ミフネ

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台風一過、今日は良いお天気になりそうです。

しかし、この9月26日という日は、台風襲来の特異日と言われており、とくに1950年代に3つもの大きな台風がやってきて大きな被害を出しました。

最初のものは、1954年の洞爺丸台風(台風15号)であり、これは北海道に来襲し、この台風によって青函連絡船「洞爺丸」が転覆して死者行方不明1,155人を出すという大惨劇がおきました。また、この台風による強風は北海道岩内町で大火を引き起こし、この火事では死者が33名も出ています。

次いで起こったのが、1958年の狩野川台風(台風22号)でした。静岡県伊豆半島に最接近し、狩野川が氾濫したことにより、死者・行方不明1,269名、住家の全・半壊・流出16,743戸、床上・床下浸水521,715戸という大きな被害を出しました。

またこの翌年の1959年9月26日には引き続き伊勢湾台風(台風15号)が潮岬に上陸し、東海地方などを襲い、死者・行方不明者5,000人以上という史上最大の被害を及ぼした台風として長く記憶されることとなりました。

このうちの狩野川台風の被害については、私が現在住んでいる町で起こった災害であり、まるで他人事とは思えません。この台風は、東京湾のすぐ西側を通っており、このため風については、比較的軽微でしたが、日本付近の上空に寒気が張り出していたため典型的な雨台風となって伊豆半島と関東地方南部に大規模な水害を引き起こしました。

伊豆半島での雨は25日から既に降り始めていましたが、26日には豪雨となり、台風の中心が伊豆半島に最も接近した26日20時から23時頃が最も激しく、湯ヶ島では21時からの1時間雨量が120ミリメートルにも達し、総雨量は753ミリメートルに及びました。

この大雨のために、半島の中央部を流れる狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生し、天城山系一帯では約1,200箇所の山腹、渓岸崩壊が発生。旧中伊豆町の筏場地区においては激しい水流によって山が2つに割れたほどでした。同時に、所によっては深さ12メートルにもなる洪水が起こり、これが狩野川を流れ下りました。

この猛烈な洪水により、川の屈曲部の堤防は破壊されて広範囲の浸水が生じ、またところどころに架けられていた橋梁には大量の流木が堆積し、巨大な湖を作った後に「ダム崩壊現象」を起こしてさらに大規模な洪水流となって下流を襲いました。

旧修善寺町では町の中央にある修善寺橋が同様の状態になり、22時頃に崩壊し鉄砲水となって多くの避難者が収容されていた修善寺中学校が避難者もろとも流失し、とくに大きな被害を出しました。さらに下流の大仁橋の護岸を削り、同町熊坂地区を濁流に飲み込みさらに多数の死者を出しました。

旧修善寺町の死者行方不明は460人以上。その他、旧大仁町・旧中伊豆町など狩野川流域で多くの犠牲者が出ましたが、狩野川流域全体では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達し、静岡県全体の死者行方不明者は1046人のうちのそのほとんどが伊豆半島の水害によるものでした。

一方、この狩野川台風の水害は、東京都を中心とする関東地方南部でも大きく、東京では死者行方不明は46人にとどまったものの、浸水家屋は33万戸近くで、静岡県全体の20倍にも達しました。これも記録的な豪雨が原因で、東京の26日の日雨量は392.5ミリメートルと言う、気象庁開設以来の値でした。

浸水被害はゼロメートル地帯の広がる江東区・墨田区・葛飾区などのいわゆる「下町」だけでなく、台地上にあって水害は起こりにくいと思われた世田谷区・杉並区・中野区などの山の手でも大きく、このためこれは「山の手水害」と呼ばれました。

中小河川や水田など、以前は降雨の排水口や湛水池の役割を果たしていた土地が埋められて住宅地に変わり、行き場のなくなった雨水があふれたためで、この「山の手水害」はその後1960年代になっても東京の深刻な問題として続きました。

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この狩野川台風による大雨被害の大きかった世田谷区内では、入間川の洪水で逃げ遅れた住民18人が、なぜか「モーターボート」で救出されるという珍事がありました。

救出したのは誰あろう、この当時38歳と油の乗った人気俳優、「三船敏郎」でした。この洪水ではまた、三船の自宅のあった成城近隣も仙川の氾濫によって水没していましたが、三船はちょうど自宅に所持していたモーターボートを出し、これで成城警察署の署員と共に住民たちを救出したのでした。

後日、消防庁が感謝状の授与式を大々的に行おうとしましたが、三船は謙虚にこれを断りマスコミへの公表も差し止めたといい、このことはいまも美談として語り継がれています。

三船は、車を趣味としており、1952年型MG-TDを45年間愛用していました。その他、米映画出演の際買い求めた1962年型ロールスロイス・シルバークラウドなど多数のクラシックカーなどを所有していましたが、また、船好きでもあり、複数のモーターボートを所有していました。ジャパン・モーターボートクラブの会長に就任していたこともあります。

海外旅行へ行った場合などでもボート遊びが好きで、あるときフランスでボートを操船していたときに近くを客船が通り、ボートに乗っているのが三船だと分かると、客船の乗客が全員デッキに集まって来て「ミフネ!ミフネ!」のシュプレヒコールが起き、乗客が手を振るのに対し、三船も手を力いっぱい振って答えたというエピソードが残っています。

また、アメリカでも三船がボートで海に出ていたところ隣に豪華客船が通り、そしてこの客船の乗客の1人が三船敏郎を見つけ、船中大騒ぎで 「ミフネー! ミフネー!」と乗客たちが手を振ってきたといいます。

このように世界的にも有名な大俳優であり、国内でも右に出る者のないほどの大役者でしたが、私生活は至極質素だったといい、自社の事務所の掃除も自ら進んですることも多く、訪問者が三船本人と気付かなかったという話も残っているほどです。

ある時、ロケ隊において皆に混じって荷物の整理を手伝う三船に、淀川長治が「あんたはそういう事しちゃ駄目よ、スターなんだから」と言われると、三船は「だって俺、手空いてるもん」と言っただけで、せっせと作業を続けたというエピソードも残っています。

また、料理が好きで、一ヶ月にも及ぶ宿泊がざらだった御殿場でのロケでは、三船が肉や野菜を買ってきて自ら包丁を振るい、大鍋で豚汁を作ってロケ仲間に振舞うのが恒例で、弁当は握り飯しか出なかったこの当時の現場では大好評だったそうです。

この三船の料理好きは、軍隊で炊事をやっていたことに由来しており、このほかこれも軍隊で身に着けた技なのか、毛布からズボンを作るなど繕い物が上手かったといい、さらには字を書いても実に達筆であるなど非常に器用な人だったようです。

三船敏郎といえば、「七人の侍」や「用心棒」といったサムライ映画が真っ先に思い浮かびますが、役者になる前は「軍人」であったことは広く知られており、内外の多くの戦争映画にも出演し、とくに「山本五十六」を数多く演じたことでも知られています。

邦画・ハリウッド映画を含め、山本五十六を演じた回数では現在でも三船がトップだといい、これはその面構えがいかにも「日本武士」であることにほかならず、その「顔」が形成されるにあたっては、役者になる前の軍隊生活が大きな影響を与えたことは想像に難くありません。

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その三船敏郎は、1920年(大正9年)、三船徳造と三船センの長男として、当時日本の占領下にあった中華民国・青島市に生まれました。

父・徳造は、秋田県鳥海町の16代続く名家・三船家の次男であり、貿易商であり、写真業も営んでいました。徳造は、元は日本で医者を目指していたようですが、写真に夢中になり、あちらこちら旅行し、最後に中国にたどりついて、そこでカメラ店を開いたといいます。このため、幼い三船にも子供のころからその写真術の手ほどきを受けていたようです。

1925年(大正14年)、一家は大連に移り住み、父・徳造は「スター写真館」を開業。1934年(昭和9年)、大連中学校に入学。三船は若い頃からワルだったと言いますが、1938年(昭和13年)、大連中学を卒業。1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就きましたが、これが父母との永遠の別れになりました。

徴兵に際し死を覚悟したといいます。が、写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属され、そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となりました。この偵察部隊では常にカメラを手放さなかったこともあり、その後後年まで、カメラに対するこだわりが深かったといいます。

ところが、入隊当初のしごきは凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだったと、三船はのちにテレビのインタビューで語っています。

しかし篤実な性格だったため、その後は重用されるようになり、あるとき一人の上官から家族の写真を撮ってほしいと呼びだされ、その出来が良かったので教育隊に残るように言われます。同じ時期に入隊した仲間はみな南方の戦地に赴いた一方、この後方部隊にいたことが幸いし、三船は中国戦線を生き延びました。

その後、1941年(昭和16年)内地に移動となり、滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、後には第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をするようになりました。このころ同じ部隊に部下としており、のちに映画プロデューサーとなる鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係を結びました。

鷺巣は、このとき三船から写真技術の指導を受けていますが、戦後も三船の写真技術を高く評価しており、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいたといい、三船の映像に関しての技術はかなりのものであったことが伺われます。

内務班で古参上等兵だった三船は兵隊仲間の面倒見がよく、鷺巣ら初年兵をよくかばってくれたといい、こわもての多い炊事班にも顔が利き、ビールや缶詰をよく調達してきてくれたそうで、酔うと必ずバートン・クレーンの「酒が飲みたい」を唄うのが通例で、初年兵全員にこれを合唱させていたそうです。

また、シュークリームを作ったこともあったといい、この当時9コースの中国料理を身につけたとも言われており、後年、三船はその見事な腕前を身近な人々に披露しています。

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ちなみに、バートン・クレーンというのは、昭和初期に活躍したアメリカ出身の歌手で、プリンストン大学を卒業後、経済関係のジャーナリストを志して新聞界に入り、1925年(大正15年)秋、ジャパン・アドバタイザー紙の記者兼ニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナルの東京特派員として来日していた人物です。

このとき、宴席の余興で故国の歌をカタコトの日本語で唄っていたことをコロムビアレコードのL・A・ホワイト社長が知りました。コロムビア社は、1927年(昭和2年)、蓄音器輸入販売会社の日本蓄音器商会を買収したアメリカの外資系会社で、ライバルのビクターともども、国産レコードの販売を進めていました。

レコードを売るため、アメリカのジャズ音楽を日本に普及させるなどの販売促進活動を行っていましたが、そんな状況の中、販売体制の強化を目指して来日していたホワイト社長の目にクレーンがとまり、歌手としての才能を見出しスカウトしたのでした。

こうして1931年(昭和6年)に発売されたのが「酒が飲みたい」で、この曲は大ヒットし、詩人のサトウ・ハチローが「この歌は歌そのものが泥酔している」「俺もこんな酔払った歌がつくりたい」と激賞するほどでした。

一躍人気歌手となったクレーンは、その後も「家にかえりたい」「おいおいのぶ子さん」「雪ちゃんは魔物だ」「ニッポン娘さん」などの30曲近くのコミックソングを中心とするレコードを出し人気を博しましたが、そのほとんどがアメリカの俗謡に訳詞を付けたものでした。

その後東京特派員としての任期を終えたクレーンは、帰国してニューヨーク・タイムズ紙記者として招かれ経済欄を担当、その記事は全米でもトップクラスの評価を得ていました。その一方で、1937年(昭和12年)ベニー・グッドマン楽団のコンサートの日本向けの国際放送において解説をするなど、日本とのつながりも続けていました。

日米開戦後は日本通ということで重用され、1945年(昭和20年)戦略局極東班に所属し、中国の昆明に渡り諜報関係の任務についています。終戦後は特派員として再来日。日本の友人たちと旧交を温める一方では「コレスポンデンツ・クラブ」(現日本外国特派員協会)を立ち上げ初代会長に就任、在日の海外特派員のまとめ役にもなりました。

1951年(昭和26年)に朝鮮戦争が勃発すると、取材のため独断で数名の仲間と陥落寸前のソウルに行くが戦闘に巻き込まれ頭を負傷しますが、この独行がもとで支局長と衝突し、台湾に転勤、直後帰国。その後はコラムニストとして大学の教壇に立ったり著述活動に専念したりしていましたが、晩年は病魔に倒れ1963年に62歳で亡くなりました。

2006年秋、レコードコレクターの尽力でCD「バートン・クレーン作品集」が出版されたこともあり、近年再評価の動きが出ているようです。

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さて、三船敏郎のことです。第七中隊に入った三船ですが、この前年の1940年(昭和15年)のあるとき、先輩兵である大山年治から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われました。

実は、この大山年治は東宝撮影所撮影部所属のカメラマンであり、三船の写真技術の高さを見込んで、彼に目を付けたのでした。しかし、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、結局、以後敗戦まで彼は6年間もの間兵役に就くことになりました。

このころにはかなりの古参兵になっていたようですが、少年期からの「ワル」の癖は抜けきらず、このため上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のままこの6年間を過ごしました。

しかし、単なるワルではなく、「心意気のある」ワルだったようで、他の兵隊がいじめられているのを見た三船は、階級章を外して、「同じ日本人なのに何でいじめるんだ。俺は俺の階級を忘れる。お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろ。人間対人間で行こう!」と言ってタンカを切り、そうすると、たいてい相手は意気消沈してしまったといいます。

その後、1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事しました。

この写真班では、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、少年兵の教育係も任され、自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなりました。敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐しており、明日出陣する少年兵にスキヤキを作って食べさせるたびに涙を流していたといいます。

また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたといい、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、後に海外のマスコミの取材に対して語っています。

1945年(昭和20年)、特攻隊基地で終戦を迎えた三船は、父の生家である秋田県由利郡鳥海町小川の三船家に世話になりますが、すぐに毛布1枚と米をもらって上京しました。この東京で三船は約束を頼りに復員服のまま大山年治を訪ね、撮影助手採用を願い出ました。

ところが、何かの手違いで三船の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、三船はその面接を受ける羽目になります。このころ東宝では本土復員に伴って復帰社員が増加したことから縁故採用が難しくなっていましたが、大山は三船に「とりあえず受けてみろ、貴様の面なら合格するはずだ、入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな」と助言します。

こうして、不本意ながら俳優志望として面接を受けることになった三船ですが、いざ面接が始まり、審査員に「笑ってみてください」と言われた際にも生真面目な彼はその意味がわからず、困っている自分をからかって馬鹿にしているのだと思ったといいます。

三船はこの指示に対して、人を食ったような態度で「面白くもないのに笑えません」と答えたといい、その場にいた1人の映画監督が逆にこれを喜び、「こんなに率直に感情を表す人間ならば、映画の役も一生懸命演ずるだろう」と言いました。

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しかし、他の委員の多くは「野蛮な奴だ」と一蹴したといい、結局、性格に穏便さを欠くという理由により多数決で不合格、という結論が出ました。ところが、この会場には女優の高峰秀子がたまたま居合わせていました。

このとき彼女は三船のその存在感のある様子に胸騒ぎを感じたといい、彼女はちょうど撮影中で審査に参加できなかった黒澤明に、彼のことを知らせました。高峰の呼びかけで駆けつけた黒澤もまた三船を見て、ただならぬ気配を感じたといい、このとき審査委員長だった山本嘉次郎監督も同じだったといいます。

この当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と労働組合代表の半数ずつで構成されていましたが、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となりました。

粗野に見える中の大器の可能性を買われ、補欠ではありましたが、こうして1947年(昭和22年)、正式に三船は東宝社員として採用となりました。

ところが、東宝に入った三船は、さらさら役者になどなるつもりはありませんでした。しかし、「撮影部の空きを待っている」と渋る三船を映画監督の谷口千吉が口説き落とし、結局、映画「銀嶺の果て」というアクション映画で役者としてデビューすることになりました。ちなみに、この映画での監督は谷口でしたが、脚本編集は黒澤明でした。

この映画は、軍隊帰りの三船を含む3人が銀行強盗を働いて北アルプスに逃げ込み、これを捜索隊が追いかける中、一行は雪山で遭難してしまい、運良く助かった三船ともう一人が逃亡活劇を続ける、というストーリーです。この生き残ったもう一人は志村喬であり、一方の三船は、飛行服を着て登場し、その荒々しい所作がたちまち話題となりました。

この映画の制作にあたって監督の谷口は野生的な男を探していたそうですが、たまたま同じ電車の乗り合わせた三船をみて、これだ!とひらめいたそうで、早速誘うことを決めたところ、あとで東宝の社員だったことを知り、驚いたといいます。

しかし、三船は、この申し出に対し、あくまで「俳優にはならない、男のくせに面で飯を食うのは好きではない」と断ってしまいます。この後に及んでもあくまで撮影部を希望していたわけですが、渋る三船に対し、谷口は、このころ三船がまだ戦時中の航空隊の制服を着ていることに気付きます。

既にボロボロになっており、これに目を付けた谷口は、出演の交換条件に背広を作ってプレゼントすることなど提示したといいます。こうして映画デビューを果たすことになった三船ですが、この映画において脚本を担当していた黒澤は、かつての審査会で自分が感じていた彼のたぐいまれな才能を確信します。

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こうして彼のデビュー3作目となる、1948年(昭和23年)の「醉いどれ天使」において黒澤映画としては初出演することになりました。この映画で三船は主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザを演じ、この作品は大好評を得て一躍スターとなります。

この映画で三船を初めて起用した黒澤明はのちに、「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は」と当時を振り返り語っています。

こうして三船は、黒澤明とともに、敗戦で打ちひしがれていた日本人に勇気を与える映画の数々に登場していきました。いずれもがヒットし、国際的にもヴェネツィア国際映画祭 男優賞を2度受賞し、やがては「世界のミフネ」と呼ばれるようになっていきます。

海外映画としては、メキシコ映画「価値ある男」、米映画「グラン・プリ」、「太平洋の地獄」、米ドラマ「将軍 SHOGUN」、フランス映画「レッド・サン」などが有名であり、これらの映画を通じ日本が誇る国際スターのみならず、「国際的映画人」として世界中の映画関係者に影響を与え、尊敬されるようになっていきました。

英語圏では、TheWolfやTheShogunなどと呼ばれ、国内における出演料収入も歴代の日本のスターの中で別格であり、2000年に発表された「キネマ旬報」の「20世紀の映画スター・日本編」で男優部門の1位に選ばれたこともあります。

数々の栄典及び称号を受けており、それらは、芸術選奨・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・川喜多賞・芸術文化勲章などであり、海外においてもロサンゼルス市名誉市民・カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位を受けているほか、ブルーリボン賞に至っては歴代最多となる6度の入賞を果たしています。

1986年(昭和61年)には紫綬褒章、1993年(平成5年)には勲三等瑞宝章も受章。晩年は山田洋次監督「男はつらいよ 知床慕情」(1987年)の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の「竹取物語」(1987年)の竹の造翁、熊井啓監督の「千利休 本覺坊遺文」(1989年)の千利休、「深い河」(1995年)の塚田など、渋い演技を見せました。

しかし、このころより体調がすぐれないことが多くなり、晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていました。1997年(平成9年)、12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。遺作は「深い河」でした。

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三船の死の当時、黒澤は足腰を痛めており、本来なら葬儀委員長を引き受けるべきところをこれを固辞しており、弔電だけを贈っています。しかし、マスコミからのインタビューに答え「こんなつらい思いをしたことはない」と述べ、過去の自分の作品は「どれも彼がいなかったらできなかった」とも述べています。

またこの弔電には、「本当に素晴らしい役者だった、本当に君以上の俳優はいないと言いたかった。」と書かれており、「色々な思い出がいっぱいで気持ちがまだまとまらない。三船君、ありがとう、お疲れ様という気持ちです。」とも書かれていました。

埋葬は、神奈川県川崎市の春秋苑にある先祖代々の墓に行われ、三船は今もここに眠っています。

ちなみに、黒澤明は、その後「雨あがる」の脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入りましたが、三船が亡くなった翌年の、1998年(平成10年)9月6日、脳卒中により死去。88歳でした。

この黒澤もまた世界的に有名であり、その死も世界の映画ファンを悲しませましたが、三船が逝去した際の国内外の反響もかなり大きいものでした。とくに海外においては、フランス共和国とイタリア共和国の国営放送のテレビニュース番組が「トシロー・ミフネの死去」をトップニュースで報じました。

外国報道機関がトップニュースで日本の俳優の死去を報じたのは過去に例がない出来事であり、また、アメリカのタイム誌でも三船の死は大きくとりあげられました。

三船は、これもまた昭和の名優と称される、「志村喬」と数多くの映画やドラマで共演しています(51本の映画と2本のドラマ)。三船は戦争の際に徴兵されてそのまま両親と生き別れになったことから、志村夫妻を実の両親のように慕っていたといい、「七人の侍」の頃から志村は三船の親代わりだったといいます。

この親子のような関係は、黒澤が「醉いどれ天使」の頃になんとなく、志村に三船の親代わりを頼んだことに起因しているといいます。が、志村喬と三船は15歳しか違わず、親子というよりは兄弟のような関係だったのかもしれません。

三船が世帯を持ってからも、志村家とは家族ぐるみの親交は続いていましたが、三船が最期の1週間ほどの間目も口も閉ざし、反応はほぼなくなっていた中で、志村喬夫人の政子が三船を見舞った際、「三船ちゃん、しっかりしなさいよ!」と耳元で励まし頬を叩くと、三船の目から一筋の涙が流れたといいます。

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ちなみに、志村喬は、三船の死から遅れて5年後の1982年(昭和57年)、慢性肺気腫による肺性心で死去しており、享年76歳でした。

こんな話もあります。三船が息を引き取った頃、ちょうどこのとき俳優仲間で仲の良かった宝田明も11時間に及ぶ心臓のバイパス手術を受けていました。ところが、麻酔から醒めた宝田の第一声は「三船敏郎が亡くなった。東宝のみんなに連絡しろ」であったといい、このことは、その後役者仲間で語り草になったといいます。

臨死体験のパターンには個人差がいろいろあるようですが、物理的肉体を離れる、体外離脱をする、といったもののほかに、死んだ親族やその他の人物に出会う、ということがあり、宝田もまた死した三船と霊界の入口で出会ったに違いありません。

三船敏郎は、元来は俳優業を「男は顔で売るべきではない」と嫌っていたそうです。が、後には「俳優は人間の屑ではない。人間の宝石が俳優になるのだ。なぜなら神なくして人間を創造するには、人間の屑では出来ないはずだ」と俳優業を誇るようになったといいます。

撮影現場に遅刻したことが一度もなく、撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識を持っていたことでも知られており、三船のノートにはいつも細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれていたそうで、このことからも仕事への真摯な態度が伺えます。

「用心棒」の三船は本当に人を斬る気迫で殺陣をしており、殺陣の最中、三船は呼吸を止めていたといいます。何度も映画で共演したことのある司葉子はその当時を振り返り、撮影中にカットの声がかかるたびに三船が肩で息をするのをみて、三船は命がけで演技をしているんだなとわかったと語っています。

黒澤映画の撮影では、長時間たくさんのライトにさらされることがあり、ライトの熱で着物が焦げ、煙が出ることもありましたが、三船はそれでも微動だにせず待機していたといい、どの現場でも待つことを嫌がらず、苦情もまったく言わなかったそうです。

スタッフにもプレッシャーがかからないようにしていたといい、常に周囲への心遣いを忘れない繊細さも多分に持ち合わせており、“世界のミフネ”となり世界中を行き来するようになっても、特別扱いを嫌って、付き人もつけずに飛行機に乗っていたそうです。

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また、三船は時代劇に出演するにあたって三船家の家紋の入った着物を着用するなど、両親と先祖に対する思い入れは相当なものだったといい、三船プロダクションのロゴマークも三船家の家紋です。

さらには、日本人であることに強い誇りを抱いており、「私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」と語っています。「残酷な軍人やエコノミックアニマル。日本人は、そんなやつらだけじゃあないと、世界中に知らしめたいんだ」と海外作品のロケ中に、親しい人に吐露したこともあったといいます。

こんなエピソードもあります。三船がアメリカに行った際に、空港で空港税関係員に“Do you have any spirits ? ” と質問されました。実は、spiritsというのは、「蒸留酒」の意味だったのですが、これに対して三船は堂々と、”Yes! I have Yamato-Damashii ! ”と答えました。つまり、「その通り、俺は大和魂を持っている」というわけです。

単純に意味を聞き間違えただけのような気もしますが、もしかしたら英語にも堪能だった彼流のウィットを利かせた返答だったかもしれません。単に優越民族であると誇示するだけでは反感を買うことはわかっているため、これにユーモアを含ませることによってより日本人という存在を理解させようとしたのかも、とか思ったりもします。

三船の死からは、既に17年が経っていますが、成城の自宅にある彼の部屋は、現在でも生前のままの状態だといい、ここには戦争時の飛行機用のゴーグル、毛布から自分の手で縫った兵隊用のコートなどのほか、古いいろんな物が残っているそうです。

また、東京港区の六本木には「三船敏郎」の世界観を表現し、三船プロダクションが監修した「料理屋 三船」という居酒屋があるそうで、この店内は三船の写真、三船家の家紋、三船の直筆の書を複製した額縁などが飾られており、メニューには「男は黙ってサッポロビール」など三船にまつわる名が付けられています。

台風一過の今夜。私もこの昭和の大俳優にあやかり、私も寡黙に「キリンビール」を飲み干したいと思うのですが、果たして山の神は許してくださるでしょうか。

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