比較検討 大谷 vs ベーブ・ルース

エンゼルスの大谷翔平選手の活躍が止まりません。

いったいどこまで記録を伸ばすのだろうな、と日本中が期待を込め、また固唾をのんで見守っていることと思いますが、これからまだまだ長く続くリーグ戦、故障などに気を付けて頑張って欲しいものです。

この大谷選手、バッターとピッチャーを掛け持つ“二刀流”ということで、今や日本だけてなくアメリカ国内でも注目を集めているわけですが、“元祖二刀流”と言われるベーブ・ルースの再来だともよく言われることです。

ほぼ一世紀前に活躍した選手であり、そうした選手と比肩されるわけですから、100年に一度の逸材と言ってもいいと思いますが、そのベーブ・ルースとは、体格などでどのくらい違うのか、興味があったので調べてみました。

ベーブ・ルース(本名 ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア)
メリーランド州ボルチモア出身 1895年2月6日 生まれ A型
身長 約188 cm 体重 約97.5 kg
プロデビュー19歳

大谷翔平
岩手県奥州市出身 1994年7月5日(23歳)B型
身長 約193 cm 体重 約92.1 kg
プロデビュー19歳

ご覧になってわかるとおり、デビューした年齢が同じだという以外、出身地は無論のことですが、誕生日もみずがめ座とかに座で違うし、血液型も違います。身長も大谷選手のほうが高く5cmほど。逆に体重はルースの方が多く、体型的にはぽっちゃり方で、みるからにスリムな大谷選手とは見目が全く違います。

育ちをみても、大谷選手は、小さいころから野球環境に恵まれ、小学校3年時にリトルリーグで野球を始め全国大会に出場。小学校5年生にして110km/hを記録するなどで着目を集め、中学校時代は全国大会に出場し、高校も野球では名門といわれる花巻東高校へ進学するなど、野球一筋の育ちの良さがうかがえます。

片やベーブルースといえば、子供のころは学校をサボっては通りをうろつき、町の不良たちと喧嘩に明け暮れ、商店の品物を万引きしたり、酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど、様々な非行に手を染めた悪童でした。

7歳になった頃には既に両親の手には負えなくなり、「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られており、その後の12年間をここで過ごしています。無論、野球などとは縁がなく、工業高校ということで、ここでは、様々な職業訓練を行っていました。

ところが、この学校で少年たちの教官を務めていたローマ・カトリックの神父、マシアス・バウトラー(Brother Matthias Boutlier)という先生と出逢ったことが、その後のルースの人生に決定的な影響をもたらすことになりました。

マシアスはルースに勉強や洋服の仕立て方を教える一方で、休みの時間には野球のルールや打撃・守備のやり方などを教えました。

セント・メアリーには800人ほどの少年が収容されており、20〜30人ほどの神父が少年たちの教官を務めていましたが、その中でもマシアスほど少年たちから慕われていた教官は他にいなかったといわれます。こうした恩人がいたからこそ、その後野球の神様といわれるような選手になることができたのでしょう。





大谷選手もまた花巻東高校野球部監督の佐々木洋氏という指導者がいたからこそその才能を開花させることができたといえ、またプロに入ってからも日ハムの栗山英樹以下、優秀な首脳陣によって大事育てられたことで、現在の力を養うことができたと考えられます。

100年の時を経て、育ちも体格も違う二人が、ともに野球界を代表する選手になりえたのは、やはりこうした優れた指導者たちに恵まれたからといえるでしょう。

しかし、その後のプロ生活においても、この二人の“二刀流“の在り方は少し違っています。

大谷選手が19歳で入団し、23歳でアメリカに渡るまで、日ハムでプレーをしていた間は、ピッチャーとしてもバッターとしても成果を出しており、史上4人目となる40勝・40本塁打を達成しています

日本での最終登板となった2017年10月4日のオリックス戦ではプロ野球史上66年ぶりとなる「4番・投手」で出場し、打席では4打数1安打、投球では10奪三振の完封勝利を記録しており、誰しもが“二刀流”の完成を認めるところだと思います。

ところが、ベーブ・ルースのほうは、レッドソックスに在籍していた20歳(1915年)から22歳(1917年)にかけて、投手以外で起用されたのはたったの44試合であり、1919年、24歳でヤンキースに移籍後には、投手から打者へと完全に移行していました。

ヤンキースでの15年間で2000試合以上に出場しましたが、投手としてマウンドに上がったのはそのうちのわずか5回です。その全てで勝ち投手となっていますが、この登板はもともと投手であったベーブ・ルースのデモンストレーションやファンサービスの意味合いが強かったようです。

ヤンキースでのデビュー年となった1920年には、打率.376、54本塁打を記録し、周囲を驚嘆させました。同年に記録した長打率.847は、81年後の2001年までMLB記録でした。しかし、ピッチャーとしては全く活躍していません。

ただ、19歳でプロに転身し、オリオール傘下になって以降の最初の6年間はピッチャーが本業でした。この間、なんと89勝もしています。2年連続20勝以上を挙げた事もあり、キャリア・ハイは24勝。最優秀防御率のタイトルを取った事もあります。その後野手に転向しましたが、ピッチャーで登板する事もままあり、通算では94勝しています。

1918年に投手として13勝を挙げる傍ら、打者として11本塁打で初タイトルを取っており、この頃から二刀流はやめ、野手に専念しようと決めたようです。ちょうど23歳のときであり、現在の大谷選手と同じ齢です。

このように同じ二刀流といわれながらも、ルースが野手と投手を掛け持ちしていた期間は、だいたい6年弱です。大谷選手の場合は、これからまだまだ二刀流を続けていこうとしているわけで、その期間はまだまだ伸びそうです。いつの日か、野球の神様といわれたベーブ・ルースに代わり、“二刀流の神様”といわれるようになるのかもしれません。

晩年のベーブ・ルース

23年間のプロ野球選手として活躍したルースは、1936年41歳のとき、惜しまれて引退し、この年、アメリカ野球殿堂の初期メンバー5名のうちの1人に選ばれました。その2年後の1938年、ブルックリン・ドジャースの一塁コーチに就任しましたが、わずか1年で辞任してしまい、これがMLBにおけるルースの最後の仕事となりました。

その後、アメリカは第二次世界大戦に参戦しますが、戦時中の1943年、ヤンキー・スタジアムで行われたチャリティーゲームで、ルースは代打として登場するなど、あいかわらずサービス精神が旺盛でした。1947年には、退役軍人の会であるアメリカン・リージョンの少年野球プログラムの担当に就任しており、若い人材の育成にも力を入れていたようです。

そんな中の1946年、51歳のとき、ルースは左目に強い痛みを感じるようになりました。同年ニューヨークのフレンチ・ホスピタルを訪れた際、首に腫瘍があるのを発見されましたが、この腫瘍は悪性であり、左内頸動脈を取り囲んでいて摘出が不能と宣告されました。

放射線療法による治療を受けることになりましたが、その副作用で食事がのどを通らなくなり、翌年の1947年2月に退院する頃には36キロも体重が落ちていたといいます。

それでも外出ができるほどには回復し、1948年6月13日には、ヤンキー・スタジアム開場25周年記念のイベントに参加。この日、ルースがヤンキース在籍時につけていた背番号「3」が永久欠番に指定されることとなりました。しかし、このときルースはもはやバットを杖代わりに使わざるをえないほど衰えていました。

ヤンキー・スタジアムでの同イベント参列直後、再び入院生活を送るようになったルースですが、相変わらず人気は衰えず、当時の大統領のハリー・トルーマンからの電話を含め、3万通もの見舞いの手紙を受け取っていました。その大部分はルースが愛してやまなかった子供たちからのものだったといいます。

1948年7月26日、ルースは自伝映画「ベーブ・ルース物語」の試写会に参列。これが、ルースが公式の場に現れた最後の姿となりました。その直後からルースは入院生活に戻りましたが、既にほとんど喋れないほどに衰弱していました。

ルースの病状がますます悪化していることが周知の事実となる中、病院の外には記者やカメラマンが殺到していましたが、面会できる者は数人に限られていました。

そして1948年8月16日、ルースは肺炎のため、53歳でその生涯を閉じました。検死によれば、ルースの死因となったガン細胞は鼻と口から発生しており、それらが急速に体全体へと拡がっていたといいます。



子供好きだったベーブ・ルース

子供のころにはあまり恵まれた家庭生活を送ったとはいえないルースでしたが、1914年にはヘレン・ウッドフォードと結婚。馴染みのコーヒー店のウエイトレスで、給仕をしてもらっているうちに親しくなったといい、ある日、コーヒーをついでくれたヘレンにベーブはプロポーズしたといいます。

しかし、ヘレンはルースが浸る華やかな生活が好きになれず、1926年あたりから別居生活を送っていました。しかし、1929年1月に起こった自宅の火災によって焼死。31歳だった彼女はこのころ歯科医だった男性と同居していたようです。

最初の妻が死亡してからわずか3ヶ月後、ルースは、女優でモデルの、クレア・メリット・ホジソンと結婚。クレアにはジュリアという連れ子がおり、二人はその後もう一人の少女を養女としました。

この子はドロシーといいますが、後年その著書「わが父、ベーブ」のなかで、自らをルースのガールフレンドであったジュアニータ・ジェニングスの実子であると主張しています。

ルースは私生活でも派手好きで、子供のころ悪童だったと言われたその性格が治らず、長じても粗暴な性格ではあったといわれます。ただ、自らも幼いころはひどい境遇にあったためか、子供が大好きで、ファンサービスに熱心だったことでも知られています。

あるとき、ルースの打ったファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たり、その子犬を見舞いに行ったことがあったといい、また、ファンの少年の中に病弱の子がいるのを知ると、お忍びで見舞いに行ったりすることもあったといいます。

あるとき、ジョニー・シルベスターという病弱な少年の両親が、医者から「何か彼が熱中できることがあれば、元気になれるかもしれない」と言われました。両親が彼が好きだったルースに見舞ってもらおうと無理を承知で球団事務所に電話をして頼んでみると、本当に見舞いに来てくれたため、本人のみならず、皆が驚いたといいます。

しかもジョニーと翌日の試合で本塁打を打つ約束までしたといい、結果として彼はこの期待に見事応え、この日は当初三打席凡退だったものの、4打席目でホームランを打っています。このエピソードは「約束のホームラン」といったタイトルで、ルースの伝記にはほぼ記されています。

また、ある時、試合が終わって、ルースが帰りのバスに乗るために球場から出て道路を歩いていると、路上に停まっていた1台のオープンカーが目に留まりました。そして、その座席に元気のない少年が座っているのを見て、何気なく「坊や、こんにちは」と声をかけました。

すると、少年は目を輝かせてルースの名を叫びながら立ち上がったといい、このとき、周りの人々が驚いたように歓声をあげました。そばにいた親らしき人物は涙を流しながら、「立った、立った!」と叫んだといい、その歓声を聞いてルースは何事かと思いましたが、急いでいたのでそのままバスに乗って立ち去りました。

後で分かったことでしたが、その少年は小児麻痺のために両足の機能が失われ、2年間も立つことができない状態であったといいます。憧れのルースか声をかけられ、驚きと嬉しさのあまり夢中になって立ち上がったのであり、この奇跡の出来事は当時の新聞でも紹介されました。




ベーブ・ルースと日本

ベーブ・ルースは、その選手生活が終わりに近づくとするころ、日本にも訪れています。1934年11月2日から12月1日にかけて、全米選抜チームの一員として訪日しており、1936年に引退するわずか2年前のことです。

航空便による移動が一般的でなかった時代、長い船旅を当初は渋っていた彼ですが、「東京ジャイアンツ(現巨人軍)」のネーミングの生みの親といわれる、元貿易商の鈴木惣太郎によって説得されました。

ルースが散髪屋にいるところへアポなしで訪れ、ルースの似顔絵を大書したポスターを見せて「日本のファンはあなたがやってくるのを待っています」と説得したところ、そのポスターを大いに気に入り、日本行を快諾したといいます。

この鈴木惣太郎はこのほかにも「東京巨人軍」や他球団が1936年に発足させたプロ野球においてジャイアンツのみならず他球団とアメリカ球界との窓口となって奔走したことで知られます。

その後も、プロ野球に関する要職を歴任しながらも日米の野球交流に尽力し続け、戦前・戦中・戦後を通じて日米の野球交流に尽力した点が評価され、1968年に特別表彰として野球殿堂入りしています。

その鈴木の尽力によって日本行が決まったルースは、その日本へ向かう船の上でも人一倍練習に打ち込むなどやる気十分であり、いざ訪日すると、雨天の中番傘をさして守備練習をするなど、持ち前のショーマン・シップを発揮しました。

このルースの来日は、日本に野球人気を根付かせる契機になったといわれており、このときルースと直接対戦した沢村栄治との勝負は、今日に至るまで半ば伝説化されています。沢村はこのとき、全米軍クリーンナップを4連続奪三振したといい、ルースもまた、最初の打席で沢村から三振に打ち取られています。

なお、この試合は秋に行われ、気温は高くありませんでした。このとき、ヒットで出塁した沢村に向かってルースはつかつかと歩いてき、手に持っていたセーターを彼に着せたといいます。このスポーツマンシップを見た観客は「さすが大リーガーはやることが違う」感心したといい、以後ベーブ・ルースの名が日本人の心に刻まれるきっかけとなりました。

試合後、全米選抜チームの訪日歓迎パレードが行われましたが、このときの日本人達の歓迎はアメリカでワールドシリーズで優勝したとき以上のものであったといいます。

この訪日の印象をルースはこう語っています。

「何百万人ものファンが心の底から迎えてくれていることを肌で感じている。銀座の通りは何キロにも及ぶ歓迎の列が並び、英雄のような扱いを受けた」

その後、不幸なことに日米は戦争に突入しますが、ルースもまた戦時中に全米で沸き起こった反日感情の感化を受け、この来日時に日本人に貰った陶器などを割ったこともあったといいます。しかし、終戦後にこの時の歓迎のことを思い出し、後悔していたともいいます。

そのベーブ・ルースは、既に100年も前に鬼籍にはいっているわけですが、1世紀という長い年月を経て、自分と同じく“二刀流“と呼ばれる日本人がいることをみて、どう思っていることでしょう。

子供が大好きだったベーブのことですから、少年のような笑顔でファンの心を鷲掴みにしている大谷の活躍を、さぞかし喜んでいるに違いありません。