ヒーローたちの交錯

今日は昨日の曇り空から一転快晴で、てっぺんに白い帽子をかぶった富士山が良く見えます。それにしても先日は結構な雨が降ったのに、この程度しか白くならないのかな?とちょっと不思議だったので、ネットで山中湖畔からの今日の富士山中継映像をみてみました。

すると、富士山の東側にある山中湖からの富士山は左斜面の雪は少なく、北側の右斜面のほうが雪がたくさんあることが確認できました。先日の雨で富士山の山頂にもかなり雪が降ったものの、北側の斜面ではこれが溶けず、今私がみている南側斜面のほうは日当たりがいいので標高の低い部分から雪が溶けていった、ということのようです。

……と、いうことは、富士山の北側にある山梨県側から見る富士は、こちら側の倍以上の幅のある白い帽子をかぶっているのでしょう。何かうらやましいかんじです。

しかし、先日の23日はもう24節気では霜降、来たる11月7日はもう立冬です。南側から見えるこの富士山の頂が真っ白になるのもそう時間がかからないでしょう。

さて、今日の話題です。

今日は、榎本武揚が72年の生涯を閉じた日だそうです。1908年(明治41)の今日、江戸で亡くなりその後、駒込の吉祥寺というお寺に葬られたということです。吉祥寺というとJR中央線の駅が思い浮かびますが、これとは関係ありません。

この人物については、ご存知の方も多いと思いますが、改めて略歴を書きだしてみましょう。

榎本武揚は、1836年(天保7年)に江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれました。お父さんは箱田良助といいましたが、幕臣の榎本武兵衛武由という人の娘さんと結婚して婿養子となったため、その息子の武揚もその跡を継ぎ、武揚も幕府直参となりました。

幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学を学び、19歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加しています。また、1856年(安政3年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所し、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んでいます。

1862年(文久2年)にはオランダに留学。1868年(慶応4年=明治元年)には幕府の海軍副総裁となりますが、江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、幕府所属の軍艦をすべて引き連れて、北海道方面へ逃亡。箱館五稜郭にこもり、いわゆる「箱館戦争」で官軍に抵抗しますが、艦隊は全滅し、五稜郭などの陸戦でも敗戦。やがて軍としての機能を失い降伏。

「朝敵」として処刑されかけますが、新政府軍の将「黒田清隆」が武揚の能力を高く買い、清隆らの助命嘆願によって許されます。そののち新政府に招かれ、北海道開発に従事。1874年(明治7年)には、海軍中将にまで上り詰め、兼駐露公使にもなり、翌年樺太・千島交換条約の締結などで活躍。

その後も海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤博文内閣では逓信大臣に就任。さらに黒田内閣でも農商務相・文相、第1次山県内閣での文相、第1次松方内閣でも外相等を歴任。総理大臣にこそなりませんでしたが、旧幕臣としては薩長閥の多い明治新政府の中において破格の出生を遂げました。

この榎本武揚、実はその若き頃、あのジョン万次郎から英語を学んでいます。そしてその場所が、江川英龍こと江川太郎左衛門の江戸におけるお屋敷内に設けられた「江川塾」です。

この塾は、伊豆韮山代官所兼、江川家屋敷の一角に設けられ、ここで幕府直参のみならず各藩の多くの若者がジョン万次郎や江川英龍から教えを受けています。

場所は、都営地下鉄大江戸線、両国駅出口からほど近いところで、現在は「緑町公園」となっており、ここに「江川太郎左衛門英龍終焉之地」の標柱が建っているそうです。

榎本武揚がこの江戸の「江川塾」で学び始めたのは、1851年(嘉永4年)のころからだったようです。

英龍は、1842年(天保13年)、伊豆の自らの屋敷(現在の江川邸)に「家塾」をつくり、これを開放して、入門者たちに西洋砲術の技術を伝授しはじめていましたが、同じころから江戸でも、江戸在住の門弟に蘭学や砲術の教授を始めていました。

武揚は英龍も学んだ湯島の昌平坂学問所で12才の頃から儒学を学びはじめており、榎本家も江川家も同じ幕臣の家柄であったことから、おそらく両家の間には親身な関係があり、このことから武揚も江川邸に頻繁に出入りしていたのではないかと思われます。

このため、武揚が15才になったころからは英龍自身から直接蘭学を学ぶようになり、この師弟の関係はその後英龍が亡くなる1855年(安政元年)まで続きます。

この江川塾に通いつつも、武揚は1854年(安政元年)に、函館奉行の堀織部正の従者となって蝦夷地をまわっています。のちに箱館五稜郭を建設し、「蝦夷共和国」を樹立するための地図はこのころもうすでに武揚少年の頭の中に出来上がっていたかもしれません。

翌1855年に師であった英龍は亡くなってしまいますが、これと前後して武揚の人生に一瞬関わるようになるのがジョン万次郎です。

「ジョン万次郎」という呼称は、実は通称であり、昭和13年に直木賞を受賞した井伏鱒二の小説「ジョン萬次郎漂流記」で有名になったために広まったもので、正式な日本名は「中濱万次郎」です。が、アメリカ人にも「ジョンマン」と呼ばれて親しまれていたようですから、このブログでもそのままジョン万次郎で通したいと思います。

ジョン万次郎は、英龍が亡くなる3年前の1852年(嘉永5年(1852年)に日本へ帰り、故郷の土佐へ帰国を果たしています。帰郷後すぐに、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命されますが、翌年(1853年、嘉永6年)のペリー来航の際に通訳としての任にあたるため、幕府から江戸へ召聘され、直参の旗本の身分を与えられました。

その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられるなど、幕閣からは優遇されました。しかし水戸藩主で大老の水戸斉昭からアメリカのスパイではないかという疑いをかけられたため、結局は正規の通訳にはなれず、このため、江川英龍の直属の部下として配属されるようになります。

アメリカで造船や航海技術を学んでいたジョン万次郎は、軍艦教授所教授に任命され、幕臣に対して造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英龍のもとで英会話書の執筆や多くの英文の翻訳、講演、通訳などの活動を行うようになりました。

幕臣への英語の教授もそのひとつであり、英龍が自邸の一部を開放して開いていた「江川塾」でも英語を教えるようになりました。この頃、ジョン万次郎が英語を教えた人物の中には、大鳥圭介、箕作麟祥などがおり、榎本武揚もその一人となりました。武揚が19才のころのことです。

榎本武揚は英龍が亡くなった翌年の1856年(安政3年)に20才で幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所することになり、江戸を離れています。従って万次郎に英語を学んだのは一年かせいぜい一年半程度だと思われ、おそらくはその程度の履修期間では英語が堪能というところまではいかなかったでしょう。

長崎の海軍伝習所での授業も蘭語で行われており、オランダ語で国際情勢や航海術・舎密学(化学)などを学びました。

その後1862年(文久2年)に26才になったとき4年間のオランダ留学を果たしていますが、これは英語よりオランダ語が得意だったからというよりもその頃はまだ交易を通じて幕府とオランダは密接な関係が続いており、米英よりもオランダとのほうが人事交流もさかんだったためでしょう。

榎本武揚はその後、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽」で帰国、軍艦頭並を経て大政奉還後の慶応4年(1868年)1月に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなり、薩長をはじめとする新政府軍との戦いにおけるリーダーとして幕末の動乱の時代に突入していきます。

一方のジョン万次郎はその後、1866年(慶応2年)に、土佐藩の開成館設立にあたって教授になることを要請され、このため土佐に戻って土佐藩士を相手に英語、航海術、測量術などを教えるようになっていました。

その後、1867年(慶応3年)には、今度は薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授していますが、武力倒幕の機運が高まる中、江戸へ戻るように要請されます。

しかし、その後もこの二人の運命が大きく錯綜することはありませんでした。

榎本武揚は箱館戦争に敗れたあとは、明治政府によって収監されていましたが、1872年(明治5年)に特赦出獄。その才能を買われて新政府に登用され、黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官したあとは、上述のように出征街道をまい進しました。

1890年(明治23年)には子爵となり、大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めるなど、明治政府の重鎮となるとともに、明治天皇に愛されたことから皇室にも重用されました。

その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開し、北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感。1891年(明治24年)に徳川育英会「育英黌農業科」を創設し、自らが学長となりましたが、この学校が、現在の「東京農業大学」です。

明治41年(1908年)に死去、享年73。

一方のジョン万次郎のほうも晩年は教育活動にその情熱を注いでいます。明治維新後の1869年(明治2年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命され、その翌年の1870年(明治3年)には大山巌らとともに、普仏戦争視察団の一員として欧州へ赴任。

帰国後に軽い脳溢血を起こしますが、数ヵ月後には、日常生活に不自由しないほどに回復し、時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるようにも誘われますが、開成学校で英語を教える教育者としての静かな余生を選びました。

この「時の政治家」の中におそらく榎本武揚もいたと思われますが、調べてみたものの詳しいことはわかりません。

万次郎は、明治31年(1898年)、72歳で死去。榎本武揚が育英黌農業科を創設した7年後のことになります。

おそらくは、同じ教育者でもあり、若きころには師弟関係にあったことでもあったため、何等かの交流はあったのではないでしょうか。同じ東京にある学校で勤務していたわけですから、英語に堪能なジョン万次郎が育英黌農業科のほうへ出向いていって講義をした、などという史実があるかもしれません。

また、そうした事実が分かったらアップしてみたいと思います。

今日は、榎本武揚、ジョン万次郎、江川英龍と、幕末に活躍した三人の人生をみてきましたが、こうして一見別々の人生を送ったかに見える人物が、時代のある一点において交錯するというのは面白いものです。

この三人が交錯するのは、1854~1855年(安政元年~2年)のころ。榎本武揚が、19才、ジョン万次郎が28才、江川英龍が54才のころのことであり、その場所は江戸本所の江川邸でのことでした。三人のヒーローが一時期に同じ場所に会してそれぞれ師弟関係を築き、そしてまた三人ともがその晩年に教育に携わったという点も面白いなと思います。

最後に面白いそうな話をもうひとつ。ジョン万次郎は、日本に帰国して英龍の手付(秘書を兼ねた部下)となったころから、江戸の江川家の屋敷内にある長屋に住んでいたようですが、万次郎が27才になったとき、この江川邸で幕府剣道指南・団野源之進の娘で「鉄」という名の女性と祝言をあげています。

この鉄という女性とどういう経緯で結婚することになったのかよくわかりませんが、江川邸の一角に住まわせてもらっていたほどですから、おそらくは英龍が紹介し、自らが仲人などもやったのではないでしょうか。

ちょうど同じころ、榎本武揚もジョン万次郎から英語を習い始めていますから、ジョン万次郎の祝言の席に武揚も招かれ、三人が顔を合わせていたことも想像できます。

芸達者な英龍のことですから、二人のお祝いにと「謡い」のひとつも歌ったのではないかと思います。そしてそれを若き榎本武揚と万次郎が酒を酌み交わしながら楽しそうに聞いている様子を想像すると、なんだかこちらも楽しくなってきます。

今はあの世に行ってしまった三人ですが、もしかしたらその生まれ変わりは今の世にいて、また昔と同じように師弟関係を続けているのかもしれません。

英語やオランダ語などの外国語に親しみ、それぞれ晩年は教育活動に熱心であったという共通点がありますから、もしかしたらその生まれ変わりは大学の先生かもしれません。そんな素敵な先生方に教えてもらえるなら、学校へ行くのも楽しいことでしょう。

まだまだこれから先の長い人生です。三人の生まれ変わりに出会えることを祈りましょう。