そうだ 風船とばそう!

2014-109077911月になって、まだ一週間ほどしか経っていませんが、早々と年末年始の予定が目白押しに入ってきて、騒がしい限りです。

今年ももう終わりか~というには少々気が早すぎるかもしれませんが、この時期になるとこの後のどんどんなくなってくる時間のこともある程度予定に入れて日々行動しがちになります。このため、年の瀬になってあわてふためく、ということになりたくないという予防措置の心理が働くためか、何かと早め早めにやろうという気になってきます。

年賀状の印刷もさることながら、クリスマスのプレゼントの思案、大掃除の準備や知人への忘年会の案内、はたまた年明けのお節料理の心配などをそろそろし始める時期でもあり、せわしいことばかりではあるのですが、これがまた楽しかったりして、人間心理とは摩訶不思議なものです。

小さいお子さんをお持ちの家庭では、11月15日に七五三があることから、そちらの心配でもなお忙しいでしょう。7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う年中行事ですが、これは江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の息子の徳川徳松という人の健康を祈って始まったとされる説が有力だそうです。

綱吉の長男でもあり、徳川将軍家の世嗣でしたが、天和3年(1683年)、5歳で夭折しておおり、「七五三」の祝いは、この徳松の生前の天和元年11月15日に彼の健康を願って行われた催しがその嚆矢といわれます。

しかし、なぜ15日だったかですが、これは旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日であり、これは「鬼が出歩かない日」のことです。このため何事をするにも吉であるとされており、これがこの日が選ばれた理由のようです。

さらには旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月でもありました。そしてこの月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るという神事が古来から行われていたそうです。

以来、江戸では11月15日は、子供成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事を執り行う日となり、元来は関東圏だけの地方風俗でしたが、その後全国的に広まっていきました。明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになりましたが、現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土・日・祝日に行なうことも多くなっているようです。

発祥とされる関東地方では、数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置きの儀」とし、男女ともにお祝いを行います。江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、これはそれを終了する儀式です。また、数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴儀」とし、これは男子が袴を着用し始める儀式です。

そして、数え年7歳(満年齢6歳になる年)のときに行う儀式を「帯解きの儀」といい、こちらは女の子だけが行います。これは女子が「幅の広い大人」になるという意味を込め、大人と同じ帯を結び始める儀式です。

このように、七五三と言えば、男女共に3歳、5歳、7歳で行うお祝いと勘違いしている人もいるようですが、本来、3歳以外では、5歳と7歳は男女それぞれ別の儀式です。ただ、3歳、5歳、7歳を子供の厄として、七五三を一種の厄祓としている地方もあるようです。

もともとは、正装に準じた晴れ着で臨んでいましたが、最近では洋服の場合も多いようです。が、親バカのご両親の中には、わざわざ大枚をはたいてこの日のためだけに和服を買いそろえる人も多いようで、その金をじいちゃんばあちゃんが出してくれる、というジジバカ、バババカの家庭も多いようです。

埼玉県、千葉県、茨城県南部地方では、七五三のお祝いをホテルなどで結婚披露宴並に豪華に開催し、自分たちの宴会にしてどんちゃん騒ぎをすることもあるそうで、ここまでくると、誰のためのお祝いなのかわからなくなってきます。

しかし、そもそも七五三の意味は、その昔の日本では、現在の開発途上国と同様に、栄養失調や、健康への知識不足・貧困などが常に隣り合わせであり、これらが原因で乳幼児が成人するまでの生存率はきわめて低かったことに由来しています。

このことから、乳幼児の生存を祝う節目として定着してきたものであり、男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもありますが、医療技術が発達する現代までは女児よりも男児の生存率が低かったためです。

「七歳までは神のうち」ともいわれ、数えで七歳くらいまでは疫病や栄養失調による乳幼児死亡率も高く、まだ人としての生命が定まらない、という考え方が一般的でした。またその昔は生活の苦しい家庭も多かったことから、生まれてきた子が障害を持っている場合などには7歳になる前に「神隠し」として行う「間引き」も大っぴらに行われていました。

7歳までの子供は、「あの世とこの世の境いに位置する存在」とされ、「いつでも神様の元へ帰りうる」魂と考えられており、このため、一定の成長が確認できるまでは、人別帳にも記載せずに留め置かれ、七歳になって初めて正式に氏子として地域コミュニティへ迎え入れられました。

また、胎児・乳幼児期に早世した子供は、境い目に出て来ていた命がまた神様の元に帰っただけで、ある程度の年数を生きた人間とは異なると考えられていました。

このため早く亡くなる子供は現世へのしがらみが少なく速やかに再び次の姿に生まれ変わろうとするのだと考えられていて、転生の妨げにならぬよう、墓を建てたりする通常の人間の死亡時より扱いが簡素な独特の水子供養がなされたりもしました。

そうした生命観から、乳幼児の間引きとともに堕胎も、「いったん預かったが、うちでは育てられないので神様にお返しする」という感覚が普通であったようです。特に、飢饉時の農村部の間引きや堕胎は、多数の子供を抱えて一家が共倒れで飢えるのを回避するためであり、養う子供の数を絞るのはある程度やむを得ないと考えるのが普通でした。

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七五三とはそんなふうにして、七歳になるまで大切に子供を見守る、という意味で始まった風習なわけですが、最近では医療も発達し、7歳までに亡くなるというようなことは昔ほどにはなくなりました。しかしやはり乳幼児のうちはまだまだ心配であり、お参りだけは欠かさずやって人並みに成長して欲しいという思いはどの親も同じでしょう。

このため、毎年この時期になるとどこの神社でも晴れ着を着た子供で賑わうわけですが、当事者である子供たちにとっては、なんも面白くもない大人の行事に付き合わされるだけで、何か面白いことのひとつもあってほしいと願うものです。そして、このために考え出されたのが、「千歳飴」というヤツです。

親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっています。だいたい直径約15mm以内で、長さは30~50cmほどのようですが、長いほうがいいということで1mほどもあるものもあって、さらには縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されています。また松竹梅、夫婦松などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられています。

水飴と砂糖を材料とし、煮詰めたものを冷却して何層にも折り返し、手または機械で細長く伸ばして適当な長さで切ったものですが、その製法には一定のセオリーがあるそうで、伝統や格式を重んじる菓子屋ではその手順を正しく経たものだけを千歳飴と称して神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べるそうです。

ところが、ある時期から菓子メーカーの不二家が「ミルキー」を棒状にしたものを「千歳飴」として毎年この時期に発売するようになったことから、こちらのほうがお手軽でおいしい、ということでこちらに走る家庭も多くなっているようです。

しかし、甘いモノが氾濫しているこの時代にあって、子供側からすれば、そんなもんじゃ騙されんぞ~ということで、神社に同行してやるから何か買って~ということになり、甘い親やお爺ちゃんおばあちゃんはすぐにこれに答えて、人形やら合体ロボを買ってやってしまいます。

が、まだまだ日本全体が貧しかった明治や大正の時代にはそうしたものはなく、七五三でのご褒美としては千歳飴の他に「風船」を子供にやることが多かったようです。

寺院の祝祭やお祭りなどに出店する的屋などによる露天商のゴム風船販売は古くから行なわれており、露天商用語ではゴム風船をチカ、それに派生しガス風船はアゲチカ、水ヨーヨーはスイチカ、棒付き風船はタテチカ、毛笛はナキチカ、棒でつり下げた風船はボウチカといわれ、ゴム風船販売が露天商の取扱商品の一つのジャンルをなしていました。

ただ、かつての露天商におけるゴム風船販売では一般に、風船単体での販売は行なわれませんでした。空気で膨らまして棒を付けたものが多く、この風船には水素やヘリウムなどの浮揚ガスを入れられ、リボンと女の子の顔が描かれた太陽柄の印刷ものが多く出回っていました。

また、鳥の形状や大きな二つの耳が特徴のウサギ風船など様々な形状の変形風船の販売行われており、タコ顔の丸い風船の上部に細長い風船を巻き付けた風船などもありました。こうしたバルーンを専門に作る職人さんもおり、こうした可燃性の水素ガスを注入した風船は昭和末期ころまで広く販売されていました。

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しかし、水素の発火の危険性は日本でも明治初期からすでに指摘されており、昭和30年代から50年代にかけての日本の高度経済成長下で、水素入りのガス風船やアドバルーンの発火爆発事故が多発しました。このため、消防署が「ガス風船がタバコなどの火を引き爆発するもの」として消費者に注意を促すようになりました。

このことからガス風船の販売は減少しはじめ、浮揚ガスの不燃性のヘリウムガスへの転換とともに1980年代には非ゴム素材としてポリエチレンなどが使われるようになり、これは「マイラーバルーン」と呼ばれています。

現在の露店などでも棒の先にハート型や星形、アニメキャラなどの様々なポリエチレン製の風船が売られているのをご覧になることも多いと思いますが、これは1970年代後半にアメリカ・ニューヨーク・シティ・バレエ団の公演用で使用されたものが最初といわれ、その後、日本にも導入され、普及するようになったものです。

ゴム製の風船のようにパン!と破裂しないし、空気よりも軽いガスを入れれば「風船とばし」にも使えます。さらに野球やサッカー、バレーボールなどのスポーツ観戦の際の応援グッズとして使えるものが1999年(平成11年)ごろ登場し、2005年(平成17年)以降に急速に普及してきています。

以後、マイラーバルーンはそのデザインの多様性というメリットを武器にゴム風船を席巻し、またより薄い素材が開発されるとともに密封性も向上したことから浮揚時間がゴム風船よりも長くなり、このため飛ばし風船用としても普及しました。

このため、露天商におけるかつてのガス風船販売はゴム風船からマイラーバルーンが主流となっており、1990年代にはタコ風船、2000年前後にはウサギ風船も姿を消し、太陽柄風船も作られてはいるものの露店では目にする機会はめっきり少なくなりました。

しかし、旧来のゴム風船も捨てたものではなく、いわゆる「バルーンアート」としての需要は根強いものがあります。複数のヘリウム入り風船をブーケのように束ねて形成したものは、店舗のディスプレイ、結婚披露宴の卓上装飾に用いられたりしますし、直接装飾に用いられるほか、贈答品として用いられることもあります。

複数の風船を柱(コラム)状に形成した「バルーンコラム」といった装飾もあり、これはイベント会場や店舗の入口の両脇に設置されているのをよく目にします。複数の風船をアーチ状に形成した装飾は、イベント会場の入口や結婚披露宴における高砂の背後などにもよく用いられます。

複数のヘリウム入りゴム風船を天井に揚げて敷き詰めるなどした「バルーンシーリング」という装飾もあり、色違いの風船を組み合わせて模様を描いたりすることもあります。また、結婚披露宴で行った場合は、宴会後、来場客が自由に風船を持ち帰れるようにすることもあるようです。

ちなみに「シーリングバルーン」とは、もともと気象観測で上空の雲の高さを観測する測雲気球のことです。

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このゴム風船は、言うまでもなく天然ゴムを原料に作られた伸縮性の大きい風船の総称で、バルーン業界ではラテックス風船・ラテックスバルーン(Latex balloon)、もしくはラバーバルーン(Rubber balloon)と呼ばれることのほうが多いようです。

日本国内に出回るバルーンアート用をはじめとするゴム風船の多くは、国産ではなく、海外のバルーンメーカーのブランド製品が多用されているそうで、また多くの製造拠点も海外にあることから、ふくらませた後の横幅をインチ単位、また大型の風船はフィート(単位でヤード・ポンド法表記されることが多いようです。

市場には9インチ(約23cm)から11インチ(28cm)程度の大きさの風船が最も出回っているそうです。また市場に出回ることは多くはありませんが、ハンドメイドで製造されるゴム風船もあり、これはゴムの厚みなどにばらつきが出やすいものの、その一方ではアート作品として使う場合などには微調整が効くので重宝がられているといいます。

このゴム風船の歴史は古く、まず1805年に、イギリス人の科学者ガJ. Gough(ガフ)という人が、がゴムを断熱的に伸張すると発熱し、圧縮すると冷却する現象「ガフ-ジュール効果」を発見したことにはじまります。

それから15年経った1820年には、同じくイギリス人のトマス・ハンコックにより木製の「ゴム用密閉型混練機」が製作され、未加硫の生ゴムによる糸ゴム製造が実用化されました。

加硫(かりゅう)とは、生ゴムなどのゴム系の原材料を加工する際に、弾性や強度を確保するために、硫黄などを加える行程のことで、現在のゴム風船はほとんどこれによって造られていますが、この当時はまだこの技術はありませんでした。

さらに1823年にはスコットランドのマッキントッシュにより素練した生ゴム原料による未加硫ゴムで作られた防水布が実用化されます。

そして、その翌年の1824年には、イギリス人の化学・物理学者マイケル・ファラデーが水素ガスの特性を見る実験のための袋として2枚の未加硫のゴムシートに打ち粉をして貼り合わせたゴム気球を製作。これが、ゴム風船製造の嚆矢とされています。

そしてその翌年には前述のイギリスのトマス・ハンコックが、Thomas Hancock社を設立し、生ゴム入りボトルとシーリング材入り注射器がセットされた購入者製作型の風船キットを発売。以来、ヨーロッパ全土にこの手作りゴム風船が普及していきました。

日本では、江戸時代の天保5年(1834年)に、宇田川玄真、宇田川榕菴という薬学者が、その執筆本に、水素が可燃性で気球を浮かせる浮遊ガスであることを記してはいるものの、ゴム風船そのものが初めて輸入されたのは明治元年(1868年)のことのようです。この年、横浜と大阪でゴム風船の販売にまつわる新聞記事が相次いで掲載されています。

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ただ、ゴム風船の製法技術が日本に伝わったのは明治30年代以降のことのようで、一方のヨーロッパでは、これよりも20年以上前の1847年に、イギリス・ロンドンのJ.G.イングラム社により、現在のような既製品タイプの最初のゴム風船が製造されていました。

明治4年(1872年)にはこのヨーロッパから輸入されたゴム風船が「球紙鳶(たまだこ)」という名前で流行し、明治7年(1875年)には、旧開成学校(現東京大学)の製作学教場で教師の市川盛三郎という人が赤ゴムの小球を作り、水素ガスを満たして飛揚させています。

そしてこれが流行に火をつけ、翌年以降、東京で露店や縁日での子どもの玩具として売り出されるようになりました。明治30年(1898年)ころには、とくにドイツ製ゴム風船が流行し、流通量が30万グロス(1グロスは12ダース(個))を超えました。

一方でこの頃まで国産のゴム風船作りにはヨーロッパで主流とされていた硫黄などを加える「加硫法」が伝わっておらず、製法技術が未熟なため輸入品と違い、色が黒くゴムの伸びも悪く浮揚ガスを入れても浮きにくい、といったことがありました。このため、国産品よりも「舶来品は上等」といわれました。

その後明治38年(1905年)には、日露戦争の終結後の戦勝祝いにゴム風船が使われたため、玩具としてのゴム風船の普及はさらに普及し、全国で販売されるようになりました。そして、大正期以降には俳句の春の季語として「ゴム風船」が登場するまでになりました。

この明治38年になってようやく日本でもドイツ製ゴム風船を模倣した「加硫法」の技術が導入され、大阪市外に「伊藤護謨風船工場」が創立され、はじめて良質の国産ゴム風船が製造され始めるようになりました。

この加硫法(冷加硫法)による風船製造は現在にも伝えられ、この時代に広く知られるようになって以降、日本国内にゴム風船工場が乱立するようになっていきました。

大正元年(1912年)には、日本国内のゴム風船の生産量の急増により、初めてゴム風船が海外に輸出されるようになり、その5年後の大正6年(1917年)には、日本国産のゴム風船の輸出が50万グロスに達しました。一方で、かつてはヨーロッパにおけるゴム風船の一大産地だったドイツは第一次世界大戦の戦場となったため、製造量が激減しました

以後、ゴム風船作りは日本お家芸のようになっていき、1934年(昭和9年)ごろからはゴム風船の海外への輸出が激増するようになりました。しかし、やがて1937年(昭和12年)に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開戦すると、ゴムタイヤなどの軍需需要が増えました。

このため、翌年の1938年(昭和13年)には日本国内で数多くの日用ゴム製品の製造が禁止されるようになり、さらに日本海軍による真珠湾攻撃により第二次世界大戦に発展するとさらに民間へのゴム製品の供給は減りました。しかし、一方で戦時中は兵士に配るためのゴム製のコンドームの製造だけは休止されなかったといいます。

そして終戦。ゴム風船の製造が再開されブームとなり、戦後の混乱の中で子どもの風船玩具として文房具店に50万個、玩具店に10万個が出回るまでにゴム風船の需要は回復しました。

1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックでは、1万個のゴム風船が飛ばされ、また、1970年(昭和45年)の大阪万博(EXPO’70)では、600発の花火とともに3万個のゴム風船が飛ばされました。さらに、1972年(昭和47年)の札幌オリンピックでも1万5千個のゴム風船が飛ばされました。

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しかし、1987年11月に、 岡山県倉敷市の祭りのイベントで、風船飛ばし用の水素入りゴム風船が爆発すると、これをきっかけに、1990年代に入ってから風船飛ばしの反対運動が起きるようになります。

とくに1990年代初頭にかけては、落ちたゴム風船を野鳥が誤って食べて窒息死したという報告が相次ぎ、このことにより野外でのゴム風船の使用は減っていきました。

日本バルーン協会は、ラテックスを使用しているゴム風船は自然界で分解されるためにそのような事故が起きる可能性はきわめて低いと反論しましたが、欧米では、複数の公的な環境調査により野生生物への影響が大きいことが指摘されました。

日本近海にも生息し絶滅が危ぐされるオサガメの死体調査では、胃の中から主食のクラゲを誤飲したと思われるビニール袋のほかゴム風船が見つかり、こうした膜状人工物を消化管に詰まらせたことが死因である可能性が高いとされました。

また、飛ばしたゴム風船の大体5~10%が破裂することなく原形をとどめたまま地上や海に落下するといわれており、海岸に打ち上げられる漂流・漂着ゴミとしてのゴム風船の近年の急増傾向も指摘されるようになりました。

自然環境にこうした人工製造物を大量に放出する行為は、海鳥や海棲哺乳類などの野生生物の生命を脅かすおそれがあり、このため欧米ではビニール袋の投棄禁止とともに商業的な大量の風船飛ばしの行為に反対する生物学者、生物・鳥獣保護団体、環境保護団体、環境教育機関が少なくありません。

アメリカやシンガポール、オーストラリアなどでは条例により商業目的の風船飛ばしの1日もしくは行為1回ごとの数量規制および超えた場合の罰金制度が行われているそうです。

また、イスラエルでは宣伝用のゴム風船がレバノン南部まで到達し、住民が化学兵器と思いパニックとなったこともあるそうで、ヘブライ語の文字が印刷された薄い緑色で吹き口が互いに結ばれて10個を1組にしてあったこの風船は、現地爆発物処理班により畑に移動後、爆破されたといいます。

こうした世界的な「反ゴム風船」の潮流を受け、日本でも1991年(平成3年)ごろからは、風船飛ばしに配慮した紙などを原料とする環境風船が各社から発売されるようになりました。従って、現在では少なくとも風船とばしに使う風船としてゴム製のモノが使われることはほとんどないようです。

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このように最近では風船とばしは、環境面への配慮から自粛傾向が強いのが現状ですが、最近このゴム風船を宇宙にまで飛ばそう、という取り組をやっている人がいて話題になっています。

先日の、9月24日には、テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」でも紹介され、この番組を見た人も多いと思いますが、これはゴム風船を超高高度まで上げてここから地球や宇宙を撮影しようという試みです。

北海道大学の学生さんがやっているもので、「ふうせん宇宙撮影」というサイトまで立ち上げて、他にもこれを試す人が増えることを呼びかけています。

岩谷圭介さんという、福島出身で現在28歳の大学院生?のようで、彼によれば、風船によって飛行機では絶対に到達できない上空30~50㎞の高さまで上ることが出来るといいます。
実際に「ナニコレ珍百景」でその映像が流されていましたが、風船に取り付けたカメラには、まがうことなく成層圏からの青い地球が撮影されていました。

30~50㎞の高さまでの高度となると、気圧は100分の1~1000分の1まで低下で人間は宇宙服を着ないと死んでしまいます。が、無人のゴム風船ならこれが可能となり、また空気が無視できるほど薄いため、国際宇宙ステーションから見る景色とほとんど大差ない景色を見ることができます。

浮力を得るためには化学的に安定して安全なヘリウムガスを使用しており、機体重量は300g以下になるように設計されていて、また降下時させるときには、時速20km以下になるように設計しているそうです。

この重量の物体が時速20km以下で落下してくる場合でも、ソフトテニスボールでキャッチボールし受け止める程度の衝撃しかないので人体に無害だそうですが、念のために最大6億円までの賠償責任保険にも加入して実施しているといいます。

また、風船の打上の際には国内法を順守しており、航空法に基く各種手続きを行った合法的な打上であるとともに、位置情報知るためのGPS装置なども搭載しているため電波法にも配慮しているそうです。

風船を飛ばすのは、天候の安定した夏場に行うのがベストだそうで、だいたい5~8月に実施しますが、天候の安定した時期とはいえ、打上ができない日もあり、自然に逆らわず、法則に則って実施することが成功への秘訣だそうです。

撮影される景色は天候により大きく異なるようですが、これがまた一興だといい、同じ空模様の日は絶対にありえないので、打ち上げる度に違った地球の顔を見せてくれるのだといいます。

上空の風が強くなる冬季には向かないようですが、ゴム風船を飛ばすのがタブーとされるようになった昨今、こうした夢のある取組はさらなる広がりを持って行ってほしいものです。既にこれに同調した高校生などが打ち上げを行っているようですが、一般の方の中にも自分の飛ばしたゴム風船から地球を見てみたい、という人は出てくるに違いありません。

私もぜひやってみたいものですが、みなさんもいかがでしょうか。ゴム風船から撮影した地球の写真を部屋に飾る、というのはなかなか素敵なことだと思います。

が、来年の目標のひとつとして、年が明けてから具体的に考え始めることとし、今週末はさらに忙しくなる前に年末の大掃除の算段でもしはじめようか、と思っているところです。みなさんはどうでしょう。大掃除のこと、そろそろ考え始めていますか?

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