箱根の坂を下れば

2014-1060080先週から、地区内の草刈、組合の理事会、自治会の秋祭り、仕入れのための横浜行き……と盛りだくさんのイベントが続き、嵐のような日々でしたが、今日はようやく少し落ち着いています。

ただ、今日は昨日ほど天気がよくなく、疲労も溜まっているかんじで、気分的にもあまりぱっとしません。こんな日は、仕事などせずに、ゆっくりすればいいのに、と自分でも思うのですが、気がつけば机に向かっています。

気分転換にどこかにぶらりと出かけたいのですが、この天気ではあまりスカッとした気分にはなれそうもなく、今のところは気乗りしません。朝方の天気予報では、晴れ間も出るといっていたのですが、いまのところ天気はよくありません。が、夕方回復したら、少し散歩でもしてみようかと思っています。

昨日の横浜行というのは、商売道具の額縁を買うためのIKEAへのドライブだったのですが、その途中に箱根の峠を越えました。標高1438mの神山を頂点とするこの箱根山は約40万年前に噴火が始まり、何度もこれを繰り返して、約25万年前に標高2,700m にも達する富士山型の成層火山になりました。

しかし、これはいわば巨大なミルフィーユケーキのようなものであり、その中身はスカスカでした。このため、その重みに耐えかね、空洞化したその山塊が約18万年前にドカンと陥没して巨大なカルデラが誕生しました。このとき周りに取り残されたのがいわゆる箱根外輪山であり、また中心部には元の成層火山の名残が残りました。

この中央部分は「中央火口丘」とも呼ばれ、現在では神山のほか、冠ヶ岳 (1409m)、箱根駒ヶ岳 (1356m)、上二子山 (1091m)、下二子山 (1065m)、早雲山 (1153m)などの峰々の集合体となっています。

昨日通過したこれらの山々はいずれも今、紅葉がまっさかりといったところであり、おそらくは今週末あたりからピークを迎えるのではないかと思われます。なので、この秋紅葉狩りをまだしていない人で、箱根を見てみたいという人はそろそろ急いだほうが良いかもしれません。

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この箱根を舞台・背景とした作品は過去にたくさん作られていますが、その中に司馬遼太郎さんの長編歴史小説で「箱根の坂」というものがあります。1982年(昭和57年)~83年に読売新聞に連載されていたもので、1984年に講談社から単行本として出版されました。

箱根の坂を越えて小田原城を攻略し、後北条氏の祖となり戦国時代の火蓋を切った北条早雲の生涯を描いたもので、このころ既に大学を卒業して社会人になっていた私は、司馬ファンでもあったことから、出版されるとすぐに購入してこれを読んでみました。

あらすじとしては、若いころにはまだ伊勢新九郎と称していた後の北条早雲は、見た目は凡庸な男で、日々仕事としていた鞍作りに精を出し、それ以上を望まず平穏な人生を願っていました。しかし、鞍を売るために日本各地を歩き回るうちに、時代の変化を敏感に嗅ぎ取り、いずれは戦乱の世の中になるに違いないと考えはじめます。

そして生来の機略を生かし、そのころ三河の領主だった今川氏に取り入って家来となり、ここで手柄を立てて小規模ながら領主となります。税を抑えるなどして民衆の信頼を得ますが、時代はやはり彼が見立てたとおり戦国の世、そして下剋上の世へと移り変わっていき、その中で彼もまた今川氏と協力しながら他国を切り取っていきます。

そして、関東に進出すべく小田原を攻めるのですが、そのとき通らなければならない大きなが壁が箱根であり、ここからは関東平野が一望に見て取れます。そしてこの峠に立ち、ここから関東制覇のための野望を誓うわけですが、この物語ではこのように箱根峠が象徴的にクローズアップされています。

で、この小説が面白かったか、と聞かれると、正直なところ、司馬さんの若いころの作品ほど、物語の展開に弾むような面白さがなく、やたらに理屈が多すぎて、物語に入り込んでいけない、というところがあったように思います。

司馬さん最晩年の作品のためか、「元気がない」といったかんじで、この作品のあとがきで「早雲が箱根の坂を越えたときは、作者も一緒に疲れた」と語っているように、ご本人もこれを書いた当時精力的に書くためのエネルギーを既に失いかけていたことをうかがわせます。

このためか、「竜馬がゆく」「関ヶ原」「坂の上の雲」のような若い頃に書かれた作品ほどの勢いが感じられないのが残念で、であるがためか、私もまた長い間この小説の主人公である北条早雲という人にはあまり興味が沸きませんでした。

ところが、ここ伊豆に越してきてからというもの、あちこちに出かけるたびに出くわす事物には北条早雲にゆかりのあるものばかりであり、例えばここからすぐ近くにある韮山には早雲が晩年まで本拠地としていた居城がありますし、今これを書いている窓の外遠くに見える城山(じょうやま)も早雲が拠点のひとつにしていた城があったようです。

史実によれば、伊豆に拠点を持った早雲は、明応4年(1495年)に箱根の山を越え、小田原の大森藤頼を討ち、藤頼の居城である小田原城を奪取しました。

大森氏は、室町幕府の征夷大将軍が関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方に代々仕えた一族で、もともとこの地にあった土肥氏を滅ぼして相模・伊豆に勢力を広げ繁栄していました。

小田原城を築城したのは、藤頼の祖父の大森頼春で、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した「上杉禅秀の乱」が応永23年(1416年)発生した際、この乱を鎮圧した功により、箱根山一帯の支配権を与えられました。そして応永24年(1417年)頃、前領主土肥氏の拠点があった小田原に築いたのが小田原城です。

伊豆からこの小田原に至るためには熱海峠を越えて湯河原経由で向かう道が現在はありますが、この当時は険しい山道であり、このころ既に三島から、箱根カルデラを縦貫する箱根路が開かれており、こちらの方が早道でした。

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早雲は家来をこの箱根道を通って小田原に派遣し、大森藤頼にたびたび進物を贈るようになりましたが、この懐柔策により、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになりました。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許しますが、早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れます。そしてその夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちました。

このとき、おびえた小田原城の人々は数万の兵が攻め寄せてきたと大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出したため、早雲は易々と小田原城を手に入れたといいます。典型的な城盗りの物語といえますが、後世に早雲の子孫である後北条氏の一族が編纂した「北条記」による記述であり、どこまで真実か分かりません。

実は、この早雲が小田原を攻めた1495年には明応地震が起こっており、これは南海トラフ沿いに起きた巨大地震であり、このとき発生した津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、駿河湾沿岸では10m近い津波が押し寄せました。

伊豆半島の東側や小田原においても局所的に大規模な津波が襲来していたと考えられ、早雲はこの津波に乗じて小田原城を攻めた、という話もあるようです。

これから6年のちの明応10年(1501年)の記録文書には、早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点ではもう早雲は小田原城を出城代わりに使って関東制覇を開始していたと考えられています。

が、早雲自身は終生、伊豆韮山城を居城としており、小田原城を後北条氏の本城とするのは、早雲の嫡男の氏綱の時代からです。

その後、早雲に追い出された元の小田原城主であった藤頼は、縁戚で三浦半島を拠点とする三浦義同の支援を受けて大住郡実田城(真田城、現在の神奈川県平塚市)に逃れて戦いましたが、明応7年(1498年)に敗れて自殺したといわれています。

実はこの真田城で自殺したのは藤頼ではなく別人であり、その後も藤頼が生きていたと言う説もあるようで、大森氏の菩提寺であった静岡県小山町の乗光寺の記録では文亀3年(1503年)没とあり、これより更に5年後です。真偽のほどはわかりませんが、いずれにせよ、北条氏の台頭により小田原一帯の相模において大森氏は駆逐されました。

しかし、一族の末裔が後北条氏に仕えた後、徳川氏に仕え江戸幕府の寄合旗本として存続したという記録もあり、確認はしていませんが、東京大田区の大森は、その旗本の大森家由来の土地かもしれません。

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こうして滅びた大森氏から小田原城を引き継いだ早雲ですが、その後さらに改築が重ねられ、3代当主北条氏康の時代までには難攻不落、無敵のお城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えました。その後の秀吉による小田原攻めの際にもかなり長い間持ちこたえましたが、その最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。

現在の小田原高校のある八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後に秀吉によって築城される大坂城の惣構を凌いでいたそうです

しかし、その後この豊臣家を滅ぼした徳川家康は、1614年(慶長19年)、自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを取り壊し、撤去させています。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたためといわれています。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心にこの当時の遺構が残っています。

北条氏没落後、江戸時代にこの城の城主として家康に任命されたのは、大久保忠世(ただよ)でした。徳川十六神将の1人に数えられる猛将で、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても大活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられました。

天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、秀吉の命もあって小田原城に4万5千石を与えられましたが、その後の徳川の世でも引き続き小田原の領主であることを安堵されました。

ところが、子の2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、大久保氏は一度改易の憂き目にあっています。その後、城代が置かれ、城主不在の時もありましたが、その後阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏が領主となり、その後再興された大久保氏が再び入封されました。

江戸期の中後期の小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であり、その城下町・小田原宿は東海道の沿線ということもあり、箱根の山越えのための前線基地として栄え、東海道五十三次中最大の規模を誇りました。

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その中心である小田原城は、江戸時代を通して1633年(寛永10年)と1703年(元禄16年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けています。天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続しました。

明治時代の解体は、1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけて行われ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられました。また1901年(明治34年)には、旧城内に小田原御用邸が設置され、皇族の別荘として使われるようになりました。

ところが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により、この御用邸は大破し、その後廃止され、このとき現存していた二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分が崩壊しましたが、12年後の1935年(昭和10年)にその一部が復興されました。

1950年(昭和25年)関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始し、と同時に小田原城址は小田原城址公園として整備され、1960年(昭和35年)には天守が鉄筋コンクリート構造によって復元されました。

現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画しており、2006年(平成18年)に日本100名城(23番)に選定されたのをきっかけに、城址の完全復興を目指すようになりました。手始めにそれまでも行われていた東西南北の各所の門の復元ほかの修復が進められており、現在では八幡山にあった古い曲輪の復元なども計画しているようです。

昨年2013年には天守の木造復元を目指すNPO法人「みんなでお城をつくる会」が設立されています。RC構造を取り壊して木造とするのは相当難しそうですが、昨今旧来の木造城郭を復活させようとする動きが全国的にもあり、小田原城ももしかしたら将来的には元のままのものが復元されるかもしれません。

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一方の小田原の城下町のほうは、一時期は東京のベッドタウン化したとも言われ時代もありましたが、長期不況で人口動態が減少に転じ、一時は20万人を超えた人口も20万を割り込みました。

ただ、市が新幹線通勤定期代に対する補助制度を設けるなど人口確保のための政策を実施した結果、少しずつ持ち直しており、駅周辺の再開発、および郊外での住宅、都市開発も少しずつ進んでいます。

小田原といえば、ちょうちんとかまぼこであり、このほかにも梅、オシツケ等の特産地として全国的に有名です。最近では小田原バーガーや小田原どん、スミヤキ、オリーブを売り出すなど、各種の観光開発も進んでおり、城址の再整備とともに、観光立地を目指して町の中央部を中心として美化も進んでいます。

今回は小田原の中心部には足を踏み入れませでしたが、ちょっと前に用事があって出かけたときには、街中の区画整理がずいぶんと進み、垢抜けたいい街になったな、という印象を持ちました。

小田原城は、市の南東部の海岸から500mほど内陸にありますが、その天守閣の内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっており、その標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができ、必見です。

ただ、来年7月から再来年の3月まで天守閣の耐震工事が行われるため、ここへは入館できなくなるため、注意が必要です。

秋の日の一日、箱根の山への紅葉狩りの前後にぜひ小田原にも一度立ち寄ってはいかがでしょうか。

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