お台場 ~旧韮山町(伊豆の国市)

伊豆韮山の反射炉脇を流れる賀茂川の欄干

毎月12日はパンの日だそうです。パン屋さんたちが作った「パン食普及協議会」が1983年(昭和58年)の3月に制定したそうで、1842年(天保13年)4月12日に伊豆韮山代官の江川英龍が軍用携帯食糧として日本で初めて「乾パン」を焼いたのを記念し、毎月12日をパンの日にしたのだとか。

だからといって、毎月12日にはパンを食べなくちゃ、と義務感にかられる人は皆無だと思います。それに、12日は「とーふ」ということで豆腐の日でもあるみたいだし。個人的には湯豆腐でも食べながら晩酌をするほうがいいか……な。

この江川英龍のパン作りは、英龍の砲術の師匠、高島秋帆の従者に、長崎のオランダ屋敷で料理方として勤め、製パン技術を覚えた作太郎という人物がいたことにはじまったそうです。……ということは、この作太郎が焼いたパンが日本初のはずですが……まあ、そこは良いことにしましょう。

かねがね軍隊においては兵糧の補給が重要であると考えていた英龍は、この作太郎を伊豆韮山に呼び寄せ、パン焼き窯を作り、1842年4月12日、「兵糧パン」第1号が焼き上げられました。

このパン焼き釜(模型?)は韮山の江川邸にも展示してあって、結構大きなものです。先日行ったときに写真に撮るのを忘れてしまいましたが、また機会あれば写真に撮ってアップしましょう。

この英龍が作った兵糧パンはそこそこの評判だったみたいで、その後、大規模な製パン所で大量のパンが作られるようになったといい、水戸藩や薩摩藩でもこれをまねて、同じようなパンが作られたということです。

秋帆投獄

英龍が初めてパンを焼いたという1842年(天保13年)という年は、英龍にとって良しにつけ悪しきにつけ多くの事件があった年でした。

1839年(天保10年)におこった蛮社の獄は、渡辺崋山や高野長英が逮捕されるという英龍ら尚歯会のメンバーにとっては痛恨の事件であり、そのリーダー的存在であった崋山と長英を失うことで、その後尚歯会は事実上の解散となりました。

しかし、英龍にはその後もとくにお咎めもなく、逆に、同じ幕臣で渡辺崋山の弟子であった下曽根信敦とともに、長崎の高島秋帆のもとで高島流砲術を学ぶことを正式に幕府から命じられ、兄弟弟子として秋帆から最新式の西洋流砲術を学ぶ日々が始まりました。

こうして高島秋帆から近代砲術を学んだ英龍は、江戸へ帰府後、幕府に対しても積極的に高島流砲術を取り入れることを勧め、江戸でも実地演習を行うよう働きかけます。そしてこれらはすべて認められ、以後英龍は高島流砲術をベースとしてさらにこれに改良を加え、自分のものとした西洋砲術の普及に努めるようになります。

やがて幕府からは直参の旗本だけでなく全国の藩士にこれを教育するように求められるようになり、英龍のもとへは高島流砲術を学ぶため全国から有能な人々が集まるようになりました。その中には佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(木戸孝允)などの幕末から明治に活躍した錚々たる面々が含まれています。

老中首座の水野忠邦は英龍の才能を高く評価しており、砲術の指南を英龍に許可するばかりでなく、次第に幕府の軍事顧問としての役割を英龍に期待するようになっていきます。

1842年(天保13年)、水野ら老中の連名で英龍に青銅砲の鋳造を依頼しており、その翌年には「鉄砲方」の役職を英龍に与えました。もはや地方の一代官ではなく、中央政権における重職を担うことになったのです。

そして英龍の砲術の師匠、高島秋帆もまた幕府から砲術の専門家として重用されるようになっていましたが、英龍が幕府から青銅砲の鋳造の依頼を受けたこの年、なんとこの師匠の秋帆が投獄されるという事件が起こりました。

この逮捕劇を演じたのが、ほかでもない鳥居耀蔵です。蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らの時代の逸材を葬ってきましたが、それだけに懲りず、あいかわらず蘭学者やその他の開明派といわれる学者たちを弾圧していました。

高島秋帆の罪状は、「密貿易をしている」というものであり、無論これは何の根拠もないものでしたが、これにより長崎奉行の伊沢政義は、秋帆を逮捕・投獄した上、高島家は断絶となってしまいました。

秋帆は、武蔵国岡部藩(現埼玉県深谷市)へ移送され、ここで幽閉されるようになりましたが、その弟子の英龍や下曽根信敦(しもそねのぶあつ)は、秘密裏に高島秋帆に接触し、同じく秋帆から洋式兵学を教わっていた諸藩の助けも得て、秋帆を救出しようと奔走を始めました。

しかし、秋帆の赦免はなかなか実現せず、結局秋帆が放免されたのは、それから十年以上もたった1853年(嘉永6年)ペリー来航のときで、英龍が亡くなる二年ほど前のことでした。

その後、ペリー来航によって社会情勢が変化し、西洋の軍事技術に詳しい人物が求められるようになったため秋帆は赦免されますが、その十年あまりの幽閉のうっ憤を晴らすかのように活発に動きだし、再度の処罰を覚悟の上で「嘉永上書」という提言書を幕府に提出。その中で「海防が不整備ではアメリカとは戦えない」と強く主張しています。

その後、薩英戦争や下関戦争(長州がイギリス船を砲撃)を経て、幕府もようやく諸外国との交戦は無益だとわかり、世間でも攘夷論の声も低くなる中、秋帆は1856年(安政3年)には幕府の軍事学校「講武所」の運営を任せられるようにまでなり、幕府軍隊の砲術訓練の指導にあたるようになりました。

その後、維新直前の1866年(慶應2年)69歳で死去。その後の明治以降の日本軍の祖といわれた数多くの人材を育てた人物としてその名を歴史に刻むことになりました。

秋帆は講武所における門人への指導の傍ら、「歩操新式」などの教練書を著述していますが、その内容は英龍が伊豆の韮山で設立した「韮山塾」でも受け継がれ、英龍の甥で蘭学者だった石井修三(のち江戸築地軍艦操練所教授方)に英龍が頼んで日本語に訳させています。

今でも日本中で使われる「気を付け~」や「右向け右」、「前へ進め」「回れ右」「右へならえ」などの掛け声は、その時に一般の者が使いやすいようにと秋帆がオランダで記したものを石井が日本語に翻訳したもので、英龍はこの新訳語を使って農民たちの訓練を行いました。

忠邦失脚

さて、その後も秋帆の釈放はなかなか実現しませんでしたが、英龍は秋帆に代わり、江戸や韮山で全国から高島流砲術を学ぶために集まった有能な人材の指導を行っていました。

ところが、1843年(天保14年)、水野忠邦が沿岸要地の上知令(土地没収の命令)の発布を計画したことから、これに諸大名・旗本が反発し、この反対派に加担した鳥居耀蔵の暗躍もあって、水野忠邦は老中辞任に追い込まれます。

英龍らにとっては、自分たちをひいきにしてくれた水野忠邦を頼って高島秋帆を救出しようとしていた矢先のことであり、忠邦の失脚は秋帆の逮捕に続く大きな痛手となりました。

新しい老中首座には政敵の土井利位(どいとしつら)が就任しますが、利位の老中首座就任のすぐあとに英龍は「鉄砲方」を罷免され、以後、幕府からは鉄砲指南などの依頼は一切こなくなってしまいます。

水野忠邦に代わって老中首座に就任した土井利位ですが、その就任の翌年の1844年(弘化元年)、江戸城本丸が火災により焼失した際、その再建費用を集められなかったことから将軍家慶(いえよし)の不興を買い、家慶は外国問題の紛糾などを理由に土井を罷免してしまいます。

そして再度老中首座に就任したのは、これまでも外国問題ではそれなりの実績をあげていた水野忠邦でした。しかし、再び実務についた忠邦に昔日の面影は無く、かつてのような辣腕ぶりは影をひそめていました。

御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったといい、自らが先頭を立って何かを裁可するということもなく、裁断といえばかつて天保改革時代に自分を裏切った鳥居耀蔵を逮捕するなどの報復くらいだったといいます。

そんな人物に動乱の時期の幕府を管理できるわけもなく、そのころ幕閣にあって勢力を伸ばしてきていた、老中阿部正弘や前老中首座の土井利位(どいとしつら)らは、忠邦を排除しようと動きだします。

そして、天保改革時代に忠邦が鳥居耀蔵を使って行った疑獄事件や贈収賄の事実を掘り出し、これを問責理由として1845年(弘化2年)、忠邦を辞任に追い込むことに成功します。忠邦は、2万石を没収された上で強制隠居・謹慎が命じられ、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられました。

この山形への転封に際して忠邦は、領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとしたそうで、このために領民が怒り、大一揆が起こりました。その後山形でも何ら歴史に残るような活躍もなく、1851年(嘉永4年)春に死去。享年58才。

晩節を汚したとはいえ、天保の改革をはじめ、その統治時代にある程度の功があったとされ、謹慎は死後5日で解かれたといいます。

韮山塾

こうして水野に代わって老中首座となったのは「阿部正弘」でした。しかし、英龍はこの阿部から当初は疎んじられていたようで、あいかわらず「本業」の代官職以外には何の依頼も幕府からは来ませんでした。

しかし、英龍は、忠邦が失脚する前の年の1842年(天保13年)、伊豆の自らの屋敷(現在の江川邸)に「家塾」をつくり、これを開放して、入門者たちに西洋砲術の技術を伝授しはじめていました。

前述のパン焼き釜が制作され、パンが焼かれたのもちょうどこの塾が創立されたころのことです。

この塾が、通称「韮山塾」」と呼ばれているもので、天保13年10月から英龍が死去する1855年(安政2年)の正月までの間に、およそ280名がここで西洋砲術を学んでいます。この塾には正式名称がなく、「韮山塾」というのは、塾生たちが便宜的に使っていたものと考えられています。

英龍は、入門者に砲術を伝授するにあたって、講義で理論を学ぶのはもちろんのこと、実地訓練をも重視していたそうで、このため、韮山では実際に大砲や小銃を使っての試射が頻繁に行われたといいます。

韮山代官所の手代で英龍の部下だった「長澤鋼吉」という人物が書き残したカノン砲(中距離砲)の試射記録には、砲弾の重量や火薬の量、射角と着弾の関係などの数値が記されており、きめ細かい訓練が行われていたことがうかがわれます。

また、このころ江戸の斎藤弥九郎の「練兵館」の改革にも手をつけており、弥九郎に積極的に他流試合をするよう勧めたりしています。逆に練兵館のほうからも弥九郎の息子が韮山塾に入門するなど、あいかわらず二人の親密ぶりは続いていました。

ペリー来航

それから10年ほどのあいだ、英龍は韮山代官職に専念し、その傍ら韮山塾では教べんをとり、ときたま塾生を連れて山へ狩りにでかけたりしていたようで、鉄砲方を罷免後の毎日は、比較的穏やかだったようです。それは父英毅から代官職を継ぐ前の若き時代をほうふつさせるような日々だったことでしょう。

しかし、1850年代に入り、英龍が管理する伊豆の下田沖では頻繁に外国船が出没するようになっており、1852年(嘉永5年)には英龍自らが自領の下田の警備を指揮しています。この頃から英龍はさかんに幕府に対し海防の建議を提出するようになっており、この建議書が徐々に幕閣の要人の目に留まるようになってきました。

そしてこの年の6月、ついに英龍は幕府の勘定吟味役格の「海防掛」を任じられ、再び歴史の表舞台に帰ってきました。地方一代官にすぎない英龍が勘定吟味役にまで昇進するのは異例中の異例でした。英龍の抜擢の理由はよくわりませんが、おそらくこのころ幕閣で重用されるようになっていた川路聖謨あたりの推薦によるものだったかもしれません。

海防掛を任じられて3日後には、幕府の中枢の人物らが江戸湾防備計画のため、湾内の海岸区域を検分に出かけたのに同行。この検分にはかつての盟友で、このころ勘定奉行に昇進していた川路聖謨も同行しています。

英龍と川路はその後約1ヶ月間にわたって検分を続け、見聞報告書を作成しましたが、その中で英龍は江戸湾の防御線を、「浦賀水道」としました。

地図をみるとよくわかるのですが、浦賀水道とは房総半島の富津岬と三浦半島の観音崎の間にある狭い海域であり、外国船が通る場合に砲撃を加えるとしたならばここは最適な場所でした。

そんな中、その翌年の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ついに、アメリカのペリーが浦賀港に入港しました。そして、7月14日に、ペリーらは久里浜に護衛を引き連れ上陸。幕府の使者、戸田氏栄と井戸弘道に米国大統領からの親書を手渡し、その回答を得るために再来日することを告げ、去っていきました。

ちなみに、ちょうどこのころ江戸には、土佐の漁師の息子で漂流民となり、運よくアメリカ船に引上げられて米国本土で英語教育を受けることができ、その後帰国して幕府に通訳官として採用されたジョン万次郎こと、中浜万次郎がいました。

ところが、水戸の烈公、徳川斉昭は、万次郎は実はアメリカのスパイではないかという疑惑の目を向け、老中首座の阿部正弘に万次郎を登用させまいと圧力をかけはじめました。これを聞いた英龍は、万次郎を自らの翻訳兼外交顧問として招き入れることを決めます。

来るべき日米交渉の場では英語の堪能な万次郎が不可欠になるのは目に見えていましたが、烈公の手前、彼を表舞台に立たせるのはまずいと考えたためと思われます。あるいは阿部正弘から内々にその旨が英龍に依頼されたのかもしれません。

このため、翌年1月に再び来航したペリーに対して、幕閣は万次郎を直接通訳・交渉の場に立たせることができず、オランダ語の通詞森山多吉郎を介して、日本語→オランダ語→英語という回りくどい通訳による日米交渉を行っています。

しかし、英龍にすれば思いもかけず万次郎という逸材を得たわけであり、その後万次郎を直々の翻訳官として重用し、韮山代官職以外にも激増していくその後の外国関連の諸業務において大いに役立てたといいます。

後年英龍の死後、1860年(万延元年)に、日米修好通商条約の批准書を交換のための遣米使節団がアメリカに派遣され、ジョン万次郎もその使節団の一人として咸臨丸に乗船しました。

このとき、この使節団の中には江川家の家臣団もおり、江川家の面々と親しくなっていた万次郎は、長い航海の間、とかくいさかいの起こりやすい船内において、同じ使節団内の他藩の面々と江川家臣団をつなぐ格好の潤滑剤になったと言われています。

この「ペリー事件」による江戸幕府や日本全国各藩への衝撃はいまさら語る必要もありませんが、この事件以降、幕府は英龍の唱える「海防」の重要性をいやというほど認識させられるようになります。

そして、ペリーらの上陸からわずか9日後の7月23日には、幕府は台場の企画、設計及びここに据え付ける大砲の鋳造などの一連の事業をすべて英龍に委任します。

ところが、幕府が最終的に決定した台場の位置は、英龍が考えたような浦賀水道ではなく、ずっと江戸湾(東京湾)の奥の品川沖でした。

英龍らの台場設置案では、富津(現千葉県富津市)~旗山崎(現神奈川県横須賀市)の間に9基の台場を築き、江戸湾の入口を封鎖する案を最上としていました。しかし、莫大な費用がかかる上に、完成までに20年は必要と見積もられ、ペリーの再来航に間に合わないことは明らかでした。

このため次善策として選ばれたのが品川沖で、この江戸湾の奥の品川猟師町(現品川区)から深川洲崎(現江東区)にかけて、目標として12基(海岸砲台含む)の台場を築くことが決定されました。そして、英龍は、台場の設計および築造の最高責任者に任命されました。

しかし、幕府から台場を完成させるために与えられた時間はおよそ1年と、英龍らが考えていたよりもはるかに短い時間でした。ペリーが来航したとき、幕府は将軍が病気であって決定できないとして即答を避け、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞くため1年後に再来航すると告げて去ったのでした。

台場建設

台場築造を命じられた英龍は、その設計にあたって、西洋式の築城術を取り入れることを考えました。参考資料としたのが、ハッケヴィッツ(Hackewitz)というドイツの兵法家が著した築城教本で、これをオランダ語に訳したものを使用しました。現在も江川家には、このオランダ語写本が保存されているそうです。

英龍は台場設計の基本理念として「間隔連堡(かんかくれんほ)」という考え方を導入しました。これは複数の台場を一定の間隔をもって築き、それぞれに役割を分担させる方式です。つまり、各台場に備え付けられた大砲の火線が死角なく交わるようにすることで、攻撃力と防御力を高めようとするものでした。

台場の形状は本来は函館の五稜郭にみられるような複雑な多角形形状をめざしたようですが、実際にはより単純な四角形に近い形となりました。台場という初めての工事を請け負った業者の技術力には限界があり、またペリーの再来航に備えての緊急工事であったために、可能な限り工期を短縮しなければならなかったことなどが、理由として考えられます。

台場築造に必要とされた資材は、埋め立て用の土砂、基礎固めや石垣に用いる石材、土台を組むための木材を中心として、縄や釘、俵など多岐におよんでいます。この内、土砂は品川御殿山近くの畑地や高輪泉岳寺の丘土など、建設現場付近から調達されています。石材は大部分が相模と伊豆から切り出され、海路現場へと輸送されました。

松・杉などの木材は、関東一円の幕府直轄林から伐採され、数多くの村々で伐採・製材・輸送のために人足が動員されました。築造工事には、さらに多くの人足が雇われています。

英龍はこれらの材料を産出する幕府直轄地の多くを司る代官でしたから、その調達はスムースに行われたと考えられます。あるいは、英龍がそれらの地の代官であったことが、台場建設の責任者として任命された大きな理由のひとつだったかもしれません。

こうして、第1台場~第3台場は1853年(嘉永6年)の8月に着工され、翌1854年(安政元年)の5月に完成。第5、第6台場も、11月に完工するという超突貫工事で完成しました。

しかし、予定されていた第4、第7台場は未完成に終わり、第8以降の台場は未着工のままとなりました。この結果、台場は、当初計画のおよそ半分の規模となってしまいましたが、その背景としては、この頃幕府には京都御所の造営計画があり、そちらに予算を振り分けたいという思惑があったためと言われています。

しかし、計画の半分といっても、最終的に台場築造には75万両あまりの巨額の費用が投入されています。台場の大きさは、第1から第3台場がおよそ9000~1万坪、第4から第6台場がおよそ5800~6600坪ほどもあり、メートル換算すると、例えば第3台場は一辺およそ172メートルの正方形で、その広さは、甲子園球場のグラウンドの約二倍にあたります。

一応の完成を見た台場には、80ポンドの大型カノン砲を含む20~30門の大砲が配備されました。1855年(安政2年)の2月には、将軍徳川家定上覧のもと、大砲の試射も行われています(……続く)。