はし・橋 ~修善寺温泉(伊豆市)

8月になりました。オリンピックは序盤から中盤にさしかかろうというところ。銅メダルばかりで、金メダルはまだかーと思っていたら、柔道女子で元気な女性がとってくれました。こうなると次の金メダルが待ち遠しくなるもの。連日連夜、みなさん夜遅くまでテレビにくぎ付けになっていることでしょう。

松ヶ瀬の吊橋

さて、以前このブログで書いた、「軽野船」で取り上げた「軽野神社」のすぐ近くの狩野川には、木製の大きな吊り橋がかかっています。橋マニアの人のブログを拝見すると、「松ヶ瀬橋」と呼ばれているみたいですが、実際の橋には、どこにもネームプレートはなく、本当にそういう名前かどうかは不明です。おそらくは付近の住民の生活道として使われているのだと思いますが、のどかな田園風景の中に溶け込んでいて、すぐ下を流れる狩野川の流れも気持ちよく、とてもよい雰囲気の橋です。

どうして観光名所にとりあげられないのか不思議なほどのこの木製の吊り橋。かなり大きめの吊り橋ですが、「車両通行止」の看板があります。ところが、左岸の軽野神社から眺めていたら、なんと農作業用らしい軽自動車が、ゆるゆるとその上を渡っているではありませんか。どうやら、地元の人が使う、農耕作業車は通行できるようです。

実際に橋の上に立ってみましたが、さすがに吊り橋だけに、渡るとゆらゆらゆれます。高所恐怖症の私にとっては、とてもたまったものではなく、とうとう橋の中央までいけませんでした。が、軽自動車が通れるくらいですから、かなり頑丈な造りのようです。象が乗っても大丈夫そう。伊豆の観光名所として、もっと取り上げられてもよさそうなものですが、逆にこののどかな風景が観光客でごったがえすのも興がさめます。なので、みなさんどうか来ないでください。

ロンドンブリッジ

ところで、イギリスの橋といえば、ロンドン橋(London Bridge)です。テムズ川にかかる橋で、その下流にあるタワーブリッジと同じく、観光名所として著名です。

この橋、古くから、何度も橋が架けられては倒壊しており、その回数の多さから「ロンドン橋落ちた~♪」という童謡でおなじみだと思います。1750年にウェストミンスター・ブリッジが架けられるまでは、ロンドン市内でテムズ川に架かる橋としては唯一のものであったそうです。今のロンドン橋と同じ位置にかけられていたかどうかはわかりませんが、テムズ川に架かった最古の橋はローマ人によるもので、西暦46年に架けられた木製のものだったそうです。

そして、最初の崩落。1013年、デンマーク国王だった、スヴェン1世率いるデーン人たちが侵略してきたとき、ときのイングランド国王エゼルレッド2世が、敵を分断するためにこの橋を焼き落とさします。その後、架け直された橋も1091年に嵐で破壊され、崩落はまぬがれたものの、1136年には火災に遭って二度目の崩落。

この倒壊のあと、それまで木製だった橋を石造の永久橋にしようという提案がなされヘンリー2世の統治時代の1176年に工事が始まります。ところが、石造りという大がかりなものだったため、完成までには33年もかかり、1209年、ジョン王の統治時代になって、ようやく完成することができました。その間、川の横断はどうしていたんかしらん。不便だったでしょうね~。

このジョン王、なぜか、橋の上に住宅を建てたいと言いだし、橋の上には完成後まもなく住宅や、商店、さらには礼拝堂まで建てられるようになります。日本では考えられない感覚ですよね。なんで橋の上に家?と思ってしまいます。それほど住宅事情が悪かったということなのでしょうか。それとも、王様の趣味で眺めの良い橋の上を独占したかったのかもしれません。

この中世の橋は19の小さなアーチと南端に守衛所のある跳ね橋が備えつけてあったそうです。石造りであり、さらに橋の両端には水車までつけられていたことから、テムズ川の流がかなり阻害されたようです。このため、水の流れを逃がし、同時に船を通過させる橋脚間の「穴」の周囲では、場所によっては2mもの水位差が生じ、すさまじい急流ができました。

小舟を漕いで橋脚の間を通り抜けようとしておぼれた人が数えきれないほどいたそうで、イギリスでは「賢いものは橋上を渡り、愚か者はその下を通る(for wise men to pass over, and for fools to pass under)という諺があるそうですが、その語源になったのはこのロンドンブリッジだとか。

さらし首

その後、昨日も紹介した、1381年のワット・タイラーの乱や、1450年のジャック・ケイドの反乱の際には、橋での攻防戦によって、石造りのアーチのいくつが崩れ、橋上の住宅も焼き払われました。

このように、ロンドン橋は、過去に多くの戦乱に巻き込まれており、橋の右岸側(南側)にあった水門、ストーン・ゲートウェイの上にあった管理小屋では、タール漬けになった謀反人の生首を矛にさしてさらされていたそうです。その当時、ロンドンでも最も悪名高い場所のひとつだったみたい。

このロンドンブリッジでの「さらし首」は、このころもう、ロンドンの「名物」だったようで、スコットランドの軍人指導者、騎士のウィリアム・ウォリスは、イングランド王エドワード1世によるスコットランド支配に抵抗したため、イングランド軍によってとらえられます。1305年に処刑されますが、その首が門に架けられたのが初めてのさらし首だったとか。

他にも首がさらされた有名な人物としては、前述したジャック・ケイド(1450年)や、カトリック教会の聖人、法律家で思想家のトマス・モア(1535年)、同じくカトリック教会の聖人、ジョン・フィッシャー(1535年)、貴族で政治家、「宗教改革」などを主導したトマス・クロムウェル(1540年)などがいます。

処刑された理由はさまざまですが、いずれもその頃のイングランド王が考えていた政治や経済、宗教に反論した人物たちで、いつの世もどこの国でも権力を握った独裁者は敵対する者たちを粛清してきました。この当時、イギリスを旅行していたあるドイツ人は、1598年に30以上もの首が橋にさらされたことを記録しているそうです。

日本でも、源平の時代から、いや、それよりももっと古くから、勝者が敗者の首をはねてきたという歴史を思い起こされます。それにしてもなんで、首なんでしょうかね。人々にこいつは悪いヤツなんだ!と強烈にアピールできるからなんでしょうか。

ちなみに、この習慣は1660年、チャールズ2世によって、王政復古の際に廃止されたそうです。王政復古とは、君主によって統治された国家において、クーデターや内戦などによって一度は弱まったり、廃止されるなどした君主制が復活することで、日本でも明治維新によって幕府が崩壊し、天皇制が敷かれたとき、「王政復古の大号令」が出ましたよね。

1660年といえば、日本ではまだ江戸前期。江戸全期を通じてさらし首はあちこちで実施されていましたから、それに比べれば、イギリス偉い!です。

架け替え

ところで、ロンドンブリッジの橋の上に建てられた建物は、常に火災の恐怖にさらされていたようです。1212年の火災は、ロンドンブリッジの両端から同時に発生し、橋の上に住んでいた人、およそ三千人が焼死したそうです。

ロンドン大火の3年前の1633年にも別の大火が起こり、橋の北側にあった住居のおよそ3割が焼き尽くされたそうですが、なんと、このおかげでロンドンブリッジはその後のロンドン大火による消失を免れます。1666年のロンドン大火の際、北側市街から広まった火災が橋に燃え移ろうとしたところ、橋の上の建物の一部がすでに燃え尽きていたので、それ以上の延焼をまぬがれ、橋が消失することを防ぐことができたとか。火事が火事を防ぐ役割をしたというのですから、皮肉な結果です。

その後、ロンドンブリッジは、産業革命のためにその頃から急増しはじめていた町の交通の利便を図る上では、だんだんとロンドンの「お荷物」になっていきます。その形態が半住居であったため、大量の馬車や人の通行させるための広い道路スペースが十分にとれなかったためです。

市内の交通混雑は徐々に激しくなり、1722年にその当時の市長が「町へ入る馬車類は橋の西側を通行、町から出て行く交通は東側を通行」というふうに交通整理の布告を出すほど。1758年から1762年にかけては、水上交通改善のため中心の2つのアーチがより広い梁間のものに交換されました。

それと同時に、交通の妨げになっていた橋の上の住居も撤去されるようになりますが、18世紀の終わりには交通量の増加に対処できなくなり、とうとう、新しい橋を架けかえよう、ということになりました。

この当時、ロンドンブリッジは、すでに600年以上も使用されていたそうで、ボロボロに老朽化していました。1799年に新しい橋の設計コンペが開催され、180mの長さの単式鋼鉄アーチを持つ橋がいったん採用されましたが、その当時の技術では実現が不確実視され、また建設に要する土地の膨大だったため、結局新橋は5連の石造アーチによるものになりました。

新しい橋は旧橋より30m西(上流)に建設されたそうです。7年の歳月を経て1831年に完工。旧橋は新橋開通まで使用され、その後廃棄されました。新橋は大理石で造られ、長さは283m、幅は15 mあったそうです。その式典がウィリアム4世とアデレード王妃出席のもと、橋のたもとの会場で行われました。イギリス海軍の最新式帆船で、その後「種の起源」で有名なダーウィンが乗船することになる、「ビーグル号」が、このとき、この橋の下を最初に通ったといいます。

しかし、橋はできたものの、慢性的な渋滞はあまり緩和されなかったため、これに対処するため1902年から4年かけ、橋の幅が16mから20mに拡幅されます。しかし、この拡幅工事が橋の基礎に過大な負荷を与えることとなり、工事後に橋が8年に1インチの割合で沈みこむようになり、1924年には橋の東側が西側よりも3~4cmも低下したそうです。

売却

あまりにも補修費がかさむようになった結果、1968年にこの橋はアメリカの企業家に売却されることにになります。橋なんて買ってどうするんだろうな、と思いました。が、この企業家、ロバート・P・マカロックという人は、なんと、アリゾナ州にある「レイクハバスシティ」という町をつくっちゃった人なんだそうで、ロンドンブリッジはその象徴のために欲しかったみたい。。

マカロックは、アリゾナ州にある「ハバス湖」という湖の東側に3500エーカー(14 km²)の土地を購入し、街づくりを開始し、レイクハバスシティは1978年に市制が執行されています。

問題のロンドンブリッジは、ハバス湖からトンプソンベイに至る人造運河に架け替えられました。ロンドン市から250万ドルで購入されたといいますから、今の時価では5億円、といったところでしょうか。1968年に架け替えられる前に、ロンドンブリッジはいったん解体され、再度組み合わせやすいように印を付けて分解された石材が大西洋を渡り、レイクハバスシティまで船で運ばれ、さらに700万ドルを掛けて組み直されたそうです

橋は1971年に開通し、今ではアリゾナ州ではグランド・キャニオン国立公園に次いで2番目に客の多い観光地になっているとか。それにしても、アメリカ人というのはスケールの大きいことをやるな~と改めて感心至極。

現在

さて、アメリカにその心の橋?を売っちゃったイギリスですが、その後、現在のロンドンブリッジを1967年から建設をはじめ、1972年に完成させています。開通は1973年3月17日。現在のロンドンブリッジは、プレストレスコンクリートの梁でできた頑丈なもので、全長283mの大建築。400万ポンドの費用の一部に、アメリカに売り払った古い橋の売却収入があてられたそうです。

その橋の下を先日、オリンピックでは、ベッカムが乗ったスピードボートがくぐり抜けましたね。いまや、その下流にあるタワーブリッジとともに、ロンドン観光にはかかせない存在……と書きたいところですが、実際の人気はタワーブリッジのほうが断トツのようですね。ロンドンブリッジというと、このタワーブリッジのことだと勘違いしている人も多いと思います。私もそうでしたが……

タワー・ブリッジのほうは、1894年にできた、跳開橋で、いわゆる跳ね橋の一種です。中央の橋脚部分が可動になっていて、船が通るときに、上へもちあがります。可動部分は初期の頃水力を利用して開閉していたようですが、現在は電力を利用しているそうです。

観光の目玉になるぐらいですから、ロンドンの中でも結構目立つ存在。このため、第二次世界大戦中はドイツ空軍の爆撃目標になり、1944年にV-1ロケットの1発が車道部分に命中して被害を受けたそうです。

タワーの高さは40mもあるそうで、左右にあるゴシック様式のタワー内部は展望通路になっていて、歴史博物館もあるとか。「タワーブリッジ」の名称は、すぐ近くにあるロンドン塔の景観と調和するようにということでつけられ、そのようにデザインされたそうです。

実際、ロンドンブリッジよりは瀟洒なかんじで、よりイギリスらしい雰囲気。こちらのほうに興味がそそられますね。ロンドン観光定番スポットとなっているのもわかる気がします。が、ロンドンへ行く機会があれば、ロンドンブリッジのほうも行ってみたいものです。

さて、長くなりましたので、今日のところはこれまでにて。今晩は、狩野川の大仁河川敷で花火大会があるそうなので、行ってみたいと思います。オリンピック開催時にテムズ川で上がった花火のようにきれいなものが見れると良いのですが。