自然に還る

伊豆での暮らしも、来年でもう9年になります。

しかし、ここよりもさらに長く住んでいたところもあり、これまで一番長く住んだのは、東京西部の町で、20年と少しそこで暮らしました。

そこに住もうと思ったきっかけは、そのころ勤めていた会社から近かったということもありますが、東京の西の端にあって山が近いというのがもう一つの理由でした。

昔から山登りが好きで、といってもアルプスといわれるような難所に行くでもなく、近場の比較的登りやすい、しかし眺めのよい山を選んでは、仕事が休みの週末ごとに踏破する、ということを若いころには繰り返していたものです。

山が好きというよりも、自然と触れ合うのが好きだったといったほうがいいでしょう。齢を重ねた現在では、さすがに毎週山へ行くといったことはしませんが、それでも週末には近所の山野を歩き回ることが半ば習慣化しています。

「自然霊」というものがあるそうで、大地や空気、緑といった自然現象をつかさどる働きをもっているといいます。この世に一度も姿を持ったことのないので目には見えませんが、大なり小なり私たちの生活に影響を与えているようです。時折、無性に山の中や川近くを歩きたくなるのは、そうした霊たちが私に囁きかけているのかもしれません。

古代日本の人々は自然物には生物にも無生物にも精霊(spirit) が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んでその名前の語尾につけました。

古事記や風土記などの古代の文献にそれらがみられます。葉の精は「ハツチ(葉槌)」、岩の精は「イワツチ(磐土)」、野の精は「ノツチ(野椎)」、木の精は「ククノチ(久久能智)」です。また水の精を「ミツチ(水虬)」と呼び、火の精は「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいました。

古代人はまた、自然界の中でも「力」を持つものの発現はその精霊の働きと信じていました。雷は「イカツヂ」であり、毒によって他の生き物を死に至らしめることもある蛇は「オロチ」です。

こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも宿るとされ、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」と呼ばれ、足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」です。

それにしても、なぜ「チ」なのかですが、人間の生命や力の源が「血」にあると信じられたところに起源していると言われています。父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができ、さらに人の生活に密接な道(ミチ)や家を建てる場所である土(ツチ)もまたそこからきているといわれています。

さらに、神話に出てくる国津神(くにつかみ、地上の神。対するのは天津神)系の神様には「チ」が名称の語尾につけているものがあります。「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日孁貴)」などがそれです。

また人間でも大きな勢力を持った一族には「チ」を付けた別名で呼ばれていました。物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」がそれらです。

こうした「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋るといった自然主義的な観念を人々が普通に持ち、信じていた時代を反映しているものと考えられています。




生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方を「アミニズム」といいます。ラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味です。

霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観であり、日本だけでなく世界中で宗教や習俗として定着しています。原始的な宗教観であることから、未開社会の未開人の宗教であるとする見方もあります。とくにキリスト教を先進的なものだと信じるヨーロッパの人々にとってはこうした古い考え方は時に蔑視の対象になっているようです。

しかし、自然物・自然現象に宿る霊魂をストレートに崇拝するというのは、きわめてシンプルな営みです。近代宗教の多くがそうであるように、改めて神をしつらえてそれを崇拝するというのは、神聖なものと何か直接向き合えていないような感じがしないでもありません。

朝日が昇ったら自然にそれに手を合わせたくなる、きれいな景色を見たら自然と涙が流れる、といった感覚は人間にとってごく自然なものであり、蔑むどころかより崇高なものであるという気がするのです。

人間が自然の中に神秘性を感じて自然崇拝の場としているところは世界中にあります。ユネスコの自然遺産に指定されているものの中にそれらは多く、例えば、アメリカのイエローストーン国立公園がそれであり、インディアン達はここを“Mitzi-a-dazi”(「黄色い石のある川」)として崇敬してきました。

オーストラリアのグレート・バリア・リーフもそうで、オーストラリア先住民のアボリジニやトレス海峡諸島民たちは1万5千年前から、グレート・バリア・リーフと共生を続け、彼らの文化や精神に多大な影響を与えてきました。

日本の白神山地もまたユネスコの自然遺産に登録されており、古くから地元の人々の崇拝の対象になってきた場所です。青森県の南西部から秋田県北西部にかけて広がっている標高1,000m級の山岳地帯で、世界遺産登録以前には弘西山地(こうせいさんち)とも呼ばれていました。

世界遺産登録地域の外側にも広大な山林を持ち、通常は、登録地域外も含めて白神山地と呼ばれますが、その中でも特に林道などの整備がまったく行われていない中心地域だけが世界遺産登録の対象です。

山地全体が神聖なものとされていますが、中でも「白神岳」は地元大間越の人たちが祈りをささげてきた、信仰の山でもあります。白上山とも呼ばれることがあり、これは秋田県側から春に見える山頂の雪形が「上」の字に見えるためだといいます。

白神山地は、他の名勝地のような美しい高山植物や雄大な景色を眺められる場所はあまり多くはありません。ここが世界遺産に登録されたのは、意外にもブナの原生林が広大に広がっていることが評価されたものです。

ここのブナは人為の影響をほとんど受けていません。ブナはあまり人間の生活には役にたたず、薪のほかでは椎茸の栽培以外にはあまり使い道はありません。そのために伐採を免れてきたのです。

小さな実をたくさん付けるために果樹と同様に寿命が短く、寿命は200年ほどであると言われています。自然に放置して倒れたブナは他の樹木や生物の生存に欠かせない栄養分を供給しています。

白神山地のブナの原生林は樹齢の若いもの、大木、老木、倒壊し朽ちたものまであらゆる世代が見られます。もちろんブナだけでなく、カツラ、ハリギリ、アサダなどの大木も見られ、そうした木(言い換えれば森)のみで形成された環境が評価された世界的にもめずらしい世界遺産だといえます。

世界遺産に登録されている地域は、中央部の核心地域とその周辺の緩衝地域であり、これらの地域の開発は原則禁じられています。このため、核心地域には道らしい道はなく、遺産登録以前からあった登山道があるだけで、新しいものは今後も恒久的に整備されない予定です。

秋田県側の核心地区は原則的に入山禁止です。また、青森県側の核心地域に入るには、事前、あるいは当日までに森林管理署長に報告をする必要があります。ただし林道がないので、仮にここを踏破する場合でも高度な技術が必要であり、世界遺産に登録されて以降、遭難事故もあって死亡者も出ています。

禁猟区にも指定されており、このため川で漁を行うには漁業協同組合と森林管理署長の許可が必要です。また動物の猟もできないわけで、このため自然の資源を利用してきたマタギによる狩猟も禁止されており、マタギ文化が消失するのではといいう懸念を持つ人もいます。

マタギの立ち入りを許可して文化を保つことが重要か、自然保護のために核心地域への立ち入りを全面的に禁止すべきかどうかについては現在も議論が続いています。しかし、ほとんどの場所が開発され尽くされている日本においては、少しくらい全く人が足を踏み入れることのない場所があってもいいのではないでしょうか。




この白神山地と同様に日本でユネスコの自然遺産に登録されている場所は、ほかに3つあります。屋久島、知床、小笠原諸島がそれらであり、登録年は白神山地と屋久島が1993年で元も古く、知床が2005年、小笠原諸島が2011年です。

いずれもその地理的自然、生物的自然が高く評価されたもので、私もいつかは行ってみたいと思うのですが、どれを選ぶにしても甲乙つけがたいものがあります。

もっとも、こんな有名な場所に行かなくても、美しい自然というものは日本中至る所にあります。これを書いている部屋の窓の外に見える富士山もその一つであり、晴れた日などには輝かんばかりの光彩を放つ最も身近な自然美です。

富士山の場合は自然遺産ではなく、「信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産に登録されました。同じく山岳信仰が理由として世界遺産に登録されているのは、高野山や熊野三山があり、ほかにも、平泉の金鶏山(浄土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群)や、長崎の安満岳(天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)などがあります。

これらはいずれも、その山の持つ水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、あるいは雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から崇敬されてきたものです。神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、「神奈備(かんなび)」という神が鎮座するとされました。

神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域であり、これが「カンナビ」です。古くは、その山に付けられている一般名とは別にそう称されて敬われていました。語源は「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする説や、「ナビ」は「隠れる」を意味し「神が隠れ籠れる」場所とする説があります。

カンナビの崇拝は、自然への感謝や畏敬や畏怖の表れですが、ここは常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境とされています。常世とはつまりあの世のことで、神の住まう神域とみなされることもあります。常世と現世を分かつ「結界」や「禁足地」としての意味もあり、現世の端境として、現在でもここで祭祀が行われる地域も多く残っています。

富士山だけでなく石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している例は多く、麓の農村部においてはその山が水源でもあることから、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという言い伝えを残すところも多くなっています。

古くから手付かずで残すべき自然として重視されてきた経緯から開発を免れてきたものも多く、山そのものだけでなく里山やその周囲にも文化的にも貴重なものが残っており、世界中の自然環境学の研究者などが、研究に訪れる場所でもあります。過去にはその土地特有の土壌細菌の発見が新薬開発のきっかけとなったといったこともありました。



現世と常世の境界であることから、死者の魂(祖霊)が山に帰る場所であるという言い伝えもあり、これは「山上他界」といいます。古くには、亡くなった人の魂は山の上の遥か彼方に行ってしまうと信じている人が多く、葬儀の際の野辺送りは「山送り」とも呼ばれていました。

山上他界をよく表しているのが「修験道」であり、これを体現する人たちは修験道者といいます。他界あるいは死の世界で修行を積み、現世に帰還することで常人の持てない力を身に付けることを目指す人々です。山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得る日本古来の山岳信仰であり、のちには仏教に取り入れられて発展した日本独特の宗教といえます。

海上他界というのもあり、これは人は亡くなったら海の彼方に行ってしまうと信じられていたものです。九州や南方の島々、或いは瀬戸内地方に多く、竜宮伝説はこの海洋信仰の延長線上にあるとも言われています。

沖縄や奄美群島に伝わる他界概念のひとつ、「ニカライナ」も海上他界の思想です。生者の魂はニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられています。沖縄では海へ帰った死者の魂は死後7代して親族の守護神になるという考えが信仰されていました。

ほかに「地中他界」というのもあり、こちらは地の下はるかに死者の霊魂の眠る国があるという考え方です。いわゆる「黄泉(よみ)」と言われる世界がそれであり、日本神話のイザナギとイザナミの話が有名です。

死者の魂を他界へと運ぶとされるものとしては、馬や鳥といったものがあります。馬は、ケルト神話の死の女神エポナなどが有名であり、ヨーロッパで信仰が衰えた後も、ケルピーといった命を奪う妖精伝承の形で残っています。また、鳥は、葬儀に鳥葬といった形式があり、また霊魂の表象とされる地域が世界中にあります。

船もまた、あの世へ導いてくれる象徴として昔話によく出ていきます。北欧のヴァイキングの風習には「船葬墓」というものがあり、副葬品として船を死者に添える風習もヨーロッパ各地で見られるものです。

以下のアイヌの物語にもあの世への乗り物として船が出てきます。今宵、皆さんが眠る前のおとぎ話として、それを紹介してこの稿を終わりにしたいと思います。

ある酋長の夫婦が和人の国へ交易へ出かけた。その帰りに嵐に遭遇した二人は、小舟でつたいづたいで海岸を移動して、寝泊りを続け、故郷の村に帰ろうとしていた。その日は夜になってしまったので、崖山の下の浜に舟を置いて一休みしていると、大津波が寄せて来た。夫はとっさに妻の手をとり、崖を上って避難すると、そこにひとつの洞窟をみつけた。

中に入ってみると意外にも奥は深く、さらに歩き進むと暗くなるどころか逆にどんどんと明るくなっていった。歩き続けた二人がその先で見つけたのは、綺麗な村で、そこでは何人かの村人が畑仕事をしていた。

夫がそのうちのひとりに自分たちが津波に遭って逃げてきたことを話すと、その男はここは死者の国であり、けっしてここの食物を口にしてはいけない、と教えてくれた。

ここの物を食べると人間界に戻れなくなるとも言われたが、またここは死者の国ではあるものの、人間以外にもクマもシカもいる。このため、狩りで食べていける上、生前に使っていた道具も持って来れる場所だとも言われた。

いかんせん、ここはあの世である。何も食べず、急いで帰るようにとこの男の忠告を受けた二人は引き返そうとすると、男はさらに、お前たちが見つけた浜は悪魔が住んでいるところで、津波もその悪魔が見せた幻であるから、舟も無事であるはずだと教えてくれた。

二人が洞窟を引き返す途中、見知った老人と見知らぬ老人とすれ違ったが、2人ともこちらの姿は見えない様子だった。夫婦が元いた浜に帰ると朝になっていた。悪魔がいると言われた二人はあわてて小舟に乗り、さらに何日もかけてようやく生まれた村に帰ることができた。

夫婦はその後末永く幸せに暮らしたが、時折思い出すのがあの洞窟の奥にあった美しい村だった。いつか自分たちも死んだらまたあそこへ行こう、そのときは今この家にある道具を持って行き、クマやシカを狩って静かに暮らそう、そう話す二人なのであった。