汰はかなりあったに違いありません。

振り返って現代。

今回の解散総選挙もまた、与党が野党にしかけた「私闘」の様相です。弱いものいじめではあることは明らかですが、合法的ではあるがゆえにお咎めはなく、やはり抜け道として使われているような気がします。

抜き打ち、不意打ちに対抗するには、やはり「返り討ち」しかないと思うのですが、我々国民にとってのそれが何なのか、どうすればいいのか、今はまだみえないようです。