仮面の男

先日通り過ぎた台風18号が、おそらく今年最後の台風だろう、とお昼のワイドショー出演の気象予報士さんが言っておられました。

そう聞くと、あぁ今年もようやく夏が終わったな、と感じます。

既に富士山の山開きは終了。屋外プールもおそらくはもう営業しているところはないのではないでしょうか。缶ビールを手にすることも、だんだんと少なくなってきました。

アキアカネが飛び交うようになり、ヒガンバナが咲き始めるともう秋近し、というよりも秋そのものです。まだまだ紅葉には早いようですが、早晩、山も里も彩りの世界に入っていくことでしょう。

私個人としてのこの夏は、手の骨折入院があったこともあり、かなり変則的なものとなりました。約半月を人生初の入院で過ごし、盛夏のころをクーラーが効いた病室で過ごす、といった特殊な日々は、このあとも長いあいだ記憶に残ることでしょう。

牢獄に入った、というわけではありませんが、私生活の大半を他人と過ごし、日々かなりの自由が制限される、といったことを経験したのも始めてのことです。




ところで、牢獄といえば、なぜかフランスのバスティーユ牢獄が思い起こされます。中学校や高校の歴史の教科書に掲載されていた、民衆による「バスティーユ襲撃」の挿絵が印象的だったためですが、同じく覚えている方も多いでしょう。

もともとは要塞で、シャルル5世の治世下に建てられ、フランス革命前には政治犯や精神病者を収容した牢獄として使われていた建物です。フランス語では「バスティーユ」だけで要塞の意味があるそうです。

1789年7月14日にパリの民衆が、ここを襲撃した事件で有名であり、この「バスティーユ襲撃」は、フランス革命のはじまりとされ、世界史上もっとも有名な市民革命のひとつです。

フランス国内に3箇所あった国立刑務所の一つで、パリの東側を守る要塞として1370年に建設されました。中世のパリ市は全周を城壁で囲まれた城郭都市であり、バスティーユはその内郭の一つにあたります。約30mの垂直の城壁と8基の塔を有し、周囲を堀で囲まれ、入口は2箇所の跳ね橋だけでした。

その後の中世以降、パリは人口が増加して城壁の外にも市街地が広がり、大砲の時代となったこともあって、古い石造りの構造物であるバスティーユそのものが軍事的価値を持たなくなりました。

しかし、この侵入が困難で出入口が制限される構造は刑務所に向いていると判断されました。ここを国事犯の収容所としたのはルイ13世の宰相リシュリューであり、中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、後年の絶対王政の基礎を築いたことで知られます。

国王の権力をさらに固めるために、リシュリューは封建貴族層の影響力を抑制しようとし、国防用を除く全ての城塞の破却を命じました。これによって、国王に対する反乱に用いられたフランス貴族の防御拠点を奪い去るとともに、造反者は容赦なく拘束しました。これ以降バスティーユには主に謀反を起こそうとした高官たちが収容されるようになりました。

バスティーユには国王が自由に発行できる「勅命逮捕状」によって捕らえられた政治犯が多数入牢するようになりました。その後、ルイ13世が没する前にリシュリーも亡くなりましたが、臨終に際して聴罪司祭が「汝は汝の敵を愛しますか」と問うと、彼は「私には国家の敵より他に敵はなかった」と答えたといいます。

ルイ13世の没後は、わずか4歳のルイ14世が即位(在位1643~1715年)し、後継者としてマザラン枢機卿が宰相となりましたが、マザランは政策的にはリシュリューを継承し、後のルイ14世の絶対王政の地均しをしました。この時代はさらに民間人の弾圧も続き、バスティーユには王政を批判した学者なども収容されるようになりました。

またこの頃から収容者の名前を公表しなくなったため、市民たちにいろいろと邪推されるようになりました。囚人がバスティーユに連行される際、馬車の窓にはカーテンがかけられ外から覗くことは不可能であり、さらに出所する際には監獄内でのことは一切しゃべらないと宣誓させられました。

また牢獄内では名を名乗ることは禁じられ「○○号室の囚人」と呼ばれていました。こうしたことから、バスティーユは残虐非道な監獄と目されるようになりましたが、実際には囚人はかなり快適な環境で生活を送っていたようです。部屋は5m四方あり、天井までは8m、窓は7mの高さにあり、鉄格子がはまっているものの外の光は十分に入り込みました。

また囚人は、愛用の家具を持ち込むこともでき、専属のコックや使用人を雇うことすら可能だったといいます。食事も豪勢なものであり、昼食に3皿、夕食には5皿が出され、嫌いなものがあれば別のものを注文することができたそうです。

さらに、牢獄内ではどのような服装をしようが自由であり、好きな生地、好きなデザインで服をオーダーできました。図書館、遊戯室なども完備されており、監獄内の囚人が病気などになった場合は国王の侍医が診察しました。こうしたことから、他の監獄で病人が出たとき、病院ではなくバスティーユに搬送することさえあったそうです。

このように環境が整っているため、出所期限が訪れても出所しなかったり、何ら罪を犯したわけでもない者が債権者から逃れるために入所したこともあったといいます。そうした環境のよさもあってか、ここに収容された囚人の数はそれほど多いわけではありません。

1774年のルイ16世即位からバスティーユ襲撃の1789年まで、収容された人数の合計はわずか288人にすぎず、このうち12人が自ら望んで入所した囚人です。

江戸、小伝馬町の牢では、東京ドームの約5分の1の広さの敷地に、常時大体300~400人程度、天明の打ちこわしや、天保の改革の時には最大900名も収容されていたといいますから、人数比からいってもバスティーユの快適さが伺われます。

1776年から始まったバスティーユ牢獄の要塞司令官としての役割を担ったのは、ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー侯爵でしたが、1789年のバスティーユ襲撃の際、殺害されました。

激怒している群衆はバスティーユに押し入ると彼を襲い、生きながらナイフ、剣などでなますにしたといい、ローネーは「もう十分だ!殺してくれ!」と叫んだといいます。殺害後、彼の頭は肉屋によって切られ、矛先に差し込まれて見せしめにされた後、次の日セーヌ川に投げ込まれたといいます。

襲撃後、要塞は解体処分されましたが、解体作業中はその石材で作ったバスティーユ牢獄のミニチュアを土産物として売る業者が横行したといいます。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊したあと、そこから出た資材を観光土産にして売る業者が出、いまだに続いているといいますから、民衆がたくましいのはいつの時代も同じです。

現在はバスティーユ広場となっており、広場中央には1830年7月革命の記念柱が立っていますが、ほかに近くの駅にこの要塞の壁の遺構の一部を見ることができます。また、バスティーユ広場より少し離れたセーヌ川沿いのスクウェア・アンリ=ガリに、丸型の基盤の遺構の一部が移され保存されています。

なお、バスティーユ広場に面しては、かつて郊外線のバスティーユ駅が設けられましたが、その後同線が廃止されたあとに解体され、1989年よりオペラ・バスティーユが建てられています。フランス革命200年を記念して建てられたもので、パリ国立オペラの公演会場の一つであり、オペラおよびバレエ、管弦楽の公演が行われています。

座席数は2703。舞台装置はコンピューター制御と外観、設備とも現代建築の粋を集めたものとなっており、外観はガラス張りのモダニズム様式の建物で内部は地上7階地下6階建てで、この新しいバスティーユはパリの新しい顔になりつつあるようです。

ところで、バスティーユ牢獄には数々の身元不明者が収容されていたことは前述のとおりですが、この中の有名人のひとりに、「鉄仮面」と呼ばれた人物がいました。

1703年までバスティーユ牢獄に収監されていた「ベールで顔を覆った囚人」で、現在に至るまでその正体については諸説紛々で、これをモチーフに作られた伝説や作品も多数流布しています。

この囚人は1669年に、現在はイタリア北部に位置する“ピネローロ”にあった、ピネローロ監獄から移されてきました。ルイ14世の大臣から直々にここの監獄長、サン・マールに預けられ、自らが世話をしていたといい、彼の転任と共にその囚人も移送され、サント=マルグリット島を経て、1698年にバスティーユ牢獄に移送されてきました。

中世のピネローロは交通の要衝の一つであり、イタリアとフランスの国境付近に位置するという軍事的な重要性ゆえに、軍学校の起源となる学校などが置かれていました。フランス王国領であった17世紀後半、ここにこの謎の多い囚人「鉄仮面」は収容されました。

当時のバスティーユ牢獄の看守の記録によれば、「囚人は常にマスクで顔を覆われ、副監獄長直々に丁重に扱われていた」と記録しています。「鉄仮面」の名で呼ばれるようになったため、現在に至るまで鉄製の仮面を常に着用していると言うイメージになってしまっていますが、実際には布製のマスクだったといわれます。

また、日常の生活で常にマスク着用が義務付けられていたわけではなく、人と面会する時にだけ着用させられていただけでした。しかし、もし人前でマスクを取ろうとすれば、その場で殺害せよとの指示が出されていたといい、そのため、牢獄で世話をしていた者も囚人の素顔を知りませんでした。

囚人は1703年11月19日に死亡。「マルショワリー」という偽名で葬られ、衣類や身の回りの品などは全て破棄されたといいます。

この人物が誰であったかについては、当時からいろいろな憶測が飛び交いました。が、軍事要塞であるピネローロに幽閉されていたことから、この当時のフランス軍の元帥で、ルイ14世の腹違いの弟(または従兄弟とも)であった、フランソワ・ド・ヴァンドームではないか、といわれていたようです。

上述のとおり、1643年にルイ13世の死に伴い、ルイ14世がわずか4歳で即位、ジュール・マザランが宰相となりました。彼はリシュリーの時代から続く三十年戦争継続のための重税を課したため、貴族と民衆の反発を買いました。

三十年戦争とは、ヨーロッパ中心部で1618年から1648年に戦われた国際戦争で、当初はプロテスタントとカトリックとの対立のなか展開された宗教戦争でした。が、次第に宗教とは関係のない争いに突き進み、フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いとなりました。

この戦争の中、フランス国内には徐々に革命の機運が高まるとともに王政も腐敗し始めていました。売官制が認められると、富裕層が法服貴族として増加し、彼らを中心に民衆とが蜂起。反乱軍はパリを包囲しました。このとき群衆は、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入し、ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたといいます。

反乱はその後鎮圧されましたが、ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれており、王政を揺るがす大事件でした。この乱では、パリの民衆がフロンド(fronde)と呼ばれる当時流行していた投石器を使ったことから「フロンドの乱」と呼ばれます。

この乱で群衆の先頭に立ち、活躍したのがヴァンドーム元帥でした。ヴァンドーム公と呼ばれた彼の父は反ルイ13世派であり、彼もまた反リシュリュー派に属し、フロンドの乱では最先端に立ちました。ただ、これから約20年後の1669年、クレタ島を防衛するため、フランス艦隊を率いてオスマン帝国と戦い、夜の戦闘中に討死したといわれています。

ただ、その死体は敵の手から取り返されることはなく、誰も確認できなかったため、それ以前にバスティーユに入牢していたのではないか、ということがいわれているようです。




このほか、フランスの哲学者で歴史家のヴォルテール(1694~1778)は、鉄仮面は、宰相マザランとルイ13世の妃、アンヌ・ドートリッシュの間にできた息子で、ルイ14世の庶兄であるとしました。この説によればマザランは不義を働いていたということになります。

後世、「モンテ・クリスト伯(巌窟王)」、「三銃士」の著者で知られる小説家、アレクサンドル・デュマは、この説を翻案し、鉄仮面をルイ14世の双子の兄にして小説を書いており、これが現在に至る「鉄仮面」の初出になります。

1998年・ランダル・ウォレス監督がメガホンをとった映画「仮面の男」では、レオナルド・ディカプリオ主演し、ここでもルイ14世の双子の弟が「仮面の男」として物語が進みます。

このほか囚人はルイ14世本人で、フランスを統治したこの王は宰相マザランによって扱いやすい替え玉と取り替えられたという話もあり、この話には、囚人が獄中で子供を作り、その子が後にコルシカ島へ行き、ナポレオンの先祖になるという尾ひれも付いています。

最近の説の中で一番信憑性が高いといわれているのが、仮面の男の正体は、宰相マザランの会計係であった、ユスターシュ・ドージェ、という人物だったという説です。

上で述べたとおり、マザランはアンヌ王妃の愛人だったという噂もあり、その立場を利用して権力と強大な富を築きしました。そのマザランの側用人だったとされるのがユスターシュであり、主人の不義や権力を得るまでのすべての裏を知っていた彼が「鉄仮面」として幽閉された、というのはある程度説得力のある話ではあります。

が、ルイ14世の兄弟や従兄弟であったという説も根強いのは確かです。高貴な血が流れていたのではないかという憶測とともに、囚人が被っていたという仮面のグロテスクなイメージから、様々な文学作品、映画に取り上げられており、本来の伝説からかけ離れて「鉄仮面の囚人」だけが一人歩きした三次派生とも言うべき作品も多く作られてきました。

日本でも、黒岩涙香による翻案小説「鉄仮面」が、1892年(明治25年)12月25日から1893年(明治26年)6月22日まで「萬朝報」に連載され、この涙香版は何度も単行本化されました。また江戸川乱歩も涙香版を小中学生向けにリライトしたものを出版(講談社版・1938年)して好評を博し、戦前戦後を通じて愛読されました。

その他、雑誌に掲載されたダイジェスト版や映画、漫画、紙芝居、ラジオドラマで、日本中に「鉄仮面」の名を知らしめました。ご興味のある方は、いろいろなバージョンがあるようですから、秋の夜長に一読して楽しまれるのもよいのではないでしょうか。

もっとも、映画や芝居などにおいて、最近はあまり新しいバージョンはなく、リバイバルばかりのようです。

ただ、太平洋を挟んだ日米の政治の舞台では新時代の鉄仮面が暗躍しているようです。「鉄面皮の男」の異名がつけられたこの両国のリーダーは、それぞれの国の民を欺き、混乱を助長しているといいます。はたしてその厚顔は長続きするでしょうか。