伊豆の瞳 ~伊東市


先週までは天候不順のことが多かった伊豆ですが、日曜日くらいからは天気がよく、今日も一日陽射しに恵まれるようです。

この上天気を連れてきたかのように、今週初めに山口の母が我が家にやってきて、滞在しています。気候もよくなってきた頃でもあるし、一度ゆっくり温泉にも浸かりたいし、我々の新居もみたいし、ということで、遠路はるばるやってきてくれたのです。

今年もう81才にもなるバーさんですが、私が小学生のころには、ママさんバレーのキャプテンなどもやっていて、地方大会で優勝などしたこともあります。高校のころには、陸上の選手として、国体にも出たことがあるということで、この年になってもかくしゃくとしています。

昨年、肺血栓をやって倒れるという、彼女にとってはこれまで経験したことのなり大病を患い、生まれてはじめての入院までしましたが、今は元気になり、前と同じように外を自由に歩き回っています。

そんな母に、伊豆観光もいろいろさせてやろうということで先日、伊東の大室山にタエさんと三人一緒で行ってきました。

大室山は、静岡県伊東市にある標高580mの火山です。以前も一度、このブログで紹介したことがあります。北海道の昭和新山などと同じく、火山としては数少ない国の天然記念物のひとつであり、山域一帯は富士箱根伊豆国立公園にも指定されています。

山焼きが毎年行われるため大きな樹木はなく、一年生植物ですっぽりと覆われており、遠くからみるとのっぺりとした禿山にみえます。頂上まで、有料のリフトで登ることができ、ここからは伊豆半島東岸とそれに隣接する山々はもとより、気象条件が良ければ、北は南アルプスから富士山、箱根の山々までみえます。

さらに海の方に目をむけると、東から南に伊豆大島をはじめとする伊豆諸島、遠くには三浦半島から房総半島、東京スカイツリーまでも望むことができる……というのですが、この日は天気は悪くはなかったのですが、富士山はもとより、房総半島も見通すことはできませんでした。

大室山は伊豆東部火山群の活動の一端として約4000年前に噴火した単成火山です。マグマが噴き上がってできた多孔質の岩石が累積することによってできる「スコリア丘」であるということは前にこのブログでも説明しました。

山頂まで上がると初めてわかるのですが、この山の中央には、直径およそ300m、深さが70mもある火口跡があり、その周囲は約1kmもあるスリバチ状になっています。

このすり鉢の上端をぐる~っと一周する遊歩道も整備されていて、ここからは上述のような大パノラマをみることができます。太古の昔、ここから流れ出た溶岩流は、すぐ東側の相模灘に流れこみ、海を埋め立て、これが「城ヶ崎海岸」の独特な海岸を造り出すとともに、なだらかな地形をも形造り、これが現在の伊豆高原の別荘地となっています。

さらに南へ流れた溶岩は谷をせき止め、「池」という地名の場所に小さな湖を造り出しましたが、地元の人が、この湖の水を排出するためのトンネルを掘り、湖を干あげてしまったので、ここは現在は水田になっています。

大室山山頂からここをみると、周囲はでこぼこしているのに、ここだけは真っ平な田んぼになっているので、すぐにここが湖だったことがわかります。

さらに北に流れた溶岩流の一部は、大室山の北側にある一碧湖にも流れ込みました。

大室山ができたのは、4000年ほど前であり、比較的若い火山といえるでしょう。ところが、この一碧湖は、およそ10万3500年前に起きた激しい水蒸気爆発によってできた「マール」であると考えられています。

「マール」は、もともとドイツ西部のアイフェル地方の方言で「湖」を意味することばです。アイフェル地方にはこのようにして生じた湖沼が70か所以上に点在していて、俗に「アイフェルの目」とも呼ばれているそうです。

このマール、水が豊富にある場所でマグマ水蒸気爆発が起こったとき、爆発によって生じた円形の火口の周囲には、マグマの堆積物からなる低い環状の丘が形成されますが、火口の真ん中にはぽっかりと穴が開きます。

火口底が地下水面より低い場合は、ここに、水が溜まることが多く、一碧湖もこうしてできたものです。

一碧湖は南東から北西に伸びたひょうたん型をしており、北西側を「大池」と呼び、南東側の比較的小さいほうは「沼池」と呼ばれています。

この大池と沼池の窪地は、それぞれ別の爆発でできた火口跡であり、ここに地下水が貯まって湖が形成されていたところに、約4000年前、およそ4キロメートル離れた大室山の噴火によって流れ出た溶岩流の一部が流れ込み、これが「十二連島」になりました。一碧湖の美しい景観を形作っている造形のひとつです。

実は我々が一碧湖を訪れるのはこれが初めてでした。いつも伊東へは買い物その他で良く出かけ、その途中でこの湖の真ん中を通る市道を通ることもあったのですが、クルマを止めて周囲を歩いてみたことはありませんでした。

大池と沼池は、そのちょうど境を市道によって分断されていて、この中間地点に無料の駐車場もあります。ここへクルマを止めて大池のほうへ歩いて行くと、案内標識があり、これをみると、大池のほうは周囲ぐるりと一周できる遊歩道が整備されているようです。

また、沼池のほうは、湖とはいいながら、その名のとおり沼地状態の場所であり、葦などの植物が繁茂していて、やや見通しも悪く、周囲を歩いていける遊歩道も途中で途切れています。沼池は水位が低いときには大部分が干上がることもあるといいます。

この二つを合わせた一碧湖は、「伊豆の瞳」とも称されているそうであり、なぜ「瞳」といわれるかというと、その美しさにも由来するのでしょうが、二つの目のように、二つの湖があるからだと、後になって気がつきました。

二つとも満々と水を蓄えていれば確かに瞳のようにみえるかもしれませんが、沼池のほうは瞳と呼ぶにはちと苦しいかんじであり、さしずめ、「半目」といったところでしょう。

この一碧湖、1927年(昭和2年)には日本百景にまで選定されているそうで、確かに、周囲をうっそうとした森に囲まれた静かな湖畔は幻想的で、非常に美しい湖です。我々が訪れたこの日は、新緑のころのことでもあり、湖面のブルーと新緑の緑が良くマッチしていて、美しいことこの上ない景色でした。

昭和初期には与謝野鉄幹・晶子夫妻が当地を訪れて数多くの短歌を残したということで、その歌碑が湖畔に作られた公園に立っていました。

何しに東京からこんなところにまで来たのかなと調べてみると、昭和初期といえばちょうどこのころ晶子は、17年かけて作成中だった6巻本「新新訳源氏物語」の完成間際だったようであり、その創作にあたってのイメージづくりのためにこの地を訪れたのかもしれません。

源氏物語の「宇治十帖」という草には、その最後に「夢浮橋」という項があるので、この作品の背景描写のためにこうした幻想的な景色を参考にしたかったのでしょう。

夫の鉄幹のほうの昭和初期といえば、1930年(昭和5年)には雑誌「冬柏」を創刊し、1932年(昭和7年)には、上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、一等入選を果たすなど、最晩年で一番光り輝いていたころのことです。

しかし、その3年後の1935年(昭和10年)は、気管支カタルがもとで62才で死去しています。おそらくは、夫婦二人でこの一碧湖で過ごしたその一時期は、生涯において美しい思い出となったことでしょう。

この一碧湖、ヘラブナなどの釣りを楽しむ場としても親しまれているようで、我々が行ったときもたくさんの人がルアー竿を片手にあちこちの水辺を獲物を探してうろうろされていました。

ここは、外来種のブルーギルが日本で初めて放流された場所としても知られています。1960年に当時の皇太子明仁親王(今上天皇)がアメリカ外遊の際に寄贈されたものを、水産庁淡水区水産研究所が食料増産を図る目的として飼育。その後、ここに放流されました。

このことがきっかけとなり日本各地に生息域を拡大していきましたが、ブルーギルの繁殖力と生命力、捕食力はすさまじく、その後、その食性が日本の池や湖の生態系に大きな脅威となっていきました。

ブルーギルは、小動物から水草まで何でも食べ、汚染などにも適応力があるだけでなく、卵と稚魚は親が保護しているため、なかなか捕食者は手を出すことができません。こうした習性からブルーギルは短期間で個体数を増やすことができ、爆発的に日本の各地でその分布を拡げました。

その後起こったバス釣りブームの際には、バス釣り業界の関係者や愛好家の手によりブラックバスの「餌」と称して各地の湖沼に放流され、これがブルーギルの繁殖をさらに助長する結果となってしまいました。

さらには、生活廃水で汚れた水でも生息できるため、一度広まってしまった個体数を減らすことは難しく、現在では生態系維持と漁業の観点から日本中の湖沼でその存在はかなりの問題とされています。

このブルーギルが今や外来種として深刻な問題を起こしていることについて、今上天皇は、天皇即位後の2007年第27回全国豊かな海づくり大会において、「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」と発言されたそうです。

この天皇の発言にもあるように、当初は食用として養殖試験なども行われ、各地の試験場にも配布されましたが、その後、成長が遅く養殖には適さないことが判明しました。

原産地の北米では大型のものが釣れ、フライパンでバター焼きにするとおいしいため、パンフィッシュ “Pan fish” と呼ばれて愛されているようですが、日本の湖沼で釣れるものは、大型にならず身が薄く、骨が多くて調理や食べる際にも手間がかかります。

味そのものは、タイにも少し似て美味しいようですが、いかんせん、小さい個体は食材としては調理しにくいため、養殖して大きく成長させなければ食材としての価値は出ません。

現在は、養殖どころか既に外来生物法によって特定外来生物に指定されており、各地で駆除が進められるようになっています。むしろ、食用にせよ何にせよどんどんと釣り上げられ、数が減るほうが日本の自然環境には良いことのようです。

我々が、一碧湖を訪れたときにも、あちこちの湖畔の緑陰でこのブルーギルらしき魚を目撃できました。木陰であまり動きもせずに、ひらひらと泳ぐその姿はなかなか愛らしく、嫌われもののようにはみえません。無論、この一碧湖だけで生息する分には何も問題はなく、アメリカから無理やり?連れてこられたブルーギルには何の罪もありません。

ところで、この湖畔公園には、一碧湖に昔から伝わるとされる、民話を紹介している表示板もありました。この湖に住む、「赤牛」にちなんだものであり、それはこんな話です。

その昔、この一碧湖のある周辺の地域には神通力持った「赤牛」が住み着いていましたが、水を飲む場所がだんだん少なくなったため、新しい住みかを探しはじめました。

そこで見つけたのが、この「吉田」の地にあった、大池(一碧湖)でした。この赤牛、年をとった赤牛の化け物だといわれていましたが、見つけたこの池は大きな池ですから、漁師の舟とかもよく通ります。

赤牛は、それがうるさかったのか、ここに住みつくようになってからは、たびたび通る舟をひっくりかえしては、 村人を困らせていました。また、ときどき娘や竜に化けて里人をたぶらかすわるさをしていました。

あるとき、里の与一という若者が、山仕事をおえ、夕焼け空を映した湖のほとりをとおりかかったとき、美しい娘が立っているのに気がつきました。その娘は、まるで湖面に映る月のように美しかったことから、仕事の疲れも忘れて、与一はふらふらと娘のそばに寄っていきました。

……すると、娘は岸辺からするすると湖のほうへと入っていき、ついには腰までつかり、そして与一に向かって、何もいわずにおいでおいでと手招きをするではありませんか。これは自分に好意を持ってくれているのだと思い込んだ与一は、娘の顔をもっと身近に見たさに、湖の中に入っていきました。

しかし、娘の姿がようやく見えそうになったときには、既に深い深みに入り込んでおり、ズブッと湖底の泥にはまり込んだと思った瞬間、ずるずると水に引き込まれ、そのまま溺れて死んでしまいました。

また、あるときには、平太という百姓が、仕事のあい間をみて、夕暮れにこの大池に釣りにやってきました。岸辺から糸を垂らし、魚のかかるのを待っていましたが、どうしたわけか、その日に限って、小ブナ一匹も釣れません。

つい、うとうとと竿を持ったまま眠ってしまった平太ですが、それからどれほどの時間が経ったでしょうか、ふと竿の先に手ごたえを感じました。これに気付いてはっと目をさました平太は、竿を引き上げてかかった魚を取り込もうとします。

そして、なんとか魚を湖面に引き上げられそうになったとき、その魚の姿がみえる先の湖の中に、何やらチカチカ光るものが見えるではありませんか。何だろうと平太は思いましたが、魚に逃げられては大変と、力にまかせて糸をたぐります。が、どうしたことか、どうしても魚は上がって来ません。

せっかくの魚を逃しては惜しいと思った平太は、とうとうふんどし一丁になって、湖の中に入り込み、手で魚をすくおうとしました。そして、水の中に手を入れようとして、水面に目を近づけた瞬間、そこにはらんらんと目を輝かせた竜が、いまにも平太に襲いかからんかという勢いで、水面まで浮上してくるのが見えるではありませんか。

おどろきのあまり、平太は腰を抜かし、ほうほうの体で水際に引き返しましたが、あまりの恐ろしさに気を失い、気がつくと、朝になっていました……

この大池のある吉田には、日蓮宗の「光栄寺」というお寺があります。富士宮にある西山本門寺の末寺で、この本寺には、織田信長の首を収めたという首塚があり、その脇には樹齢500年の柊が植えられ、静岡県の天然記念物にも指定されています。吉田の光栄寺もその末寺ながらも地元の人々からの篤い信頼を受けていました。

ここの住職の、日広和尚もまた霊験あらかたな上人として敬われていましたが、ある日の法事で、里人からこの赤牛の仕業と思われる災難の数々について聞かされます。

これを聞いた日広和尚は、村人を苦しめている赤牛とやらを退治してやろうと思い、大池までやってきて、湖の中にある十二連島のひとつにこもりました。

そして、七日七晩、毎日のようにお祈りをしましたが、このときも、赤牛は和尚のところにやってきて、あの手この手で上人をたぶらかそうとしました。日広和尚は何度か赤牛の魔力に負けそうになりましたが、七日目の夜、悪戦苦闘の末、とうとう赤牛の神通力を封じ込めることに成功します。

そして、ここに小さなほこらを建て、二度と赤牛の魔力が現れないようにと、このときに読んだお経の本とともに、雨を呼ぶといわれる八大竜王のお札を納め、おまつりしました。

それから後は、赤牛によるわざわいもなくなり、里人は安心して仕事にはげむことができるようになりました。また、日照りが続くと里人は湖の岸辺に集まって、八大竜王に雨ごいをしました。すると西の天城山の方から厚い雨雲がたれてきて、きっと雨を降らせるようになりました。

やがて、この島を村人たちは「お経島」と呼ぶようになりました。その後も干ばつで水が無くなると、「お経島」で三日三晩雨乞いのお祈りをすれば必ず大雨が降ってきたといい、現在もこの島は地元の人達に大切にされているといいます。

一碧湖には、すぐ脇の湖面に赤い鳥居が据えられている島があり、これがこのお経島のようです。これとは別に、湖の東側の湖畔には、「一碧湖神社」が建てられていて、ここの祭神はやはり龍神様、水神様ということです。

この一碧湖の赤牛を諌めた日広和尚ゆかりの光栄寺は、ここから東側に約800mほど山を下った場所にあります。この地は「吉田」と呼ばれる周囲を山に囲まれた盆地であり、古くから農業がさかんなところでした。

ここで農業を営む人達は、一碧湖から流れ出る湧水を耕作に使うか、あるいは一碧湖までわざわざ水を汲みに行っていたと思われ、大池のほうはともかく、沼池のほうは現在でも水が干上がることもあり、こうしたときには農作が進められず、大いに困ったようです。

このため、地区に安定した水を供給するため、江戸時代、幕末にもほど近い文政年間には、一碧湖から、吉田地区へ水を送るためのトンネルが掘られ、吉田までの用水路が作られました。これが「吉田用水(一碧湖用水)」と呼ばれるものであり、用水を通すため、一碧湖と吉田地区を隔てる小高い山の下に掘られたのが、「吉田隧道」です。

この隧道は、文政時代に山口半五郎という人物が中心となり、吉田村の農民が完成させました。素掘りにより掘削され、高さ8尺、幅4尺といいますから、約2.4m×1.2mの大きさです。

この「山口半五郎」というのがどういう人物だったのか調べてみたところ、どうやらこの人はこの吉田地区の住民ではなく、外部の人だったようです。どこの出身の人だったかはよくわかりませんが、人を殺めるか何かの罪を犯したのでしょう。その償いのため諸国を旅して歩いていたといいます。

その半五郎が、どこから何故この吉田にやってきたのまではわかりませんが、この頃の吉田は、一碧湖や周囲の山々から流れ込む沢水も少なくなり、思うように農作をすることができず人々は困っていました。

しかし、よそ者である半五郎に対しても、その氏素性を聞くこともせず、篤いもてなしをしてくれる村人の人情に感激した半五郎は、この人達のために、何か報いることをしてあげたいと考えたようです。

そんなとき、村人から、一つ山を越えた所に、水を満々とたたえる湖があるということを教えられた半五郎は、この湖から水を引いてくることができないかと思いつきます。

そして、村人の間を回り、一緒に用水を切り開こうと説いて回りましたが、溶岩でできた山を切り開いて用水を引くということが、どれだけ大変なのかが分かっている村人たちは、その志をありがたいと思いつつも、途方もないことだとなかなか取り合ってくれません。

しかし、半五郎は、それならばいっそのこと、自分ひとりでもできるかできないかわからないがやってみよう、ともかくこれまで犯してきた罪の償いとして一生をかけてこの事業に取り組もうと考え、手のみ一丁で山をくり抜き、隧道を掘る作業を始めました。

そして寝食を忘れ、来る日も来る日ものみを使い続け、この難工事に挑みました。途中、何度か挫折しそうにもなりましたが、時折、みるにみかねた村人からの差し入れなども受けることもあり、そのたびに人情厚い村人の幸せのためと、自らを励ましながら、工事を続けたといいます。

やがて、その努力が実り、隧道は少しずつ掘り進むようになります。工事が進むにつれ、村人たちも差し入れをするだけではなく、ときに農作業の合間をぬって手を貸してくれるようにもなり、少しずつトンネルの形が出来上がっていきました。

そして、ついに、1825年(文政8年)、13年もの歳月をかけて吉田隧道は完成しました。

この用水の完成により、吉田盆地の水不足は解消され、その後長きにわたって、美しい水田が保たれるようになりました。吉田の水田は、この隧道のおかげで、他の村々に比べて、約1ヶ月も早く田植えが行うことができるそうです。

その後、半五郎がどうなったかについては、詳しい記録は残っていないようです。が、おそらくは吉田の村の人々の一員として暖かく迎えられ、残りの一生を幸せに過ごしたことでしょう。

この吉田隧道は、その後、平成5年におきた北伊豆地震によって崩落し、不通になっていましたが、平成9年度から県のため池等整備事業により改修が行われ、平成15年度に完成。現在、昔と同じように、一碧湖の豊かな水を吉田盆地に送り込めるようになっています。

吉田隧道は現在、伊東市の有形文化財に指定されており、一碧湖の東側にはその取り込み水門とその脇に記念碑が設置されているということです。

…… さて、今日は一碧湖にまつわるお話をいろいろしてきました。あまり、故事がない場所かと思いきや、色々出てきたのには私自身正直驚きです。

伊豆にはこのほかにも、きっと世に埋もれているお話があるに違いありません。これからもそういうものを色々発掘していきたいなと思っています。

さて、窓の外をみると、今日はこの季節にしてはかなり富士山が良く見えます。山口からはるばる来たバーさんをどこへ連れて行ってあげようかと考えていましたが、やはり富士山が良く見える場所が良いでしょう。

ソメイヨシノは終わってしまいましたが、まだまだ八重桜の咲き誇る場所もあるはず。富士と八重のコラボが美しい場所をみつけたら、またこのブログでもご紹介しましょう。