昨夜は、いつもお世話になっている、同じ別荘地の大工さんのTさんとUさんのお招きで、大仁の狩野川河川敷で開催された花火大会に行ってきました。
大仁は、伊豆の中でも伊東や熱海と並ぶ大きな町とあって、結構な人出で、夕方7時半のスタート前には、いつもは閑散としている河川敷にびっしりの見物客が集まっていました。いつもは静かな伊豆に、こんなに人がいたのかと思うほどの盛況ぶりにはびっくり。空には満月もかかっており、川辺に吹く風も爽やかな夕暮れです。
始まった打ち上げは、あいだに3回ほどの休憩をはさみ、一時間ほどで終わりましたが、ご用意していただいた席が、左岸側の打ち上げ場所のすぐ目の前だったので、ほぼ「かぶりつき」状態で花火を鑑賞。風向きによっては、花火の燃えカスがパラパラ降ってくるほどで、臨場感抜群でした。
久々に花火らしい花火をみせていただき、二人とも大感激。来年もまた、こういう花火が見れるとすると、やっぱり、伊豆へ来れてよかったなーと思う次第。
ちなみに、静岡県内ではこのほか、伊東や、熱海、阿部川や浜名湖などでも花火大会があるそうですが、浜名湖の花火が一番ゴージャスなのだそうです。聞けば、有名地元企業が多いので、「協賛花火」の数も多いのだとか。とはいえ、不況の昨今、今年の花火はどうなのかしらん、と余計な心配などしてしまいました。
ボンファイア
ところで、今オリンピックが行われているイギリスでは、花火=fireworks とはいわず、ボンファイア(bonfire)というそうで、これは「大きなかがり火」を意味します。ようするに焚火のことで、たき火といえば冬の風物詩だよな~ と思っていたら、本当に花火があがるのは冬なのだとか。
しかも特定の日、11月5日に限ってイギリス国内のあちこちで花火大会があるようです。日本では11月というとまだまだ秋の序の口といったかんじですが、イギリスは緯度が高いので11月ともなると気温も10度以下が普通。従って、ここに上がる花火は、文字通り「冬の花火」になります。
で、なんで、11月5日なのかなーということですが、この日はイギリスはでは、ガイ・フォークス・デイ(Guy Fawkes Day)という記念日なのだそうで、なんでも、400年位前におきた、国王の暗殺未遂事件にちなんだ行事なのだとか。首謀者は事を実施する前につかまり、その仲間とともに後日処刑されましたが、イギリスでは、事件が未遂に終わり、国王が無事だったことを祝うという意味で制定された日です。
日本では、天皇陛下を暗殺しようとしたというような話は聞いたことがありませんが、総理大臣の暗殺は何度も起こっていますよね。いずれも時代の不平分子が起こした事件でしたが、このイギリスの暗殺事件の首謀者も同じような不平分子によるものだったそうです。
とはいえ、その動機はというと、宗教上の問題だったようで、えー日本じゃ考えられんよな~ と思ってみたものの、よく考えてみれば、日本でも400年ほど前に天草四朗の島原の乱がありましたっけ。中世のこの時代、日本でもヨーロッパでも宗教の問題と政治の問題は表裏一体だったようです。
ガイ・フォークス
さて、この国王暗殺未遂事件は1604年に起きました。島原の乱が起こった1637年よりも30年ほど前のことになります。首謀者は、グイド・フォークス(Guido Fawkes)、一般的には、ガイ・フォークス(Guy Fawkes)とよばれる人物で、欧米で、男性のことをよく、「ガイ」といいますが、その語源になったのがこのguyなのだとか。
また、「ガイ・フォークスの仮面」ってご存知ですか? 「情報の自由」を合言葉に、アメリカ国防省のコンピュータに不正アクセスし、情報を盗んだとして、起訴された「ウィキリークス」の創始者ジュリアン・アサンジの事件は記憶に新しいところ。こうした、いわゆる「アノニマス集団」のシンボルとして、使われることが多いお面ですが、もともとイギリスのガイ・フォークスデイで、人々がお祭り騒ぎをするときにかぶるお面なのだとか。
白い顔をして、あごひげをはやし、いかにもひと癖ありそーなこの顔。何かでご覧になったことを思い出された方も多いのではないでしょうか。
このガイ・フォークス、1570年イギリス北部のヨークで生まれます。両親ともプロテスタントだったそうで、二人は、ガイをヨークのフリー・スクールに入れました。フリースクールとは、イギリス特有の学校で、イギリスでは、親が子どもを学校へ行かせる義務はないことから生まれた学校です。
義務がない、といいますが、正確には、「義務教育の年齢に達している子どもを持つ親はその子どもにあったフルタイムの教育を(中略)学校へ定期的に行かせること、または“その他の方法で与える”義務がある」ということだそうです。要するに制度にしばられずに自由に教育を受けさせればいい、ということらしく、極論すれば親どうしが4~5人の子供を集めて小さな学校を作ってもいいわけです。
現代のイギリスでは、こうしたフリースクールの代表にサマーヒル・スクールというものがあり、多くは寄宿制で、時間や規則にしばられない、まさに自由な形での教育を施しています。こうした学校には不登校児ばかりが集まることから、賛否両論あるようですが、日本でも教育の荒廃が目立ってきていることから、見学に来る教育者も多いと聞きます。
ガイがどんな形のサマースクールに入ったのかまではわかりませんが、ここで彼は、のちの暗殺事件で共犯となる、ジョン・ライトやクリストファー・ライトなる人物と知り合ったといいます。おさななじみどうしですね。
英西戦争
その後、お父さんが亡くなると、お母さんは再婚。その再婚相手はプロテスタントだったようですが、カトリック信者に知り合いを多く持っており、その影響を受けてガイはカトリックのほうを信ずるようになります。1590年に結婚。息子と娘ふたりをもうけ、幸せな結婚生活をスタートさせましたが、その後なぜか、いとことともに妻子を残してイギリスを離れ、フランドル(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)に行きます。そしてこの地で彼は、その頃勃発した英西戦争(1585~1604年)に加わります。
そのころ、イングランドはアイルランドやスペイン領ネーデルラントを手に入れようと画策しており、外洋上ではスペインの艦艇に海賊行為なども行っていました。そして、イギリスのネーデルランドへの軍事介入を皮切りに、ヨーロッパ北部を中心にスペインと戦闘状態に入っていました。
それにしてもイギリス人のガイがなぜ、スペインに味方しようとしたのでしょうか。
この頃イングランドでは、国王ジェームズ1世の国教会優遇政策により、カトリック教徒弾圧を受けていました。イギリスでカトリックを信奉するようになっていた彼は、多くのカトリック信徒を次々に粛清するイギリス政府に高い不信感を持っていたのはまちがいなく、妻子を捨ててまで海を渡ったのは、スペイン軍に入り、イギリスと戦う覚悟だったのだと思われます。
スペイン軍に加わった彼は、スペイン軍の友軍、オーストリアの大公アルベルト(後のネーデルラント長官)の指揮下に入り、勇猛で博学、かつ高潔という高い評価を得ます。そして、1596年には指揮官として、イギリス軍が占領していたフランスのカレー(Calais)攻略にも貢献したといいます。
暗殺計画
この頃イングランド国内でも、カトリック信者たちが反政府運動を始めており、その中心的な人物のひとり、ロバート・ケイツビーは、ジェームズ1世が上院の開院式に出席したところを爆殺する計画を目論み、協力者を探していました。
そして、この時、熱心なカトリック教徒であり、かつ従軍経験のあるガイ・フォークスが、彼の目に留まったというわけ。
帰国したガイは、1604年、ロンドンで宿で首謀者のロバート・ケイツビー、トマス・パーシーらに会い、そこでのちの共犯者トマス・ウィンターなどにも会っています。そして、その暗殺計画に加わる誓約に合意し、行動を開始したのです。
そして、ガイらは、パーシーが借りた家の床をあけ、ここからウェストミンスター宮殿内の議場地下に至るトンネルの掘削をはじめます。しかし、これが極度の重労働であることがわかり、やがて断念。
そして、暗殺未遂事件がおこった1605年の3月頃、議場場地下の石炭貯蔵室に爆弾をしかけることを思いつきます。そして貯蔵室を借りることに成功した彼らは、少しずつこの地下室を火薬の樽でうめていきます。
そのころガイは、聖クレメント教会の裏手に住む未亡人・ハーバート夫人の家に住んでいましたが、程なくして彼女が彼とカトリックとの関係を疑い始めたそうです。このころのイギリスでは、カトリック信者であるということを知られるということは、かなり危険な状態。そのことに気付き、ガイはこの家を出ることを余儀なくされましたが、もし密告されていたら早晩、逮捕され、死をも迎えていたかもしれません。しかし、難を逃れたガイは暗殺計画に向かってまっすぐ走りはじめます。
実行
ところが、10月26日、匿名の人物から、「議会の開院式への出席は危険である」と警告す書簡が、カトリック議員のウィリアム・パーカーなる人物のところに届けられます。
実は、ガイの仲間のひとりである、フランシス・トレシャムは、カトリックの国会議員たちを爆殺計画に巻き込むことに反対しており、彼の義兄であったウィリアム・パーカーに、国会に近づかないよう伝えたのです。
これを知ったガイたちは慄然としますが、どうやら書簡の記述が抽象的であったらしいことを知り、またその後も「手入れ」らしいものがなかったことから計画の続行を決意します。
そしてガイは、運命の11月5日、火薬の見張りと点火の任を帯びて、宮殿地下に籠ります。しかし、間一髪その日の未明、治安判事トマス・ナイヴェットらの捜索により、地下の「爆弾倉庫」にいるところを発見され、ガイは取り押さえられてしまうのです。
処刑
その後のガイらの運命は過酷なものでした。捕えられた11月5日の早朝、ガイは国王の寝室に連行され、尋問を受けます。彼は、「トマス・パーシーの使用人ジョンソン」と偽名を語り、いかなる情報の提供も拒否しましたが、その後、激しい拷問を受け、その結果、本名と、陰謀に関わった仲間の名前を自白してしまいます。
彼に対する裁判はウェストミンスター・ホールで行われましたが、裁判とはいっても名ばかりのものであり、仲間のトマス・ウィンター、アンブローズ・ルークウッド、及びロバート・キーズと共に死刑の判決を受けます。
そして、1606年1月31日、ウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードという場所で、処刑されます。この処刑方法というのが、考えただけでもぞっとするおぞましいもので、「Hanged, drawn and quartered」というもの。日本語にすると、首吊り、内臓抉り、そして四つ裂きの刑、というわけで、この当時のイギリスでは、国王に対する大逆罪を犯した、貴族でない男性にのみ執行される極刑であったといいます。
しかし、ガイは、それまでに受けた苛烈を極める拷問と病で衰弱し、死刑執行人の手を借りねば絞首台にも登れない程だったらしく、首を吊られた時点で衰弱の為に絶命してしまったそうです。それにしても、ほかの二人はどうだったのでしょう。考えるだけでも恐ろしい最後です。
花火はやっぱり夏
さて、そんなわけで、イギリスでは、この火薬陰謀事件にちなみ、毎年11月5日を「ガイ・フォークス・ナイト」、「ガイ・フォークスの日」、「ボンファイアー・ナイト」、「プロット・ナイト(Plot Night)」などと呼んで、「お祭り」が開催されるそうです。ガイ・フォークスを表す人形を児童らが曳き回し、最後には篝火に投げ入れられて燃やされるそうで、そのクライマックスに花火があがるというわけ。
ところが、ガイは、ウェールズ方面では国王暗殺を試みた罪人として扱われていますが、スコットランド方面では自由を求めて戦ったとして英雄視されているのだそうです。ガイを主人公にしたコミックまで描かれているそうで、2006年に公開された映画作品「Vフォー・ヴェンデッタ」の主人公「V」は、冒頭で述べたガイ・フォークスの仮面を被っているのだとか。この映画では、独裁体制の破壊をもくろむアナーキストなのだそうで、この主人公をモチーフに、「アノニマス集団」のシンボルとしても使わるようになったのでしょう。
冬にうちあげるイギリスの花火は、ぶきみな仮面の人物の記念日だけというのは、日本人にとっては、ちょっと理解しがたいこと。そして、花火といえば、やはり夏の風物詩。うちわで風を送りながら、冷たいビールでも飲みながらながめる花火は最高です。そんなぜいたくをイギリス人にもちょっと味わってみてもらいたいところですが、どんなもんでしょうか。
あ、そうそう、ついに金メダイ、いや金メダルが二つになりましたね。これを弾みに、金メダルラッシュが続くことを期待したいもの。花火のない今夜はまた、テレビにくぎ付けになりそうです。