怒ってる

2014-6242先日のこと、知人の訃報を知らせる一通のメールが届きました。

亡くなったのは、かつて勤めていた会社で同じ部にいた人で、お互い管理職として席を並べて窓際に座って仕事をした同僚であり、メールの送り主はこの当時同じ職場にいた年下の社員でした。

年齢も近く、部下の扱いや仕事の分担などを巡って何かと相談できる間柄でしたが、一緒に仕事をしたことは一度もなく、正直言ってその力量はよくわかりません。また、彼よりも業績を伸ばしたい、といったライバル意識のようなものも私はとくに持っていませんでした。

というのも、私はその会社には中途入社で入り、このため文字通り彼は職場の先輩という立場だったためです。しかし、大学の卒業年次は同じであり、年齢も彼が二つほど上なだけで、いわば「同期」です。

が、私にすれば同僚というよりもやや上の先輩という感じも持っており、その証拠に彼はその後課長の私を飛び越して先に次長に昇進しました。

人間的にはどちらかといえば我が強いタイプであり、スッと人の懐に入り込んでくるような人間が苦手な私にすれば、親しいというよりも、どちらかといえば苦手なタイプでした。

毛嫌いをしていたというほどではありません。が、かといって積極的に友達になりたい、というタイプでもなく、ニュートラルな関係とでもいうのでしょうか、ともかくあまり交わりはありませんでした。先方はどう思っていたかわかりませんが。

そのため普段仕事での必要性があるとき以外と飲み会以外はあまり、会話もすることがありませんでした。が、何かにつけその言動には重みがあり、会議などでは彼が発言すると、ちょっと聞き入ってしまうということも多く、このため、ふだんからもついついその動向が気になる、という相手でもありました。

その彼と、その昔、こんなことがありました。

我々が所属していたそのセクションは、環境調査を扱う部門であり、環境調査にあたっては膨大な調査データを扱うことから、社内の人間だけでなく、派遣会社から何人も技術者を派遣してもらっていました。

あるとき、彼が部下としているそのうちの一人の派遣社員に対し、私が留守の彼に代わって何かの伝達事項を伝える必要がありました。細かい内容についてはよく覚えていないのですが、何か人事についてのことだったようと思います。

私はその内容を淡々と事務的に伝えたのですが、後日、彼から私にメールがあり、その中には、その伝達内容につき、相手の立場に立って伝えていなかった云々といったことが書かれていたかと思います。要はクレームのメールでした。そしてそのメールのタイトルはなんと、「怒ってる」でした。

2014-6388

彼にすれば同僚であるため、あまり遠慮はいらないだろう、それほど言葉を選ぶ必要もない、という判断もあったかと思います。しかし、狭い会社の中のことであり、細かい人間関係もあることから、ふだんはこうした極端な表現は使わないようにする、というのが会社組織というものであり、この激しいワードに私は正直びびりまくりました。

しかし、同僚という意識のほうが強く、先輩社員からの叱責、というふうには受け取りませんでした。やや激しい文面だっただけにあまりいい気持ちはしませんでしたが、あーあしょうがないなー、またしょーもないことでと怒っているよ~といった程度に受け流そうとしたかと思います。

ただ、彼が書いてきたその内容を見る限りは、「怒ってる」という理由もなるほど私の無神経さから出たことのようです。このため、何か釈然としないものがあるまま、そのメールに対してはとりあえず謝罪の文面を返したかと思います。

ところが、あとでその派遣社員へ行った伝達事項のことをよくよく考えてみると、私の立場上とくに問題となるようなことでもなく、むしろ彼の思い込み、あるいは勘違いではなかったと思える部分がありました。それについて、とくに釈明もしなかった私が悪いといえば悪いのですが、謝ってはみたものの、謝り損というかんじがそのときは残りました。

しかし、その後多々ある仕事に忙殺され、そういったこともすっかり忘れ去り、やがて月日が流れました。私はあるときから会社を離れて自立をしたいと考えるようになり、長年勤めたこの職場を後にすることになりました。

その退職の送別会のときのことであったか、あるいはその後また別の機会に彼と会ったときのことだかよく覚えていないのですが、何かのお祝いの席のようでもあり、酒が入っていたと思います。多くの人で賑わうその会において、私の周りで一瞬ですが人気が途切れました。

ちょうどそのとき、退職前にはあまり親しい会話をしたこともなかった彼が私に近づいてきました。そして、ふだんから私とはあまり話をしてこなかったにもかかわらず、私が会社にいたころのことを話したり、その後の私の身の上のことなどをやたらに質問してきました。

彼と話した内容がどんなものだったのかはほとんど覚えていないのですが、少なくともかつてのこのちょっとしたいさかいの話もとくに蒸し返しはなく、たわいない話を延々と彼と続けていたかと思います。

そしてこの日に限ってはいつになく饒舌で私の側で話し続ける彼をみるにつけ、もしかしたら、彼とのくだんのトラブルについては、実は自分に非があったことを彼自身が後日気が付いたのではないか、と思い至りました。本当は謝るつもりだったのかもしれず、私のほうは気にかけてはいなかったものの、彼はずっと気にしていたのかもしれません。

あるいは、私が退職することになったのも、彼とのささいなトラブルが原因ではなかったかと、あとで悔いたのではないかとも思われ、もしそうだとすれば、この飲み会での私の態度はあまりにもそっけなかったかな、と後で逆に悪かったな、と思ったりもしました。

2014-6293

彼は岩手県の出身だったかと思います。どちらかといえば喧嘩っぱやいほうであり、こうした東北人によくありがちな性格で、直情的というほどではないにせよ、思ったことや考えたことをすぐ口にしたがります。が、逆に細やかな神経の持ち主でもあり、部下に対してもかなり繊細な対応ができていた人のように記憶しています。

粘り強い努力家でもありました。しかし、ふだんは無口のくせに頑固なところがあり、不満が高じると酒の席でくだを巻く、といったこともあったように記憶しています。こうした東北人を私もほかに何人も知っています。

私とのトラブルも、ふだんから感じていた何等かの不満がこれを契機に爆発したのではないかとも想像されます。それが何だったのかは鈍感な私にはさっぱりわからないのですが、しかし彼にすれば暴発してはみたものの、あとあと冷静になってみれば、大人げなかったと感じ、自省したのかもしれません。

こうした内省的なところもまた東北の人の美点ではあるのですが、後さき考えずに行動してしまうところが玉に傷です。ちなみに、東北の女性は真面目でしっかり者が多く、若いときから落ち着いている人も多いといい、こうした男女の違いによってうまくバランスがとれているのが東北人、という見方もできるでしょうか。

この彼との出来事は、この会社を退職して十数年がたち、無論すっかり忘れていました。ところが、先々月ごろから、妙にこのことだけがときどき思い出され、その都度、このかつての同僚の顔が出てくるので、いったいなんだろう、と思っていました。

この会社は1000人近い社員を抱える大会社であり、彼以外にも数多くの同僚や上司、部下と様々な仕事を通じていろんな関係を持ってきました。このため、他にあまた社員がいる中で、彼とのこのことだけが、ことさら思いだされたのは不思議でした。

そうした矢先の、彼の死を告げるメールでした。その内容は、この度、長期の療養の末に亡くなった故人と縁のあった方を集め、「偲ぶ会」を開催したいので、参加して欲しい、という内容でした。が、私はこの会社を退職してからかなり経っており、本来ならそういたメールは受ける資格はありません。

しかし、かつてのこの職場は非常にアットホームな雰囲気があり、このため退職したあとも何かにつけ、飲み会などのお誘いがあり、やれ誰かの退職祝いだ、あいつが転勤する、とかいったときには何かと声をかけて頂いています。今回メールをくれたのも、同じく中途入社で会社に入り、親しくしていた同僚でした。

しかし、この「偲ぶ会」のお誘いメールには、彼の死因などについては何も触れられていなかったため、メールをくれたかつての同僚に彼の病気の内容や闘病のことなどについて問い合わせてみることにしました。

2014-6371

その結果、彼の死因は癌の中でもとくに進行が速いと言われるすい臓がんだったこと、また一昨年の暮れに癌だとわかり、その後入退院を繰り返しながらも仕事を継続していたことなどが分かりました。

すい臓がんは、膵臓から発生した悪性腫瘍であり、早期発見が非常に困難な上に進行が早く、きわめて予後が悪いことから「癌の王様」と言われているようです。日本におけるすい臓がんの死亡者数は毎年約22,000人以上であり、癌死亡順位で男性で5位,女性で6位で年々増加傾向にあります。

原因としては、喫煙、肥満・運動不足、長期に渡る糖尿病、慢性膵炎といったことが考えられるようです。が、彼はたしかタバコはやらなかったはずで、アルコールなどによって慢性の膵炎にかかっていたのかもしれません。あるいは、座業の多いこの職業においてありがちな運動不足や、あるいは仕事上のストレスが祟ったのかも、とも思ったりもします。

すい臓がんの治療方法としては、外科的切除が唯一の根治治療のようですが、発見時には進行していることが多く、手術不能の場合が多いそうです。彼も入退院を繰り返していたようで、外科手術も含め、術後の化学療法や放射線療法もためしつつ、闘病生活を送っていたのでしょう。

しかし、癌を発症したあとも、業務を続け、昨年には、私たちの住む修善寺方面の業務の管理技術者もやっていたといいます。今年も3本の業務の管理技術者を勤めていたそうですが、5月から病状が悪化し、復帰することなく7月に亡くなりました。

これを読んでいる方が信じているかどうかは別として、私は、人は“死”によって肉体は滅び、その段階から、「霊的身体」を持って霊界での生活を始めるようになる、ということを信じています。霊界こそが人間にとっての本来の生活場所であり、ここで人間は永遠に生き続けることになる、というスピリチュアル的な観点です。

従って、地上世界は、どこまでも一時的な生活場所にすぎません。ところが、霊界での存在者たちは、死したあとも地上人に対してさまざまな働きかけをしており、何らかの霊的関係を持っている、ということがいわれています。そうした働きかけの一つが「霊」としての出現ですが、これに「幽」をつけて俗に「幽霊」などとも呼びます。

しかし、今回彼は、死したのち私の前に現れたわけではありません。ただ、私が彼との生前の私とのことを思い出したということは、私に何等かの働きかけをしていたのではないか、ということは考えられます。高級霊や善霊は常に地上人にとってプラスとなるように働きかけるといい、時には「霊的成長」や「魂の癒し」などをもたらすといいます。

私が、彼のことをしばしば私が思い出した理由が、彼自身が癒しを求めていたのか、はたまた今の私に癒しをもたらしてくれようとしたのかどうかはよくわかりません。が、何等かの働きかけだったかもしれない、と思ったりもしているわけです。

2014-6392

人は死後、最初に訪れる世界で、自分が“素”になるための経験をするといいます。「素」になるという意味は、心が素っ裸になるということであり、素顔の自分の姿が明らかになるということです。

「素」になるということは、死に至るということでもあります。人はその死の直前に、一瞬にして、過去から現在に至る自分の人生を振り返るともいわれます。そしてその振り返りにおいては、産道を経て、産声をあげた瞬間から、成長し、老いて死ぬまでの、良い行いや悪行までのすべての行為が、細大漏らさず見せられるといいます。

当然、記憶から消えていたことまで見せられるわけで、子供の頃にしたイタズラも映し出されるであろうし、子供のころに過ごした田舎の原風景も見せられるかもしれません。ただ、この映像は死にゆく体や脳細胞に記憶された映像ではなく、霊界がその肉体が生きた様を検証するために記録した映像のようなものだともいわれています。

たとえば、死にゆくある一人の人間が、生前誰か別の人を傷つけたとしましょう。その犯人としての彼の記憶にあるのは、相手の顔や、相手が傷ついて悶絶する様子、あるいは自分が持っていた凶器など、いずれにしても自分の目から見た情景でしょう。

ところが、その死の直前に映し出される映像には、その罪を犯した自分の表情、その心の動きまでわかるような映像が映し出されるといい、まるで誰かがそのシーンを撮影していたかのように客観的にその本人が行った行為が映像として現れるということです。

これはすなわち、本人が自分の主観で過去の記憶をたどっていくならば、どうしても自分勝手な正当化が行なわれ、自分の都合のいい映像になってしまうからでしょう。自分が行ってきた一生が正しいものであったかどうかは、自分が判断するのではなく、客観的に「誰か」に判断してもらうのが一番です。

では、その「誰か」とは誰なのか。よく言われるのが、これは「閻魔様」だということ。「魔」という文字が当てられていますが、これはもともとインドのサンスクリット語のYAMAからきており、「死者の神」を意味するものです。日本にこの用語が入ってきたときに、「地獄」という概念と合わせるために、この文字が当て字として使われたに過ぎません。

従って、閻魔様とは、死者の国の神様として、この死の世界へ来る者の罪を裁く者、ということになります。では、いったいこの閻魔様とは何者なのか、ということになるのですが、これはとりあえずここでは棚上げにしておきましょう。

とまれ、人は死の直前、現世で行なったことを正しく評価するため、こうした映像を見せられるといいます。しかし、この映像を見せられる目的は、本人を表彰したり、罰を与えたりすることではありません。「素」になるのは、霊としての自分が霊界のどの階層に行くかを厳密に仕分けするために、欠かせないプロセスです。

2014-6164

現世においては、人の評価は様々です。どれだけ学問を追究したか、どれだけ富を得たか、どれだけ権力を握ったかなどでなされることが多いものですが、しかし、それは「霊」となったのちは客観的な評価ではありません。

霊界での評価は、数字や記録で表されるようなものによってなされるのではなく、たとえば、どれだけ努力したか、どれだけ人を愛したか、あるいはどれだけウソをついたか、どれだけ争いをしたか、といったことです。

死の直前に、現生におけるそれまでの行為すべての映像をみせられた人は、当然、その映像をみて反省心が起きる人もいるでしょうし、逆に粗暴だった性格がその時点でさらに爆発して、興奮する人もいるでしょう。しかし、つまりその時点でその心は、ますます素っ裸になるというわけです。

そして、その人の「素」の姿を閻魔様はしっかりと見ています。そして、その素の姿のままの世界で、霊界のどの階層へ行くのかが、決定づけられるというわけで、このようなパノラマ化した人生を見終われば、いよいよ大霊界へと旅立つことになるわけです。

この霊界で人はただ単に生き続けるのではなく、「霊的成長」を目的として永遠の人生を送ることになります。人の霊は、それぞれの「霊的成長度」に応じた界層で生活するようになり、霊性のレベルによって厳格に住み分けがなされています。

霊界にいる人霊は、霊性の未熟な者から高度に進化した者まで、さまざまです。すなわち霊界には、低級霊から高級霊に至る無数の「霊性レベル」の人霊が存在しているわけです。

かつてのこの私の同僚もまた、死の直前、そこに至るまでの全記憶を呼び起こさせられたに違いなく、それによって行先の階層が定められたに違いありません。そして蘇った記憶の中には当然私とのこともあり、それが彼にとって良い行為であった悪い行為であったかは別として、ともかくもその時の気持ちや考えもよみがえったに違いありません。

そしてその思いが、彼が住まう町から、遥か離れた伊豆まで飛んできたのだとすれば、そうしたことに敏感な霊媒体質の私がキャッチしたとしても不思議ではありません。

2014-6415

あるいは、死してのち、霊界に行った彼が、さらに何かを伝えたく、メッセージを送ってきてくれていたのかもしれませんが、少なくともこれまでのところ、明確なメッセージとおぼしきものはまだありません。

地上人の中には、生まれつき「霊媒体質」という特殊性を持った人間がいます。こうした人たちの中には、半物質の霊的エネルギーを霊に提供して心霊現象を現出させたり、霊と接触して情報を入手し、そのメッセージを伝えることができる人もいます。またトランス状態で、自分の肉体を一時的に霊に提供し、霊にメッセージを語らせることもできます。

いわゆる「霊媒」とか「シャーマン」「チャネラー」と呼ばれてきた人がそれです。しかし、私のレベルはこうした人達ほど高くはなく、ただ単に普通の人よりも敏感といった程度です。霊界からのメッセージを人に伝えることができるような能力はありません。

霊界における高級霊からの「霊界通信」を行えるような人は、人類に真の霊的成長をもたらす“霊的宝”であり、まさに人類の遺産と呼ぶに相応しいものです。が、こうした優れた霊媒体質の人はごく稀にしか存在しません。

従って、私が彼からキャッチした「霊界通信」は人類の霊的成長にプラスとなるといった類のものではなく、先に逝くからな、といった挨拶のようなものだったかもしれません。が、いずれにせよ、彼からの何等かのコンタクトがあったのは間違いありません。しかし、私自身それにどういった意味があるのかまだ理解できていません。

もっとも、霊界から地上界への働きかけは、必ずしも地上人にとって好ましいものであるとはかぎらず、時には有害なものもあります。不安や恐れを与えたり、肉体本能を刺激するなど、しばしば地上人にとって好ましくないもの・有害なものをもたらそうとする霊もいるにはいるようです。

ただ、生前の彼の行動を見る限りは、清廉潔白で部下思い、かつエネルギッシュな行動でぐいぐい人を引っ張るような人物であり、けっして霊界に行っても低い部類の階層に行く人ではありません。きっともし私に何かを働きかけようとしてくれているならば、その内容は必ずや良き内容に違いありません。

2014-6404

そしてその彼を霊界に導いた「閻魔様」とは、おそらく人が、“神”と呼ぶ存在なのでしょう。すべての人間は「神の分霊」を真の自我として内在させているといい、その意味で万人は「神の子供」です。

スピリチュアル的な観点からは、神のもとにあって等しい霊的兄弟姉妹・霊的同胞であり、地上の人間は、この内在している「神の分霊」を核として、「霊的心」「霊体」「肉的心」「肉体」の5つの構成要素から成り立っているといわれます。

肉体に五感をはじめとするさまざまな肉体能力が与えられているように、霊体にも霊的感覚が備わっているといいます。霊視力・霊聴力・霊触覚・霊臭覚などがそれですが、大半の地上人は肉体に遮られてこの霊体能力を発揮できないようになっています。

しかし、霊能体質者はその特殊性によって肉体を持ちながらも霊体能力の一部分を発揮できるようになっており、こうした人間こそが、地上では「霊能者・超能力者」と呼ばれることになるわけです。

ただ、本来的には誰もが「神の分霊」を核とした「霊能力」を持っているというのが正しく、その意味からすれば地上人全員が霊能者としての素質を持っているということになります。

そして、人が地上世界に誕生してくる目的は、霊界での永遠の生活に備えるためです。地上世界という訓練場での“霊的修行”によってだけ、霊界での幸福を得ることが可能となります。

この地上で送っている人生での努力を通じて「霊的成長」を果たした人間、言い換えれば「霊性を高めた人間」のみが、本当の意味での幸福者であり、現生での真の目的を達成した人間ということになります。

正しい霊的努力を通じて「霊的成長」がもたらされた人は、より高い心境を維持できるようになり、ますます価値ある霊的人生を歩むようになっていきます。それにつれて高級霊との絆がいっそう強化されることになるともいいます。

今回若くしてあの世に旅立った彼もまた、闘病生活やその死の直前まで行っていたという仕事や部下への指導などを通じてきっと大きな霊的努力を払っていたことと思います。そして、必ずや今生にやってくる前にいた階層よりもきっとずっと高い階層へと昇っていったのではないか、そんなふうに思います。

この「霊的努力」とは何か、ということについては、推して図るべきかと思います。が、更に奥深いものですから、みなさんも自問してみてください。

今日はもう紙面も押してきているので、もうやめますが、別の機会にそうしたことを書いてみたいと思います。

台風が近づいています。あの世にいる彼はそれが見えているでしょうか。

2014-6426