細胞の記憶


先日、お気に入りの番組のひとつである、NHKの「コズミック・フロント」をみていました。この日の内容は、今年6月、世界最古の天文盤としてユネスコの世界記憶遺産に登録された「ネブラ・スカイディスク」に関してのもの。

10年ほど前に、ドイツのネブラという町の郊外、ミッテルベルク山の頂上付近で、ある二人組が第二次世界大戦中の遺物を探そうと、金属探知機を使って周囲を探していたところ、土の中から偶然に見つけました。

見つけたのは直径30cmほどの青銅盤で、表には金でかたどった満月と三日月、そして32個の星が描かれていました。ドイツのこうした山奥には古い時代の遺跡も良く埋まっており、こうした行為は「盗掘」とみなされます。このため、この二人も見つけたこのディスクを闇ルートで流して換金しようとします。

しかし、なかなか売れず、そのうちこのディスクが売りに出されているという噂を聞きつけたある考古学者が犯人と接触。購入交渉にまでこぎつけますが、実はこの取引は彼が警察に通報したのち、警察からのアドバイスで仕組まれた「おとり捜査」でした。

この結果、犯人は見事御用となり、この天文盤は、ドイツ政府の所有物となったため、のちに天文学者や考古学者、歴史学者までも加わって分析が行われることになりました。その結果、天文盤は、今から3600年も前の紀元前1600年ころに制作され、これまでの常識を超える高度な天文知識が刻まれていることがわかりました。

夏至や冬至の太陽の位置、そして暦を修正するために、3年に1度、うるう月を入れる方法までも記されており、ディスクに描かれていた星々の一部は、プレアデス星団であるらしいことなども解明されました。しかし、他の星については、どういう意味があるのかについてはまだ研究中だそうで、番組もここで終わってしまいました。

未だ多くの謎が含まれているこの天文盤ですが、詳細は未解明なまま世界記憶遺産に登録されることになり、現在も解析が続けられているため未だ非公開のようです。

世界遺産といえば、ついこの間富士山が世界文化遺産になったばかりですが、「記憶遺産」?というのはあまり耳慣れないものだったので、どういうものかを調べてみました。

すると、記憶遺産というのは、劣化や崩壊などの危機に瀕した書物や文書などの歴史的記録遺産を、最新の科学技術を駆使して保全し、研究者や一般人に広く公開することを目的としてユネスコが始めた事業のようです。ユネスコ事務局長の任命する委員によって構成された国際諮問委員会を通じて1997年から2年ごとに登録が行われているとか。

後世に伝える価値があるとされる歴史的文書などの記録物は、毀損(きそん)されたり、永遠に消滅する危機に瀕している場合が多いため、適切な保存手段を講じることによってこうした重要な記録遺産の保存を奨励する、というのが事業の趣旨であり、この「適切な保存手段」というのは、近年急速に発達したデジタル化技術などを指すようです。

申請者はユネスコ本部内の一般情報事業局に申込書を提出して1次検討を受け、最終決定は2年ごとに開かれる国際査問委員会定期総会で下されるという点は、富士山などの文化遺産と同じですが、その数はまだまだ多くないようで2013年6月現在では、全世界で299点しか登録されていません。

日本からは、藤原道長の自筆日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」(国宝)、1984年没の福岡県出身の炭鉱記録画家・山本作兵衛の作品群、スペインと共同推薦した「慶長遣欧使節関係資料」など3件だけになっています。

登録は、やはりヨーロッパおよび北アメリカ地域が多いようです。どんなものが登録されているかというと、代表的なものとしては以下のようなものがあります。

子供と家庭の物語(グリム童話。2005年登録)
バイユーのタペストリー(バイユー・タペストリー美術館所蔵。2007年登録)
ニーベルンゲンの歌(2009年登録)、マグナ・カルタ(イギリス、2009年登録)
アンネの日記(アンネ・フランクによる文学作品)(2009年登録)
グーテンベルク聖書(2001年登録)
ベートーヴェンの交響曲第9番の自筆楽譜(ベルリン国立図書館所蔵。2001年登録)
共産党宣言及び資本論、初版第1部(2013年登録)

ここに挙げた例からみてもわかるようにドイツの登録数が多いようです。日本としては、過去にも候補にあがっていた「鳥獣戯画」や「源氏物語絵巻」などを今後推薦していく予定のようですが、前述のネブラ・スカイディスクのようなミステリー満載のものはあまりないようで、また富士山の世界遺産登録のようなワクワク感もないのは確か。

が、まあ世界遺産とまで言われるものが多いということは世界的にみても文化レベルが高い国とみなされることでもあり、今後を期待しましょう。

記憶とは何か

ところで、「記憶とは何か」というのを改めて考えてみると、かなり奥深そうなテーマではあります。

科学的にみた記憶の定義としては、心理学的にみれば、「過去の経験の内容を保持し、後でそれを思い出すこと」、「将来に必要な情報をその時まで保持すること」ですが、生物学的な見地からみれば、人間を含んだその生物に「過去の影響が何らかの形で残ること」になります。

コンピュータが発達した現在では、「必要な情報を保持しておくこと」でもあり、コンピュータに使われるメモリ(memory)は、情報の記憶を行う記憶装置であり、機械の記憶です。

が、やはりここで考えていくべきは我々人間の記憶でしょう。

あまり、細かいことをここで書きたくないので、さっと調べたところだけを書きだしましょう。人間の記憶の分類法はさまざまですが、記憶には大きく分けて「感覚記憶」、「短期記憶」、「長期記憶」の3つがあるようです。

感覚記憶というのは、映像や音などを最大1~2秒ほど、忘れないでいるようにする記憶であり、意識には上らないけれども、感覚器官で瞬間的に保持された記憶になります。

情報処理の程度に応じては、短期記憶、長期記憶へ変換されることもありますが、多くの場合、受け取った刺激の情報をほぼそのまま記憶するものの、短期記憶、長期記憶への変換処理が行わなければすぐに失われてしまいます。

刺激の形式に応じて、聴覚に刺激を受ければ音声、視覚に刺激を受ければ視像として保持されます。これによって数分の1秒から数秒の間はその刺激が保持されます。短期記憶・長期記憶としてもう少し長く保っておきたい場合には、「そうしたい」、と意識を向けることでこれが可能となり、このプロセスを「注意過程」といいます。

次いで、短期記憶です。これは文字通り、感覚記憶よりはもう少し長い間保持されるものの、やはり記憶時間は短いものです。だいたい20秒間の保持が限度であり、しかも7つプラスマイナス2つ程度のことしか記憶できません。

つまり、せいぜい5つから9つまでの情報しか保持できないわけであり、このため7±2という数は「マジカルナンバー」と呼ばれます。

マジカルナンバーは、マジックナンバーと同じ意味であり、「魔法の番号」ということになります。スポーツやギャンブルでは良く使われることばですが、ここではあくまで認知心理学上の用語です。

長期記憶

この短期記憶の情報は、感覚記憶を「意識して」覚えたものです。しかしこの記憶もまた、時間の経過とともに忘れされてしまいます。しかし、これを維持して長い間記憶する「長期記憶」にする方法もあり、そのひとつを「維持的リハーサル」といいます。

維持的リハーサルは、単純リハーサル・機械的リハーサルとも呼ばれ、短期記憶で保持している情報が失われないよう、同じ内容を単純に反復することです。たとえば、電話番号を一時的に覚えるため何度も口に出して唱えたり、漢字を覚えるために繰り返し書くことなどこれにあたります。

維持的リハーサルによって留められた記憶は、これをやめてしまうとそのまま忘却してしまうことが多いようです。これでは「長期記憶」にはなりません。このため、短期記憶内の情報を安定させるには、「維持的リハーサル」を頻繁に行うか、「精緻化リハーサル」というプロセスを踏む必要があります。

この「精緻化リハーサル」は、「統合的リハーサル」とも呼ばれ、短期記憶で一時的に保持している情報を、他の知識と結びつけたり構造を理解しながら反復する方法です。

具体的には、いくつかの単語を1つのイメージとして組み合わせたり、記憶したいのが漢字ならば、その漢字を構成する要素(辺や画など)にいったん分解してから書き方を覚える方法です。

このように情報を整理することで、長期記憶のネットワークに短期記憶内の情報が組み込まれます。そのため、精緻化リハーサルを行うと、維持的リハーサルの場合とは異なり、覚えようとする事柄への理解が深まって記憶が安定し、つまり「忘れにくくなる」という状態が生まれます。

こうした、維持リハーサルや精緻化リハーサルは、聴覚的なものと考えがちですが、こうした短期記憶を長期記憶に変換する方法としては「視覚的」に行うことも考えられます。記憶するべき項目を視覚的に思い浮かべる方法で、こうした視覚による維持リハーサルや精緻化リハーサルを総称して、「視覚化リハーサル」と呼ぶこともあります。

長期記憶の二つの倉庫

さて、こうして苦労して?長期記憶となった記憶は、意識して忘れさろうとしても忘れられません。死ぬまで保持されます。なので、覚えていたくもない嫌な野郎の顔を忘れ去るためには、なるべく意識しないことです。

が、逆にどうしても忘れたくない恋人の顔などは意識して覚えておくことができます。この記憶を蓄える脳の中の貯蔵庫は、その名も「長期記憶貯蔵」と呼ばれますが、この貯蔵庫にはさらに二つの倉庫があります。

ひとつは「陳述記憶」、もうひとつは「非陳述記憶」です。陳述記憶というのは、読んで字のごとし、言葉で表現できる記憶です。時間的には即時、近時、遠隔といった区分があり、またもっとおおまかに短期・長期の陳述記憶に分けられる場合もあります。

個人的に体験された出来事については長く記憶にとどまることの多いものが多く、たとえば「みかん」という言葉から想起される記憶としては、「小さい頃、おばあちゃんの家のこたつで一緒にみかんを食べた」という思い出などがあります。

さらに情景だけでなく、そこから連想されるおばあちゃんと楽しく遊んだといった経験、「一緒に食べた子と、その後仲良くなった」といった時間軸を持つストーリーや、それに付随する感情もこの記憶に含まれます。

こうした記憶は自らの「エピソード」に関連するものであるため「エピソード記憶」といいます。ただ、自らのエピソードだけでなく、「みかん」といえば、「給食の冷凍みかん」や「一面のみかん畑」など様々な自分に関連しないものの記憶も回想できることから、エピソード記憶は、その人の置かれた状況に応じて変形しやすい恣意的な記憶ともいえます。

エピソード記憶は「一回限り」の学習機構であると考えられています。つまり、あるエピソードを一回体験しただけで、それを記憶するものです。しかし、陳述記憶の中には、繰り返し同じ事物を記憶することで形づくられていく記憶があり、その事物に触れるたびに脳内の意味表現は変化していくものがあります。

これを「意味記憶」といいます。例えば、あなたがネコを飼っていたとして、その外見や鳴き声を記憶しているとしましょう。あなたの「猫」に関するエピソード記憶はこの飼いネコの記憶をもって、その意味を参照するようになっています。ところが、この猫に関して、外で別の野良猫をみたとしましょう。

そうすると、これは「猫」に関するあなたの新たな体験ということになり、あなたの「猫」に関する意味表現は更新されていくことになります。さらに街角の商店の店先で、「猫招き」が置いてあるのをみかければ、更に「猫」に関する記憶が追加されます。

こうして猫にまつわるエピソードが増えていくことで、あなたの頭の中の「猫」に関するエピソード記憶群はどんどん増えていくことになり、「意味記憶」の中身もだんだん濃く成っていきます。

つまり、意味記憶とは言葉の「意味」についての記憶であり、「猫」というキーワードをもって、いろんな記憶が蓄積されるものです。意味記憶の構造は、「意味ネットワーク」という形でモデル化できるそうで、他にも、意味記憶を表す多くのモデルがあるといいます。

非陳述記憶

さて、長期記憶には、このような陳述記憶のほか、言葉で表現できないような記憶もあります。これを「非陳述記憶」といい、これはさらに「手続き記憶」「プライミング記憶」の2つに大別されます。

いずれも言葉で表現できない記憶ですが、手続き記憶のほうは、物事を行うときの手続きについての記憶であり、いわゆる「体で覚える」記憶がこれにあたります。

自転車に乗れる、というのは言葉に表現できますが、じゃぁいつ乗るの?「今でしょ」とは即座にいえますが、どうやって乗れるのか、と聞かれると言葉ではなかなかうまく表現できません。これが手続き記憶です。

また、プライミング記憶というのは、例えば、「医者」という言葉を聞くと、その後「看護師」、「あかひげ」などといった医者に関連する言葉の読みがすぐに出てくるような内容の記憶です。

先行する事柄が後続する事柄に影響を与える状況を指して「プライミングの効果があった」と時々言いますが、このように「プライム」とは「先行する事柄」を表します。

先行する事柄としては「医者」のような単語の場合もありますが、絵や音といった、視覚や聴覚による場合もあり、ピカソの絵を見るとキュービズムで描かれた別の画家の絵をすぐに思い出したり、赤とんぼの歌を聞いて、幼かった子供のころのことを思い出す、といった具合です。

こうした記憶は咄嗟に出てくることが多く、プライミング効果による記憶が無意識的に呼び起こされたものです。

また、プライミング記憶は、例えば一年以上もの長い間の時間を置いても、突然に蘇ります。数年の間、ベートーベンの第九を聞いていなくても、ふとした瞬間にそれを聞くと、突然クリスマスの情景が浮かんでくると言った具合に、常にプライミング効果は損なわれずに、意識せずとも常に頭の中に常駐し続けているのが特徴的です。

無論、それがなぜなのか、は自覚しておらず、その理由をやはり言葉では表現はできません。「非陳述記憶」ということになります。

以上のように、記憶には、感覚記憶、短期記憶、長期記憶という大きく分けて3つの記憶がありますが、このほかにも学者によっては「自伝的記憶」や「展望的記憶」という概念を提唱する人もいます。

自伝的記憶というのは、自分自身に関する事柄についてだけの記憶です。

例えばあなたにも、あなたなりの「自分史」があると思います。その中にはいろんな記憶が詰まっているはずであり、このように自分に関する記憶を体系的に説明できるよう、自分だけが記憶できるよう整理した一種の記憶モデルです。これらはエピソード記憶と意味記憶によって構成されており、分類としては長期記憶にカテゴライズされます。

これに対して、展望的記憶というのは、将来行う行動についての記憶です。過去の出来事についての記憶は「回想的記憶」と表現される場合がありますが、こちらは未来に起こることに関しての記憶です。

???とお思いでしょう。記憶とは「過去」の事柄を指すと誰もが思っていることでしょう。しかし、考えてみてください。日常生活において我々は時々、「明日、友人と会う約束がある」 というような、将来の行動に関してのことを「記憶している」場合があるはずです。

これが「展望的記憶」です。展望的記憶がうまく思い出されなかったときには、行なうべき行動がなされません。つまり、「し忘れ」という現象が生じることになります。

一般に、「し忘れ」が起きやすいケースというのは色々あり、普段あまりやりつけない非習慣的な行為である場合もありますが、一方では記憶に残りやすいような特別な行為ではない場合にも起こり得ます。

例えば、普段はやらない寝る前のストレッチなどを人に勧められた場合、こうした非習慣的な行為は、意識しないとすぐその翌日には忘れてしまいます。ところが、数年ぶりに会う友達との再会などはめったにないことなので、その予定日を良く覚えていたりしますが、いつもの退屈なミーティングタイムはすぐに忘れてしまう、というのはよくあることです。

しかし、いずれの場合であったにせよ、こうした「し忘れ」を思い出すのは、その将来行動と直結した何かを見た場合や、関連事象を見て咄嗟に連想的に思い出す、といった場合が多いでしょう。

「展望的記憶」という概念は、こうした「し忘れ」を無くすために心理学者たちが考え出した概念です。その後、研究の裾野が広がり、最近はこうした研究結果を用いてスケジュール帳や、PDA(携帯情報端末)などの予定を管理する機器類の使用方法などが、使用行動と絡めて研究されることも多くなってきているということです。

細胞の記憶

さて、ここまで述べてきたことは、あくまで人間の脳細胞の中に蓄積される記憶のことです。ところが、最近、脳細胞だけでなく、皮膚や筋肉、内臓といった、脳以外の部分を形造っている「細胞」そのものにも記憶があるのではないか、ということが議論されています。

高等生物では、各器官・組織へと分化した細胞が、それぞれの役割に応じて正常に機能する必要があります。各組織構成の基盤となっている細胞ひとつひとつは、自己の遺伝子発現プロファイルの変化を「記憶」しながら、次第にその終末的姿へと分化していっているのではないか、というのがこの「細胞記憶」の考え方です。

多細胞生物の各細胞における個々の遺伝子発現パターンの差異は細胞分裂を経ても維持され、細胞分裂停止後もその記憶は長期に渡り維持される必要があります。

この細胞の「記憶」が何らかの原因で破綻すれば生物体は甚大な障害に直面するので、生物はその進化の過程において、この「記憶」を整理し、維持してゆくための何等かのシステムを獲得しているはずだと考えられています。

ただし、その「記憶」については、従来は「遺伝子発現プロファイル」そのものの研究ばかりが行われてきており、一体どのようなメカニズムで細胞の「記憶」として整理しているのかは、未だ解明されていません。

最近になって、細胞が「遺伝子発現プロファイル」の「変化」をどのように「記憶」するのかということを明らかにしようとする研究が国立遺伝学研究所などで始まったといいます。

こうした研究者は、細胞の記憶メカニズムを理解し、誤った細胞記憶の修正や操作の方法を確立することで、将来的にはそれを医学・医療に応用することを目標としているそうです。

最近ではこうした細胞による記憶のメカニズムを「エピジェネティクス」「エピジェネティクス制御システム」などと総称するようになってきています。英語では“epigenetics”と書き、遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域になります。

私も難しいことはわかりませんが、最近流行の多能性幹細胞(iPS細胞)の技術なども駆使され、哺乳類のクローンの成否の可能性や癌などの遺伝子疾患の発生のメカニズム、脳機能の解明などにも発展する可能性のある学問ということであり、「細胞の記憶」に関する研究はまさに22世紀へ向けてのプロローグともいえるもののようです。

記憶転移

細胞記憶の研究は、まだまだわからないことが多い分野のようですが、わからないといえばもうひとつ、記憶現象の中には、「記憶転移」という現象があり、その真否が良く取沙汰されています。

記憶転移とは、臓器移植などに伴って提供者(ドナー)の記憶の一部が受給者(レシピエント)に移る現象です。臓器移植の結果、ドナーの趣味嗜好や習慣、性癖、性格などまでもが「移植」され、同じ行動とったり、亡くなったドナーの記憶がレシピエントの中に蘇ったりするといいます。

ドナーの経験の断片が自分に移ったと感じているレシピエントの存在が多数報告されており、特に心臓移植や腎臓移植のあと自分の趣味嗜好が変化したと感じている例が多いようです。

しかし、通常、レシピエントがドナーの家族と直接の接触をもつことは移植コーディネーターや病院から固く禁じられているため、実際にドナーの趣味嗜好や性格などを確認し得た例は極めて少なく、その真偽に関して科学的なメスが入った例もまた少ないようです。

とはいえ、こうした現象が本当に存在するか否かを含め、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることも多くなり、この現象を題材にした小説や映画なども作られ、専門家以外にも知る人が多くなりました。

こうした例の中でも特に有名なのは、アメリカのコネティカット州で現在も存命中のクレア・シルヴィアという人の事例で、シルヴィアが1997年、この自身の体験を出版したために世界的にも知られるようになりました。

クレアは「原発性肺高血圧症(PPH)」というかなり重症の病気にかかり、1988年、コネティカット州のイエール大学付属ニューヘイヴン病院で心肺同時移植手術を受け、成功しました。

しかし、この手術でも規定により病院側からはドナーについての詳しい情報は伝えられず、クレアにはバイク事故で死亡したメイン州の18歳の少年だということだけが伝えられていました。

ところが、手術が終わったその数日後から、彼女は自分の嗜好・性格が手術前と違っていることに気づきます。苦手だったピーマンが好物に、またファーストフードが嫌いだったのにケンタッキーフライドチキンのチキンナゲットを好むようになったのです。

またそれだけでなく、歩き方が男の様になり、以前は静かな性格だったのが、非常に活動的な性格に変わりました。しかも、ある日夢の中に出てきた少年のファーストネームをなぜか彼女は知っており、これらのことから、彼女は彼がドナーだと確信したのでした。

彼女はそのことを家族に話したところ、家族もびっくりしたようですが、彼女の変貌ぶりをみてやがて信じるようになり、やがては共に自分を救ってくれた恩人を探し出そうということになりました。

しかし、ドナーの家族と接触することは移植コーディネーターから拒絶され、病院からも情報の提供を受けることができませんでした。このため、メイン州の新聞の中から、移植手術日と同じ日に亡くなった人の死亡事故記事を探し始めたところ、運よく少年の事故に関する記事をみつけます。

そして、彼の家族と連絡を取ることに成功し、対面が実現したのですが、驚いたことに、この少年のファーストネームは彼女が夢で見たものと同じだったそうです。しかも、彼はピーマンとチキンナゲットを好み、また、高校に通うかたわら3つのアルバイトをかけもちするなど活発な性格だったこともわかりました。

このほかにも、類似の話はたくさんあります。同じアメリカでは、別の28歳の女性が心臓手術を受けて以来趣味が一変し、それまで苦手だったサッカーやバスケットボールが大好きになり、それだけでなく、大嫌いであったメキシコ料理もお気に入りになるなど、手術前と比べてその性格が激変したといいます。

そして、同様にドナーが誰かを調べたところ、彼女の現在のこの性癖は心臓を託してこの世を去った提供者のそれとピタリと一致していたそうで、それはあたかも、生前のドナーがレシピエントの新たな肉体を得て蘇ったかにさえ思えるほどだったといいます。

このほか、アリゾナ州立大学で心臓移植を受けたある男性は、かつて自家用ジェットで各地を飛び回り、仕事に追われる毎日は多忙を極め、お金を得ることのみにその人生を費やしていたかのような生活を送っていいました。

ところが、心臓移植後、彼はある不思議な体験をしました。それは移植を終えて間もない日、それまで聞いたことさえなかったイギリスのバンド、シャーディーというミュージシャンの歌をたまたま聞く機会があり、これを聴いたとき、理由も分からず突然に眼から涙があふれ出たのです。

「そんな感覚はそれまで想像もつかなかった」とこの男性はその時を回想しており、その後、それまではお金だけに固執していたエネルギーを競泳や自転車競技などのスポーツに費やすようになり、さらには慈善事業に専念し始めるなど、手術前とは生活が一変していったのです。

移植後間もなく彼が聞いた話では、譲り受けた心臓は、交通事故で死亡した、ある貧しい少年のものだったと伝えられていました。ところが、移植から6ヶ月が経った頃に、突然、ドナーの遺族から手紙が届きました。

そこには、「息子は信心深く、常に周囲を気にかける優しい子で、生前、何らボランティア活動に参加できなかったことを悔いていたのを知っていたので、臓器提供することに同意した」と事実が綴られていました。

しかも、彼はハリウッドの一線で活躍するスタントマンであり、生前は特に空中でのスタントを得意とするプロフェッショナルで、様々な有名な映画やTVコマーシャルに登場していたことなども書いてありました。

しかしあるテレビ番組の撮影準備中、走行中の電車の上にパラシュートで飛び降りるスタントを行っていたところ、誤って足を踏み外し、頭部を打って即死したのでした。

男性は、手紙を読むなりすぐにこの手紙の差出人の家族に返信し、こうして両者の面会が実現したそうですが、その時、面会できたドナーの弟は、兄の鼓動を確かめたいからとわざわざ聴診器を持参してきており、男性の胸にそれを当てて涙したといいます。

そしてその後、彼が何気なく口にした言葉に男性は驚愕しました。彼は生前の兄が音楽、特にシャーディーの歌が大好きだったことを彼に告げたのでした……

現在、こうした逸話を裏付ける科学的な説明は存在しません。しかしこれらの事実は、移植された臓器やその細胞が、本来脳に記録されているべき様々な情報をあたかも記憶していたのではないかと思わせます。

しかし、こうした記憶転移説に反論する科学者らは、その原因を移植手術という、強い精神的ストレスを伴う経験がレシピエントの心理に影響したとか、手術により健康面での制約が無くなったことに起因する大きな心境・行動の変化を、人格が移ったとように錯覚したのだと説明しています。

あげくは、麻酔状態下で無意識に聞いた、ドナーに関する医師や看護師の会話が暗示になって、術後の思考や行動に影響を及ぼしたのではという人もおり、ドナーへの感謝の気持ちが「故人の分まで生きる」、「命を引き継ぐ」という意識を生み、ドナーとの類似行動を取りやすくなった、などの説得力のない意見もあります。

しかし、それらの懐疑論者達もこの心臓移植患者の一部に発生する記憶転移現象が、これら仮説では説明しきれない何かがあることを認めている医者も多くなっているようです。

過去25年間で700件以上の心臓移植手術を行っているベテランである、アリゾナ州立大学医学部心胸科チーフのジャック・G・コープランド博士も次のように述べています。

「これは非常に難しい問題ですが、私自身、臓器を通じて記憶転移が行われている可能性を完全に否定することは出来ません。」

さて、今日のこの項に結論はありません。ただ、今日述べてきた「記憶」というものは、科学が発達した現代でも説明しきれていない領域であり、これへの挑戦はまだ今始まったばかりである、ということだけはいえます。

遠い将来にわたり、人類が生命を自由に操れるようになったとして、その記憶もまた自由に書き換えられるような時代が来るのでしょうか。

あってほしくないことです。が、そうした時代にはおそらく人類は肉体を捨て、「意識体」としてしか存在していない可能性もあり、その場合、その自らの記憶を消し去るという暴挙までは行わないでしょう。

そうあってほしい、と思います。みなさんは、どうお考えでしょうか。