ユーレカ

2014-1937最近、昔撮影された内外の古い写真を収集しているのですが、アメリカのサイトを探していたら、その中に完成直前のゴールデンゲートブリッジの写真が掲載されているものがありました。

かつて私もフロリダ留学からの帰国途中に立ち寄ったことのあるこの橋は、サンフランシスコのゴールデンゲート海峡に架かる吊り橋で、橋の建設は1933年に始まり、1937年に竣工しました。主塔の高さは水面から227メートル、主塔間の長さ(支間)は1,280メートルあり、全長は2,737メートルあって、この当時はスパン世界一の吊り橋でした。

この橋の初期の設計を行ったのは、ジョゼフ・シュトラウスという橋梁専門の技術者で、彼はそれまでに400本以上の「はね橋」の建設に携わってきた人物だったといい、またそのアールデコ調のデザインと色彩を決めたのは、アーヴィング・モロー、という建築家でした。

モローは、この橋のデザインを決めるにあたって、自然との調和、濃霧時の目視性などを考慮し、「インターナショナルオレンジ」という現在もこの橋の最大の特徴である鮮やかな朱色が選ばれました。

また、名称に「ゴールデン」とつけたのは、ジョン・チャールズ・フリーモントという人です。フレモントは、元アメリカ陸軍将校で探検家でしたが、のちに共和党の最初のアメリカ合衆国大統領候補者となり、カリフォルニア州の先任上院議員を、1850年日から1851年まで務めました。

冒険家時代の1846年春、フレモントは国務省の命を受けてロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニアに到着。現在のサンフランシスコ付近を探索して、ここにある海峡をゴールデンゲート海峡と命名しました。

このゴールデンゲート(金門)という名は、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)にある有名な湾、金角湾にちなんだものだったといい、金門海峡はサンフランシスコ湾への入り口であり、金角湾も黒海への入り口であることから、その類比だったと思われます。また湾の入り口がちょうど門のようにみえたこともその命名の由来だったようです。

橋は南のサンフランシスコから北のマリン郡方面へ抜ける唯一の道であり、6車線の道路と歩道を持ち、ここの中央分離帯は、上り下りの交通量によって移動するしくみで、朝の通勤時間帯であれば南行きが4車線となります。

歩道は自転車の通行も可能で、通常時は東側が歩行者用、西側が自転車用の道路となります。通行料を取ります。南行き(サンフランシスコ方面)の自動車の通行料はキャッシュで6.00 米ドル、ETC 払いの場合は、5.00 米ドルです。

えっアメリカにもETCがあるの?ということなのですが、アメリカでは、基本的に高速道路は無料ではあるものの、一部有料道路もあり、そのほか橋、トンネルなど通行料金を設定している所でETCと同様のシステムを導入しています。 ただ、全米統一システムはなく、各州が独自に幾つかの箇所でこのシステムを導入しているだけです。

ETCという呼び名も日本とは異なり、カルフォルニアでは「Fas Track」、フロリダでは「Sun Pass」とといい、その他のニューヨーク州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、などの東海岸の各州で導入されているのは「E-ZPass」と呼びます。

ただどれも日本のETC方式のような高度なシステムではなく、料金所にはバーがなくクレジットカードや車に特別な装置を設置することもありません。その代りにナンバーをカメラで読み取ったり、専用のタグをフロントガラスに貼り付けるだけのものであり、後日登録した預金口座から引き落とされるか請求書が自宅に届くしくみです。

ゴールデンゲートブリッジは、自殺の名所でもあります。2014年までの統計では、1653名もの人がこの橋から飛び降りているといいますが、この人数は飛び降りたところを目撃され、遺体が回収されたケースのみの数であり、実際にはもっとたくさんの人が飛び降りているのではないかと言われ、「世界一飛び降り自殺の多い建造物」の称号を持っています。

飛び降りる橋げたから水面までの高さは約67mもあり、このため水面での終末速度は時速130kmにもなり、ほとんどコンクリートに叩きつけられたのと同じ状態になります。このため、過去の落水事故のうちの生存者はわずか19名だそうで、死亡率は実に98%にもなります。

その対策のため2005年から防護柵を設ける提案がなされているそうですが、その費用は4,000万から5,000万ドルにもなるといい、また景観を損ねるであろうこと、大型の防護柵を設置したことによる暴風の影響などの観点から反対意見も少なくなく、実現には至っていません。

このため、現状の対策としては、自殺中止を呼び掛けるホットラインのポスターの掲示や、スタッフによるパトロール、夜間における歩行者の通行禁止などにとどまっています。

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ゴールデンゲートブリッジの「ゴールデン」は、かつてこのカリフォルニアで起こった「ゴールドラッシュ」と何か関係があるのではないか、と思っている人も多いようですが、上述の通り、これはチャールズ・フリーモントによる命名であり、ゴールドラッシュとは無関係です。

が、1849年にカリフォルニアで金鉱が発見されると、多くの人がこの土地に殺到しました。とくに外国からやってきた中国人労働者のように、海を渡ってきた人々にとっては、この海峡はまさに「金への門」であり、このフリーモントの命名は、予言的な意味をもつことになりました。

このゴールドラッシュですが、そもそもの発端は、1848年1月24日に農場主ジョン・サッターの使用人ジェームズ・マーシャルがサクラメント東方のアメリカン川で砂金を発見したことがきっかけです。

これと前後してカリフォルニアを始めとした西部領土がメキシコからアメリカに割譲されたこともあり、文字通り新天地となったカリフォルニアには東海岸から大勢の人々が押し寄せ、金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到することになりました。そして特に1849年に急増したことから、彼らはフォーティナイナー(forty-niner)と呼ばれました。

結果、サンフランシスコは1846年に人口200人ほどの小さな開拓地だったものが1852年には約36,000人の新興都市に成長し、この年にカリフォルニア全体の人口は20万人まで急増し、西部の開拓が急進展することになりました。

一方ではこの「開拓」は別の見方をすれば、多くのインディアン部族に対する民族浄化でもあり、元々の原住民でここに住んでいたヤナ族などは、金鉱目当てに入植した白人たちによって根絶やしにされ、絶滅させられてしまいました。

また、このカリフォルニアのゴールドラッシュにより、金を求めてヨーロッパ中からも多くの人がアメリカに移住したため、この時代にはヨーロッパから人がいなくなったともいわれます。当時の記録を見ると、農民、労働者、商人、乞食や牧師までもが、一攫千金を夢見て新大陸を目指したことが記されています。

また、1840年からのアヘン戦争の結果、清国(中国)は開国した上に香港がイギリスに割譲され、マカオがポルトガルの支配下になりました。この結果、香港・マカオが帰属していた広東省からも多くの中国人がアメリカへ渡り、鉱山や鉄道建設現場で働くようになり、その後の広東人を主体とするチャイナタウンの形成につながっていきました。

当初、これらの採掘者達は選鉱なべのような単純な技術で小川や川床の砂金を探しましたが、後には金探鉱のためのより洗練された技術が開発され、この技術は後に世界中で採用される技術となっていきました。

一方、採金技術は進歩したものの、そうした最新の技術を使うためにはそれなりの資金が必要となりました。このため、個人の採掘者は駆逐され、豊富な資金源を持つ会社組織の探鉱の比率が増していきました。

これらの会社は今日の米ドルで数百億ドルにもなる金を得ることができ、極少数の者には莫大な富をもたらしましたが、一方では零細な個人の採掘者の多くは、カリフォルニアにやってきた時と大してかわらない貧乏のまま故郷に帰るハメになりました。

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しかし、このゴールドラッシュによりカリフォルニア中に道路、教会、学校および新たな町が建設され、現在までに受け継がれるインフラの礎が築かれました。1849年には州憲法が起草され、知事や州議会議員が選挙で選ばれ、1850年協定の一部としてこの年にカリフォルニアはアメリカ合衆国31番目の州として迎え入れられることになりました。

新しい交通体系も発展し、蒸気船が定期運航され、鉄道が敷かれ、カリフォルニアの次の成長分野となった農業が州内で広く始められました。しかし、その一方で原住民のインディアン達は駆逐され、また金の採掘で川や湖など環境が汚されました。

1850年ころまでには、人力で容易に掘り出すことのできるような場所の金は大方なくなってしまい、さらに難しい場所から金を掘り出すことに関心が向けられるようになりました。また、金脈が尽きはじめたのに気付いたアメリカ人にとっては、外国人労働者は邪魔者となり、これら外国人の排除を始めました。

新しいカリフォルニア州議会は外国人坑夫の税金を月20ドルに設定する法律を成立させ、アメリカ人探鉱者は特にラテンアメリカ系や中国の坑夫に組織的な攻撃を始めました。

また、このころにはまだ金脈が底を尽き始めたことを東部人は知らず、相変わらず多くの人が押し寄せていました。が、これら大勢の新参者は、さらにインディアンを迫害し、彼等の伝統的猟場、釣り場および食物採集地域を奪っていきました。

しかし、やがて本当に金は底を尽き、ゴールドラッシュはようやく終わりました。しかし、金の亡者たちはその後もさらに金回収をしようとし、カリフォルニアのセントラルヴァレーやその他の金埋蔵地域(シスキュー郡のスコット・バレーなど)の平たい川底や砂洲に洗い落とされた金を探査し、これを回収しようとしました。

1890年代までには、その浚渫技術もかなり進み、これが後の世における河川浚渫技術の礎にもなりました。この方法により発見される金もそれなりに多くなり、浚渫で2,000万オンス(620トン)以上の金が回収されたと推計されていますが、これは現在の価値で約120億ドルにも相当します

ゴールドラッシュ後の数十年間に、これらの「落穂ひろい」を目指した金探求者達は「硬岩」の探鉱にも関わりました。すなわち、従来の技術では難しかった、金を含む岩(通常は石英)を砕き、ここから金を直接抽出する方法であり、石英の鉱脈を探り当てては、これを掘削した後に爆破し、薬品で溶かして金を回収しました。

この硬岩探鉱法はゴールデンラッシュ後には最大の金抽出方法となりましたが、このように岩を潰し、金を選別する際に用いられたヒ素や水銀は、大きな環境汚染を起こしました。

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しかし、このようにいわば金脈を絞り出すようにしてまで行った金採掘もさすがに行われなくなり、ゴールドラッシュ時代とこのポストゴールドラッシュ時代後に残ったのは、この地の愛称である「金の国(Gold Country)」という言葉だけとなりました。

ゴールドカントリーは、またマザーロード・カントリーとも呼ばれ、このロード(lode)とは鉱脈を意味します。現在のカリフォルニア州の中央部から北東部に掛けての地域の呼称であり、このゴールドカントリーには現在のカリフォルニア州の12の郡が含まれています。

すなわちアマドール郡、ビュート郡、カラベラス郡、エルドラド郡、マリポサ郡、ネバダ郡、プレイサー郡、サクラメント郡、シエラ郡、トゥオルミ郡、プラマス郡およびユバ郡などの郡がそれです。

これらのゴールドカントリーにおける、富と人口の増加はまたカリフォルニアと東海岸との交通を著しく改善させました。1855年には、パナマ地峡を横切るパナマ地峡鉄道が開通しました。それまで大西洋から太平洋に出るには南アメリカのマゼラン海峡を航路で経由する遠回りを強いられていましたが、この鉄道がこれを解消しました。

太平洋郵便蒸気船会社が所有する蒸気船などがパナマとサンフランシスコの間で定期便を運行し、パナマ西岸(正確には南岸)に着きました。そしてここからはパナマ地峡鉄道で大西洋側へ人や物資の運搬し、カリブ海、フロリダ南岸を通ってアメリカ東海岸の各州への行く定期便が組まれました。

つまり二つの航路の間に鉄道を挟む形で東海岸へのアクセスのショートカットが可能になったわけです。

一方、アメリカ東海岸やヨーロッパからアメリカ西海岸へ向かう者にとっては、マゼラン海峡を航路で経由するルートは高額な船賃がかかることから、むしろロッキー山脈の駅馬車越えのほうが主流でした。しかし、駅馬車ルートやはり日数がかかり、道も不安定で治安の問題もありましした。

この問題もまたパナマ地峡鉄道ルートの完成により解消し、この鉄道経由の船舶ルートのほうが、費用は若干高かったものの、短時間かつ安全に西海岸に行くことのできるルートとして重宝されるようになりました。

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しかし、一部鉄道を用いることができるようになったとはいえ、東西の往復に船を使うのはまだまだ危険な旅でした。1857年には、SSセントラル・アメリカ号がカロライナ海岸沖でハリケーンに遭い、この船が積んでいた推計3トンのカリフォルニア金と共に沈没し、これがこの年から始まった1857年恐慌の引き金となりました。

このため、ゴールドラッシュが終わった1860年代初頭には、大陸横断鉄道を建設しようという機運が生まれました。1863年には、最初の大陸横断鉄道西部部分の起工式がサクラメントで行われ、この鉄道は6年後の1869年に完成。その資金の一部にはゴールドラッシュ時代の金が使われました。

こうして、カリフォルニアとアメリカ合衆国中部および東部は、陸路によって結ばれ、これによってようやく東西が一体になった感がありました。それまで船と鉄道の両方をかけて何週間も何ヶ月も掛かっていた旅が、この時から数日で成されるようになったのです。

このようにゴールドラッシュは、アメリカ国内の交通網を充実させるとともに、その結果として経済をも活気づけましたが、と同時にこの景気は世界中の経済をも刺激しました。

チリ、オーストラリアおよびハワイの農夫は、カリフォルニアに集まる人々の「食」に対する巨大な新市場をみつけることとなり、またイギリスで生産される製品はフォーティナイナーに広く受け入れられました。

さらには、彼等の衣類やプレファブの家屋までもが中国から運ばれたため、アジアにも景気をもたらしました。これらの商品に対しては、産出された大量の金が代金として支払われ、世界中で物価を上げ、投資を刺激し、さらなる雇用を創出しました。

また、オーストラリアの探鉱技術者でエドワード・ハーグレイブスという人物は、カリフォルニアと母国の地形の類似性に注目し、オーストラリアに戻って金を発見し、オーストラリア・ゴールドラッシュにも火を付けました。

こうして、カリフォルニアの名前は永久にゴールドラッシュと結びつけられるようになり、その結果、「カリフォルニア・ドリーム」ということばができました。カリフォルニアは新しいことの始まる場所として世界中に認識されるようになり、一生懸命働くことと幸運があれば大きな富となって返ってくると考えられるようになりました。

歴史家のH・W・ブランズはゴールドラッシュの後の時代にカリフォルニア・ドリームがアメリカ合衆国の他地域に拡がり、これが、のちの世の「アメリカン・ドリーム」と呼ばれるものに発展していったと述べています。

現在もアメリカでの多くの人々が夢見るこの「アメリカン・ドリーム」は、この国における「成功」の概念と等しく、均等に与えられる機会を活かし、勤勉と努力によって勝ち取ることの出来るものとされ、その根源は独立宣言書にも「幸福追求の権利」として記されています。

アメリカンドリームの体現者として実際に成功させた人物に対する伝記は枚挙に暇がありませんが、その中でも最も有名なのは、弁護士、イリノイ州議員、上院議員を経て、第16代アメリカ合衆国大統領に就任したエイブラハム・リンカーンであり、また一代にして巨万の富を築き上げたジョン・ロックフェラーの二人でしょう。

貧しい開拓民の息子だったリンカーンは、独学で法律を学び、アメリカ大統領の地位に上り詰めましたが、奴隷解放を宣言し、南北戦争による国家分裂の危機を回避した英雄であり、アメリカの平等と理想、努力と勤勉によって成功が得られることを見事に体現させた一人であるといえます。

また、商人の家に生まれたジョン・ロックフェラーはペンシルベニア州で掘られた油田に目をつけ、クリーヴランドにて石油精製業をはじめ、1870年にスタンダード・オイル社を設立し、全米の石油精製業の95%を独占、世界最大の間接権力を手に入れました。

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この二人に代表されるように、多くのアメリカへの移民が何世代にもわたってカリフォルニア・ドリーム、引いてはアメリカンドリームを体現していきました。カリフォルニアを中心として農業、石油採掘業者、映画制作者、航空機製造業、さらに近年ではドットコム・ビジネスにおいて開拓者たちがその夢をかなえています。

カリフォルニアにおけるゴールドラッシュはまた、この州のニックネームである「ゴールデン・ステート」にも名残を残しており、またこのカリフォルニア州のモットー(標語)「ユリーカ(ユーレカ)」もまた、ゴールドラッシュの名残でもあります。

ユーレカ(Eureka)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州北部ハンボルト郡の都市の名でもあり、同郡の郡庁所在地です。現在の人口は27,000人あまりで、サンフランシスコ市からは北に270マイル (432 km) に位置し、カリフォルニア州北部海岸の政治、医療、交易および芸術の中心として機能する港湾都市です。

世界最高の樹木であるコースト・レッドウッド(セコイア)の広大な保護区域やそれに関する多くの公園に近く、カリフォルニア州立公園システムの北海岸セコイア地区やシックスリバーズ国立の森の本部が市内にあります。

豊富な漁獲が得られる太平洋に面し、豊富なセコイアの森に近いという環境はこの街に豊かな資源を提供し、150年以上前から鉱山師、林業者および漁師がこの地に入植していましたが、金探鉱者が近くのトリニティ地域で金脈を発見したことで、この街をさらに豊かにしました。

そして、この「ユーレカ」とはギリシャ語で「私がそれを見付けた」という意味であり、この地で金を採掘する鉱山師たちにとっては期待を持たせる合言葉となりました。そして含蓄のあるこの言葉がそのままこの街の名前になり、かつ現在カリフォルニア州の公式モットーにもなっている、というわけです。

ユーレカの賑やかな商業地区や、水際に近いビクトリア様式建築物は、ゴールドラッシュ時代の大きな繁栄を反映したものであり、これらの建築物の多くが今日も残っていて、その多くは全面改装されたものの、幾つかは当時の優美さや華麗さを留めてきています。

19世紀に繁栄した町の中心であるオールドタウンは、現在改修されて活発な芸術の中心になってきており、このオールドタウン地区はアメリカ合衆国国家歴史登録財によって歴史地区にも指定されています。

この文化地区に残っているビクトリア様式建築の多くは、家屋として使われていなければ、宿泊所、レストランおよび小さな商店に転換されており、そこにある硝子器から薪ストーブまで、また地元で創られた多様な芸術作品まですべて手作りだといい、これはかつてのゴールドラッシ時代に隆盛になった木造家屋産業の名残だといいます。

まさにユーレカ自体がカリフォルニア州の歴史史跡であるといえ、この街は「アメリカの小さな芸術町ベスト100」では第1位に推奨されたこともあるそうです。

毎月ある文化と芸術の行事「アーツ、アライブ」は地域最大の行事だそうで、このほか毎月第1土曜日に80以上の事業所と画廊が公開されており、地元の料理や飲料と共に地域のバンドなど様々な分野の生公演があるといい、また幾つかの劇団が一年中公演を行っているそうです。

ハワイを離れてからもう何十年もアメリカを訪れていませんが、いつかは再び彼の地を訪れ、そのときにはぜひ、このカリフォルニア・ドリームの名残であるこの町をぜひ見に行きたいものです。

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