新年あけましておめでとうございます ~修善寺温泉(伊豆市)

 2013年1月1日 AM8:00 修善寺から見える富士山

あけましておめでとうございます。

今年もこのブログを通じて、自分なりにいろんなことを学んでいきたいと考えています。また、そのおすそ分けを少しでも皆さんにできればと思ってもおります。引き続きご愛顧ください。

さて、年越しから新年を生まれてはじめて伊豆で過ごした我々二人と猫一匹ですが、年末は、それまでのモノグサが祟って、夕方近くまで大掃除をする始末。それでもなんとか7時すぎには年越しそばにありつくことができました。

NHKの行く年くる年を見る前まで不覚にも眠ってしまいましたが、幸い新年のカウントダウン直前に目が覚め、なんとか正気のまま新年を迎えました。ふもとの修善寺温泉にある日枝神社にでも初詣に行こうかという話もありましたが、大掃除で疲れていたので断念。

そして、翌元旦のお昼から仕切り直しで、初詣に出かけることにしました。日枝神社に最初に行こうかとも思ったのですが、先日温泉街の喫茶店でお茶を飲んでいたところ、お店の方から我々の別荘地のすぐ麓に「熊野神社」なる神社があると教えていただいたので、こちらに最初に行くことにしました。

この神社、全国の神社を探訪されている「神社フェチ」の方のブログによれば、もともとは和歌山の熊野に鎮座されていたのを1667年(寛文七年)に現在地に遷座したものだとか。1667年といえば、江戸初期のころで、将軍は家綱の時代。江戸幕府の統治になってようやくこの世が落ち着いてきたころのことです。

熊野から遷座すると同時に、周囲にあった6つほどのちいさな神社を合祀して、「熊野権現」と称していたものを明治初年に発せされた神社合祀令により、「熊野神社」に改めたようです。

前から気になっていたので、ちょっと調べてみたのですが、この「神社合祀(じんじゃごうし)」とは、複数の神社の祭神を一つの神社に合祀する、つまりひとつの神様にしてしまうか、あるいは、一つの神社の境内社に他の神社も移動させてしまうかして、その他の神社を廃ししてしまうことです。

これによって、神社の数を減らしたわけですが、その目的は神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることによって、一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせることだったようです。

江戸時代までは、小さくて貧相な神社が乱立していて、結構ぼろぼろになっている神社も多く、これをそのままにしておくということは、天皇を頂点とする「神の国日本」を唱導したい新政府にとっては、不都合なことだったようです。このため、明治政府は、神社を統合することによって、各神社の安定した継続的経営を確立させることをめざします。

そして、明治期に入ると、それぞれの神社は「国家の宗祀」であるという国家原則を打ち立て、地方公共団体から府県社以下神社に公費の供進を実現させようとし、このために、各自治体の財政が負担できるまでに神社の数を減らさせるという政策をとりはじめました。

ところが、合祀して神社を減らすということは、一方では遷座や新しい神社などの建設などに新たな金がかかるため、各地方自治体とも消極的だったようです。しかし、地方自治体のさらに上位機関の「地方局」にとっては、合祀政策を勧めることで、例えば「一町村一神社」などの基準を住民に押しつけるようなことができるようになります。

これにより、それまでは、たくさん乱立していた神社をひとつの神社にまとめることができるようになり、ばらばらだった神社や毎の氏子たちをひとまとめにでき、これはすなわちまた彼らが住んでいた区域と行政区画を一致させる効果にもつながります。

かつ、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせることができ、それまでは氏子から各神社へ流れていた金の流れも、この地域に一つの神社に集約できるようになり、さらにその金はその行政区画の社務部門へ税金として一元化して治めさせるなど、行政側にとってはこの合祀令には数々のメリットがありました。

こうして、明治の初めから手をつけられ始めた神社合祀政策は、まず明治初年に最初の勅令が発せられましたが、江戸幕府から明治政府への移管の混乱期であったため、全国的には浸透しませんでした。

しかし、新政府は粘り強くこの政策を続け、1906年(明治39年)には再度勅令を発し、これによって以後、1914年(大正3年)までには、全国で約20万社あった神社の7万社が取り壊されたといいます。

これらの一連の合祀政策の実施による神社統合が最も激しかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることになりました。和歌山県や愛媛県もそれについで神社の合祀統合が進められたといいますが、我らの氏神様の熊野神社は、それ以前の江戸時代にすでに周囲の神社と統合されておりこの合祀政策の実施のときには名前が変わっただけです。

ところが、この政策の推進は知事の裁量に任されたため、その実行の程度には地域差が出、このため京都府などでは神社の統廃合は1割程度で済んだといい、これが、現在までも光都では神社仏閣の数が多い理由のひとつです。

また、この神社合祀政策は、いわば官僚の「合理主義」に基づいた実施された政策であり、必ずしも地方の氏子などの崇敬者の意に即していませんでした。

新しく神社が作られた場所を中心とする行政区画は、住民の生活集落とは必ずしも一致するとは限らず、ところによっては合祀によってそれまで崇拝していた氏神が居住地から遥かに遠い場所に移されるという例も相次ぎました。

こうしたことから、合祀を拒んだ神社もありましたが、こうした神社に対してはなかば強制的に合祀が行なわれたそうで、これに対して当然ながら氏子・崇敬者の側は猛反発しました。

そして反対集会などが各地で開かれることもあったようですが、そもそもこの政策は、統合とはいえ神社をすべてなくしてしまう、というほど過激な政令でもなかったことから、あまり大きな運動にも発展せず、合祀は次々と実施されてきました。

ところが、明治も終わりのころになって、合祀の実施がとくに激しかった和歌山県などでは、博物学者で民俗学などで有名な「南方熊楠」らの知識人が強い反対を示すようになります。

あいかわらず地方では合祀に対する根強い反対論も多かったことから、政府のほうもこれらの意見に耳を傾けるようになり、帝国議会などでも答弁が繰り返されるようになった結果、1910年(明治44年)ころまでには強制的な合祀の実施はかなり収まったといいます。

しかし、この合祀政策によって消えてしまった神社は数多く、また多数の祭礼習俗が消えてしまったといい、このことは、その後の人々の宗教的信仰心にも多大な影響を与えたようです。

ただ、一度合祀されたもののちに復祀された神社も少なくなかったそうで、合祀令により名目上の合祀がなされた後も、社殿などの設備を残したところもあって、そういったところでは「復祀」が行なわれました。

合祀以前の崇敬基盤が破壊されずに、その後も維持されたところでは復祀が行なわれたようですが、行政区画の変化により崇敬基盤であったとなった共同体そのものが消滅してしまったケースも多く、そうした場合には復祀されないことも多かったということです……

…… 合祀の話で深みに入ってしまい、話がそれました。今年もこの性癖は治りそうもありません。ご覧になっていただいている方々には我慢していただくしかありませんが、その脱線路線がいいんだよ~と言ってくださる奇特な方もいるかと思うので、引き続きこのパターンで行きたいと思います。

さて、わがまちの熊野神社さんは、こうして明治期の合祀を経て、大正13年に現在の本殿や拝殿が新造され、以後現在まで続いているようです。

実はこの神社から歩いて15分ほどのすぐ近くに「瓜生野」という地区があるのですが、こちらにももうひとつ、「熊野神社」があります。

こちらも周囲の7社ほどを明治2年に合祀してできた神社だそうで、こちらも明治政府による神社統合の爪痕になります。が、こちらはもともとこの地にあったお社の数々を統合したもので、本神は和歌山からのものではないようです。

どちらも、「熊野神社」なのは、この瓜生野と熊坂というふたつの行政区画内にそれぞれの「代表神社」を造ろうとしたためではないかと推定されます。

それにしても、同じ名前にせずに、別の名前にしてほしかったなあと思うのですが、これはおそらく、新しい行政区画の施行に伴って新しい神社が作られる際、熊坂の熊野神社を崇拝していた瓜生野の氏子が、もう昔の熊野神社にはお詣りに行けないのだから、せめて神社名だけは前のと同じにしてほしい、という要望が出たからではないでしょうか。

聞くとどちらも合祀の際に「熊野権現」を称し、その後新しい社殿の造成にともなって新名称をつける際にもどちらも「熊野神社」に改名しており、このことから、となりあうどちらの住民それぞれが、自分の地区の「熊野様」が欲しかったのではなかろうかと推察できます。

地元の方に言われを聞いたわけでもなく、勝手な推論なのですが、あながち違ってはいないように思います。いずれ真偽のほどは、また地元の方などにも聞いて確認してみましょう。

さて、ともあれ、この日は、この熊野神社に詣でたあと、日枝神社に詣でてその日を終わりました。熊野神社のほうは、地元の氏神様ということもあり、参拝したときには、我々以外には誰も参拝客はありませんでしたが、これと対照的に修善寺温泉街にある日枝神社は観光客であふれかえっていました。

ひとつ山を隔てて表と裏にある神社でこれほどの違いがあるのかと驚きましたが、これはこれでまた新鮮なものはがありました。新しい地で、それぞれの神社にお参りでき、気持ちの良い正月のはじめの日を終えたことは言うまでもありません。

翌日の2日には三島大社にも行ってきました。こちらは日枝神社以上の大混雑でしたが、こうしていままで初詣になど来たこともなかった神社でのお詣りを続けるにつけ、ああやっと伊豆の住人になれたな、と実感できる今日このごろです。

今日で正月三が日も終わり。明日から仕事はじめという方も多いことでしょうが、私もしかりです。今年はさらに昨年以上の飛躍をそれぞれの神様に願ってきましたが、それが実現できるよう、努力していきたいと思います。

このブログも引き続き、皆さんにお楽しみいただけるよう、できるだけ充実させていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。