修善寺は、一昨日あたりからすごい風です。空はピーカンに晴れているのですが、その吹きすさびようはすさまじく、とても洗濯物を干してなどいられません。
昔、学生だったころに沼津に住んでいたころから、伊豆は風の強いところだなと思っていましたが、あれから35年以上経ってもこの気候は変わりません。あたりまえですが……
安倍総理のこと
さて、最近、景気対策やアルジェリアのテロ事件のこともあり、その対応をめぐって、安倍総理のお顔を頻繁にテレビで見ることが多くなったように思います。
前回総理大臣をおやりになったときは、体調不良もあり、何か顔色が悪いな~と思っていましたが、現職ではかなりお元気そうにみえ、溌剌とした感があります。
前のご病気は、「潰瘍性大腸炎」というものだそうで、慢性の下痢と血便をずっと繰り返す結構大変な病気だったようですが、現在ではこれも完治されたたようで、体調も万全のようです。
58才という年齢での総理就任は、歴代をみてもかなり若く、全96代の総理大臣就任の年齢でみると、18番目ということで、この年齢で総理大臣になったのは、ほかに廣田弘毅、海部俊樹、羽田孜、橋本龍太郎などの各氏がいます。
この安倍総理のご実家は、山口県北部の長門市のやや西側にある「日置(へき)」というところで、ここを知っている、行ったことがある、という方は結構な「山口通」だと思います。
ここに、油谷湾という内湾がありますが、その北側の油谷半島と南側の本土との間に囲まれたこの湾は、通年を通して穏やかな海域であり、油谷半島のなだらかな丘の斜面沿いには田んぼや畑が広がるのどかな田園地帯となっていて、海山の取り合わせからなるその風情は、まごうことなく他地域ではほとんど失われてしまった「古く良き日本」の景観です。
油谷半島の最上部付近には「千畳敷」とよばれる高原があり、ここから北側にみる日本海、南側になだらかに連なる中国山地、東側にみる長門海岸、そして西側の油谷湾の眺めは素晴らしく、とくに、油谷湾越しに西側に沈む夕日は絶景です。
この油谷半島の北側の日本海に面した斜面には一面の「棚田」が連なっていて、ここは、東後畑地区(ひがしうしろばたちく)と呼ばれ、日本の「棚田百選」にも選ばれており、こちらも必見の景色です。
かつての山口県大津郡日置村は、この棚田のある油谷半島の根元付近、油谷湾のすぐ東側に広がっており、平成の大合併後に現在では、「長門市」に編入されています。
安倍家はこの地において、江戸時代に大庄屋を務め、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての名家と知られるようになった商家であり、祖父の「安倍寛」が日置村村長、山口県議会議員などを経て、1937年、衆議院議員に当選したのち、多くの政治家を生む「政治一家」となりました。
安倍総理ご自身は、ご自分のルーツは岩手県、かつての奥州にあった「安倍宗任」という武将の末裔だと言っているようで、この安倍宗任という人物は、1051年( 永承6年)の東北の武将同士の戦いである「前九年の役」において、敵方の「清原氏」の武将であった、源頼義、源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流されています。
その後、この宗任の流れをくむ者たちが油谷町に流れてきて住み着いたということであり、青森県の五所川原にある、石搭山・荒覇吐(あらはがき)神社というお社にこの安倍家の始祖である宗任が眠っているということです。
これを知った安倍晋三さんのお父さんで、外務大臣を務めた安倍晋太郎さんは、昭和62年(1987年)にこの神社を奥さんと一緒にお参りし、先祖供養を果たしたそうです。
このとき、「芸術は爆発だ~」で有名な、あの画家の岡本太郎も同行したということです。
岡本太郎自身は、神奈川県の川崎市出身の関東人であって、とくに東北人というわけではないようですが、彼もまた安倍一族の流れをくむ一人として自らのルーツに関心を持って調べていたという経緯があるようです。
そして、安倍氏のルーツも同じ人物であるということをどこからか聞きつけたのでしょう、この参拝に同行し、その際は道案内役まで果たしたということで、芸術家と政治家というあまり接点のなさそうな二人のルーツが同じというのもまた不思議なご縁ではあります。
平成元年(1989年)に発刊された「安倍一族」という盛岡の地方新聞社が編纂した本に、安倍晋太郎氏は「わが祖は宗任」と題する序文を寄せており、これには「宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら、華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです」と書かれているそうです。
ただし、この安倍宗任は、安倍晋三さんにとっては、女系の祖先にあたり、父系は平氏であったようで、それなのになぜ「安倍」姓なのかというと、平家滅亡の際に子孫を源氏の迫害から守るため、母方のほうのルーツである安倍姓を称した、ということだったようです。
戦前の長州閥
この安倍晋三さんの母方の祖父は、先輩総理大臣である、「岸信介」であることは有名です。
この岸信介氏の弟もまた総理大臣を務めた「佐藤栄作」であることは周知のとおりであり、岸信介は養子に入ったため岸姓を名乗りましたが、元の名は「佐藤信介」であり、この佐藤家の先祖は、源義経の郎党であった「佐藤忠信」という人物だそうです。
岸家の先祖のほうの出自ははっきりわかっていないようです。真偽のほどはわかりませんが一説では満州にいた海賊だったという話もあり、岸信介の曽祖父の代には、長州藩の代官をやっていたようです。
が、いずれにせよ、この岸家、佐藤家、安倍家のいずれをとっても、もともとは長州に芽生えた一族ということではないようで、その三家が山口県という地に集まり、ここを基盤として三人の総理大臣を輩出したというのは、何か不思議なかんじがします。
スピリチュアル的な観点からみると、この三家にまつわる霊たちは、それぞれ「ソウルメイト」ということなのかもしれません。
戦後、このうちの岸家を継いだ岸信介氏が総理大臣に就任したことで、その前の田中義一で途切れるはずであった、いわゆる「長州閥」による総理輩出の伝統は継承されることになったわけですが、その理由などについて検証していく前に、この「閥(ばつ)」という用語がそもそもどういう意味なのか調べてみました。
すると、「世界大百科」の第二版によると、次のように定義されているようです。
「なんらかの既得の属性によって結合し、相互に保護・援助しあう集団。閥は公的な主義・主張、あるいは目的をもって結合した集団ではなく、私的な利益を優先させるために結ばれた集団である。
したがって、閥は外部に対しては閉鎖的・排他的であり、内部的には強固な結合を求められ、親分子分関係的な位階秩序を形成しがちである。また閥は、私的集団にもかかわらず、公的な場においてその利益を優先的に拡張しようとして、社会的には弊害を引き起こす。」
「社会的には弊害を引き起こす」というのは穏やかではありませんが、弊害を起こしたかどうかは別として、少なくとも戦前までに山口県から排出された5人は、いわゆる「長州閥」のおかげで総理大臣になれた、とはよく言われることです。
明治時代以降のこれらの総理大臣は、長州藩による「藩閥」の「もちまわり」によって決めてこられた、とまでいうのは少々言い過ぎのような気もしますが、初代の伊藤博文以降、3代目の総理に主任した山縣有朋、11代桂太郎、18代寺内正毅、26代田中義一までの明治・大正時代の5人が、それほど間をあけずに次々と総理になったのは確かです。
山縣有朋から桂太郎までの間がかなり開いているようにみえますが、この間、伊藤博文が5代目と7代目の総理大臣に再任されており、また山縣有朋も9代目の総理として二回目の当選を果たしています。
桂太郎も、15代総理に再任されていますから、明治時代にはほとんど途切れることなく、これら長州出身者によって総理のポストが占められていたという印象です。
同じく藩閥政治を敷いたとされる薩摩藩でも、黒田清隆、松方正義(2回歴任)などの総理を輩出していますが、この薩摩藩の藩閥による総理大臣の系譜は、大正12年(1922年)に第二次内閣を築いた「山本権兵衛」で途絶え、その後鹿児島県からは総理大臣はひとりも輩出されていません。
これら両藩から多くの総理大臣が出た理由は、県民性うんぬんというよりも、明治維新で勝者側になり、明治政府を主導する絶大なる権力を握ったことが要因であり、これが藩閥政治であるといわれても仕方がないことでしょう。
当然、その配下も同じ藩の出身者で占められており、そうした同郷の人材が多ければ多いほど、その中から総理大臣が出てくる確率が高くなるのは当たり前です。
ただ、長州の田中義一に関しては、寺内正毅が退任してから8年もたったあとに総理大臣になっており、この間がやや空白気味ではあります。
しかし、田中義一は、伊藤博文が自らの「与党」として組織した、「立憲政友会」に所属しており、長州人が数多く含まれていたこの党から代議士に出馬して総理大臣になったというのは、やはり「長州閥」の恩恵を受けたためと考えて良いでしょう。
元陸軍大将などを務め軍人であった田中義一は、日露戦争では満州軍参謀として、同じ長州出身の総参謀長の児玉源太郎のスタッフを務めており、また日本陸軍の父ともいわれる山縣有朋にもかわいがられていたという経緯もあり、これらの経歴が総理大臣への昇格につながったことは間違いないと思われます。
岸・佐藤・安倍ファミリー
しかし、以後、田中義一と同じく立憲政友会に所属していた、濱口雄幸(高知県出身)や犬養毅(岡山縣出身)らが首相となり、彼らが退任して以後は、こうした藩閥政治による総理大臣就任はみられなくなり、以後太平洋戦争が終結するまでは、いわゆる薩長土肥と呼ばれた幕末の雄藩からは総理大臣は一人も出ていません。
土佐の高知県出身の濱口雄幸首相が1931年(昭和6年)に退任してから、1957年(昭和32年)に山口県出身の岸信介が総理大臣になるまで、実に26年間ものあいだ、長州や薩摩、土佐、肥後出身で総理大臣になった者はなく、この間に藩閥政治はすっかりなりをひそめたと思われていました。
ところが、そこへ来ての戦後の岸総理の就任です。またぞや藩閥政治の再来か、と当時の人たちは思ったでしょう。
他藩の閥は消滅してしまったけれども、この間に長州閥が廃れてしまったわけではなく、この間も長州人の政治家は脈々と地下活動を続け、戦後再びその猛威をふるうようになったのではないか、という印象を与えたのは確かです。
だがしかし、本当に「閥」といわれるような「閉鎖的かつ排他的な集団」が残っていたのか、というと私は、これはちょっと違うように思います。
戦前の5人の長州出身の総理は、いずれも同じ県内でも出身地が異なります。
ましてや親戚や縁戚関係はないにも関わらず彼らが「閥」と呼ばれ、ひとくくりにされたのは、彼らとその取り巻きが、幕末に勤皇の志士として幕府軍と命をかけて戦い、親兄弟以上に「血」の濃い師弟関係や主従関係がこの過程において結ばれ、これが明治時代にまで持ち越されたためです。
ところが、戦後に出てきた3人の総理は、無論こうした幕末の動乱を経験しておらず、そうした動乱にちなんだ同盟関係はありません。岸信介、佐藤栄作の二人が兄弟であり、また安倍氏は岸信介の孫にあたるなど、彼らの関係は、閥とは明らかに異なる縁戚関係をベースとしたものです。
なお、岸・佐藤家は山陽側の田布施町が地元であるのに対し、安倍家は県北の日置に家がありますが、こうした地理的違いが、この三家が親戚関係であるということの絆をなんら疎外するものではありません、
佐藤兄弟はとびきりの秀才兄弟として有名でしたから、この二人が総理大臣になれたのは、藩閥とは関係なく、安倍晋三もまたこの佐藤家の流れを汲む優秀な血の一族の生まれであり、彼らそれぞれが政治という世界において秀れた才能を持っていたということだと思います。
いわば、アメリカのケネディ家の一家のような関係であり、著名な政治家や実業家を輩出しているこの名門一族と日本のこの「岸・佐藤・安倍ファミリー」はどこか似ています。
第一世代のパトリック・J・ケネディは、実業家として成功し、マサチューセッツ州上院・下院議員に当選、その息子のジョセフ・P・ケネディも、ケネディ家の第二世代として実業家として名を馳せ、証券取引委員会委員長、駐英アメリカ大使を務めました。
そして、第三世代のジョン・F・ケネディは、ジョセフの次男として生まれ、第35代アメリカ合衆国大統領にまで上り詰めます。ケネディ家にとっては絶頂期だったでしょう。
ところが、ジョン・F・ケネディは暗殺されてしまいます。しかし、ジョセフの三男でジョンの弟のロバート・ケネディが第64代アメリカ合衆国司法長官に就任し、四男のエドワード・ケネディもアメリカ合衆国上院議員に就任するなど、ジョンの死によって凋落していくかと思われたケネディ家は、その後も脈々と政界に根を張り続けました。
その後の第四世代としても、ロバートの長男のジョセフ・パトリック・ケネディ二世がマサチューセッツ州選出の元下院議員となり、このほかにもエドワードの長男のエドワード・ケネディ・ジュニアも政治家となっており、この弟のパトリック・ケネディは連邦下院議員となるなど、現在でもケネディ家からは次々と政治家が創出されています。
佐藤家もその後、次男の佐藤信二氏が政治家となり、衆議院議員を8期、参議院議員を1期務める政治家となっています。このほか、安倍晋三の実兄の「岸信夫」氏は、岸信介の息子の岸信和が子供に恵まれなかったため、安倍家から養子として岸家に入った人であり、この人も衆議院議員を1期、参議院議員を2期務めています。
このように、戦前の田中義一総理の退任でいったん途切れたはずの長州出身の総理就任という「伝統」が復活したのは、岸信介氏の総理就任を皮切りに、岸家と縁戚関係のある佐藤家、安倍家を合わせた三家が、さながらケネディ家のように「ファミリー」として絡み合い、その中から多くの実業家や政治家を次々と輩出し続けているからだと思われます。
そして、この親戚縁戚による「共闘」こそが、戦後その先陣を切って総理大臣となった岸信介氏以降、三人かつ四代の総理大臣が出ている最大の理由のひとつと思われます。
木戸幸一と岸信介
がしかし、戦前に長州閥による総理輩出の流がいったん切れたのにもかかわらずこれが復活した背景には何があったのかを更に深く読み取っていこうとしたとき、そこにはこれらファミリーとは親戚でもなんでもなさそうな、にもかかわらず彼らと密接な関係にあった、二人の長州人の姿が浮かび上がってきます。
その一人は、木戸幸一氏です。
木戸幸一は、第二次世界大戦期の日本の政治家、そして最後の内大臣(戦前に存在した宮中で天皇を補佐する役職)であり、幸一の父・木戸孝正は明治の元勲「木戸孝允」の妹の治子と長州藩士「来原良蔵」の長男であり、生粋の長州人です。
木戸孝允と妻の松子の間には子がなく、孝允も早死したため、木戸家の家督を継いだのは、孝允の妹の治子と孝允の盟友で親友の来原良蔵との間に生まれた次男の木戸正二郎でした。
しかしこの正二郎もすぐに没したため、木戸家継承者がいなくなり、その兄である孝正が急きょ養子となって木戸家と侯爵を継承しました(1884年(明治17年)。
木戸孝正は、これに先立つ10年前の1874年(明治7年)にはアメリカに留学しており、帰国後、アメリカで知ったベースボールを持ち込み、日本最初のクラブチーム「新橋アスレチッククラブ」を作ったことなどで知られており、侯爵継承後、東宮侍従長となり、宮内顧問官などを歴任しました。
そして、その息子が木戸幸一ですが、実は孝正と妻の妙子の間の子ではなく、妙子が早逝したため、孝正の後妻に迎えたのが、同僚の宮内顧問官であった「山尾庸三」の長女、寿栄子であり、幸一は孝正と彼女との間に生まれた子供になります。
この山尾庸三は、いわゆる「長州ファイブ」の一人であり、伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共に密航でロンドン・グラスゴーに留学し、さまざまな工学を学んで帰国した人物です。帰国は伊藤らよりも大幅に遅れ、維新が実現した明治元年(1868年)であり、帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を任されました。
新たに創設された法制局の初代長官も務めており、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立した人物としても知られています。
つまり、木戸幸一は、こうした明治維新における重要人物の孫であり、またそれだけではなく、幸一の夫人は、陸軍大将の「児玉源太郎」の娘です。
しかも血はつながっていないとはいえ、明治の元勲木戸孝允の木戸家を継承しており、これらのことから、木戸幸一氏は、戦後の日本の政界においては、田中義一以降失われたと思われていた「長州閥」のサラブレットともいえる人物であることがわかります。
木戸幸一は、長じてからは、学習院高等科を経て京都帝国大学法学部に入学し同校卒業後は農商務省へ入省。工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任後、友人であった近衛文麿の抜擢により、内大臣府秘書官長に就任。
さらに1937年(昭和12年)の第1次近衛内閣で文部大臣と初代厚生大臣をやり、1939(昭和14年)年の平沼内閣では内務大臣になるなど、次々と要職に就任しています。
1940年(昭和15年)から終戦の1945年(昭和20年)まで内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードしました。
1944年(昭和19年)7月にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となったおり、宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がっていました。
このとき、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、戦争推進派の東條内閣の倒閣工作が密かに進められましたが、東條は難局打開のため内閣改造の意向を示し、木戸らのグループに抵抗しようという動きを見せました。
こうした中、岡田元海軍大将と気脈を通じていたのが、東條内閣に商工大臣として入閣しながら、このころ東條によって軍需次官に降格されていた岸信介であり、岸は東條総理の継続を阻止するため、彼の内閣改造を妨害し、内閣総辞職を要求しました。
これに対して、東條側近の四方諒二(しかたりょうじ)東京憲兵隊長が岸信介の自宅に押しかけ、恫喝したという話が残っており、このとき岸は、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返したそうです。
この動きと並行し、東條に内閣改造後の入閣を要請されていた他の重臣たちも木戸と申し合わせて内閣改造を拒否。東條はついに内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となり、これが戦争終結への大きな一手となりました。
こうした一連の終戦工作のなかで、同じ長州人である木戸幸一内大臣と岸信介の間に会談が行われたかどうか、どのような会話が行われたか、といった詳しい史料はほとんど何も残っていないようです。
しかし、同じく東條を打倒し戦争を終結させたいという思いは同じであり、その上で気脈・人脈を通じた同じ長州人ということで、二人にはかなりの接点があったのではないかと考えられます。
岸信介の曽祖父の佐藤信寛(さとうのぶひろ)は吉田松陰の松下村塾の出身であり、その同門であった伊藤博文も同塾で松陰から直接教えを受けており、伊藤の出身地である旧山口県熊毛郡の束荷村(現光市)と佐藤家の本籍の熊毛郡田布施町はほど近く、このことから佐藤家と伊藤家とは昔から深い親交があったようです。
従って、岸家に養子に入り、政界入りした岸信介に対して、元総理を生み出した伊藤家の人々はにくからぬ思いを持っていたはずです。
実際、岸が東京帝大法学部を卒業後に農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩の、「伊藤文吉」の元へまっ先に配属されていますが、この伊藤文吉は、伊藤博文元首相の養子として伊藤家に入った人物です。
また木戸も岸も同じ東京帝国大学法学部出身の先輩後輩どうしであり(木戸が5年先輩)、優等生であった岸が内務省ではなく、この当時二流官庁と思われていた農商務省に入省したのは、先輩の木戸が同じ農商務省に入省していたのと無関係ではないと考えられます。
さらに、木戸の実父の来原良蔵は、吉田松陰や桂小五郎らと深い交流を持っていた人物で、浦賀沖にペリー提督が黒船で来航した際には、藩命で江戸に上り、浦賀周辺の形勢を視察しており、このとき同行していた伊藤博文の才を見出して直々の部下としています。
博文が松下村塾に入塾したのも良蔵の薦めであったといい、その後良蔵が長崎の海軍伝習所に入ったときにもこれに付き従っています。博文は良蔵の死後、その遺志を継いで活動したとされており、彼を終生師匠として仰いでいたといいます。
このように、あまり知られていないことですが、岸信介と木戸幸一は、同じ政界にあってただ単に気脈を通じる同学の先輩、後輩という間柄だったというだけではなく、同郷の人脈という線でも、その共通の知人である「伊藤家」の人々を介してかなり太いパイプで結ばれていた可能性があることがうかがわれます。
その後、木戸は東京裁判で有罪とされ、終身禁固刑の判決を受け服役していましたが、
1955年(昭和30年)に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退します。
岸信介が、総理大臣に就任するのは、この二年後の1957年(昭和32年)であり、「長州出身」の総理大臣の復活の裏では、この木戸元内大臣がその背後での何らかの「操作」をしていたと考えるのが自然でしょう。
こうして、岸信介が首相になったあとの佐藤氏の総理就任、そして近年の安倍氏と次々と続く長州出身の総理誕生の裏には、やはり木戸幸一に連なるかつての長州閥の「なごり」があり、「岸後」も、「岸・佐藤・安倍ファミリー」に擁護された「安倍一族」が存続し続けることによって現在の安倍総理が誕生したのではないかと考えられます。
これを「長州閥」と呼ぶべきかどうかですが、前述のとおり、「閥」とは徒党を組んで政治を推し進めようとする輩の集団を意味すると考えれば、木戸幸一ひとりを「閥」と呼ぶのは言い過ぎでしょう。
木戸幸一を黒幕とした「岸・佐藤・安倍ファミリー」を閥と考える人もいるかもしれませんが、調べた限りではそういう構図も希薄であり、私自身は、このグループは閥というよりも、上述のケネディ家のような「ファミリー」であると考えています。
また、この当時の政界にはほかにも長州出身の政治家はたくさんいましたが、明治や大正のころのような実力者ばかりではなく、このころには長州人ばかりでグループを組んでその力を行使しようというようなめだった動きはありませんでした。
逆にそうしたグループができていたら、他の政治家や軍部から徹底的に敵対視され、排除されていたのではないでしょうか。
岸信介と松岡洋右
このように、木戸幸一は、戦後初の長州出身総理である岸信介首相の誕生においてかなり重要な関わりをもったのではないかと思われますが、このほかにももう一人の重要人物がおり、それは同じ長州人で、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に外務大臣として関与した「松岡洋右」です。
岸信介は、戦前の1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長などを歴任し、この間、満州国の計画経済・統制経済に積極的にとりくみ、満州経営に辣腕を振るいました。
このころ、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二などなどの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の実力者「弐キ参スケ」の1人に数えられました。
この「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられたもので、その5人とは、
東條英機 関東軍参謀長
星野直樹 国務院総務長官
鮎川義介 満業(満州重工業開発株式会社)社長
岸信介 総務庁次長
松岡洋右 満鉄総裁
です。このうちの、松岡洋右と鮎川義介は、同じ長州出身の同郷人であり、この三人の長州人はのちに協力して満州経営にあたり、「満州三角同盟」とも呼ばれました。
岸信介は1896年(明治29年)生まれ、かたや松岡洋右は1880年(明治13年)生まれで、その年の差は16歳もありますが、岸の叔父の「佐藤松介」という人が、松岡洋右の妹の旦那さんであり、血はつながってはいませんが、親戚関係にあります。
しかも、この佐藤松介は松岡の姉である松岡藤枝と結婚しており、この二人の間に生まれた寛子が、後年佐藤栄作の妻になります。従って、血縁関係は薄いものの、松岡家もまた、「岸・佐藤・安倍ファミリー」に連なる一族ということになります。
ちなみに、この佐藤松介には、「さわ」という妹がおり、この人は岸信介のお母さんの「茂世」の妹でもあるわけですが、この人は吉田祥朔という人物と結婚しており、このためこの吉田祥朔は岸信介の義理の叔父ということになります。
そしてこの二人の子の吉田寛という人が、後年、吉田茂の長女の桜子と結婚しており(この二つの吉田家は別の家系らしい)、これらの話は松岡洋右が生きていたころよりは、ずっと後年の話ではありますが、吉田茂の吉田家もまた後年、岸・佐藤・安倍ファミリーに連なる系譜に取り込まれたということになります。
この松岡洋右は、戦前の長州出身総理のうちでもとくに閥意識が強かったといわれる山縣有朋の最後の門下生ともいわれる人物であり、松岡が結婚した際の仲人は山縣の懐刀でもあった田中義一元首相です。
松岡洋右は、戦前の日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結などに関与し、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面における代表的な外交官でしたが、このため敗戦後は米軍ににらまれ、極東国際軍事裁判の公判中に病死しています(1946年(昭和21年)6月)。
山縣有朋との密接な関係をうかがわせる発言として、「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っている中で、「例外は山本権兵衛と山縣有朋ぐらいであった」とも述べており、山縣にはそれなりの敬意を払っていたことがうかがわれます。
このほか、松岡は伊藤博文にも大きな影響を受けていたようであり、伊藤博文が親ロシア派であったことから、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていたといいます。
ところが、岸や木戸が終戦工作を積極的であったのに対し、松岡は何を思ったのか、自分が主導して締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で強く主張。南部仏印進駐(フランス領インドシナ侵攻)に反対し、終戦間際になって、いわゆる北進論を主張するなどのどちらかといえば好戦派に転じました。
松岡は、その後の日本と同盟関係にあったドイツとソビエトの開戦が間近なことを認識していたようで、それなのになぜ日ソ中立条約を締結したかについてはさまざまな説があるようですが、このようにコロコロと主張を変え、政府内でも独断専行が強かったことから、昭和天皇は徹底的に松岡を嫌っていたといわれます。
このように同じ長州出身でありながら、木戸や岸とは一線を画していたような印象のある人物ですが、満州運営において岸と共同してその任にあたっていた経緯などもあり、総理経験者である山縣有朋や伊藤博文といった大物(言い換えれば長州閥のドン)と深い関わりのあったこの松岡洋右と親交があったということも、その後岸信介が総理大臣になるにあたってはプラスに働いたと考えられます。
さらに松岡洋右は、満鉄総裁から代議士に転向する際には、前述の「立憲政友会」をベースとして立候補しており、当然のことながら他の長州の政治家とも親密でした。
その最たる人物としては、前述の満州重工社長で戦前には内閣顧問なども務めた鮎川義介(山口市大内村出身)や、立憲政友会の中心的存在であり、総裁も勤めた萩市出身の久原房之介などがいます。
鮎川も久原も戦後は戦犯として逮捕されていますが、とくに久原は右翼に資金を提供したり、2.26事件などに深く関与したなどとして、松岡と同じく、終戦後にA級戦犯になりました。
松岡が代議士になるころには山縣有朋は既に没していましたが、長州人としてこうした明治の宰相の薫陶を直に受けた経験を持つ大物政治家は、当時としては木戸幸一をのぞけばこの松岡ぐらいです。
松岡は、戦後、岸信介に先んじて総理大臣になった吉田茂とも親しい友人関係にあったといい、のちの「自由民主党」の基礎を造った吉田に対して、「君の跡を継ぐのは岸のような若くて優秀なやつだよ」、と勧めていたような気がするのです。
木戸幸一をのぞけば、戦後初の長州人総理となった岸信介を後押しできるキングメーカーはこの人しかおらず、生前に岸氏の総理就任を目の当たりにすることこそできませんでしたが、その実現を切に願っていたのではないでしょうか。
以上、戦後も四代にわたって山口県から総理大臣が出たのは、岸信介という優れた長州出身のリーダーが「岸・佐藤・安倍ファミリー」を形成し、その最初の総理就任をこの木戸幸一と松岡洋右の二人が支えたからこそではないか、と私は思うのです。
さて、長々と書いてきてしまいましたが、山口県出身の総理大臣が多いというその理由はざっとこんなところでしょうか。
他のブログもいろいろ拝見させていただいた上でこの項を書きはじめたのですが、一律に明治以降延々と続いている「長州閥」によるものだ、と一行で切り捨てておられる方も多いので、そのあたりの事情は少々複雑で違う、ということを書きたくてここまで引っ張ってしまいました。
かつて司馬遼太郎さんは、「革命というものは三世代に渡ってなされる。まず第一に思想家が出てくるが、多くは非業の死を遂げる。第二にその後を受け、革命家が出てくる。そして、これも多くは、事半ばにして死ぬ。そして最後に出てくるのが政治家である。」と書かれています。
かくして、伊藤、山縣、桂らの明治に君臨した「長州の政治家」の流れは、いまもまだその流れを維持したまま、存在しているように思えます。
が、それはけっして「閥」と呼ばれるような閉鎖的な形のまま継続しているのではなく、時代が変わり、その時代に適応した形で続いているように思われ、その意味では長州人こと、山口県民こそがそうした時代の変化に適応できる優れた県民性を持っている証拠だというふうにも思われます。
とかく「二世議員」が批判されがちな昨今ですが、私にはそれが悪いという感覚はなく、先代の優れたDNAを受け継いでいるのならば、血がつながっていようがいまいが関係はなく、そのDNAを大事にしていくことのほうが、この国の永続をはかる上においては大事なような気さえします。
極論すれば長州人でなくてもいい、優れた資質をもってDNAが受け継がれるなら、それは会津であっても遠州であっても構わないように思います。
いつか医学がもっと発達したら、そうしたDNAを保存する政府機関なんてものもできるかもしれません。そのDNAを使って作られた「ロボット宰相」なるものが案外とこの国を導いていくのかもしれません。期待しましょう。