イドラ

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昨日の日曜日には、この別荘地における新年会があるというので、夫婦二人して出かけてきました。

ここへ引っ越してきて、これまでは出席したこともなく、三年目にして初めてのことだったのですが、なぜ急に出る気になったかといえば、この4月から同じ地区内の「区長」さんをやってほしいというご依頼があったからです。

大方の人もそうでしょうが、私ももともとそういったものを引き受けて、人さまの前面にしゃしゃり出るのはあまり好きなほうではなく、固辞したいところでした。

が、この地に長らく住んでいくからにはいつかは回ってくるだろうという予感は私も持っており、依頼があったとき、タエさんがさっさと引き受けてしまったこともあって、仕方ないな~という気分ながらもしぶしぶ引き受けることとし、その顔見せにということで、この新年会にも出席したのでした。

と、いうわけで、別荘地内にある「サンシャイン修禅寺」という古いホテルで日曜日のお昼から開催されたこの新年会に初めて出かけたのですが、会費が2500円というわりにはかなりのご馳走が出て、しかもお酒は飲み放題、またこれまで知らなかった別荘地内の人ともお知り合いになれて、結果的にはお得感があったことは否定できません。

ビンゴゲームやカラオケといったこういう会ではおなじみのイベントもあり、ビンゴはともかくカラオケはご愛嬌ではあったのですが、時間が経つにつれ、賑やかな会場の雰囲気に飲み込まれていき、ひさびさに心身ともに酔って楽しいひとときが過ごせました。

この会の向かいに座っていたご夫婦とも話がはずみ、このうちの奥様は長岡温泉でスナックを経営されているとのことで、お話も上手で、てっきり日本人かと思っていたら、タイのバンコク御出身として聞いてびっくり。

もうかれこれ日本在住も7年にもなるとのことで、日本語がお上手なのも納得できますが、お隣に座っていた優しそうな旦那さんのご指導もあってのことなのだろうな、と二人仲睦まじい様子を拝見して、心温まる思いもしました。

ところで、このご夫婦との会話の中で、お二人のお宅の庭先にムジナが出るという話が飛び出し、この話に喰いついたのがタエさんでした。

実はウチにもハクビシンが出るんですよ、というわけで、ちょうど二人とも、ケータイでこのムジナやら、ハクビシンやらと思われる対象動物を撮影していたので、お互い、その写真を見せあったのでしたが、このとき、この旦那さんが、タエさんがハクビシンだと主張するものは、実はムジナだと教えてくれました。

一方、ご主人のほうが見せてくれた写真は、明らかにタエさんが撮影したものと異なり、こちらのほうがハクビシンだといいます。確かに鼻の中央に白い縦じまがあり、なるほどこちらのほうが、ハクビシンのようです。

とすると、ご主人の主張する通り、タエさんが撮影したものは、ムジナということになるようなのですが、私的には、ムジナというと、タヌキの別名、あるいは架空の生物で、妖怪の一種というイメージでいたので、ムジナ???と疑問は深まるばかり。

御主人の説明によれば、ムジナとは、アナグマとも言うことであり、この認識は、タヌキの一種と思っていた私の記憶とも異なっています。

そこで、今日になってネットで調べてみたところ、ムジナとは、「貉」または「狢」と書き、これは、ご主人のおっしゃっていたとおり、アナグマのことを指すのだそうです。

ところが、地方によってはこのムジナのことをタヌキやハクビシンと言ったりする地方もあるようで、いろんな呼び方をされるこれらを総称して、ムジナという場合もあるようです。

このほかにも、ムジナのことを「マミ」と呼んだりする地方もあるそうで、こうした混乱は各地で非常に複雑な様相を呈しており、栃木県の一部のように、アナグマを「タヌキ」、タヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域さえあって、何が何だかわからなくなっているようです。

そもそも、ムジナの「一候補」であるハクビシンという動物は、純国産種ではないようです。もともと、日本には生息しておらず、南方の台湾やフィリピンといったところから日本に入り込んできた帰化動物のようで、ちょっと前までは九州以外では確認さえされていいなかったようです。

が、日本の在来種でもあったという説もあって、こうした学術的な分類においてもはっきりしない生物であることも、その呼称がハクビシンと呼ばれたりムジナと呼ばれたりする混乱を招いている要因のようです。

かつては、こうした混乱が、裁判沙汰になった事件も存在しています。その名も「たぬき・むじな事件」と呼び、少々古いですが、これは1924年(大正13年)に栃木県で発生した事件です。

この被告人のオヤジさんはこの裁判があった年の2月に、猟犬を連れて鉄砲を持って栃木の山奥に狩りに入り、その日のうちに「ムジナ」2匹を洞窟の中に追い込み捕らえて持ち帰りました。

ところが、この持ち帰ったムジナを村の人に自慢していたところ、この行為が村の駐在所の警察官の知るところとなり、警察はこのムジナの捕獲行為が「タヌキ」を捕獲することを禁じた「狩猟法」に違反するとしてこのオヤジさんは逮捕されてしまいました。

もっともオヤジさんは、これを「ムジナ」であると主張してやまず、その後行われた下級審においても、このオヤジさんが捕えた動物が果たして、タヌキなのか、ムジナなのか、という点が論争になり、結果として検察側が「動物学においてタヌキとムジナは同一とされている」と主張したことが認められ、このオヤジには有罪判決が下りました。

ところが、被告人のオヤジ側は、自らの住む地域では、昔からタヌキとムジナは別の生物であると考えられているとし、無罪であることを主張して上告したため、この裁判は大審院の場で争われることとなりました。

結果として、この大審院裁判における判決では、タヌキとムジナは動物学的には同じと考えられているが、その事実は多くの国民一般に定着した認識ではなく、タヌキとムジナは別物だとするオヤジの認識は正しいとされ、「事実の錯誤」だったとして被告人を無罪としました。

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以後、この判決は、日本の刑法第38条での「事実の錯誤」に関する判例として現在でもよく引用されるようになり、この裁判はかなり有名な裁判となりましたが、同じような事件として同じ年に、「むささび・もま事件」というのが発生し、早速この裁判の判例が適用されました。

ムササビは、ある地方では「もま」と呼ばれており、この裁判でも、「もま」は「むささび」と同一のものであり、そのことを知らなかったのは「法律の不知」に当たるとして、被告人が狩猟法違反による有罪がどうかが争われました。

結果として、この裁判では被告人は「ムササビ」というものを知らなかっただけであり、このため、被告人がつかまえようとしていたのは、本人が「もま」と信じ込んでいたものであり、一般的にいわれている「ムササビ」ではなかった、という判決が下りました。

こうして、前述の「たぬき・むじな事件」と同じく、被告人は無罪となりましたが、前者では被告人は、タヌキが禁猟である事を認識していましたが、「ムジナ≠タヌキ」という確信があった上で、事実誤認をしていた結果起きた事件でした。

これに対して一方の後者でも、被告人はムササビというものが禁猟の対象になっているらしい、ということくらいは知っていましたが、自分が追い求めていたものが一般には「ムササビ」という呼称で呼ばれていたことを知らず、「もま≠ムササビ」という確信は持っていなかったという点が前者と異なります。

従って、これは事実誤認ではなく、単に知識に乏しく知らなかったためだ、ということになります。

とはいえ、「ムササビ」という言葉を知らなかったというのを「無知」であると言いきるのは行き過ぎで、この当時はまだテレビなども普及しておらず、山深い土地柄に住む猟師がこうした特定の地方でしか使われない「もま」ということばでしかこの動物を知らなかったのは仕方のないことでもあります。

いずれにせよ、こうした一つの対象物を全く別のものと認識している、といったことは我々の日常でもよくあることであり、例えばこのほかの例としては、「おにぎり」と「おむすび」の違い、というのがあります。

この両者は同じものだと思っている人も多いようですが、「おむすび」というのは、本来は宗教用語で、神の力を授かるために米を、山型をかたどったものを「神の形」とみなしたものです。これを奉納して、のちに山の恵みとして食べるようになったものあり、従って、「おむすび」は、「御結び」と書くのが正しいのです。

ところが、「おにぎり」というのは、これより更に時代が下ってからできた言葉で、「にぎりめし」から転じたものです。ご存知のとおり、おにぎりと称されるものは、三角のものもありますが、俵型のものもあり、まん丸のものもありで実に多様です。

つまり、「おにぎり」はどんな形でもいいわけですが、「おむすび」は三角形でないといけないわけです。従って、コンビニで売っている三角形の「御結び」を神様に感謝もせず、単に「おにぎり」だと思って食べている人は、山の神に祟られて腹痛を起こすかもしれませんから、注意が必要です。

この手の思い込み、思い違い、というのは他にもたくさんあって、我々が日常生活で普通に口にしている、「コンセントを差し込む」とうのも実は間違いで、「コンセントにプラグを差し込む」が正しい言い方です。

さらには、「どんぐりころころどんぐりこ♪」と歌っているものは、実は、「どんぐりころころどんぶりこ♪」が正解であり、ルパン三世のテーマ曲は「ルパンルパーン」ではなく、本当は「ルパンザサード」と、歌っています。

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このように、「思い込み」というのは、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じこむことです。

自分では、常識であり、前例もあるからと、先入観・固定観念なども手伝って、信じ込んでいるため、いや実は違うんだと言って合理的な説得をしても信じてもらえない場合さえあります。

思い込みにも色々あって、個人的な問題であることも多いようですが、集団的な思い込みに発展するものも多く、17世紀のイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンは、これを社会問題の一つだと捉えて重視し、これを「イドラ( idola )」呼びました。

イドラとは、ラテン語で「偶像」を意味し、英語のアイドル( idol )の語源でもあります。

人間の偏見や先入観、誤りなどの分類を試みたもので、ちなみに、この解釈にあたってベーコンが開発した分析方法は、「帰納法」とよばれています。

「帰納」とは、個別にバラバラだったり、特殊的な事例であったりする事例などから一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする推論方法のことであり、「帰納」の対義語は「演繹(えんえき)です。

帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されませんが、演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真になるという考え方です。このあたりのこと、高校の国語か社会、あるいは倫理だったか忘れましたが、何等かの授業で習ったはずですが、私もすっかり忘れていました。

政治家でもあったフランシス・ベーコンは、「知識は力なり」と語っていたそうで、自然の探求によって自然を克服し、人類に福祉をもたらすことを提案しました。

そして、その探求方法としては、法則から事実を予見するアリストテレス的な演繹法に対し、個々の実験や観察の結果得られた知見を整理・総合することで法則性を見出すという方法を提唱しました。これが「帰納法」です。

ベーコンは、一般論から個々の結論を引き出すアリストテレスの論理学はかえって飛躍をまねきやすいと批判し、知識とはむしろ、つねに経験からスタートし、慎重で段階的な論理的過程をたどることによって得られるものであると主張しました。

この両者の考え方の違いはこの時代には大きな論争になりましたが、その後、この帰納法は多くの学術分野で受け入れられていきました。

このように、結論を導く過程における観察と実験の重要性を説いたベーコンでしたが、その一方では実験・観察には誤解や先入観、あるいは偏見がつきまとうことも否定できないことを指摘し、このような、人間が錯誤に陥りやすい要因を分析し、あらかじめ錯誤をおかさないようと確立した理論が、「イドラ論」です。

このベーコンが主張したイドラは、大きく分けて、以下の4つがあります。

●自然性質によるイドラ(種族のイドラ)
「その根拠を人間性そのものに、人間という種族または類そのものにもっている」とするもので、人間の感覚における錯覚や人間の本性にもとづく偏見のことであり、人類一般に共通してある誤り。例としては、水平線・地平線上の太陽は大きく見えることや暗い場所では別のものに見誤ることなどがあげられる。

●個人経験によるイドラ(洞窟のイドラ)
「各人に固有の特殊な本性によることもあり、自分のうけた教育と他人との交わりによることもある」とするもので、狭い洞窟の中から世界を見ているかのような、各個人がもつ誤りのこと。それぞれの個人の性癖、習慣、教育や狭い経験などによってものの見方がゆがめられることを指す。「井の中の蛙(かわず)」はその典型。

●伝聞によるイドラ(市場のイドラ)
人類相互の接触と交際」から生ずるもので、言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見のこと。社会生活や他者との交わりから生じ、言葉の不正確ないし不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見を指し、噂などはこれに含まれる。

●権威によるイドラ(劇場のイドラ)
哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のまちがった法則から人びとの心にはいってくるもので、思想家たちの思想や学説によって生じた誤り、ないし、権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見。思想家たちの舞台の上のドラマに眩惑され、事実を見誤ってしまう。

最後の権威によるイドラの例としては、中世において圧倒的な権威であったカトリック教会が唱えてきた天動説的な宇宙観が、ニコペルニクスやケプラー、ガリレオなどによる天文学上の諸発見によって覆されたことなどがあげられます。

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一方でベーコンは、人間の知性は、これらのイドラによって人は一旦こうだと思いこむと、すべてのことを、それに合致するようにつくりあげてしまう性向をもつと考えました。

例えば思いこみというものは、たとえその考えに反する事例が多くあらわれても、とかくそれらを無視ないしを軽視しがちです。このためベーコンは、この4つのイドラを取り除いて初めて、人は真理にたどり着け、本来の姿を取り戻すことができると説きました。

こうした考え方は、上述の帰納法にも生かされています。真実を追求していく過程で、人間の認識には限界があるため、様々な問題解決の過程において得られた結論においても、それが必ずしも真実ではないかもしれないことを推して知るべきである、と説いているわけです。

そして、これらのイドラにまどわされることなく、観察や経験によって得られる個々の事例を集めて選択・整理した上で、そこから一般的な法則を発見していくべきであるとし、経験論と合理論を統合することによって、科学は自然を支配することができる、としたのです。

さらに「人間の生活を新しい発見と資材によって豊かにすること」が人類発展の目的であるとし、このことの実現は個人的な才能によって担われるのではなく、人類すべての「共同作業」によって営まれるべきであるとベーコンは主張しました。

より具体的には、国家は科学研究を支援し、研究所や図書館など研究に必要な施設や研究者養成のための機関の設立をベーコンは説きました。この主張は、その後イギリスでは17世紀の王立協会や、科学アカデミーの設立によって実現し、それが世界中に伝搬して、その後の科学技術の発展に限りない影響を与えていきました。

一方では、この思い込みというものは、頑固であるとか、悪い意味で使われることが多いものですが、それをうまく使うことによって、目標達成の原動力にもなりえるものです。

周囲には無理だと言われながら、スポーツ選手がプロデビューを果たしたり、無謀と言われながら選挙への立候補を重ねて、ついに当選し、政治家デビューを果たすのも、往々にしてこうした思い込みあってこそであり、これがあってこそその成功を手中にすることができたのです。

人間は、対象とする存在の性質や優位性の有無などを判断する上において、その対象物に関する見かけや所属といった断片的な知識に惑わされがちです。

高学歴社会を経て大きな組織に所属し、高級なスーツを着ていれば、確かな人間と思われがちですが、実はその内面は腹黒い、詐欺師のような人間であったりします。

情報や自らの属する社会、宗教、文化などが有する価値観、あるいは個人の経験則を判断に、勝手にその対象物を自分なりの判断基準で裁いている場合も多いものです。

オウム真理教の教義に同調し、知らず知らずのうちに社会では犯罪とされる行為の数々に及んで行った多くの信者たちもまたしかりです。

実際の性質や実態を無視し、主観的・恣意的に選択された比較的単純な判断基準として用いることで生み出される事実上の根拠がない思考は、「思い込み」の域を逸脱して、「偏見」にさえつながっていくこともあり、これはさらには「差別」をも生み出していきます。

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多様な視点に欠ける一方的・単純なものの見方に立脚した思想、態度は、往々にして社会的な偏見を生み出すことも多く、かつての部落問題やハンセン病がそうであり、現在でも、精神障害者に対する偏見などがあります。

ちょっと前に、精神障害者の障害者手帳が問題になったこともありました。それまで精神障害者さんの福祉手帳のなどの表紙は、障害者手帳と書かれ、一見、何の障害の種類が分からないようになっていました。

ところが、2006年(平成18年)の申請分からは、写真を貼付されることになりました。以前は貼付されることはなかったのですが、これに対して一部の精神障害者団体が猛反発しました。何故かと言えば、写真を添付すれば明らかに他の一般の身体障害者手帳や療育手帳と違う、ということがわかってしまうためです。

この手帳を提示したり、さらには紛失したことで、差別等の不利益を得る可能性が大であるというわけであり、このため、その後は本人都合により写真貼付なしにすることが認められる都道府県も出てきました。

こうした精神障害者の不利益を守ろうと、精神障害者の家族によって組織された全国的な家族会があるそうで、この活動により、「きちがい」という用語は現在使われなくなりました。

事の発端は1974年に、毎日放送(現テレビ朝日系列)で放送された「新・荒野の素浪人」の中にこのことばが登場したためであり、これに反発した大阪府の精神障害者家族連合会が、患者にショックを与える等の医学的な根拠を理由に毎日放送に初めて抗議を行いました。

以後、同会ではその後もテレビ・ラジオを一日中モニターするようになったそうで、このことばが放送されるやいなや、NHK、民放を問わず大阪の各放送局に対し繰り返し抗議するなど、激しい行動を起こし始めました。

その結果、例えば毎日放送のようにスタジオに「きちがいというコトバは禁句」の掲示板を常設することになるテレビ局も現れ全国的にもこのことばは自粛されるようになっていきました。

そのほか、足が悪い人のことを「びっこ」とか「ちんば」と呼び、在日韓国人のことを「チョン」と呼ぶなどの差別用語が昔はありましたが、現在では放送禁止用語に指定され、ほぼ現在では死語となっています。

このように思い込みは、社会的な差別を生み出す根源になる場合も多く、これらはいわばその社会における「固定観念」が生み出すものでもあります。

固定観念は、固着観念ともいい、もともとは心理学用語です。人が何かの考え・観念を持つとき、その考えが明らかに過ちであるか、おかしい場合で、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、当人がその考えを訂正することのないようになっていくことです。

精神病においては、「妄想型精神病」というのがあるそうで、固定観念はある種妄想にも似たようなところがあり、また呪術に基づく迷信や、思想や宗教、文化慣習から来る固有の信念なども、固定観念となっている場合があります。

知識やものごとの把握方法のコントロールが、政治的目的や文化的な背景から、意図的、あるいは無意識的に幼少期の頃から行われ、長い成長の過程を通じても継続的に行われることもあります。

太平洋戦争に突入していった日本は、国威高揚という名の軍国主義に基づく妄想を国民の間に固定観念として定着させてしまったために、この悲劇を起こしました。

このような間違った固定観念の蔓延は、あるものごとの見方や価値観が、その人の人格や社会的な存在と切り離せないぐらいに密接に絡み合ってくることによって起こります。

やがては認識の過ちを指摘する情報に触れても、容易に考えや価値観が変化せず、その固定観念を変えることなく、ついには国民の大多数がその妄想にふけるようになっていきます。一種の集団催眠のようなものです。

かつての日本だけでなく、国策として「共産主義」による思想教育が行われたソビエト連邦もまたこの固定観念の犠牲者であり、かの国がその後衰退を招いたのと同じく、現在の中国もまた、再び同じ過ちを犯そうとしているのではないか、という指摘があります。

実は、「洗脳」というのは、中国においてかつて施された思想教育の中から出てきた用語だそうです。

もともとは、多くの主義主張に基づく政党がたくさんあった中国ですが、中国共産党が台頭した結果、彼等を共産主義に帰依させる目的で教育が行われるようになり、共産主義者にさせることを「洗脳」と呼びました。

ところが、その後太平洋戦争後に起こった朝鮮戦争時に、捕えた捕虜米兵に対して共産主義を信じることを迫った際にも、この行為を中国共産党が「洗脳」と呼ぶようになりました。

この結果、当時の捕虜米兵が次々と共産主義者であることを宣言するようになり、アメリカではこのことは関係者に大きな衝撃を与えましたが、この洗脳は英語でも“brainwashing”とそのまま訳され、主義主張が違う者の考え方を変えさせることを指す、世界的な標準語となっていきました。

かつて、中国共産党が、捕虜米兵を洗脳する際には、薬物を使用した例もあったといい、こうしたことから、洗脳といえば、何かと暗い、悪いイメージが現在でも伴います。

思想教育はどこの国でも行っていることでありアメリカをはじめとする西欧諸国も例外ではありません。しかし、情報や知識を国家が統制し、このことによって一党が国民の生活や思想を蹂躙しているような中国や北朝鮮のような国は、世界中から批判を浴びています。

とはいいつつ、アメリカ合衆国においても、 “アメリカは世界で最も自由な国である”というのは、文化的な思想教育になっており、いわば固定観念化している思想といえます。

また、日本においても、“日本は平和国家である”との固定観念が発達していますが、安倍政権による国粋主義の考え方が蔓延していく中、「積極的平和主義」の名のもとに、またかつてのような軍国主義に戻ってしまうのではないかという懸念も起こっています。

今の日本人はこの国が神の国である、という固定観念をもう一度見直し、その中のイドラを検証し、果たして「権威によるイドラ」ではないかをもう一度問い直し、日本人にとっての真に神とは何なのか、をもう一度考えなおしてみる必要があるのではないでしょうか。

さて、みなさんはいかがでしょう。ひとつやふたつのイドラ、持っていらっしゃるのではないでしょうか。

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