赤ヘル

広島カープが優勝しました。

夫婦そろって広島育ちのわれわれは、手放しで喜んだわけですが、地理的な問題もさることながら、なにか遠くで起こった出来事のようなかんじがしないでもありません。

かつて広島市民球場と呼ばれた本拠地は今はなくなって新球場になり、垢抜けなかった地方チームが今やセリーグ随一の集客数を誇る人気球団になっていることを思うと、何やら置いてけぼりにされたような、不思議な気分です。




それにしても、1949年創立、チーム結成1950年のこの球団の出だしは、まことに貧乏球団でした。

カープは当初、「広島野球倶楽部」として発足。設立資金は、広島県と広島、福山・呉など県内の各市で出すことにし、本拠地も自前のものではなく、戦前からある県営球場である広島総合球場でした。市中心部からやや離れた西区にあり、現在の新球場のように駅そばといった好立地にはありません。

フィールドは全面土で、外野も芝は敷かれておらず、観客席はバックネット裏に土盛りしたスタンドが少々ある程度で、残りの1塁側と3塁側のファウルグラウンド及び外野にロープを張り、その後ろを観客席としました。ナイター用の照明設備もなく、カメラマンブースもグラウンド内にあり、水はけも悪く設備は余りにも不充分でした。

核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップも十分ではなく、1950年の12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式の時点では、契約選手が1人もいませんでした。

球団創設者の一人である石本監督が元所属していた、大陽ロビンスの二軍から選手を調達してくる予定でしたが、その直前にロビンスが二軍選手の放出をストップしたからです。このころロビンスは松竹の傘下に入り、改称して松竹ロビンスになっており、選手の流出を止めたからです。

新生球団の幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なく、やむを得ず石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、コーチにすると口説いて元ロビンスの38歳、灰山元治を無理矢理入団させました。

また、投手では34歳の内藤幸三、野手では白石勝巳(32歳)、岩本章ら(29歳)など少々盛りを超えた選手を中心に23人を入団選手として発表しました。

球団名は、ブラックベア、レインボー、ピジョン、アトムズ、グリーンズ、カープを有力候補としましたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、ということで「広島カープ」と名付けられました。

当初は「カープス」でしたが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改名。現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsで終わらない唯一のチームとなります。

ちなみに、他の候補名のうち、「グリーンズ」は1954年に結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用されました。また「アトムズ」はその後1966年から1973年にサンケイ(現ヤクルト)が採用しました。

広島に球団を作ろうという構想は、正力松太郎の2リーグ構想の前から広島財界人の中にあり、その理由は、広島は戦前から広島商や広陵高、呉港高といった名門校があり、鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男(それぞれ、南海、巨人、阪神で活躍)など、広島出身の名選手が輩出した野球どころという下地があったからです。

郷土の有力者である、中国新聞社東京支社長・河口豪、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の4名は顔を合わせるごとにプロ野球の話に終始。当時は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が..という4人の意見が一致し、話が具現化しました。

選ばれた初代監督、石本秀一は明治30年広島市段原(現:南区的場町)の生まれで、このとき54歳。中等野球黎明期からプロ野球黎明期、戦前、戦後と長きにわたり指導を続け、カープを含む計プロ6球団の監督を務めるなど、プロアマを通じ日本野球史を代表する指導者の一人です。

カープ発足当時は、大陽ロビンスの監督でしたが、チームが新説されることを中国新聞の河口から聞いて知り、「郷里の球団で最後の花を咲かせたい」と自らを売り込みました。

「金はいらない。野球人生の最後を故郷広島の復興のために。」と勇んで挑んだものの、上のとおり、開幕3か月前に選手が1人も決まっていない、と知らされます。球団結成のために集められたスタッフは全員、野球はズブの素人であり、このため、自らの人脈をフルに活用しての選手獲得を試みました。

しかし、このころはちょうど、正力松太郎の2リーグ構想が現実のものとなったこともあって選手不足の状態にあり、名前の通った選手は内藤、白石、岩本くらいでした。

このため、やむなく入団テストを行い選手を集めましたが、使えそうな若者がいると親に反対させぬよう監禁してハンコを押すまで帰さなかったといいます。しかし、この入団テストは無駄ではなく、中には、身長167cmという野球選手としては小柄な体格ながら、のちに「小さな大投手」の異名を取った、長谷川良平などが含まれていました。



しかし、たいした算段もなく始めた球団運営はすぐに頓挫し、公式戦が始まると試合はともかく財政が火の車となり、練習は白石助監督に任せてここでも金策に奔走することになります。このため、石本は市役所前で演説、後援会の結成、試合後、夜選手を連れて講演会をやって金を集めたり、企業に協賛金のお願いに回りました。

試合が始まると塀を乗り越えてタダ見するお客を見張ったといい、選手への給料の支払いについても遅配は毎月のことでした。選手たちの生活は当然苦しく、キャバレーのステージに立って歌をうたい、生活費を稼ぐ者もいたといわれます。

1950年の初年度ではプロ経験者は1人、足りないメンバーは各地の鉄道局から寄せ集めましたが、ほぼノンプロの国鉄スワローズにも抜かれて最下位。なお、前年まで石本が指揮を執っていた松竹は大量補強により、記念すべきセ・リーグ初代チャンピオンに輝いています。ただし、このチームはその後大洋ホエールズと合併したため現存していません。

翌1951年、年明け早々、セリーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二(大東京軍(現巨人軍)元球団代表)が、日刊スポーツ紙上で、二年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープに対して、「広島は大洋の傘下に入ればいい」などと発言。

球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうとしていましたが、決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、ペナントレース前の3月に甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められていました。

助監督の白石は、「旅費がないなら甲子園まで歩いていこう。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない。」と意気盛んでしたが、公式戦開幕前に球団社長の檜山袖四郎(広島県議)以下がセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない、早急に身売りしろ」といった厳しい叱責を受けます。

その後連盟では、広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたチームがセ・リーグの評判を落としかねないことを理由にカープの解散案を提議します。

議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていました。これを受け、広島市の天城旅館で行われた球団の役員会では、当時下関市にチームがあった大洋との合併を決定。当日夜のNHKラジオ放送のニュースでは、「広島解散、大洋に吸収合併」と報じられるに至ります。

大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、それでも球団職員たちはあらゆる企業に出資の伺いを立てます。まずは寿屋サントリーに相談を持ちかけますが断られ、続いて専売公社に話を持ち込みますがこれもダメ。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまいました。

そこで、石本監督は、3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ないだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい。」と訴えます。さらに3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表。



ちょうどこのころ、NHKが報じた「カープ解散」を聞き、熱烈なカープファン8人が自然発生的に集いました。この8人は白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込み、熱い口調でカープへの支援を訴えました。

「ニュースを聞かれましたか。貴方の熱意不足で、我々が愛するカープが危機に瀕しています。早急に支援の手を差し伸べて下さい。」この無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民がカープ存続に対して惜しみないエールを送るようになります。

広く資金援助を呼びかけるために球場前には、いつしか“樽“が置かれるようになり、名も知れぬカープファンたちが旗を振って、存続のために寄付金を入れてくれるよう町ゆく人々に呼びかけ始めました。

これがかの有名な「樽募金」です。こうしたファンによる支援で球団経営は多少の改善を見せはじめ、球団合併・解散危機は回避されます。自ら立ち上がった、この「8人の侍」の逸話は、後年NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」でも取り上げられましたが、いずれも、市内の商店主や勤め人であった、ということしか判っていません。

しかし、球団の危機はまだまだ続きました。翌1952年には、開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされました。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いでした。

こうして迎えた1952年シーズンですが、この年のシーズンも選手層が薄く、当初は好成績を残すことはできませんでした。

開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈みました。

しかし、そこから選手が奮起。残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れました。とくに長谷川良平と杉浦竜太郎の2人のエースピッチャーの活躍がすさまじく、チーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)をこの二人で稼ぎました。

杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入りましたが、これは球団として初のベスト10入りでした。チームとしても、前年の最下位(7位)から一つ繰り上がり、なんとか6位に食い込むことができました(最下位は松竹)。

こうして崩壊寸前の球団を立て直したカープですが、その陰には球団存続のために奔走したファンの影があり、またファンに支えられた選手たちも奮起しました。

なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになりました。広島ではカープは圧倒的な人気を誇っていたため広島球場に足を運ぶファンは多く、球団収入の安定化に目途が立つことになりました。

しかし、その後もチームの低迷は続き、50年代~60年代にかけて3位以上のAクラスに入ったのは1968年だけ。翌年には再び最下位。巨人が9連覇をなしとげた1965年から1973年の間、広島は4度の最下位を経験しています。そして同じく最下位だった1974年から明けた1975年。球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任します。

ルーツ監督は「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」ということを身を持って示し「球界の革命児」と呼ばれました。そして「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、前年まで3年連続最下位だったチームの帽子の色を、それまでの紺色から燃える闘志を表す赤色に変えました。

既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており、この年は変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になりましたが、このルーツ監督こそが今日まで続く広島カープの代名詞「赤ヘル」の生みの親ということになります。

なお、当初はアンダーシャツやストッキング、ユニフォームのロゴまでも赤に変更する予定でしたが、予算の関係で見送られそれが実現するのは1977年からとなりました。

ルーツ監督は、全力を出し切ったハッスルプレーを求め、消極的なプレーには容赦しませんでした。一方で選手を集めた最初のミーティングで「君達一人一人の選手には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある」と力説。

チーム編成においても一塁・衣笠を三塁手へコンバートし、日ハムから「闘将」大下剛史を獲得し主将を任せたほか、主力投手の大型トレードも断行。メジャーでは一般的だったスイッチヒッター転向を高橋慶彦に指令したほか、投手ローテーションの確立、スポーツドリンクのベンチ常備、進塁打のプラス査定は、彼が最初に導入したといわれます。

その大局的な考え方は阿南準郎、木下強三、藤井弘といった、後年カープ監督を務めた面々や各コーチ、選手らに大きな影響を与えました。

しかし日米の野球の違いなどで審判と事あるごとに衝突。開幕早々の対阪神戦において、掛布への投球がボールと判定されたことに激昂し審判に暴行、退場を命じられます。これを拒否しますが、重松良典球団代表が試合続行を支持。この球団の姿勢に不満を持ったルーツは3日後に監督辞任。翌月5月3日に古葉竹識がコーチから監督に昇格しました。

この年、広島は、大下や衣笠、山本浩二、水谷実雄、三村敏之、ホプキンス、シェーン、道原博幸、外木場義郎、佐伯和司、池谷公二郎、宮本幸信らの大活躍で、赤ヘル旋風」を巻き起こしました。そして、中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創設25年目にして悲願の初優勝を達成しました。

続く日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。しかし、この年に平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めました。また、この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破しました。経営面では創設以来の累積赤字をこの年にはじめて解消しています。

すでに帰国していたルーツは、この優勝の際に国際電話をかけ、教え子たちの優勝を祝福するとともに、直後、日本を再び訪れ、広島ナインをねぎらっています。チームに革命をもたらしたものの、志半ばで日本を去りましたが、その後、広島は1986年までに5度のリーグ優勝、3度の日本一を果たすなど、黄金時代を迎えました。

ルーツのその後ですが、晩年は少年野球の指導に携わるなどしていました。しかし脳卒中と糖尿病を発症させてその闘病生活が続いていた中の、2008年10月20日に死去。満83歳没。奇しくも広島が本拠地として広島市民球場を使う最後の年のことでした。

冒頭で述べたとおり、カープは当初、「広島野球倶楽部」として県や市のほか地元の大手企業の出資で発足しました。しかし、チーム成績は振るわず、1955年には負債額も莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため同倶楽部を倒産させました。

そして新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任しましたが、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれました。仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていましたが、広島財界の雄、東洋工業の社長、松田恒次がこれを拒みました。

そして、1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次自信が球団オーナーとなりました。




松田のオーナー就任の背後には熱烈なカープ愛があり、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれます。この当時、長期低迷するチーム成績に加え、新たに広島市民球場が落成したあとのフィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減しており、松田はこれを憂えたのでしょう。

松田自身は大阪生まれですが、大学卒業後26歳で帰郷。東洋工業創始者で広島生まれの父、松田重次郎が広島で経営する東洋コルク工業に32歳で入社して以来の「広島育ち」です。

こうしたこともあり、以後、広島カープと東洋工業は切っても切れない仲となります。しかし、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えました。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード傘下に入った1980年代以降も変わっていません。

松田は、球団オーナー就任当時、「しばらく面倒を見るが、決して私しない」「いずれは東洋の二文字は削って、真の野球会社として成功させる」と語っていました。

ここが東洋工業(現マツダ)のエラいところで、「市民球団」であるカープの経営に一出資者にすぎない企業が口出しすべきではない、というポリシーは今でも固く守られています。ただしオーナーには違いなく、チーム名にマツダの旧社名「東洋」を現在も残しています。

現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%を保有しており、球団運営会社はマツダグループに名を連ねています。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出されています。

さらに2013年からは新型マツダ・アテンザに採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど「株式会社広島カープ」との深い関係は現在も続いています。

ちなみに、恒次の死後は息子の耕平が二代目オーナーとなり、1975年のカープをセ・リーグ初優勝へと導きました。現在もカープはマツダとその関連会社および松田家一族が株主となっており、孫の松田元(はじめ)が三代目オーナーに就任しています。

とはいえ、球団運営の独立性は今も貫かれています。経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっています。

特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録しました。それでいて、選手に対して支払う年俸は決して高いものではありません。年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下です。

93年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいても選手年俸総額は上昇しつつあるようであり、ファンとしても、もっと大型選手を、と望みたいところです。が、長年「市民球団」として地道に経営を安定させ、堅実に選手を育ててきたその姿勢は今後も続けてほしいものです。