台風が近づきつつあり、今日明日はお日様は望めそうもありません。しかも、仮に晴れていたとしても、今日は新月なので、夜空も真っ暗です。
これで生活にも張りがなければ、四方八方塞がりといった感じで、暗くなってしまいそうなのですが、私的にはここのところの生活はそれほど悪くはありません。毎日それほどストレスを感じることもなく元気で過ごせているというのは、ありがたい極みです。
それにしても、東京を離れてどのくらい経ったか、などと最近ではあまり気にもならなくなってさえきましたが、改めて数えてみると、2年と6ヶ月ちょっとです。2年半といえば、10年のちょうど4分の1、パーセンテージにすると25%。伊豆での生活がこれからも長く続いていくとすれば、まだそのほんの序章にすぎません。
この「序章」とは、物語の前置きのことで、文学作品などではよく「プロローグ」という言葉が使われます。物語の冒頭で、本文の内容の概略や背景について述べ、読者が内容になじみやすくするために書かれた部分のことです。
音楽においては、一つの曲の前奏部にあたります。プレリュードともいいますが、一般的な書き物では、「導入部」「序文」「序説」ともいいます。
逆に、全体をしめくくる言葉や終わりの部分や「終章」として付け加えられるのは、「エピローグ」です。本編後の後日談的なものを書く部分であり、本編では書けなかった、書かなかった部分を補足したりするのに使います。あぁそんな見方もあったのか、そういうことだったのか、といった物語のオチに使われる場合も多いようです。
エピローグには他に似たような用語はありません。強いていえば「エンディング」でしょうか。が、プロローグにはほかに、アバンタイトルというのがあり、これは、映画やドラマ、アニメや特撮などでオープニングに入る前に流れるプロローグシーンのことで、プレタイトルとも呼ばれ、一般的にこのような映像手法をコールドオープンといいます。
一方、文学や演劇で使われる序章の部分には、プロローグをもっと簡単にしたものもあり、これを「エピグラフ」といいます。
……エビグラタンではありません。エビピラフも違います。エピローグとも混同しそうですが、これは、文書の巻頭に置かれるよりより短い文章で、詩である場合や他の本からの引用した短い慣用句などである場合もあります。
その本の内容を端的に表すことが多いようですが、一方ではより広く知られている別の文学作品と関連づけたり、比較をもたらしたりするためにも使われます。必ずしも、その本の冒頭だけでなく、各セクションの初めにエピグラフを配する場合もあります。
たとえばスタンダールの「赤と黒」には1章ごとに凝ったエピグラフが付されていて、これは、「小説、それは街路にそうて持ちあるく一つの鏡である」、といった具合です。日本ではあまり見かけませんが、翻訳モノを読んだことがある人は、こうしたエピグラフに遭遇したことがあるでしょう。
日本の小説では、たとえば堀辰雄の「風立ちぬ」の冒頭にある、「風立ちぬ、いざ生きめやも」が有名です。また、太宰治は「二十世紀旗手」で「――(生れて、すみません。)」という名エピグラフを残しました(ちなみにこれは、原文のママ)。
ところが、この「生まれてすいません」は実は盗作だった、ということが言われているようです。
最初にこの文章を書いたのは、寺内寿太郎という、は昭和初期の無名の詩人だといわれています。生没年も不詳の人物ですが、川柳の才能があったといわれ、当時流行の探偵小説にも凝ったことがあるようですが、太宰治ほど有名ではなく、小説化の端くれ、といったところだったでしょう。
昭和初期に評論家として活躍した「山岸外史」という人のいとこです。この山岸という人は、若いころに、太宰治や檀一雄たちと共に同人誌を創ったこともある人物で、太宰治の親友の一人でした。
現在、「リーガル」のブランド名で有名な「リーガルコーポレーション」、かつては「日本製靴」といったこの会社の社長などを歴任した山岸覺太郎の息子でもあります。
1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、「青い花」という同人誌などの仲間として交友を深めました。クリスチャンだったようで、その著作により太宰に影響を与えましたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となりました。
しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と泣かれたことなど、その複雑な交友の実態を自らの回想録「人間太宰治」、「太宰治おぼえがき」などのなかで明らかにしています。
文学者でもあり、1939年(昭和14年)、「人間キリスト記 或いは神に欺かれた男」で第3回の北村透谷文学賞を受賞しており、この本はとくに太宰に大きな影響を与えたといわれています。ちなみに、北村透谷は文学者でもありましたが、評論家としても有名な人であり、この文学賞の受賞者には評論家としても評価の高い人が多いようです。
この山岸外史という人は、戦前の1944年(昭和19年)、左翼色の強い「ロダン論」を刊行直後に軍部からの言論弾圧を受けています。またこのころから空襲も激しくなってきたことからこれを避けて山形県米沢市に疎開し、ここで1950年(昭和25年)まで山形で農民生活を経験し、「労働者」として目覚めます。
もとより、共産思想にシンパシーを感じていたこともあり、山形での経験もきっかけとなって、戦後の1948年には日本共産党に入党。また、その傍ら、「新日本文学会」という旧プロレタリア文学運動の流れを汲む組織の事務局長を務めました。
このころ、軍の弾圧によって休刊になっていた、同人誌「青い花」を太宰治、や檀一雄らと復刊しますが、このころから文学編集者としての道を歩むことを決め、1962年(昭和37年)、日本共産党から離脱。しかし、その後も日本民主主義文学同盟に所属するなど、政治色の強い活動を続けました。
日本民主主義文学同盟というのは、戦争の激化と弾圧によって壊滅させられたプロレタリア文学に代わって、左翼文学の中心とすべく、彼らみずからがその新潮流を「民主主義文学」と名づけたのに由来する組織であり、現在も存続して活動を続けています。
透谷文学賞も受けた著書「人間キリスト記」は太宰に多大な影響を与えましたが、山岸はこのほかにも「人間芭蕉記」「夏目漱石」「芥川龍之介」「眠られぬ夜の詩論」「煉獄の表情」などがあり、こうした評論によってこの時代の作家を広くこの世に広めたという功績があります。しかし、1977年(昭和52年)、73歳で亡くなりました。
さて、その山岸の従弟とされる、寺内寿太郎という男のことです。この人は、幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育っていますが、伯父の世話で慶應義塾大学の経済学部を卒業して会社勤めをしていたそうです。
が、この会社では不遇だったようで、私生活もうまくいかずに家出すること数回。伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともありますが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻される、といったこともありました。
その後も、たびたび職業を変え、都落ちをしてからは岩手県宮古で4年間、町会や漁業組合で書記として生計を立てる傍ら、作家活動も行いました。極端な寡作家ながら、この宮古時代に「遺書(かきおき)」と題する7〜8作の詩稿を完成して帰京。
くだんの「生れてすみません」は、この詩集の中に一行詩として書かれていました。その「遺書」の詩稿を公表したところ、この無名の作家の作が太宰治の目にとまり、1936年(昭和11年)の短篇「二十世紀旗手」の冒頭において、エピグラフ「生れて、すみません」として剽窃されるに至った、というわけです。
ちなみに、「剽窃(ひょうせつ)は「盗作」とは違います。「剽窃」は書かれたものの一部の文章をさし、「盗作」は一般に作品全体に対象が及ぶことしばしばです。つまり「盗作」の方が、対象範囲が広いということになります。
剽窃ではない、とする場合には、通常、その本人の作であることを付記する必要があり、これがない場合は、現在では著作権侵害として訴えられてもおかしくはありません。が、盗作は、たとえ原作者の名前が書かれていても、泥棒のそしりを受けることは免れません。
この寺内は早い時期から太宰作品の愛読者だったようです。しかし、その敬愛する作家がまさか自分の作品を剽窃するとは思いもしなかったでしょう。太宰の「二十世紀旗手」が発表された翌年、これを読んでその事実を知った寺内は、すぐに山岸のもとに駆けつけて、この事実を彼に訴えたといいます。
このとき、寺内は顔面蒼白だったといい、「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた。」と叫びながら山岸に訴えたと伝えられています。
太宰とはかねてより懇意にしていた山岸は、すぐさまこのことを太宰に伝えたようですが、これを聞いた太宰は狼狽し、この一文を山岸の作であると錯覚した、とい言い訳をしたそうです。が、他方では「わるいことをしたな」と言ったといいます。実は確信犯だったでしょう。
このことがきっかけになったのかどうかはわかりませんが、その後、寺内は文学に挫折し、憂鬱症に陥り、家出を繰り返し、やがて失踪してしまったといいます。敗戦後まもなく、品川駅で目撃されたのが最後の姿だったといいます。
まさしく、「生れてすみません」を地道に歩んだ人だったようですが、その原因を作ったのがかの有名な大作家である太宰治であったとすると、罪なことをしたものです。
この寺内の作品を剽窃した太宰もまた、「生まれてスイマセン派」でした。自殺マニアであり、「人間失格」「桜桃」などを書きあげたのち、1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水自殺しました。享年38。
2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により桜桃忌と名付けられました。
1998年(平成10年)に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、妻の美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明しています。この遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判明しました。
「人間失格」の連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、本作は「遺書」のような小説と考えられています。この作品の後にも「グッド・バイ」という遺作がありますが、これは未完のままであり、完結作としては「人間失格」が最後です。
この作品は、体裁上は私小説形式のフィクションでありつつも、主人公の語る過去には太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分があり、自伝的な小説と考えられています。しかし、太宰が自らその生を絶ってしまったため、ほんとうに彼の生涯がそうしたものであったのかどうかは不明です。
太宰は、上述の同人誌、「青い花」の創刊を通じて、詩人の中原中也とも親交がありました。中原もこの雑誌に投稿していたようです。
この中原中也という人は、残っている写真などをみると、長州人にありがちな、色白できゃしゃな感じでなかなかな優男です。が、実は性格はかなり荒い人だったようで、ふだんからの言動もきつく、酒席などでも、同席者に凄絶な搦みをかませることも多かったそうです。
一方の太宰治は、これもその当時の写真からもうかがわれるようにかなりナイーブなタイプだったようで、あるとき、中原とある酒宴で同席したとき、中原から例によってドスを利かせた声で、「お前はいったい何の花が好きなんだい」と訊ねられました。
これに対し、気弱な太宰は、泣き出しそうな声で「モ、モモノハナです」と答えるのがやっとだったといい、中原は「チエッ、だからおめえはダメなんだ!」とこき下ろしたといいます。
このほかにも中原は酒癖の悪さで知られており、大岡昇平を殴ったこともあるほか、文芸評論家の中村光夫をビール瓶で殴った上に「お前を殺すぞ」と暴言を吐いたと言われています。
写真などから太宰は骨太な人物で、逆に中原はやさおとこで気が弱そうに思っていた人も多いと思いますが、逆だったようです。太宰の側ではそうした粗野な中原の人間性を嫌っており、親友山岸外史に対しても「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」と、いつも中原の悪口を言っていたといいます。
しかし、一方では太宰は中原の才能を高く評価していたようで、後に中原没後、檀一雄に対して「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と言ったといいます。
立原というのは、24歳で急逝した詩人の立原道造のことで、その彼の死の二年前に亡くなった中原中也を記念した中原中也賞を受賞しています。その中原の才能を買っていた太宰にこき下ろされていたことを立原が知っていたらどう思ったでしょう。
かくして自身もその没後に天才と言われた太宰治もこの世からいなくなりました。文学作品で、登場人物が相手なしに一人で独立した台詞を吐くことを、「モノローグ」といいますが、これはつまりは一人芝居のことです。
その生涯においてこのモノローグを演じ続けた太宰が最後に選んだエピローグは自らの命を絶つという筋書きでしたが、果たして自分で仕上げたこの芝居の出来具合をあの世でどう思っていることでしょう。
さて、「いざ生きめやも」のエピグラフで有名になった堀辰夫のほうはどうでしょう。彼は、自殺ではありませんでしたが、これもまた、早くして亡くなりました。
40歳過ぎの戦争末期ころからは結核の症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできず、軽井沢町の追分で闘病生活を送り、1953年(昭和28年)5月28日)48歳の若さで死去しています。
それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としての「ロマン小説」という文学形式を確立しようとした作家と評されます。
フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、これを日本の古典や王朝女流文学と融合させることによって独自の文学世界を創造しました。
肺結核を病み、軽井沢などに療養することも度々ありましたが、その悲哀をネタにした作品を多く残したところにも特徴があり、ご存知軽井沢と言えば、今上天皇と美智子妃が恋を育んだ地であり、誰もが憧れるロマンの香りあふれる地でもあります。
その主な活動は、戦前の1933年(昭和8年)、季刊雑誌「四季」を創刊したことに始まります。この雑誌は結局、二冊で終刊の憂き目に遭いましたが、このころに傾倒していた恋人、片山総子との別れや心身疲労を癒すため、6月初めから滞在するようになった「つるや旅館」が、そもそもの軽井沢との出会いのきっかけです。
ここには9月まで滞在し、作品執筆を行いましたが、その村で7月に、同じく肺病を患って療養に来ていた、東京は世田谷・成城在住の一人の油絵を描く少女と出会います。
この少女こそが、「矢野綾子」であり、やがてこの若干19歳の少女と恋仲になった堀辰夫は、彼女を題材として、この時期の軽井沢での体験を書いた中編小説「美しい村」の執筆に入りました。
この「美しい村」の「夏」の章では、矢野綾子との出会いが描かれており、ここではそれまでの様々な人との別れの悲劇を乗り切ってきた彼の人生そのものが描かれ、この作品はそれ以前の自伝的作品、「聖家族」以後の堀彼の人生の要約として読むことができるといいます。
掘はその後も彼女と交際を続け、6年後の1934年(昭和9年)、24歳になった矢野綾子と婚約にこぎつけます。一方の堀は、6つ年上の30歳でした。
このころの堀は、フランスのカトリック作家フランソワ・モーリアックの作品に触れて、強い影響を受けています。
モーリアックは、古い伝統や因習の殻に閉じこめられた地方的な家庭生活を舞台とし、そこでの個人と家庭、信仰と肉の葛藤、エゴイズムと宗教意識の戦い、といったかなり重い題材を好みました。
また、病的なほどに我執や肉欲にとらわれる人間の内面を執拗に分析しました。敬虔なクリスチャンであり、神なき人間の悲惨を描くことが彼の生涯のテーマでした。
その表現方法は、独自の「内的独白」という手法であり、文体は古典的で端正、精緻で、構成もきわめて巧妙でした。地元フランスでは、深刻な道徳問題を取り扱う「心理小説家」として名を馳せましたが、こうした繊細で重厚な作風は、堀辰夫以外にも遠藤周作や三島由紀夫の作風に大きな影響を与えたといいます。
さて、矢野綾子と1934年(昭和9年)婚約した堀は、この年の10月に、長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分)に移り住み、ここの「油屋旅館」に滞在するようになりました。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでおり、ここで「物語の女」という短編を書き上げますが、ここで結核が悪化し、スランプに入ってしまいます。
ちょうどこのころ相方の矢野綾子も肺を病むようになったため、翌年1935年(昭和10年)7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院します。しかし、綾子はこの年12月6日に死去。享年25でした。結婚というゴールに至ることなく、死によってその仲が引き裂かれるというのは、まるで悲恋ドラマの世界そのものです。
堀自身も悲嘆の極みだったでしょうが、もともと力量のある作家であった彼はその悲しみを文章へと転じ、これはのちに彼の代表作として知られる「風立ちぬ」として知られるようになりました。1936年(昭和11年)から執筆を始め、終章「死のかげの谷」を書き終えたのは1937年(昭和12年)のことでした。
実は、この「風立ちぬ」の有名なエピグラフ、「いざ生きめやも」もまた、堀辰夫のオリジナルではありません。ただし、原文は日本語ではなく、フランス語であり、書いた人はフランス人作家のポール・ヴァレリーといいます。
アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリーは、フランスの作家ですが、詩人としても有名な人です。その前半生は不遇でしたが、ノーベル文学賞受賞者であり、「狭き門」などで有名なアンドレ・ジッドなどの勧めにより創作していた「若きパルク」という作品で一躍名声を得ました。
ちなみにこの「狭き門」は、新約聖書の「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。」というイエス・キリストの言葉に由来し、これはすなわち困難であっても多数派に迎合せず、救いに至る生き方の喩えです。
この作品では、主人公のジェロームが2歳年上の従姉であるアリサに恋心を抱き、彼女もまた彼を愛します。周囲の人々も両者が結ばれることに好意的でしたが、にもかかわらず、彼女は彼との結婚をためらいます。神の国に憧れを持つ彼女は、最終的に地上での幸福を放棄し、ジェロームとの結婚をあきらめ、ついには命を落とす、というストーリーです。
戦後翻訳されたこの物語は日本ではかなり反響を呼び、話題作となりました。しかし、「若きパルク」などに代表されるヴァレリーの作品はあまり読まれていません。が、フランス国内では、アナトール・フランスの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出され、数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われたほどの人です。
1945年に73歳で亡くなったときも、ドゴールの命により戦後フランス第一号の国葬をもって遇せられています。しかし、生前何度もノーベル文学賞候補としてノミネートされましたが、結局受賞は実現していません。
日本では、作家としてよりも詩人として知られているようですが、その詩の内容というよりも、アルベルト・アインシュタインの相対性理論をいちはやく理解した詩人として知られるようになったようです。
堀辰夫は、東京帝国大学文学部国文科卒の英才で、フランス語にも堪能だったようですから、こうしたものもスラスラ読めたでしょう。当時のヨーロッパの先端的な文学に多数触れたことが、堀の作品を深めていくのに役立ちましたが、当然このヴァレリーの詩も読んでいました。
そして、その中に、「海辺の墓地」という作品があり、「いざ生きめやも」は、ここから持ってきたようです。フランス語の本文からの翻訳であるため「引用」です。従って太宰と違って、剽窃というのは言い過ぎでしょう。
原文は、“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”」で、これは直訳では(風が起きた、生きてみなければならない)になるようです。これを「風立ちぬ いざ生きめやも」と格調高く訳した堀辰夫の才能はさすがと言わざるを得ません。
が、大作家とされる堀もまた、自分だけで名作と言われるこのエピグラフを生み出すことはできなかったというのは事実ではあるわけです。
しかし、彼が書いた「風立ちぬ」は、不朽の名作とも呼ばれ、けっしてその名を損なうようなものではありません。「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章から成る小説で、美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがて訪れる愛する者の死を覚悟し見つめながら共に生きる物語です。
2人の限られた「生」が強く意識されており、一方では「死者の目」を通じて、より一層美しく映える景色が描かれています。死という誰しもが迎える終末に向かいつつ、時間を超越した二人の幸福感が確立してゆく過程を描いた作品で、精緻に男女の内面分析を行うその作風に、傾倒していたモーリアックその人の影響がみられる、という人もいるようです。
この作品が書かれた1936年(昭和11年)のころの堀辰夫は、富士見高原療養所から戻り、東京、本所区向島の小梅町(現:墨田区向島一丁目)の自宅に帰っていたようで、この家は1923年(大正13年)の関東大震災で焼失した自宅跡に新築したものです。
八ヶ岳での療養の結果、このころの堀の体調は、比較的良好だったようで、次から次へと作品を発表しており、これらは雑誌「改造」に掲載された「風立ちぬ」のほか、「文藝春秋」の「冬」、雑誌「新女苑」の「婚約」(のち「春」)などです。
しかし、その翌年の1937年(昭和12年)の春、それまでの「張りつめていた気持ち」が緩み、また、「何かいひしれぬ空虚」に襲われた堀は、突如訪れたこのスランプから脱するために、古典に目を向けるようになります。
そして、少年時代に愛読していた「更級日記」や「伊勢物語」を取り出し、欧米文学でもリルケらが取り組んでいた「王朝文学」へ傾倒していきます。そしてこの年の6月、これらの古典文学の背景にある京都へ初めて旅行。11月には、王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」を追分の油屋旅館で書き上げました。
ところが、彼が愛し、長年逗留を続けていたこの油屋旅館は火事で焼けてしまい、このためこの年の年末に堀は、軽井沢にあった川端康成の別荘を借りてここで執筆を続けました。「風立ちぬ」の終章「死のかげの谷」もここで書き上げています。
翌1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」にこの終章「死のかげの谷」が掲載されたのち、それまでの各章をまとめた単行本「風立ちぬ」が初めて野田書房より刊行されました。現在でも、新潮、岩波文庫などから重版され続けており、翻訳版もアメリカ(英題:The Wind Has Risen)、フランス(仏題:Le vent se lève)、中国(華題:風吹了)などで出版されています。
掘が愛した、信濃追分というところは、しなの鉄道の軽井沢駅よりも、ひとつ長野寄りにあります。旧中山道の宿場町だった往時の趣を色濃く残すエリアであり、江戸時代の高札場などが復元されており、周辺には「旧本陣跡」「脇本陣油屋旅館」「枡形の茶屋」といった見どころが点在するところです。
油屋が焼け落ちる前、堀はここで運命的な出会いをしています。巡り合ったのはのちに夫人となる加藤多恵であり、これは油屋が焼け落ちる前の1937年(昭和12年)の初夏、6月のころのことだったようです。
この加藤多恵という人は、静岡県出身です。父は日本郵船の駐在員で、その関係から育ったのは香港、広東でした。日本女子大学校を卒業後、弟の俊彦とともに静養のため軽井沢に来ていたようですが、ここでかねてから父と親交のあった山下汽船の創業者、山下亀三郎の弟から、堀辰雄を紹介されました。
矢野綾子が亡くなってから2年。堀もまだその傷が癒えないころだったでしょうが、すぐに二人は恋に落ちたようです。ところが、時悪く、追分の油屋旅館が焼け落ちたため、堀は東京向島の自宅へ帰ることになり、さらに悪いことにこのころから体調を崩し、翌年の1938年(昭和13年)2月にはこの向島の自宅で喀血しています。
すぐさま鎌倉にある額田病院という病院に入院しましたが、ここでの療養は功を奏し、体調も少し持ち直しました。そして、前年追分で知り合った加藤多恵と、室生犀星夫妻の媒酌により4月にゴールにこぎつけました。
彼女と堀との結婚を勧めたのは、矢野綾子の妹の良子とその父だったといいます。最後まで家族を愛してくれた情の深い辰雄の行く先をこの二人は案じていたのでしょう。辰雄は1904年生まれですから34歳。対する多恵は、11歳も離れており23歳ですから、少し年齢差があります。
しかし、もともと文学的な才能があった多恵は掘の良き理解者であり、その差を埋めるには十分でした。掘は静養も兼ねて軽井沢に別荘を借り、ここを新居として新生活をスタートさせました。が、引越し好きな彼は、軽井沢だけにとどまらず、その後も逗子や鎌倉などを転々としています。
その後、しばらくは幸せな生活は続き、この間、体調もよかったようで、1944年(昭和19年)には「樹下」を発表しています。しかし、戦時下であり、激化する空襲などを避けるため、この年の下旬に追分に疎開先の家を探しに行きました。ところが帰京後に再度喀血し、絶対安静の状態が続きました。
ようやく状態が安定した9月になって、追分に借りた家へ移り、終戦の年の1945年(昭和20年)にはここで療養に専念しつつ、新たな小説の創作意欲を持てるまでに回復しました。そして翌1946年(昭和21年)3月に「雪の上の足跡」を発表。
しかし、それ以降は、病臥生活に入り、1947年(昭和22年)2月に一時重篤状態となります。その後一進一退を繰り返す状態が続きましたが、そんな中、1950年(昭和25年)、自選の「堀辰雄作品集」が第4回毎日出版文化賞を受賞。その生涯に最後の花を添えました。
1951年(昭和26年)には追分に建設していた新居が完成し、7月、再び追分に戻り、ここで療養に入ります。しかし、その二年後の1953年(昭和28年)5月には再び病状が悪化、かねてより建築を命じていた書庫の完成を見ないまま、28日に死去しました。48歳没。多恵夫人と歩んだ闘病生活は14年にも及びました。
葬儀は、港区芝の増上寺で執り行われ、葬儀委員長は川端康成でした。翌々年の1955年(昭和30年)に小金井の多磨霊園に墓が建てられ、現在も堀辰夫はここに眠っています。
その後、多恵夫人は60年近くを生き、2010年(平成22年)日に96歳で没しました。夫のちょうど倍の人生を生きたことになります。この間、「堀多恵子」の名前で、堀辰雄に関する随筆を数多く書いています。
堀辰夫のその生涯はけっして長いものではありませんでした。が、その生涯は今回対比して描いてきた太宰のような「一人芝居」ではなく、病気にも苦しみ、次々と身近な人を亡くしたにもかかわらず慈愛に満ちたものであり、多恵夫人に看取られながらのその最後もまた、幸福なかんじがします。
多恵夫人のその後の一生をみると、その夫の倍以上も生きた時間の中を彼への思い出だけで生きてきたようなところがあり、一人身ではあったものの、彼の幻影との生活は幸せに満ちたものだったのでしょう。
その著書名をみると、「葉鶏頭 辰雄のいる随筆、1970」「片蔭の道、1976」「返事の来ない手紙、1979」「来し方の記・辰雄の思い出、1985」「山麓の四季、1986」「堀辰雄の周辺、1996」「野ばらの匂う散歩みち、2003」「雑木林のなかで 随筆集、2010」といった具合です。
夫への愛情がうかがわれるようなタイトルばかりであり、堀辰夫は没しましたが、その分身であった多恵夫人の残したこれら一連の作品こそが、堀作品のエピローグと考えることもできます。
さて、我が家のタエ夫人はどうでしょう。私が死してのち、私のエピローグを書いてくれるでしょうか。それは、この山の神に対する日々の感謝の念次第、ということになるかもしれません。