イタリア発アメリカ

4a19703u-2おとといの11月14日に、アメリカ合衆国ニューヨーク州の町オウェゴ(Owego)の郊外アパラチン(Apalachin)というところで、「アパラチン会議」という会議が開かれました。

といっても、これは60年ほども前の1957年のことであり、会議の名前からすると政治家の集まりか何かな、と思いきや、これはアメリカのマフィアのボスたちの秘密会談でした。

ニューヨークのジェノヴェーゼ・ファミリーのボスであるヴィト・ジェノヴェーゼが全米のボス達とコミッションを開く事を提案したもので、彼の呼びかけにより、全米よりマフィアのボス達約100人が、フィラデルフィア北東部一家のボス、ジョゼフ・バーバラの所有する邸宅に集まりました、

会議中にはこの片田舎の家に多数の高級車が並び、高級スーツを身にまとった大勢の男たちが集まりましたが、こんな片田舎にこれだけの紳士が集まっているのはどうみても不審です。案の定、街の住人から通報があり、このため多数の警察官がかけつけ、この会議場に踏み込みました。

驚いたマフィア達は周囲の森などに逃亡しましたが、このとき数多くの名うてのマフィア幹部達が逮捕・起訴されました。それらの中には、ジョゼフ・ボナンノ(ボナンノ一家)、ジョゼフ・プロファチ(プロファチ一家)、サント・トラフィカンテ(フロリダ州、キューバ)、ジェームズ・シベーロ(ダラス)といった大ボスもおり、65人が逮捕されました。

この事件は、この当時マスコミにより大々的に報道され、これによって初めてアメリカ国内にも大規模な犯罪組織が存在していることが全米に知れ渡りました。警察はそれまでこうしたマフィアの大組織が存在を否定していましたが、これを契機にこのときのFBI長官であったジョン・エドガー・フーバーは組織犯罪撲滅の開始を宣言しました。

この「マフィア」というのは、もともとイタリアを起源とする組織犯罪集団です。その発祥の地は、シチリア島といわれ、この島は地中海のほぼ中央に位置しています。イタリアとチュニジアを結ぶ中間点にあることから、古代から近世にかけて様々な民族による侵略を受け、長年にわたり諸外国の勢力下に置かれていました。

その後18世紀にはこの地においてシチリア王国が成立しましたが、当然のことながら王による絶対支配であり、その後も近年に至るまでシチリアには自治行政府は存在せず、このため住民たちは数世紀にわたり大土地所有制度の下、貴族などの権力者によって住人達は抑圧されてきました。

実は、こうした住民側に立ち彼等を擁護する、という立場から登場してきたのがマフィアです。しかし、19世紀ごろから次第に凶暴化して恐喝や暴力により勢力を拡大するようになり、1992年段階では186ものグループに膨れ上がり、これらのマフィアのグループは「ファミリー」と呼ばれました。

この当時既に総勢で約4000人ものメンバーがいたといいますが、マフィアの一部はその後、19世紀末より20世紀初頭にアメリカ合衆国にも移民し、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなど大都市部を中心に勢力を拡大していきました。

1992年段階でアメリカ全土には27ファミリー・2000人の構成員がおり、ニューヨークを拠点とするものはコーザ・ノストラと、シカゴを拠点とするアウトフィットがそのうちでもとくに大きなファミリーでした。

今日は、このように19世紀から現在にかけてまでイタリアとアメリカの裏社会において君臨してきた「マフィア」という存在の歴史をさらに詳しくみていこうと思います。

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マフィア・その黎明期

マフィアの起源は、中世シチリアの「ガベロット」と呼ばれる農地管理人であるといわれています。彼らは農民を搾取する大地主でもありましたが、一方では自分たちの農地を守るため武装して守り、また政治的支配者と密接な関係を結んでいました。

この「マフィア」という言葉の語源ですが、諸説はあるものの定説はありません。が、アラビア語で採石場を意味するマーハ(mafie)、空威張りを意味するマヒアス(Mā Hias)から来たというものが有力といわれています。

イタリアのシチリアでは9世紀から11世紀までイスラム教徒のアラビア人が支配しており、支配に反抗した者や犯罪者がしばしば採石場に逃げ込んだといいます。またイタリアの国語辞典にはシチリア方言で「乱暴な態度」という意味であるとの記述があるようです。

しかし実際には人々の受け止め方は違い、マフィアという言葉が出される場合は、肯定的な意味で使用されることが多く、とくに農民はガベロットの支配下にはあったものの、自分たちを守ってくれる彼らを「美しさ、優しさ、優雅さ、完璧さ、そして名誉ある男、勇気ある人、大胆な人」と考え、マフィアという言葉にその意味を込めました。

この言葉が初めて公文書に使われたのは1656年、この当時スペイン人の統治下にあったイタリアのシチリア島北西部に位置する都市パレルモでの異端尋問においてであり、異端とされたイタリア系キリスト教信者のリストの中で初めてこの言葉が使用されています。

その後、18世紀になるまで、シチリアに領地を持っていた貴族や地主らは、ナポリやパレルモ等の都市部に居住していたため、一般の小作農民との接点はなく、また地主らもまたガベロットに土地管理を任せたままにしていたため、自分たちが所有する土地やそこに住み農民への関心は薄いままでした。

このため、地主らから広大な農地を貸与されてたガベロットたちは、こうした地主たちの無関心を利用して、そこでの収益を地主に不正申告し、余った金を小作農民達に法外な利子をつけて貸しつけたり、また当時は非常に儲けの大きかった家畜泥棒等をして私腹を肥やしていきました。

そして裕福になったガベロッとたちは、本来の自分たちの仕事を、農地監視人(カンピエーレ)という人達に任せるようになり、彼等に山賊や盗賊から守る為の仕事をやらせました。一方では、徐々に地主達からその権利を奪い取り、さらに、貴族、政治家、警察、教会などの上流階級や小作農民や山賊らをも取り込んでいき、勢力を拡大していきました。

こうして彼ら農地管理人と農地監視人は共存共栄の癒着関係となっていき、こうした彼らがのちのマフィアと呼ばれる犯罪組織の母体となっていきました。しかしこの当時のマフィアはまだ、国の支配者たちから自分たちの権益を守る自衛組織的なカラーが強いものでした。

その後の1860年、イタリアはスペイン人を追い出しシチリア島を併合してイタリア王国が設立されましたが、これがマフィアたちにとっても歴史の変換点となりました。

イタリア民族自らが権力者を選ぶ王国になったとはいえ、政権に集まった人間の中身は右翼から左翼までばらばらであり、このためとくに伝統的に中道であった大地主たちは次第に王政に不信感を抱くようになりました。

さらにシチリア人達は、それまでの数世紀にわたるシチリア王国以前のフランス人やスペイン人といった外国人支配者による政治的な圧迫の記憶から、政治や政府そのものに対して強い不信感があり、住民同士での互助組織を通じてその時々の外国人支配者に対して抵抗してきましたが、そんな中でマフィアを頼りにするようになったという歴史があります。

そこへきてこれら外国からの圧迫から解放され、王国ができたわけですが、その政治が乱れに乱れたことから、マフィアが台頭することとなり、彼等は主に労働運動などを扇動し、デモなどを通じて会社や政治への関係を強めていくようになり、次第に裏社会を操る「必要悪」といわれるような存在となっていきます。

とくに現代のような犯罪者としての意味合いの強い「マフィア」という言葉が広く知られるようになったのは1862年に制作された「ヴィカーリア刑務所のマフィア構成員たち」という喜劇がパレルモのサンタンナ劇場で上演され大ヒットし、イタリア各地で巡演されてからといわれています。

このマフィアの扇動により、住民だけでなく、大地主も含めたシチリア王国の大部分の住民は中央政府に対する反発を強めるようになり、さらには保守的な宗教勢力による運動、労働運動なども勃興するようになります。つまり、このころのマフィアはもうすでに、人々を守るような存在ではなく、後世のような「悪魔」に変身していたのです。

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イタリアンマフィアの誕生

こうした風潮の中で、悪賢いマフィアたちは、シチリアの住人に対して「無能で高圧的な公権力に対し、誇り高く名誉ある男として振る舞う男たち」というイメージを刷り込んでいきました。そしてシチリアの大衆もそんな彼らに幻想を抱き、救いの手を求めるようになっていきます。

ところが、このように住民たちが受け入れたマフィアは、救世主でもなんでもなく、やはり悪魔でした。

マフィアが起こした事件で最初に世界を震撼させたのは、1877年に起きた「ジョン・フォスター・ローズ誘拐事件」でしょう。この事件は1877年11月にジョン・フォスター・ローズというイギリスの銀行家が自分の所有しているシチリアの土地を見に訪れたときにレオネというマフィアのボスに誘拐された事件です。

レオネはローズ家に莫大な身代金を要求しましたが、払えないという返事が来るとローズの耳と鼻をそぎ落とし、送りつけました。この事件の収集は結局当事者だけでは収まらず、イギリスの新聞が募金を呼びかけて集まった金をレオネに払い、ようやくローズが解放されるという結果になりました。

しかし、イギリス政府は自国民のこの遭難を看過しませんでした。イタリアに対しレオネを逮捕するよう要求し、逮捕が行われなければ軍隊を上陸させるとまで通告したともいい、これを受けてイタリア政府は1年かけてレオネを逮捕しました。彼は裁判で終身刑を受けましたが、その後脱獄し、アルジェリアに逃げたといわれています。

ところがこのころまでには既に多数の住民の支持を得ていたマフィアはかなりの大組織に成長しており、たちまち彼等の逆襲が始まりました。彼等は政治家にも取り入り、政治にも介入していくようになっており、そんな彼らが起こした象徴的な事件として、1893年2月1日に起こった「ノタルバルトロ侯爵殺害事件」というものがあります。

この事件では、元シチリア銀行頭取エマヌエレ・ノタルバルトロ侯爵が殺害され、その犯人として、政治家であったラファエレ・パリッツォーロと彼の友人であるマフィアのボスが浮上しました。

事件の発端は、彼が手形を偽造して銀行から融資を受けていたことを、ノタルバルトロに感づかれてしまったことでした。しかしあらかじめマフィアが各方面に手を回していたこともあり、当局はこのことに関して調査しようとせず、この事件を捜査しようとした捜査官らは左遷され、直接殺害に関与したマフィア達もまともに審議されずに釈放されました。

これに憤慨したノタルバルトロの遺族たちは独自で調査を行った結果、マフィアであった容疑者を探しだし、彼等を裁判にかけることを要求しました。こうして、イタリア本土で裁判が行われることとなりましたが、その中で政治家であるパリッツォーロにも有罪判決が下りました。

ところが、マフィアと親交があったとはいえ、イタリア政府の一員でもあった政治家に有罪判決が出たことに対しシチリアの有力者たちは激怒しました。

そして彼らが結成した「親シチリア委員会」は、「シチリア人が迫害されている! シチリア人を陥れようとしている者達が我々にマフィアというレッテルを張ろうとしている!」とのキャンペーンを展開し、裁判のやり直しを要求します。

その結果、再度裁判が行われる事となり、1904年にパリッツォーロらは無罪放免となりました。シチリア人たちは公権力に勝利したとして大いに満足しましたが、ある意味悪の権力に肩を貸したことになり、引いてはマフィアに加担したことになりました。

その結果として、シチリアの住民は自分たちが下したこの決断を恥じるようになり、その自戒からこれ以来「マフィア」という言葉は公然と使わなくなり、禁句となっていきました。

つまり、表向きはマフィアという存在を出さない、そんなものはいない、という雰囲気が生まれたということであり、この事件以降、マフィアはイタリア社会の地下深くへともぐりこみ、更に暗い裏社会を形成するようになっていきます。

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イタリア国外への進出

こうして19世紀から20世紀にかけて、マフィアたちの勢いはさらに増していきました。それまでは主に農村地帯が彼らの本拠地でしたが、パレルモなどに代表されるような都市部へもその勢力を拡大していきました。

そして、19世紀末、アメリカでのゴールドラッシュによりヨーロッパからの移民が増加し始めると、彼等イタリア・マフィアも海を渡り始めました。これが映画「ゴッドファーザー」で知られるアメリカ・マフィアの起こりであり、彼等マフィアはアメリカ大陸においてもイタリアと同様の犯罪結社を作り定着していくようになっていきます。

しかし、こうしたイタリア人達の渡米は、18世紀から19世紀前半までにアメリカに渡り定着したイングランド人やドイツ人などプロテスタント移民に大きく遅れての入植でした。時期としては、19世紀末から20世紀初頭になってであり、かなり遅れてアメリカへ入ってきた後発移民集団といえます。

後発組であった彼らは、このためアメリカ社会の底辺に置かれるようになり、やがては同郷出身者同士の協力関係を築くようになります。こうした中から生まれた「アメリカマフィア」もまた、本来イタリア系移民の中で結ばれたこうした相互扶助の形式から発達したものでした。

このアメリカマフィアのほとんどは南イタリア出身であり、当初はニューヨーク等の東海岸に居住しましたが、次第にシカゴやアメリカ南部等へも広がっていきました。

実は、ニューヨークの暗黒街には、19世紀末から20世紀にかけて、既に様々なギャング団が存在していました。彼らはアイルランド系、ユダヤ系など民族ごとに集団化し、賭博・売春等を稼業としながら、お互いの縄張り争いをしていました。

アメリカに入植してきたイタリア人の犯罪者たちも、これをお手本にし、彼らのように犯罪集団を作り始めましたが、その中でも有名なのが「マーノ・ネーラ」、通称「黒い手Black Hand」と呼ばれるギャング達でした。

彼らは主に商店への強請りを生業としており、相手に手紙を送り金を払わなければ殺すと脅す手口で勢力を拡大していきましたが、いつもその手紙に黒い手形のマークをつけていたことが、彼らの名の由来です。

1890年10月15日、アメリカ南部にある町ニューオーリンズで警察署長だったデイブ・ヘネシーが何者かに暗殺されるという事件が発生しました。

犯人は、この当時ニューオリンズの支配権をプロベンツァーノ・ファミリーと争っていたマトランガ・ファミリーという、イタリア系移民のマフィアでしたが、彼らはヘネシー署長が敵対していたプロベンツァーノ・ファミリーを庇護していると思い、彼を殺害したのでした。

捜査の結果、マトランガの手下が犯人として逮捕されましたが、1891年3月13日、彼らに証拠不十分で無罪の判決が下りました。この判決に対し、ニューオリンズ市民は激怒し、「犯人を出せ!」と叫び、犯人であるマトランガの部下が収監されていた刑務所に押し入り、彼らを集団リンチしました。

この事件はその中核にいたのがイタリア系移民だったため、そのニュースはアメリカはおろかヨーロッパにまで知れ渡りました。

また、当時の大統領だったベンジャミン・ハリソンがイタリア政府に謝罪するまでの事態に発展し、結局アメリカ政府はイタリアにいる犠牲者の遺族らに賠償金を支払いました。そしてこの事件がアメリカでのマフィアによる初の抗争事件といわれています。

その後、1901年には、元イタリアのマフィアの、「ヴィト・カッショ・フェロ」という男がシチリアからアメリカへ渡り、ニューヨークのイタリア系アメリカ人の犯罪組織であるマーノ・ネーラと手を結びました。

ニューヨークにおいてマーノ・ネーラ達と接触し、犯罪組織としては未熟だった彼らに「マフィア流の商売」の仕方を教え、やがては指導者のような存在になっていきました。

彼こそがアメリカマフィアの創造者とまでいわれた人物であり、もともとイタリアにも基盤があったことから、ヴィト・カッショ・フェロはやがて、シチリア=アメリカ間のマフィア・ネットワークを強化する要となっていきました。

組織を強化するためフェロが手始めにやったのは、伊米間で密貿易を行い、手先から保護料取立てることであり、これによって財を成し、やがては20世紀初期の大物マフィアとしてその権勢を誇るようになっていきました。

そんな矢先の1903年、フェロらの一味の幹部が、アメリカの警察官ジョゼッペ・ペトロジーノによって逮捕されてしまいます。

捕えられたのは、ボス格であるヴィト・カッショ・フェロやジュゼッペ・モレロであり、このほかにもシチリアでノタルバルトロ侯爵殺害に加わったジュゼッペ・フォンターナなども含まれていました。ところが、彼等はその後は証拠不十分で釈放されました。そしてその裏には彼等マフィアと検察の癒着があったことも指摘されています。

このように警察や検察内部にも通じ、野放しにされたままの彼らは更に問題を引き起こしていきます。1907年、彼らは当時、人気を博していたイタリア人歌手エンリコ・カルーソーに脅迫状を送りました。このため、ペトロジーノはイタリア系犯罪組織に関する調査を進めるため、1909年、はるばるアメリカからイタリアに渡航します。

ところが、彼が調査活動を始める前にその動きは事前にマスコミ等に漏れていた為、パレルモに到着して間もなく、ペトロジーノはフェロの手下により暗殺されてしまいました。

以降、イタリアのシチリア・マフィアとアメリカのマーノ・ネーラは緊密な関係を保ったまま、強大なマフィアとしての性格を強めていき、ニューヨークにおいては商店主への保護料要求、闇賭博、売春等の操作で富を得て、アメリカンマフィアは犯罪組織としてさらに成長していきました。

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禁酒法時代

その後、アメリカでは1920年代に禁酒法時代に突入しますが、このころイタリアでは、ムッソリーニ政権による強力なマフィア取締が始まっており、大物ボス達までが出国してアメリカに渡り、密造酒製造・販売に携わり巨万の富を築くようになっていました。

そして、ファミリー同士で熾烈な戦争を起こすようになっていきますが、その中でも最大の抗争といわれる「カステランマレーゼ戦争」において勝利したサルヴァトーレ・マランツァーノという男が「ボスの中のボス(Capo di tutti capi,boss of all bosses)」を名乗ったときに、自らの組織名を初めて、「コーサ・ノストラ」と命名しました。

コーサ・ノストラ(La Cosa Nostra)とは、イタリア語で「我らのもの」を意味します。ボスを頂点とするピラミッド型の構造を持ち、忠誠心と暴力による恐怖支配によって組織を維持した秘密結社でもあり、組織について沈黙を守るよう定める血の掟によって、その実態が表面化することはほとんどありませんでした。

彼らが自らの組織を呼ぶ際には「名誉ある社会」と表現し、そして、個人の場合は「名誉ある男」という言葉を好んで使いました。また、マフィアと一般人を区別する為、単に「我々」という言葉も使われました。

例として「彼は我々の友人だ」の場合は、彼もマフィアの一員であるという意味合いで使われ、「彼は私の友人だ」の場合は彼はマフィアの一員ではないという意味があります。

コーサ・ノストラの親分の中には、その後アル・カポネなどの派手な大物ボスが現れたため、世間の脚光を浴びるようになり、このことから、アメリカ政府の集中取締りを受けるようになっていきました。映画、「アンタッチャブル」はこの時代のマフィアとこれを取り締まる警察官との戦いを描いたもので、ご覧になった方も多いでしょう。

この映画でも描かれましたが、その後警察の中でもマフィアとの癒着を浄化しようという動きがあり、これによって取り締まりが強化され、その余波を受けてアル・カポネは投獄されてしまいます。この事件によって組織が大きく生まれ変わったといわれており、結果として最も勢力を伸ばしたのが、組織力に優れたチャールズ・ルチアーノでした。

“Lucky” ラッキー・ルチアーノとも呼ばれた彼は、組織の潜在化に努め、ニューヨークの縄張りを五大ファミリーに固定化するなど各地のイタリア系組織を整理・統合し、他国系移民の犯罪組織とも連携して犯罪シンジケートを構築し、この時代にはさらに政治との癒着も深めていきました。

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ファシスト政権時代

一方のイタリアのシチリアにおいては、第一次世界大戦の勃発後、ここが軍用火薬の原料となる硫黄の産出地でもあったために戦争景気が訪れ、硫黄鉱山を保有していた「カロジェロ・ヴィッツィーニ」というマフィアなどが、大いに私腹を肥やすようになっており、イタリアンマフィアは全盛期に入っていました。

ところが、このイタリア・マフィアは1920年代から1930年代にかけて徹底的に弾圧され壊滅的な打撃を受けるようになっていきました。

政治家や有力者を取り込み、邪魔者は徹底的に排除し、沈黙の掟で守られた彼らも、壊滅状況に追い込まれた時代が到来しました。1922年から始まったベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権が主導する時代がそれです。

ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱したファシズムは大流行し、反自由・反共産・反保守でしかも過激な軍国主義という、いわゆる「ファシスト」が暗躍するようになり、その中で彼等は似たような性質を持つマフィアたちを敵視するようになっていきます。

1924年5月、ムッソリーニがシチリアを訪問した際には、自分のことは棚に上げ、「ここは、すべてが悪党どもの集団で、動くたびにマフィアの悪臭がする」と秘書に述べていたとも伝えられています。

ムッソリーニはさらにシチリア中央部にあるピアーナ・デイ・グレージという町を訪問しましたが、このとき、この町の町長でありマフィアのボスでもあったフランチェスコ・ドン・チッチョは、ムッソリーニに対し「警察に護衛してもらう必要などない。私がいれば何も問題ない」と護衛を減らすよう求めたといいます。

ところが、ムッソリーニは、この町長の求めを無視しました。町長はこのムッソリーニの態度に激怒し、町の住人に対しムッソリーニの演説を見に行くなと命じた結果、ムッソリーニの演説集会には誰も集まりませんでした。

不審に思ったムッソリーニが部下に調べさせてみたところ、実はチッチョがマフィアであるという事実を知ります。これを知るや否やムッソリーニは怒りまくり、そしてマフィア撲滅を宣言します。

そして、1925年、部下のチェーザレ・モーリをシチリアに派遣し、マフィアの掃討を始めますが、このモーリのマフィア狩りは苛烈を極め、ちょうどこのころイタリアに帰国していた、上述のイタリア系アメリカマフィア、「ヴィト・カッショ・フェロ」を含む多数のマフィア構成員を刑務所に送り込み、マフィアを壊滅状態に陥れました。

しかし、このモーリはどちらかといえば正義感の強い人であったようで、マフィアに次いで、やがてはその追求の矛先をムッソリーニらのファシスト政権の要人にまで伸ばすようになったため、1929年に罷免されました。しかし、モーリらの掃討により、イタリアのマフィアたちは大打撃を受け、その後しばらく息を潜めるようになっていきました。

ところが、その後ムッソリーニ率いる軍国主義国家としてのイタリアは第二次世界大戦において連合国に破れました。ムッソリーニは国外へ脱出しようとしましたが、イタリア北部のコモ湖付近でパルチザンに捕えられ、後日銃殺されました。

これにより、大戦終結後の1946年に行なわれた共和制への移行を問う国民投票では、共和制移行が決定し、ウンベルト2世は廃位され、君主制は廃止され、現在のイタリア共和国が成立しました。

これを受けて1947年以降、シチリアにも主権が与えられるようになりましたが、長期間続いた外国による支配と彼らの失政とその後も続いたファシストたちの支配によりボロボロ状態であり、かつて地中海の自然の恵みを受け農業が盛んであったシチリアの国土は荒れるにまかせるままになっていました。

やがては、山賊等の無法者がはびこる島となり、このため島の住人たちは公権力に対して強い不信感を持つようになりました。シチリア人にとって、公権力に頼ることや公権力に協力することは非常に不名誉なことであるとされるようになり、「公権力に頼らず、自分の力で問題を解決していくこと」が名誉ある生き方と考えられるようになっていきました。

こうした時代背景から、一旦衰退していたマフィアが復活し始めます。第二次世界大戦中、アメリカ政府は、ムッソリーニ率いるファシストの攻略のためイタリアマフィアを利用していましたが、このときその連絡のためにアメリカ政府が利用したのが、かつてイタリアからアメリカに渡って形成されたアメリカマフィアでした。

そして戦後、このアメリカマフィアは、逆に続々とイタリアに里帰りするようになり、いわば逆輸入される形で息を吹き返すことになります。

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第二次大戦後

少し話が遡りますが、アメリカでは禁酒法が1920年代に終わって以降もマフィアは賭博業、売春業、麻薬取引、労働組合などで大きな収入を得ていました。1930年代に入っても、労働組合などは、組織力に優れたラッキー・ルチアーノなどのマフィアに食い物にされており、大手自動車会社フォードも被害に遭っていました。

ところが、トーマス・デューイという警察官がルチアーノを追いつめ、ついに逮捕に成功します。ルチアーノが投獄されたため、組織には大きなダメージを与えたかに見えましたがしかし、投獄後もルチアーノは権力を保ち続け、刑務所からをも組織を指揮することができたといわれています。

しかも、第二次世界大戦中の1943年、シチリアに連合軍が上陸すると、連合軍は刑務所にいたルチアーノファミリーの主だったメンバーを解放してしまいます。

さらに連合軍は知ってか知らずしてか、マフィアのカロジェロ・ヴィッツィーニをヴィッラルバ村の村長に任命し、同じくマフィアのヴィト・ジェノヴェーゼをアメリカ海軍司令部付の通訳に任命するなどして、多くのマフィア構成員を町長や村長等の政府関係者に任命しました。

こうしてファシスト政権崩壊後、イタリアのマフィア達は完全復活し、政治的にはこの当時の亜流であったキリスト教民主党との関係を深めていくようになります。

第二次世界大戦後、アメリカでは、監獄に入っていたラッキー・ルチアーノが恩赦により出所しましたが、すぐにイタリアに強制送還されました。しかし、残った大幹部のベンジャミン・シーゲルは、1946年、ギャンブルが合法とされていたネバダ州のラスベガスにフラミンゴホテルを完成させます。

このホテルは開業当時は赤字続きでしたが、彼は経営手腕に優れ、徐々に経営が軌道に乗ると、これを見たフランク・コステロなどの大物マフィアもこれを手本とし、次々とラスベガスにカジノをオープンさせていきました。

一方、イタリアでは、第二次世界大戦後もほとんどのマフィア・ファミリーは農村地帯に本拠を置いていましたが、1950年に大土地所有制度が廃止されたのと、イタリアに「奇跡の経済復興」と呼ばれる復興景気が訪れたのを機会に、マフィアたちは都市部へと本格的に進出し始めました。

そして彼らは建築ブームに乗じて政治家達と手を組み、公共事業の入札を支配し、建築業者から現金を脅し取る等して大きな利益を上げるようになりました。

この好景気において、イタリアで大きく勢力を伸ばしたのが、サルヴァトーレとアンジェロのバルベーラ兄弟と、グレコ・ファミリーとコルレオーネのボス、ルチアーノ・リッジョなどのイタリアンマフィアでした。彼らは共にタバコ・麻薬密輸・公共事業への介入で勢力を拡大していきました。

1957年10月10日、アメリカ・マフィアの大ボス、ラッキー・ルチアーノの提唱により、イタリア・パレルモにある高級ホテル「グランド・ホテル・デ・パルメ」において、はじめてアメリカのマフィアとシチリアのマフィアの大ボス達が集まり、史上初の伊米マフィアの合同会議が開かれました。

議題は、シチリアでの最高幹部会(コミッションまたはクーポラと呼ぶ)の創設と、麻薬に関する双方の取り決めでした。4日間続いた会議の結果、最高幹部会の結成とアメリカへの麻薬密輸等はシチリア側が取り仕切り、アメリカ側はその利益の一部を受け取るということに決まりました。

そして、彼等はこのころからイタリアマフィアの中においても「シチリアマフィア」とよばれて一目置かれるようになり、アメリカへの麻薬密輸に本格的に乗り出していく事となりました。そしてその手始めにマルセイユ経由のフレンチ・コネクションに対抗し、シチリアからアメリカ、ヨーロッパへのルートを確立させました。

このため、ヘロイン工場がシチリアで多く作られましたが、これらの麻薬はオリーブオイルの缶に詰められ、年間3~4トンにも上る量がアメリカへ送られたといいます。

そして、冒頭で述べたとおり、1957年11月14日、その幹部たちがニューヨーク州アパラチンで大会議を開くに至りますが、ここに集合した際、FBIにより、彼等は大量検挙され、この事件からマフィアの名がアメリカのメディアにも登場するようになっていきました。

このときに捕まったジョゼフ・ヴァラキという男が政府側に寝返り、それまで長い間「沈黙の掟」によって守られていた組織の詳細が明らかになりましたが、この話は、映画にもなりました。

ヴァラキは、1963年にアメリカ上院調査小委員会で「コーサ・ノストラ」という正式名を明らかにし、その内幕を暴露しましたが、ヴァラキは小物だったので組織の上層部のことまでは解らなかったといいます。

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第一次・二次マフィア戦争

1962年12月、イタリアでは、麻薬取引のもつれから、ラ・バルベーラ兄弟らとグレコ・ファミリーとリッジョらの抗争が始まりました。抗争は約半年間続き、結果的にはグレコ側の勝利となりました。

1963年6月30日、グレコの自宅近くにある不審な車を調査していた7名の憲兵隊員が、車に仕掛けられていた爆弾により死亡しました。彼らは車に仕掛けられている爆弾にもうひとつ仕掛けが施されているのに気づいていなかったのです。

この事件を重く見たイタリア議会は「反マフィア委員会」を設立し、多くのマフィア構成員らを逮捕しました。しかし、主立ったマフィアのボス達は次々と逃亡し、行方をくらませ、逃亡したボス達は海外または国内の潜伏地から組織を操作し続けました。

そして、1960年代から1970年代にかけて、南米からトルコに至る世界的な麻薬ネットワークを確立し、組織を肥大させていきました。

しかし1970年代になると、マフィア内部に不穏な空気が流れるようになっていきます。ルチアーノ・リッジョ率いるコルレオーネシ(Corleonesi)がシチリアマフィアの頂点に立つという野望を抱いて、その勢力を拡大し始めたためでした。

ボスのリッジョは1974年に逮捕されましたが、彼は獄中から、配下のサルヴァトーレ・リイナに指令を出し、まず、1978年に、コミッションの議長だったガエターノ・パダラメンティを追放し、後釜にミケーレ・グレコを据えました。

次にステファノ・ボンターデとサルヴァトーレ・インゼリッロらを巧みな策略で孤立に追い込み、彼らのファミリーの構成員を少しずつ消していき、最後にボスのステファノとサルヴァトーレも1981年に暗殺しました。

この暗殺事件により、コルレオーネシらと敵対するイタリアンマフィア・ファミリーとの抗争が本格化。年間200人以上の死者を出した抗争は「第二次マフィア戦争」と呼ばれました。

一方のアメリカではその後、1970年代に制定されたRICO法(組織犯罪対策法)に基づくFBIの主導による組織犯罪対策が活発化していました。さらに1980年代に入るとFBIはコーサ・ノストラの壊滅を目指してボスら大物幹部の一斉起訴に踏み切ります。

その後は当局へ投降するものが相次いだこともあり、アメリカンマフィアは現在ではほぼ壊滅状態となり、隆盛を誇った20世紀中盤頃までの面影はもはや存在しません。

しかし、イタリアではまだまだマフィアは君臨しています。1992年に、その生涯をマフィア撲滅運動に捧げていたジョヴァンニ・ファルコーネ判事が、シチリア島のパレルモを車で移動中にサルヴァトーレ・リイナ指揮下のマフィアによって高速道路に仕掛けられた爆弾によって暗殺されるという事件が発生しています。

ちょうどこのころ、彼の盟友の治安判事パオロ・ボルセリーノも相前後してマフィアの手で暗殺されており、両者はマフィアに対する捜査を率いて国民的人気を得ていました。

ただ、逆にこの事件が発端で、その後マフィアに対する取り締まりが強化しされるようになり、近年では殺人などの凶悪犯罪は減ってきているとされます。

しかし、その一方では、逆にアメリカ側でのマフィアの動きが活発化し、生粋のシチリア人マフィアを招聘して、世代を経て薄らいだ意識のテコ入れを図っているとされており、イタリアマフィアが凋落すれば、アメリカマフィアが勃興するという、イタチごっごが続いています。

2011年1月20日にFBIはニューヨーク周辺にてコーサ・ノストラの大量摘発を行い、127人のメンバーを逮捕したという事件もあったばかりですが、このようにアメリカとイタリアの両国においては、今もマフィアとの戦いが続いており、これからもまだまだ続いていくでしょう。

ひとまずは、イタリアンマフィアとアメリカンマフィアのお話はこれで終わりにしたいと思います。

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そして日本

ちなみに、日本にもかつてマフィアは存在しました。戦後間もない時期にアメリカ領フィリピンのマニラの賭博師だったテッド・ルーインやシカゴのチェーソン・リー(中国系でアル・カポネの子分)が、連合国占領下の東京に進出。ルーインは銀座に「マンダリン」という店を出して闇賭博場を開いたことがあるとされています。

この当時の読売新聞がこの銀座にあったという賭博場について「東京租界」というタイトルで特集を組み、彼らや中国系ギャングの活動を取り上げたといいます。その後ルーイン一派は帝国ホテルでダイヤ強奪事件と呼ばれる犯罪を引き起こしたようですが、次第に先細りになり、最後は日本を離れています。

こうして日本にはマフィアはいなくなったわけですが、彼等が駆逐されたのは、日本には暴力団がおり、彼等の勢力のほうが強かったためと考えられます。

この日本の暴力団は江戸時代の町火消から始まったという説があり、祭礼の周辺で商業活動を営む者を“的屋”または“香具師”(やし)と呼び、丁半などの博打を生業とする者を”博徒”と呼んでいました。

江戸時代においては、これらの者達は一般社会の外の賤民的身分とされていましたが、明治時代に入ってからは、新たに肉体労働組合も加わる事になり、急速な発展と同時に膨大な労働力が必要となったことで、炭鉱や水運、港湾、大規模工事現場には、農村や漁村から屈強な男性達が集まってきました。

これらの男性達の中から、力量ある男性が兄貴分として中心になり、「組」を作っていきましたが、労働者同士によるいさかいも多く発生しました。しかし、警察の手が足りない状況であったため、自警団的な役割を持った暴力団組織が結成されるようになっていったと考えられています。

また、太平洋戦争終結直後は、日本が連合国に敗戦し国土も焦土と化したことで物資が不足し闇市が栄えていく事になりました。特に露店を本職としているテキ屋系団体が勢力を増していき、また、敗戦による社会の荒廃により戦後の日本の治安は極めて悪かった中で、警察に代わって暴力団が治安維持の実力集団として機能するようになりました。

こうして新たに戦後の混乱の中で形成された“愚連隊”などの不良集団から暴力団が誕生していきました。その後、日本の急速な経済復興に伴い沖仲仕、芸能興行など合法的な経済活動にのみ従事する「企業舎弟(フロント企業)」も生まれました。

現代の一般社会からは、的屋も博徒も同じ「暴力団」と見なされているのが現状です。現代の暴力団は的屋の系譜を継ぐ団体(的屋系暴力団)、博徒の系譜を継ぐ団体(博徒系暴力団)の両方が存在しますが、明確な区別は建前上でしかなく、様々な非合法活動を行っています。

1992年に暴力団対策法が制定されるようになってからは、暴力団でも公然的活動はし辛くなり、堂々と組の看板を出して事務所を開く事も出来なくなっています。

日常生活においても、暴力団関係者であるだけで金融機関から融資を受けることもできなくなり、2013年に発覚したみずほ銀行暴力団融資事件では、自動車を購入した暴力団員へのローンにかかわったみずほ銀行の塚本隆史会長、佐藤康博頭取らが退任する事態となったことは記憶に新しいところです。

アメリカ合衆国のマフィアにイタリア系や中国系のマイノリティが多いのと同様に、日本におけるこの暴力団の巨大化も、特定の社会集団に対する差別が原因の一つだという説があります。

学校や会社でのいじめや、さまざまなハラスメントも差別の一種です。日本におけるマフィアの勃興を避けるためにも差別をなくしていかなくてはならない、と思う次第です。

今日は長くなりました。終りにしたいと思います。

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