YS-11


今日は、「民間航空記念日」だそうです。1951年(昭和26年)の今日、戦後最初の民間航空として誕生した日本航空の「もくせい号」が東京~福岡間に就航しました。

「民間航空」とはいえ、日本航空は、その発足当時、会長には外務大臣や経済企画庁長官を務めた藤山愛一郎氏が就任。社長も元日本銀行副総裁の柳田誠二郎、専務取締役には航空庁長官だった松尾静磨が就任するなど、官主導の色合いの強い会社として発足しました。

官主導だったため、本社も銀座に置かれ、税制なども優遇されてずいぶん恵まれたスタートを切ったようですが、発足当時の従業員数は役員を除けばわずか39人だったそうです。

また、民間航空会社としての営業免許は取得したものの、飛行機の運航は外国の航空会社に委託することが政府の条件だったため、実際に飛行機を飛ばしていたのは日本人ではなく、アメリカのノースウエスト航空のパイロットでした。

使用した航空機も外国製で、しかも自社機ではなく、ノースウエストからチャーターされた「マーチン202型」という機体でした。とはいえ、一応日本初の民間航空機ということで、「もく星」号という日本名を付けられ、1951年の今日、10月25日の午前7時43分、その第一番機が大阪へ向けて羽田飛行場を飛び立ちました。

乗客は36名。パーサー1人とスチュワーデス2人を除けば乗務員も外国人でしたが、翼には日の丸、胴体には日本航空の文字がプリントされ、「戦後日本人の手によって飛び立った最初の飛行機」であることを内外にアピールしました。

ところが、戦後初の民間航空機として華々しいデビューを果たしたこのもく星号は、なんとその翌年に墜落事故を起こしています。

1952年4月9日午前7時42分に名古屋発、伊丹経由福岡行の便として羽田空港を飛び立ったもく星号は、その直後に消息を絶ち、翌日の朝に捜索活動を行っていた同僚機の「てんおう星号」(ダグラスDC-4)によって、伊豆大島の三原山山腹に墜落しているのが確認されました。

この当時まだ航空運賃は他の公共交通に比べてかなり高く、かなり裕福な人でないと購入できないほどの値段であっっため、もく星号にも社会的な地位が高い人間ばかりが搭乗していました。

八幡製鐵社長の三鬼隆氏をはじめとし、日立製作所の取締役、石川島重工の役員、ハワイのホテル支配人、炭鉱主、などが搭乗しており、人気活弁士で漫談家の大辻司郎氏も乗っていました。

これら乗員全員と乗務員37名全員が死亡し、世界的にみてもこの当時かなり大きな航空事故だったため、航空局も全力をあげてその墜落原因を究明しようと躍起になりました。しかし、当時はまだフライトレコーダーやボイスレコーダーが装備されていなかった上、当時の航空管制や事故捜査は在日アメリカ軍の統制下にあったため、墜落事件の調査は難航します。

詳細な調査の結果、推測される主な墜落原因としては、アメリカ人パイロットによる操縦ミス説や、当時同区域の管制を行なっていたアメリカ軍の管制ミス説などが浮上しました。このほかにも機長(当時36歳)を空港まで送ったタクシー運転手による証言から機長飲酒説も挙げられました。

しかし、どの説も決定的な証拠を集めることができず、最終的に墜落原因は特定されないまま捜査は終了しました。

後年、推理作家の松本清張さんが、この事件を題材にした著書を発表し、話題を集めました。松本さんがもく星号の墜落原因であると主張したのは、なんと「アメリカ軍機による撃墜」であり、「1952年日航機撃墜事件」や「風の息」として刊行され、ベストセラーにもなりました。

松本さんが主張するその根拠としては、アメリカ軍が発表した墜落場所(静岡県浜名湖西南16キロの海上)と実際の墜落場所(伊豆大島三原山山腹の御神火茶屋付近)が著しく離れていたこと、もく星号の近辺をアメリカ軍機10機が飛行していたこと、墜落したもく星号の一部の部品をアメリカ軍が持ち去っていたことなどでした。

また、パイロットの声が録音されていたもく星号の通信記録を、埼玉県の入間にあったアメリカ軍の管制基地、ジョンソン基地(現入間基地)が隠し続けていたことなども松本さんが暴露したことなどから、この「撃墜説」は、マスコミから大きな反響を呼び、テレビ朝日などはドラマ化までされました。

松本さんはこのほかにも、ジョンソン基地の管制システムといわれた「東京モニター」がもく星号の飛行を記録したことになっているが、実際には「東京モニター」なるものは存在しなかったと主張し、これらの数々の傍証により「もく星号がアメリカ軍機に撃墜された」と結論づけたのです。

気になるその撃墜の理由として、松本さんは米軍が旧日本軍のダイヤモンドの横流しを行っていたのではないかとし、その証拠隠滅をはかるために関係者が搭乗していた「もく星号」を撃墜したとの説を展開しました。

しかし、松本さんによる公表後も再調査が行われるようなことはなく、結局はこれが真実であるかどうかの証明は現在に至ってもなされていません。

このもく星号事件が引き金となり、日本航空は、1952年10月にノースウエスト航空との運航委託契約が切れると、その継続を拒否。そして新たに購入したダグラスDC-4B型機「高千穂号」によって自主運航を開始しました。

しかしその後も国内のメーカーはどこも国産の飛行機は開発できなかったため、日本航空もアメリカ製の機材を使い続け、日本人が自ら製造した航空機で、民間航空の運航を始めるのは、その13年後の、1965年(昭和40年)に戦後初の国産機として製造された「YS-11」が登場するようになってからでした。

この名機の誉れ高い「YS-11(ワイエスいちいち)」ですが、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機であり、正式な読み方は「ワイエスいちいち」ですが、その後一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれて親しまれるようになります。

1965年(昭和40年)の3月に量産1号機を運輸省航空局に納入、9月にはFAAの型式証明も取得し、国内向けでなく輸出するための体制が整いました。

YS-11が民間会社に最初に納入されたのは1965年(昭和40年)4月のことであり、運輸省航空局に納入さらた1号機に続いて、量産型2号機が「東亜航空(のちの東亜国内航空(JAS))に引き渡されました。

しかし、納入された国内の航空会社で最初に定期路線で就航させたのは日本国内航空でした。運輸省に量産1号機が納入された3月30日の、翌々日の4月1日がその記念すベき運用開始日で、この便は羽田発、徳島経由高知行きの路線だったそうです。

実はこの2号機はその年の前年(1964年)の東京オリンピックの際に、全日空が聖火の輸送で使用したものを日本航空が譲り受けたもので、日本航空ではこれを自社塗装に塗り直し、「聖火号」と命名して就航させました。

従って民間の定期路線でYS-11を就航させたのは日本航空が初ですが、民間の航空会社で一番はじめにYS-11を飛ばしたのは全日空ということになります。

この機体を使って東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした全日空は、この聖火輸送にちなんでその後、全日空が導入したYS-11すべての機首に「オリンピア」の愛称をマーキングするようになりました。

しかし、全日空では、機体や自社便の時刻表には国産機であることを証明する「YS-11」の型式名や機種名は記さなかったそうです。YS-11を開発した「日本航空機製造」はこの当時、経営資金の枯渇から経営不安説が流れており、これが万一倒産した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う羽目になることを全日空がおそれたからといわれています。

また、その後輸出も数多くなされるようになるYS-11ですが、この当時の諸外国では日本製品の信頼性を疑問視する声も高かったといいます。

その後米国での最大の顧客となったピードモント航空などでも、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表での機種名を「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行われなかったそうです。

しかし国際的にも知名度が高いピードモント航空は、YS-11の性能を高く評価したようで、オプションを含めて20機もの発注を出し、これによりその後もアメリカやブラジルを中心として他の航空会社も次々とYS-11の製造を注文するようになりました。

生産数は徐々に伸び、1968年(昭和43年)末には確定受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注しています。国内向けにも好調で、1969年(昭和44年)に全日空から量産100号機を納入し、輸出は7カ国15社に達しました。

当初の量産計画は150機だったそうですが、1969年までにはこれを上回る180機の量産計画が運輸省から認可され、生産の主力工場であった小牧工場などでは、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもあったそうです。

私が生まれて初めて乗った飛行機もYS-11で、このときの航空会社も全日空でした。父の友人のひとりが東京在住で全日空の株主であったことから、「株主優待券」を父にくれ、それで東京まで遊びに来いと促したため、父も喜んで同意。優待券は二枚あったため、私も父の上京に伴って飛行機に乗せてくれることになったのです。

確か小学校の5年生くらいのころだったと思いますが、広島空港から飛び立ったそのフライトのことは今でもよく覚えています。飛行機の窓の外から見える真っ白い雲の下に見える地上や海を飽きもせず、ずーっと見ていたものです。途中、スチュワーデスさんから飲み物とお菓子のサービスがあり、これと同時に子供向けのおもちゃも貰って大感激。

何を貰ったのかよく覚えていませんが、プラスチック製の飛行機の模型だったような気がします。この模型と共に全日空の全国路線が記してあるパンフレットももらい、その後広島へ帰ってからもこのパンフレットを繰り返し繰り返し見ていたことも覚えています。

その後も長期にわたって運用されたYS-11ですが、2012年現在、日本において旅客機用途で運航されているものはなく、また海上保安庁で使われていた機体も退役してしまいました。唯一自衛隊機として運用されているものが7機ほどあるようですが、早晩これらの生き残りも姿を消していくことでしょう。

諸外国へ輸出されたYSもその多くが運航終了となっているようで、機体はストアされて解体こそ免れているものの、現役として使われているものは少ないようです。どの程度が残っているのかわかりませんが、もし使用されているのが「発見」されたらそれこそ絶滅危惧種の再来として注目を浴びるに違いありません。

私が最後にYS-11に乗ったのは、10年ほど前の北海道でした。出張で行った道東の中標津から札幌丘珠空港までだったと思います。その後、YS-11などとは比べものにならないほど大型でジェットエンジン搭載の新型機に数多く搭乗してきた私が乗ったそのYS-11の内部は、その昔みた記憶からはあまりにもかけ離れていました。

えー、こんなに小さかったっけ~ と思ったものの、意外と古さを感じさせず、内装はかなりきれいだったと記憶しています。しかし、座席は窮屈で、天井も手を伸ばせばすぐに手が届くほど低く、座乗感覚はお世辞にも良いとはいえません。

なによりも閉口したのは、飛び立ったあとの騒音です。現在の静かなジェットエンジン機に比べると、これはもう笑ってしまうほどで、例えて言うならばエンジンむき出しで農地を耕すトラクターに乗っているようなかんじ。中標津から30分ほどのフライトだったと思いますが、その音の中で寝る、なんてことはまるで不可能、というかんじでした。

そのフライトを終えて、空港のロビーから改めてみたYS-11のまた小さかったこと。しかし、当たり前ですが、昔見たのと同じ形のYSは妙にたくましく見え、まだまだ現役で飛べそうなかんじがしました。

これが私がYS-11を見て、乗った最後になりましたが、今後もう搭乗する機会もないのかと思うと、少々さみしい気もします。しかし、展示機としては、成田空港に隣接の航空宇宙科学博物館をはじめとして、全国9カ所ほで保存されており、その気になればまた会いに行けそうです。しかしあの轟くようなエンジン音はもう聞くことはできません。

民間の定期路線として最後の便として就航したYS-11は、日本エアコミューターの2006年(平成18年)9月30日、15:55の沖永良部空港発、鹿児島空港行の便でした。

この路線は、同社が最初にYS-11を飛ばしたのと同じだったそうで、就航以来無事故での運航完了となりました。この9月30日の直前までYS-11が運航されていたのは、同じく日本エアコミューターの福岡~松山、高知、徳島、鹿児島の4路線だけだったそうで、これらも前日あるいは30日当日にすべて運行を終了しました。

ちなみに、この永良部空港発、鹿児島空港行のチケットは、2006年(平成18年)7月30日から発売されたそうですが、発売開始からわずか3分で完売したそうです。

その最後の運行が終わったあと、インターネットオークションに「2006年(平成18年)9月30日・日本エアコミューター・沖永良部発鹿児島行YS-11最終便搭乗券」1枚が出品されるという出来事があったそうですが、この搭乗券はインターネットオークション運営会社と航空会社側が協力してインターネットオークションから「強制削除」されたそうです。

なぜ削除されたのかはよくわかりません。運行が終了した機材での未搭乗の搭乗券の存在は日本エアコミューターさんにとっては、「ありえない」ということだったのでしょうか。

ともかく、出品された搭乗券は「無効扱い」とされたということで、売りに出した人にとっては踏んだり蹴ったりだったでしょう。なお出品時の価格は「10万円」だったそうですが、今もその人が持っていたらもっと価値が出ているかもしれません。

こうして、この世からはその当時の搭乗チケットすら消えていき、機体そのものも全く見られなくなってしまったYS-11ですが、2007年(平成19年)8月には新幹線0系電車などと共に「機械遺産(13番)」に認定されました。

文字通り国民的な「遺産」になり、お星さまになってしまったような寂しさがありますが、
しかし現在、YS-11以来40年ぶりに日本独自の旅客機の開発が進んでいます。

MRJ、と呼ばれているのがそれで、新聞やテレビで大きくとりあげられているのでご存知の方も多いことでしょう。MRJは、Mitsubishi Regional Jet(三菱リージョナルジェット)の略で、その名のとおり三菱航空機を筆頭に開発・製造が進められている小型旅客機です。

2007年2月以前の構想・計画段階では、「MJ (Mitsubishi Jet)」、「Next Generation RJ」、「環境適応型高性能小型航空機」などの名称で呼ばれていたそうですが、三菱が開発製造の主導権を握るようになり、このように名称が改められました。

YS-11と同様の「国策機」であり、現在三菱が主導しているとはいえ、もともとは経済産業省の推進する事業の一つとして始められ、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が提案した環境適応型高性能小型航空機計画をベースとしています。

すでに開発はほとんど終わっており、2008年には早々と全日空からの受注を受け、「三菱航空機」として事業の会社化も終え、現在試験飛行機の開発・製造が行われています。

待ちどおしい初飛行ですが、2012年4月に発表された三菱航空機のリリースによれば、試験機初飛行は2013年度第3四半期だそうで、来年の後半にはその雄姿が見れそうです。

量産第一号機の納入も2015年度半ば~後半に予定しているそうで、あと3年すればYS-11以降、40年ぶりの国産旅客機が空を飛ぶことになります。

アメリカのトランス・ステイツ航空へも50機の納入が予定されているそうで、最近では、
今年の7月11日、同じくアメリカのスカイウェストから100機を受注することで基本合意に達したといいう発表があったばかりです。

40年の時を超え、日本国内だけでなく全世界を国産航空機が飛ぶようになるのもあと少しです。そのころまでには、景気も回復し、東日本大震災や福島原発のダメージを払拭していられるような強い日本になっていること祈りたいものです。

新しい時代がすぐそこまで来ている感じがします。今年はアセンションの年だそうですから、来年以降MRJが空を飛ぶようになるのも、時代の変革の一環かもしれません。時代の流れに乗り遅れないようにするためにも、MRJにみんなで乗りましょう。

(注:アセンションとは、上昇、即位、昇天を意味する英語です。今年以降、産業革命以来の大きな変化が起こるといわれています。詳しくは、5/16版の当ブログ「今年はアセンションの年だそうです」をごらんください。)