アユのお話 ~伊豆市(狩野川)

最近、ふもとを流れる狩野川のそばを通ると、川の中に長い釣竿を支える釣り人達をたくさんみかけます。晩秋に向かうこの時期、腹にたくさんの卵を抱えたアユ、「落ちアユ」を釣っているのです。

アユと言えば、旬の夏にこそ味わう魚、というイメージが強いと思いますが、秋も終わりになるこの時期は、初夏の時期に河口から上流へ上ったアユが、今度は産卵のために河口へ下る時期で、川へ下る、つまり落ちていくので「落ちアユ」と言われるようになりました。

その生態

アユは、ふつうは「鮎」と書きますが、「香魚」、「年魚」とも書きます。香魚のほうは、食材としてのその香りが素晴らしいことから来ており、年魚のほうは、川と海を往復しながらほぼその一年で一生を終えるためにつけられた名前です。

アユのように川と海の間を往復しながらその一生を終える魚のことを「回遊魚」といいます。

回遊とは、海や川に生息する動物が、成長段階や環境の変化に応じて生息場所を移動する行動のことで、広義には沿岸の浅場と深場を往復するスズキやヒラメも回遊魚ですが、アユやウナギ、サケなどのように川と海を往復する魚のことを、とくに「通し回遊魚(川と海をめぐる回遊魚)」と言って区別します。

とはいえ、川の魚でありながら、実は一生のほとんどを海で暮らしている魚や、普段は川で生活していても海に降りて産卵し、海で誕生したこどもが川をさかのぼってくるものなどさまざまな通し回遊魚がいます。

サケや、カワヤツメ、ウグイの一部の種類などは川で産卵して生まれますが、生活の大部分を海に降って過ごし、産卵の時に再び川に戻ってくるため、これを遡河(そか)回遊魚といいます。

また、普段は川で生活していても、海に降って産卵し、誕生したこどもが川をさかのぼるものの代表例がウナギですが、こうした魚は降河(こうか)回遊魚といいます。モクズガニは魚ではありませんが、ウナギと同じく降河回遊型の生物です。

で、アユはというと、普段から川で生活していて、産卵も生まれも川なのですがが、その一生のうち、一時期だけ海に降って、再び川をさかのぼるタイプで、これを両側(りょうそく)回遊魚といいます。

なぜ、海に入る必要があるかというと、海は川よりもプランクトンなどの栄養類が豊富なためです。川の中にもある程度の微生物はいますが、河水の中に含まれている量は海に比べるとかなり少なく、アユの「仔魚」が成長するには不向きです。

このため、河口付近で卵から生まれたアユの仔魚は、そのあとすぐに海にいったん降り、そこにある豊富なプランクトンなどを食べ、そしてある程度成長して川を遡れるほど体力をつけた「稚魚」になってからまた上流に戻っていくのです。

アユのほかにも。カジカ、ヨシノボリ類、ウキゴリ、チチブなど、一般には淡水魚と思われている魚の多くも両側回遊魚です。魚以外にもヤマトヌマエビ、テナガエビ類、イシマキガイなどの甲殻類や貝類の仲間の中にも両側性の生物がいます。

ちなみに、かつては通し回遊を行っていたものが、回遊を行わなくなったり、海の代わりに湖などで回遊するようになった陸封(りくふう)魚といいます。ヒメマスや琵琶湖に生息するアユもそうですし、最近、さかなくん」が発見して話題になった絶滅危惧種の「クニマス」なども陸封魚になります。

春先の川の水温が15℃から20℃で2週間ほどするころ、河口付近で孵化した仔アユは海水の塩分濃度の低い河口からすぐに海へ下り、河口から4km程度を越えない範囲を回遊しはじめます。そしてプランクトンなどを捕食して成長し、だいたい全長が10 mm程度になったころから、川に入りはじめます。

川の中に入った稚魚はすぐには川をのぼらず、河口付近でプランクトンや小型水生昆虫、落下昆虫を捕食しながら成長します。やがて体長が6cm前後になるとウロコが全身にできるようになり、4~5月頃には大きいものでは10cm程度にまで成長し、川を遡上しはじめます。

この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上のケイソウ類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化します。そして川の上流から中流域にまでどんどんと上っていき、たどり着いた先で水生昆虫や石に付着するケイソウ類を食べ始めます。

アユがその鋭い櫛のような歯で岩石表面の藻類をこそげ取ると、岩の上にギザギザの独特の食べ痕が残ります。これを「アユのはみあと(食み跡)」といいますが、実際にみたことがある人も多いでしょう。

こうして大きくなったアユの若魚は体の色も灰緑色になり群れをつくって泳ぎはじめます。特に体が大きくなった何割かは、えさの藻類が多い場所を独占して縄張りを張るようになります。この縄張りは1尾のアユにつき約1m四方ほどであり、この縄張り内に入った他の個体には体当たりなどの激しい攻撃を加えるようになります。

この性質を利用してアユを掛けるのが「友釣り」で、これはおとりの生きたままのアユをあらかじめ糸の先につけておき、このおとりアユの鼻やしっぽにとりつけた針に、体当たりしてきた野生のアユがひっかかるというものです。

夏になると、あちこちの川の近くで、「おとりあゆあります」の看板が出ているのをご覧になった方も多いと思います。釣り人たちが10m近い釣竿を静かに構えてアユを釣る姿やこうした看板をみると、ああ、夏になったな、といつも思います。

夏もまっさかりのころには灰緑色だったアユの体色も、秋に性成熟すると「さびあゆ」と呼ばれる橙色に黒が混じった独特の婚姻色へ変化します。アユが「成魚」になったあかしであり、この成魚は産卵のため下流域へ降河をはじめます。

これが冒頭でも述べた「落ちあゆ」です。落ちアユがみられるようになる時期は地方によっても違いますが、だいたい9月中旬から10月の後半までで、11月には殆ど産卵を終えます。

アユが産卵するのは河口付近の川底で、河床に小さな砂利質が敷き詰められていて泥の堆積のない水通しの良いところを選びます。産卵様式は、一対一ではなく必ず2個体以上のオスとの産卵放精が行われます。産卵を終えたオスもメスもやがて冬になって水が冷たくなるころには死んでしまいます。

死んだアユは川を下ってまた海に戻り、ほかの魚に食べられたり、分解されてプランクトンのえさになったり、さらにそのプランクトンを稚鮎が食べたりで、自然のサイクルの一員としてまた再生されていきます。

産卵を終えたアユは1年間の短い一生を終えますが、三島市の柿田川などのように一年中水温が一定しているような特殊な環境の河川やダムの上流部などでは生き延びて越冬する個体もいるようです。

アユを食べる

このアユですが、ご存知のとおり、高級食材として知られています。夏を代表する清涼感をもたらす食材であり、特に初夏の若アユが美味とされます。若アユの塩焼きや天ぷらは私も食べたことがありますが、なんというか、香味があって、やはり他の川魚とは一味違う、というかんじです。

同じ河川のアユでも水が綺麗で上質の付着藻類が育つ上流域のものほど味が良いとされるそうで、一般的に水質が良い河川のアユはスイカの香りで、やや水質が落ちてくるとキュウリの香りとなってくるそうです。

新鮮なものは刺身にもできるそうで、一般的なそぎ造りにされるほか、そのまま輪切りにした「背越し」という状態でも食べるとか。私は食したことがありませんが、背越しでは、歯ざわりと爽やかな香りが楽しめるとのこと。ただし、骨が小さくやわらかい若鮎に限るそうです。

酢や塩に浸けて、酢飯と合わせた「鮎寿司」、「鮎の姿寿司」はJR京都駅の名物駅弁ともなっており、このほか琵琶湖周辺などでは稚魚の氷魚の佃煮や、成魚の飴煮も名物として製造販売されています。

湖産養殖アユの放流

このように食材としても大人気な魚のため、釣りの愛好家にとっては昔からアユ釣りはたまらないターゲットのようです。

このため乱獲が進み、昭和に入ってからは川で見られるアユが激減してきたことから、人工養殖をしたアユを放流する試みが、昭和30~40年代からさかんに行われるようになってきました。

その養殖アユの先駆けとなったのが、東京帝国大学農学部水産学科の初代教授、石川千代松博士が提唱した、「琵琶湖産の鮎」の利用に関する研究でした。

琵琶湖産アユとは、琵琶湖で生まれ、琵琶湖で一生を終える陸封型のアユ(コアユ)のことで、体長6~10cmと小さく、海から川を遡上する鮎とは別種といわれており、また琵琶湖へ流入する河川で育つもっと大きなアユとも別のものと考えられていました。

ところが、1910年(明治43年)、石川博士は琵琶湖のコアユと琵琶湖へ流入する河川の大アユは同じアユであると発表します。

この研究発表を他の研究者や漁業者は信じませんでしたが、石川博士は、コアユが小さいのは食料不足が原因だから適当な環境の川へ移せば大きくなる、と主張しました。そしてこれを実証するために石川博士はその後、いろいろな角度から研究を行い、コアユが河川のアユと同じであることを証明しようとします。

1913年(大正2年)には、ドイツから新式の活魚輸送機を輸入し、およそ300匹のコアユを26時間もかけて岐阜県の米原から東京の青梅まで運び、堰ができてアユがのぼらなくなった多摩川の大柳河原に放流します。

そしてその年、約30cmを超す尺アユを釣ったという証人が現れますが、これもたまたまではないかと信用されませんでした。その後10年間も同じ研究を続けた石川博士ですが、放流したアユと川で釣れた自然アユが同じものであるという証拠をどうしても得ることができません。

ところが、1923年(大正12年)になり、滋賀県の水産試験場が石川博士のすすめにより、琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)の上流の滝の上にコアユを放流したところ、秋になってこの滝上の川で大型のアユがたくさんとれました。

これが決定的証拠となり、この事実が新聞各紙に報道されると、一躍琵琶湖のコアユは注目を集めるようになり、翌年には琵琶湖産コアユが北は岩手県から、南は熊本県までトラックや汽車で運ばれて放流されるようになりました。

そして昭和に入るころには、琵琶湖産のコアユは貧しい山村の農民の生活を助けるための一助としても使われるようになり、山間の川へ琵琶湖の稚アユが多数放流されるまでになりました。

しかし、昭和20年~30年代までは、稚アユの放流は、もっぱら漁業者のために行われていました。ところが、昭和30年代後半になると、釣り客の間では安価なグラスファイバー製の友釣り用の竿(友竿)が売り出されるようになります。この結果、一般人で友釣を始める人が急速に増え始めました。

昭和40年代これまでには友釣り愛好家はさらに増え、その遊漁料が漁協収入の大きな部分になってきたため、稚アユの放流は漁業者のためではなく、むしろ遊漁者を呼ぶために行われるようになっていきました。

水温が低くても成長が良く、なわばりの性質が強く、しかも長年にわたる放流実績のある湖産の稚アユは全国の河川でもてはやされ、特にダムや堰で天然遡上が無くなった川では湖産の稚アユは無くてはならないものとなっていきました。

天然遡上の海アユは7月頃にならなければ友釣で釣れるほどには育たなかったのに対し、放流された湖産アユは6月上旬の解禁日から友釣で釣れるほどに成長しましたし、食いつき(追い)が良いことから初心者にも容易に友釣でアユを釣ることが出来たのです。

天然遡上の豊富な川でさえも、釣り愛好家からの遊漁料収入が主たる収入となってきた漁協は、湖産アユをこぞって放流し、この放流は友釣人口を増やし、友釣はアユ釣りの代名詞とまでいわれるようになります。そして、昭和50年代までは、アユの放流といえば琵琶湖産の稚アユの放流を意味しました。

海産、河川産アユの放流

ところが、昭和50年代に入ると、コアユなどの放流であれほど豊富だったアユが激減する河川が各地に出てきました。その原因は、長年にわたる河川での砂利採取や、防災・治水・発電の名の下に建設されたダムや堰の建設、そして砂防のためとして渓流を中心に建設された砂防ダムでした。

洪水の際に安全に水を流下させるとして河川改修も頻繁に行われるようになり、コンクリートで固められた河道からは、淵や瀬、せせらぎが失われていきました。水源地帯や上流部での林道建設の際に出る土砂の沢や川への投棄も河川の荒廃に大きく影響しました。

さらに高度成長時代に伴い、家庭からの大量の排水に合成洗剤が混じるようになり、これが河川に流入した水域では、臭いに敏感なアユが忌避行動をとり、近づかなくなるようになります。

こうして天然遡上の激減により、それまで放流など必要のなかった中・下流部でも稚アユを放流しなければならない河川が増えるようになりました。湖産アユの生産も追いつかないほどになっていったことから、放流アユの価格は急上昇し、コアユだけでは遊漁客の需要をまかないきれないような事態に発展していきました。

そこで、考え出されたのが海産、河川産アユの放流です。海で採捕したものを海産アユ、海から川へ遡上してきたものを採捕したものを河川産アユといいます。

友釣愛好家の増加にともない、遊漁者の多い河川では放流できる琵琶湖産稚アユは枯渇していきました。その年の放流ができた川でも、琵琶湖産アユ特有の食いつきの良さが逆に災いし、シーズンが解禁されて1ヶ月もすると、ほとんどのアユが釣り尽くされ、8月になるころにはアユはいなくなってしまうというのが常態化していました。

遊漁料が収入の大きな部分となっていた漁協は、その対策として盛夏になってから追いが良くなる海産、河川産の稚アユを放流すれば釣期が長くなり、8月以降も釣り人に来てもらえると考えました。

そして、琵琶湖産アユに代わり、海産、河川産を補助的に放流する河川が増えていくようになります。しかし、あいかわらず需要は供給量を越え、その後平成に入ってからも放流すべきアユの量は思うようには増えません。一方では、「冷水病」といわれる病気がアユに蔓延し、大量のアユが死滅するという、これまでにはなかった新しい危機が生まれました。

冷水病とは、アユやサケなどの回遊魚の近縁種に発生する病気で、病原体によって発生することがわかっていますが、対処方法などは確率されていません。とくに稚アユでは、輸送2~3日後に急激に大量死するということで恐れられており、養殖場で冷水病が発生すると、その排水が流れ込んだ川でも発生し、大量のアユが死滅します。

その原因はまだよくわかっていません。保菌アユを掬ったタモ網や、長靴なども感染源のひとつではないかと言われていますが、これらの普及に歯止めがかからない現在、防止する手立てもみつかっていません。

人工産アユの放流

そこで、琵琶湖産アユ、海産、河川産アユに代わって登場してきたのが、人工産アユです。

ダムや堰の建設や、河川改修、砂防ダムの建設などによる河川環境の悪化は、これらのダム建設を推進していた建設省(国道交通省)も認識するようになっていましたが、建設省側の論理は、国民の安全を確保するためにはこれらの建設を中断するわけにはいかない、というものでした。

しかし、アユの生息数が激減しているのは河川行政を優先する建設省のせいであると糾弾する声は次第に漁業者の中で高くなり、このため、建設省では、「補償放流」のための資金を各地の漁協に提供するなどして、この声を静めようとしました。

ところが、それでも種苗(稚アユ)の数は増えるわけではなく、漁業者からの突き上げは日に日に増していったことから、ついに建設省は、自らアユの人工種苗を大量に生産することを考えはじめます。

人工産アユとは、卵から孵化、稚魚の飼育、親魚の飼育までアユの一生を人が育てたものです。卵から孵ったシラスアユのエサとして、ツボワムシというウナギの養殖池に大量発生するプランクトンを使い、ツボワムシの培養池とアユ仔魚の飼育池を別々にする「異槽式飼育方式」がその最初の成功例です。

その後海アユは本来海に住むものだというわけで、海水に棲むシオミズツボワムシ、ブラインシュリンプなどを餌にして、海水で養殖することなども始められ、これ以降、孵化した仔魚は濃度の低い海水でも飼育されるようになりました。

こうした技術は今でこそ完成されていますが、当初こうした研究を始めたばかりの水産庁管轄の水産試験場や種苗センターなどといった施設では常にその研究のための予算不足に悩んでいました。

一方、自ら人工アユを生産することも考えた建設省ですがが、そうした制度や十分な設備もあるわけではなく、こうした技術はあっても、どだい自分で稚鮎を生産するというお話には無理がありました。

そこで建設省は、ダム建設や河川整備等の予算の一部を削り、その予算をこうした水産研究機関に回し、これらの機関におけるアユ人工種苗の研究費や設備費の負担を減らすように方向転換していきました。

そして、研究の成果は徐々に出始め、確立された生産技術は、やがて県などの地方自治体に移管されていきました。やがて、各県の水産試験場や種苗センターで、種苗(稚アユ)の大量生産が行われるようになり、これが琵琶湖産アユや海産、河川産アユにとって代わるようになっていきました。

仔稚アユから成魚への大量養殖の基礎技術が完成したのは昭和40年代半ばのことであったといいますが、当初は、背骨の異常、顔や口唇の不整合などの奇形が高率に発生していました。

その後、飼料や養育方の改善等によりこれらの問題は次第に解決されるようになりましたが、そもそもが「大量生産すること」が目的であり、孵化から稚アユまで育てる歩留まりを上げ、奇形を減らすことに注力されたため、アユ本来が持つ放流後の遡河性とか、なわばり性質の強さの向上などは二の次でした。

このため、大量生産の初期に放流された人工産のアユは、オトリを追わないで群れてばかりいる、すぐ下ってしまう等、釣り人にも漁協にも評判が良くありませんでした。

しかし、その後の改良によって、最近の人工放流稚魚では、走流性、遡河性、なわばり性質についてもかなり改善、改良が図られるようになってきました。ただ、それでも琵琶湖産のアユのような優良性質には程遠く、いまだに釣り客の評判はあまりかんばしくないといいます。

この中にあって、群馬県水産試験場産の人工産アユでは、かつての琵琶湖産のアユのようになわばり意識が強く、どこの河川でも「追いが良い=食いつきが良い」という評判だそうで、最近では群馬県以外でも多くの河川で放流され、良い評判を得ているといいます。

アユ激減の意味

こうして、人工産の稚アユの放流割合は次第に増えていき、平成9年には、湖産、海産、人工産の放流割合がそれぞれ、58%、32%、32%であったものが、平成20年度には、24%、11%、66%となっています。

琵琶湖産はかっては全国放流量の7割以上を占めていたといいますが、それが現在では全体の四分の一にまで激減し、それに代わって人工産の放流が急増し全放流量の半分以上を占めるまでになり、まさに人工放流によってアユ漁が成り立っているといっても良い時代になりました。

ところが、人工放流によって稚鮎の放流量を増やしても、全体の漁獲量は増えるどころか、急激に減少し続け、平成14年ころからはまさに「激減」というほど減ってきています。

アユの漁獲量は、琵琶湖産稚鮎の放流が本格化してきたころから右上がりに増え始め、昭和31年にころには5300トン程度だったものが、平成13年までには1万8000トンにまで増えました。ところが、この年をピークに急激に生産量が減りはじめ、平成18年にはなんと、昭和31年を下回る3000トンにまで落ち込んでいます。

かつてアユの漁獲量が多かった頃は、岐阜県の長良川などだけで1年に3000数百トンの漁獲量があったといいますから、この減りようは異常です。人工産稚アユの放流割合が増えたH10~H14年頃に一時的に漁獲量の減少に歯止めがかかったようでしたが、H15年から再び激減し、ここ数年の減少は目を覆うばかりの惨状です。

その激減の原因として考えられるのは、やはり環境の変化。河川改修等による河川環境の変化に加え、これに伴う食物連鎖の崩壊によるアユのエサの藻の減少や、川鵜などの外敵の増加が考えられます。

また、ブラックバスなどの外来魚による食害も増えてきており、アユ以外の魚種の増加によるアユ本来の縄張りの減少などもその原因として考えられます。

ダムや堰などの河川構造物の建設により稚魚が遡上できない、孵化した仔魚が海へ流下できないという状況もその原因ではないかと疑われています。

しかし、これらの河川構造物の設置は昭和年代から始まってかなりの年月が経っていて、アユの遡上や降下への影響も恒常化しており、平成14年ころから急にアユの生産量が減少をしてきたこととの因果関係は考えにくいところです。

ただ、これらの構造物が長きにわたって存在することにより、岩・石・砂礫などの堆積がピークに達し、もはやほとんどが下流に供給されることがなくなり、一気にアユの激減につながったということは考えられるかもしれません。

また、地球温暖化の影響により、秋・冬の沿岸海水温が高くなり、春先に生まれたアユの稚魚が高い気温に適合できず、海で死んでしまうことなども考えられます。

しかし、地球温暖化による生物への影響の研究はまだ始まったばかりであり、アユだけでなくほかの生物にとってもどれだけの影響があるのかについてはまだよくわかっていません。

現在のところ、やはりもっとも疑われてしかるべきは冷水病の影響でしょう。冷水病の蔓延の原因はまだ究明されていませんが、その病原体が何であるかはわかっています。問題は、なぜその病原体が急に増え始めたか、です。

現在多くの水産研究者たちがこの問題に取り組み始めていますが、それらの研究の中には、近年、多くの釣り人がタイツやタビ、網、舟、囮缶などの釣り道具に新しい素材を使用しており、これらの多くは中国などの外国製であることが関係あるのではないかという指摘もあります。

中国などの外国から持ち込まれている「であろう」有毒物質と冷水病との因果関係が立証されているわけではありませんが、鳥インフルエンザなどと同様、原因不明の病原体は外国から持ち込まれて蔓延するケースは多いようです。

冷水病の蔓延もそれら有毒物質の広がりがトリガーになったことも十分考えられます。平成13~14年ころといえば中国製品が大量に出回りはじめたころであり、時期的にも一致します。

今後は、これらの用具の使用を禁止したり、消毒をして冷水病を広げないように気を付けたりすることが必要になってくるかもしれません。また有毒物質が多量に含まれる合成洗剤などの家庭からの排出の抑止もこれからますます必要になってくるでしょう。

さて、今日も長くなってしまいました。そろそろ終わりにすることにしましょう。

今年も大量の釣り人達が狩野川で釣りをする風景を見ることができました。が、これが未来永劫みることができなくならないとも限りません。

美しい河川で落ちアユを釣る釣り人は絵になります。この風物詩がなくならないよう、環境破壊の抑止をみんなで心がけていきたいものです。