カンタベリー物語 ~旧修善寺町(伊豆市)

ロムニー鉄道

今週は、オリンピック特集ということで、意図としてイギリスにちなんだお話を中心に書いています。

と、いうことで、伊豆とイギリス…… なんか関係があるかな~と考えていたら、これまで何度か訪れている、「修善寺虹の郷」には、「イギリス村」というのがあったのを思い出しました。

イギリスの田園風景を模したゾーンということで、中世のイギリスを意識した建物や公園があり、虹の郷の入口すぐのところにある、いわばこの施設の顔です。

このゾーンから、お隣の「カナダ村」までには、「ロムニー鉄道」という本物の鉄道が敷かれています。日本のSLよりも少し小さめの15インチ鉄道といわれるものですが、イギリスの、ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道(Romney Hythe and Dymchurch Railway)が現在も実際に使用しているものを輸入して、使っているそうです。

「本格的な公共輸送を行う、正式営業の実用鉄道」としては、事実上世界で最も狭い軌間を使用するものだそうで、イギリスでは、1927年に開業後、現在でも元気に動いています。全部で10台の機関車が運行されており、15インチ鉄道の中では英国において最長の路線(23km)なのだとか。主には観光用に使われていますが、観光客だけではなく、子供達の通学にも利用されているそうです。

ケント

このロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道があるのは、ロンドンの南東にある、「ケント州」。イングランド最東端の州であり、北はテムズ川と北海で、南はドーヴァー海峡(カレー海峡)とイギリス海峡(ラマンシュ海峡)で隔てられています。

ドーヴァー海峡にある「ドーヴァーの白い崖」はイギリスの中でも最も象徴的な地形のひとつで、写真でみたことのある方も多いのではないでしょうか。この白い壁があるドーバー郡のすぐ南側に、シェップウェイ郡があり、そこにフォークストン(Folkestone)という町がありますが、ここは英仏海峡トンネル、通称ユーロトンネルがフランス側に向かって伸びる町であり、およそ38km先のカレー(Calais)とつながっています。

私自身、イギリスには行ったことがありませんが、このドーバー海峡のイギリス側の海岸線風景は、「絵に描いたよう」に美しいところと聞いています。いつかは行ってみたいものです。

海岸線だけでなく、ケント州は、別名「イングランドの庭園」とまで言われているそうで、こちらも「絵にかいたような」美しい田園風景で有名といいます(ほかにうまい表現ないんかいな)。当然のことながら、農業がさかんな地域ですが、羊毛製の生地製造、製鉄、製紙、セメント、工学、などの工業もさかんで、このほかにも漁業と海岸のリゾート地での観光業に多くの人が従事しているそうです。ケントは「ケント紙」の発祥の地なのだそうで、またタバコのケントも同地に由来があるとか。

さきほどの英仏海峡トンネルとともに、ヨーロッパ大陸への航路を開く国際フェリー港があり、交通の要所でもあります。17世紀ころには、オランダやフランスといった大陸列強との間に緊張がおき、1667年にオランダ海軍がメドウェイの造船所を奇襲してからは、大陸に近いケント州を中心にイギリスの海岸沿いのあらゆる場所に砦が築かれました。第二次世界大戦ではケントに空軍基地が建設され、民間施設が度々爆撃された英独航空戦で極めて重要な役割を担ったといいます。

かつてケントに住んでいた有名人としては、チャールズ・ディケンズやとチャールズ・ダーウィがいます。このほか、ウィンストン・チャーチルの家だったチャートウェルもケントにあるそうで、こうした有名人の足跡を探る観光ツアーなどもあるようです。面白そうですね。

アウグスティヌス

ケントは、近代以前の中世にも、いろんなことがあった場所です。州北東部にあるカンタベリー市は、英国国教会の中心地で、アウグスティヌスの大司教館がある町です。アウグスティヌスというと、神学者、哲学者であり、古代ローマで大きな影響力をもった理論家を思い出しますが、こちらのアウグスティヌスはこれよりも170年ほどあとの人物。キリスト教のローマ教皇から、イングランドに布教に行くように命じられてカンタベリーに来た別人です。

ややこしいので、こちらをカンタベリーのアウグスティヌスと呼ぶのに対して、古い時代のアウグスティヌスはこれと区別して「ヒッポのアウグスティヌス」と呼ぶのだとか。

カンタベリーのアウグスティヌスはもともと、ローマの聖アンドレアス修道院の院長でしたが、ローマ教皇グレゴリウス1世の命により、約40人の修道士とともに596年にイギリスへ布教のために派遣されます。597年、ケント王国の王エゼルベルトに布教の許可を求め、カンタベリーに居住することと説教の自由を認められ、その年に初代カンタベリー司教に任ぜられると、クリスマスまでに約1万人のイングランド人に洗礼を施したといいます。かなりやり手の宣教師だったのでしょう。

カンタベリーのアウグスティヌスは、ローマ式典礼を導入するとともに、イングランドの国情・習慣を尊重し、性急に改革を導入しないというカトリック的折衷主義を採用したそうです。すでにイングランドにある程度浸透していたケルト教会への影響まで考慮したためであり、多くの信者を勝ち取ったのはそのたくみな戦術のおかげです。その後、アウグスティヌスは、カンタベリーの土地に教会を建て、初代の「カンタベリー大司教」となります。

その後、この教会は、カンタベリー大聖堂といわれるまでに拡張され、国王、ヘンリー8世が統治していた1532年に、ここを中心として、イギリス独自の英国国教会(イングランド国教会)が設立されます。ローマと決別して、イギリス独自のキリスト教世界を持つようになったわけで、カンタベリーはイギリス国教の総本山になったわけです。以後、カンタベリーは、現代に至るまで、イギリス王室と英国国教会の関係を象徴する重要な場所となっていきます。そして、このカトリック教会の総本元であるローマ教会との離別が、その後のイギリスにおける激しいプロテスタント運動につながっていくのです。

反乱

ケントは、ロンドンに近いことから、こうした宗教的なお話以外にもいろんな歴史的逸話があります。たとえば、中世にはワット・タイラーの乱(1381年)とジャック・ケードの乱(1450年)という、日本でいう農民一揆のような乱がおき、農民などの不平分子がケントからロンドンに攻め入っていまはんらnす。

反乱の背景としては、1338年に始まった百年戦争などが、長期化したことで、イギリスの国家財政は大幅に悪化。これに対処するため、農民に対し人頭税などの課税強化を行ったことなどが遠因といわれます。また、当時黒死病と呼ばれたペストが大流行したため、労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い農奴制を強化していったことも原因だったようです。

この双方の乱では、ケント州を中心に5000人とも1万人ともいわれる農民が集結し、ロンドンで狼煙をあげますが、王国軍によって鎮圧されてしまいます。1450年のワット・タイラーの乱は、イギリスでは最大規模の反乱だったそうですが、その首謀者は、全員絞首刑。ジャック・ケイドの乱でも、その首謀者ジャック・ケイドの生首は槍にさされた状態でロンドンブリッジにさらされたそうです。

日本でも大塩平八郎の乱(1837年)や島原の乱(1637年)などの大きな乱が過去におこり、首謀者が殺されていますが、反乱が起こっても、その後たいして悪政は改められることは少なかったようです。イギリスでも同じで、犠牲者の魂だけが歴史に刻まれることになったわけで、むなしいかぎりです。

カンタベリー物語

さて、カンタベリーのお話に戻ります。英国国教会は、1162年にトマス・ベケットという人を大司教に任じ、イングランド王ヘンリー2世の大法官としての役目を与えました。しかし、その後教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、1170年にヘンリー2世の部下の手で暗殺されてしまいます。英国国教会は、その死を悼み、2年ほど経ってから、トマス・ベケットを殉教者としてカトリック教会より列聖させました。そして、その後、トマス・ベケットの殉教後はカンタベリーはイギリス国教の大巡礼地として、内外に認められるようになっていきます。

そして、このカンタベリーで生まれた童話集が、「カンタベリー物語」です。その名を一度は聞かれたことがあるのでなないでしょうか。1387~1400年ころに、イングランドの詩人ジェフリー・チョーサーという人が書いた物語集で、これが発表されて以降、イングランドの作家たちはフランス語やラテン語より自国語である英語を使うようになり、英文学に大きな貢献をしたのだそうです。

その内容ですが、さきほど書いた、聖トマス・ベケットのお墓があるカンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま宿で同宿した様々の身分・職業の人間が、旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を順に語っていく「枠物語」の形式を取っているのが特徴。

登場人物としては、騎士、粉屋、バースの女房、親分、料理人、法律家、托鉢僧、刑事、学僧、貿易商人、騎士の従者、医者、修道院僧、牧師、宿屋の主人、などなどと登場人物はバラエティに富んでおり、様々なジャンルにわたり、語り手の階級を代え、各話のスタイルにも多様化がはかられていて、とても600年も前に書かれたものとは思えないような「大人の童話」に仕上がっています。

一例として、「バースの女房の話」をとりあげると(以下、ウィキペディアより引用)、

「アーサー王は、死刑の決まった家来の若い騎士に対して、命を助ける条件として「女は何が一番好きか」の答えの探索を命じ、1年と1日の猶予を与える。騎士は旅の途中に出会った醜い老婆からその答えを教えてもらい、王宮でそれを言うと、女性全員の同意を得られ、無事死刑を免れた。しかし、老婆はその御礼に騎士に「結婚」を求め、無理矢理結婚させられる。そして、新婚の床に入ることになったが——」

「托鉢僧の話」では、

「無実の人を偽りの罪で教会裁判所(Ecclesiastical court)に召喚すると脅して、金をまきあげる悪徳刑事は、偶然出会った郷士と兄弟の契約を交わすが、実は郷士は悪魔だった。刑事は、相手が悪魔と知りながら、さらなる悪事を働こうとするが——。」

などなどです。そのお話の面白さから、その後世界中でカンタベリー物語を題材にした小説や、映画、演劇や音楽が作られ、日本でもたくさんの書店が翻訳本を出していて、今も売れ続けています。

カンタベリー物語が書かれた1387~1400年ころという時期は、前述のワット・タイラーの乱があるなど、イングランド史の中でも騒然とした時代だそうです。農民による一揆のほかにも、カトリック教会が教会大分裂の真っ只中にあった時期で、著者のチョーサーの親友の多くがワット・タイラーの乱に連鎖して処刑され、チョーサー自身もロンドンからケントに疎開することを余儀なくされたのだとか。

そこで歴史に残る大文学が書かれ、イギリス人がよく使う書き言葉に大きな影響を及ぼしたということは、ケントは、イギリス文学のふるさとといっても良いくらいでしょう。そして多くの史跡が残り、風光明媚な観光地とし多くの観光客でいつも賑わっているそうで、イギリス人にとっては日本人にとっての京都のようなものなのかもしれませんね。いつか訪れてみたいものです。

さて、今日は、空が真っ青に晴れ、久々に富士山がくっきり見える上天気です。カンタベリーのある国、イギリスでは今日もアスリートたちの熱い戦いが続いています。がんばれ!フジヤマ日本!